平野啓一郎『日蝕』(新潮文庫)

錬金術の秘蹟、金色に輝く両性具有者(アンドロギュノス)、崩れゆく中世キリスト教世界を貫く異界の光……。華麗な筆致と壮大な文学的探求で、芥川賞を当時最年少受賞した衝撃のデビュー作「日蝕」。明治三十年の奈良十津川村。蛇毒を逃れ、運命の女に魅入られた青年詩人の胡蝶の夢の如き一瞬を、典雅な文体で描く「一月物語」。閉塞する現代文学を揺るがした二作品を収録し、平成の文学的事件を刻む。(内容紹介)
◎評価は真っ二つ
平野啓一郎『日蝕』(新潮文庫)を初めて読んだのは、20年前になります。平野啓一郎は当時、現役の京大生で「三島由紀夫の再来」と大いに話題になりました。三島由紀夫というよりもデビュー時の姿は、大江健三郎と重なるものがありました。
『日蝕』は文芸誌「新潮」に掲載され、その後芥川賞を受賞しています。当時の「新潮」編集長・前田速夫は、興奮した調子で次のように書いています。
――京大法学部在学中の学生の投稿作品を巻頭一挙掲載しました。平野啓一郎氏の「日蝕」二百五十枚。もちろん、異例中の異例ですが、ルネッサンス前夜のフランス寒村を舞台に、異端と聖性の問題を追求した本作は、その高度な内容と荘重な文体で、三島由紀夫の再来かと、小生を驚喜させました。弱冠二十三歳、ポスト・モダン総崩れの中で、出るべくして出た才能に、ご声援を。(「波」1998年8月号)
ところが、文壇での評価は真っ二つになりました。それは芥川賞の選評に、表れています。(以下『芥川賞全集第18巻』より)
――私はこの作品に作者の志の高さを見たので、それに賭けるつもりで推した。(河野多恵子)
――矛盾した記述は矛盾のままに、「両性具有者」は私自身であったのかも知れない」という主人公の魂の統合体験を、私は共感することができた。(日野啓三)
――この衒学趣味といい、たいそうな擬古文といい、果たしてこうした手法を用いなければ現代文学は蘇生し得ないのだろうか。私は決してそうは思わない。(石原慎太郎)
――自分の意図するところを読む者へそっくり正確に伝えられるような独自の表現方法を考慮するべきではなかったろうか。(三浦哲郎)
これらの騒音を、平野啓一郎はばっさりと切って捨てます。
――『日蝕』は、雑誌掲載時から随分と方々で反響があって、中には当然、まったくお話にならないような、呆れた「愚評」(中略)の類もあった。それでも、幾つかの指摘は十分意義あるものであった。(「波」1998年10月号)
引用文中、「まったくお話にならない」には、ごていねいにも傍点までふられていました。
◎読み解く鍵は、「受肉」
舞台は、中世のフランスの小村。異端の哲学に関心を示す修道士「私」は、ヘルメス選集を求めて旅に出ます。作品は「私」の回想録風に書かれています。この形式は通常なら、読者が主人公に感情移入しやすく、わかりやすいはずです。
ところがこの作品は違いました。漢語調の難解な文章に加えて、古風な道具立てが私の理解力にモヤをかけるのです。異端審問、異教哲学、魔女裁判、錬金術、黒死病(ペスト)、両性具有者(アンドロギュノス)……こんな単語がところ狭しと並んでいます。
今回20年振りの再読にあたり、私はストーリーよりも一文の意味について注意を払いました。発売直後に単行本を読んだときの、トラウマと決別するために。
難解な本書を、著者自身が解説してくれている文章があります。
――この小説を読解く一つの鍵は、受肉の問題である。錬金術が二十世紀になって殊に再評価されたのは、それが飽くまで物質を通じて超越的なものに触れようとする試みだからである。西洋的な二元論の克服を、「もの」との、そして世界との和解を通じて行おうとしたからである。(「波」1998年10月号)
読み解く鍵は、「受肉」だと説明されています。作品中には、神の受肉の意義について「全能な神が、肉を受け、女の胎内より産まれ出て、自ら創造したこの世界に、人として生き、死んだと云うこと」と書かれています。
著者がなぜこういう文体を選んだのか、についての解説があります。
――本作の大きな特徴である、新字体と新仮名遣いによる非常用漢字を多用した凝古典的な文体の採用の背景には、主人公のラテン語による思考を日本語の文脈に翻訳する意図や、十五世紀のヨーロッパの言語の使われ方と明治期の言文一致を重ね合わせようとする歴史的意味が込められている。(栗坪良樹編『現代文学鑑賞辞典』東京堂出版P317)
確かにこの舞台を描くには、この文体がふさわしいとも思います。平野啓一郎の意図について、中沢けいは次のように書いています。
――現代に多く流通している口語文は、文章の格調に欠ける。だから車谷の作品も、花村の作品も詳細を読めば微妙なところで、かなり古い表現を取り入れている。(中沢けい『書評・時評・本の話』河出書房新社P307)
平野啓一郎の文体には、先達がいたのです。車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』(文春文庫)、花村萬月『ゲルマニウムの夜・王国記1』(文春文庫)は、「文庫で読む500+α」で紹介済みです。彼らの文章よりも、平野の文章はよりこったものになっています。
ちなみに、なぜ本書を再読したかというと、文体論を書いてみたかったからです。石川順の長文に魅力を感じています。そんなおりに、平野啓一郎の練り上げた文章を思い出したのです。23歳でこれだけの文章を書いたことに、今回も改めて驚いています。
山本藤光018.04.11

