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野間宏『暗い絵』(講談社文芸文庫)

2018-02-23 | 書評「の」の国内著者
野間宏『暗い絵』(講談社文芸文庫)

<生命の自由の羽ばたき>を信じ、自己の全存在を賭けて、惜しげもなく散っていった京大左翼運動の仲間。彼らの心の闇を喚起した奇怪なブリューゲルの絵の世界―、戦後初期の文学界に衝撃をあたえ、戦後文学に燦然と聳立する「暗い絵」「顔の中の赤い月」「崩解感覚」など、野間宏文学の特質を顕示する初期作品群。(「BOOK」データベースより)

◎戦後文学の幕開け

戦後文学は真善美社の新人作家叢書「アプレ・ゲール・クレアトリス」の刊行によって、はじまったといってよいと思います。その第1弾が野間宏『暗い絵』(昭和22年)でした。野間宏は梅崎春生、椎名麟三とともに、第1次戦後派とされています。

野間宏『暗い絵/顔の中の赤い月』(講談社文芸文庫)には、表題2作品のほかに、初期作品「残像」「崩壊感覚」「第三十六号」「哀れな歓楽」が所収されています。解説は黒井千次が担当しています。黒井千次はいくつかの著作のなかで、『暗い絵』に言及しています。紹介してみたいと思います。

――最近、ぼくは苦心して(もちろん相対的な意味でだが)、一つの小説を書いた。それは、学生運動経験ある一人の人間の、企業の中における新しい生き方を探し求めることによって、現代を捉えようとする小さな模索であった。(黒井千次『仮構と日常』河出書房新社P43)

黒井千次が代表