錬金術の秘蹟、金色に輝く両性具有者(アンドロギュノス)、崩れゆく中世キリスト教世界を貫く異界の光……。華麗な筆致と壮大な文学的探求で、芥川賞を当時最年少受賞した衝撃のデビュー作「日蝕」。明治三十年の奈良十津川村。蛇毒を逃れ、運命の女に魅入られた青年詩人の胡蝶の夢の如き一瞬を、典雅な文体で描く「一月物語」。閉塞する現代文学を揺るがした二作品を収録し、平成の文学的事件を刻む。(内容紹介)
◎評価は真っ二つ
平野啓一郎『日蝕』(新潮文庫)を初めて読んだのは、20年前になります。平野啓一郎は当時、現役の京大生で「三島由紀夫の再来」と大いに話題になりました。三島由紀夫というよりもデビュー時の姿は、大江健三郎と重なるものがありました。
『日蝕』は文芸誌「新潮」に掲載され、その後芥川賞を受賞しています。当時の「新潮」編集長・前田速夫は、興奮した調子で次のように書いています。
――京大法学部在学中の学生の投稿作品を巻頭一挙掲載しました。平野啓一郎氏の「日蝕」二百五十枚。もちろん、異例中の異例ですが、ルネッサンス前夜のフランス寒村を舞台に、異端と聖性の問題を追求した本作は、その高度な内容と荘重な文体で、三島由紀夫の再来かと、小生を驚喜させました。弱冠二十三歳、ポスト・モダン総崩れの中で、出るべくして出た才能に、ご声援を。(「波」1998年8月号)
ところが、文壇での評価は真っ二つになりました。それは芥川賞の選評に、表れています。(以下『芥川賞全集第18巻』より)
――私はこの作品に作者の志の高さを見たので、それに賭けるつもりで推した。(河野多恵子)
――矛盾した記述は矛盾のままに、「両性具有者」は私自身であったのかも知れない」という主人公の魂の統合体験を、私は共感することができた。(日野啓三)
――この衒学趣味といい、たいそうな擬古文といい、果たしてこうした手法を用いなければ現代文学は蘇生し得ないのだろうか。私は決してそうは思わない。(石原慎太郎)
――自分の意図するところを読む者へそっくり正確に伝えられるような独自の表現方法を考慮するべきではなかったろうか。(三浦哲郎)
これらの騒音を、平野啓一郎はばっさりと切って捨てます。
――『日蝕』は、雑誌掲載時から随分と方々で反響があって、中には当然、まったくお話にならないような、呆れた「愚評」(中略)の類もあった。それでも、幾つかの指摘は十分意義あるものであった。(「波」1998年10月号)
引用文中、「まったくお話にならない」には、ごていねいにも傍点までふられていました。
◎読み解く鍵は、「受肉」
舞台は、中世のフランスの小村。異端の哲学に関心を示す修道士「私」は、ヘルメス選集を求めて旅に出ます。作品は「私」の回想録風に書かれています。この形式は通常なら、読者が主人公に感情移入しやすく、わかりやすいはずです。
ところがこの作品は違いました。漢語調の難解な文章に加えて、古風な道具立てが私の理解力にモヤをかけるのです。異端審問、異教哲学、魔女裁判、錬金術、黒死病(ペスト)、両性具有者(アンドロギュノス)……こんな単語がところ狭しと並んでいます。
今回20年振りの再読にあたり、私はストーリーよりも一文の意味について注意を払いました。発売直後に単行本を読んだときの、トラウマと決別するために。
難解な本書を、著者自身が解説してくれている文章があります。
――この小説を読解く一つの鍵は、受肉の問題である。錬金術が二十世紀になって殊に再評価されたのは、それが飽くまで物質を通じて超越的なものに触れようとする試みだからである。西洋的な二元論の克服を、「もの」との、そして世界との和解を通じて行おうとしたからである。(「波」1998年10月号)
読み解く鍵は、「受肉」だと説明されています。作品中には、神の受肉の意義について「全能な神が、肉を受け、女の胎内より産まれ出て、自ら創造したこの世界に、人として生き、死んだと云うこと」と書かれています。
著者がなぜこういう文体を選んだのか、についての解説があります。
――本作の大きな特徴である、新字体と新仮名遣いによる非常用漢字を多用した凝古典的な文体の採用の背景には、主人公のラテン語による思考を日本語の文脈に翻訳する意図や、十五世紀のヨーロッパの言語の使われ方と明治期の言文一致を重ね合わせようとする歴史的意味が込められている。(栗坪良樹編『現代文学鑑賞辞典』東京堂出版P317)
確かにこの舞台を描くには、この文体がふさわしいとも思います。平野啓一郎の意図について、中沢けいは次のように書いています。
――現代に多く流通している口語文は、文章の格調に欠ける。だから車谷の作品も、花村の作品も詳細を読めば微妙なところで、かなり古い表現を取り入れている。(中沢けい『書評・時評・本の話』河出書房新社P307)
平野啓一郎の文体には、先達がいたのです。車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』(文春文庫)、花村萬月『ゲルマニウムの夜・王国記1』(文春文庫)は、「文庫で読む500+α」で紹介済みです。彼らの文章よりも、平野の文章はよりこったものになっています。
ちなみに、なぜ本書を再読したかというと、文体論を書いてみたかったからです。石川順の長文に魅力を感じています。そんなおりに、平野啓一郎の練り上げた文章を思い出したのです。23歳でこれだけの文章を書いたことに、今回も改めて驚いています。
山本藤光018.04.11
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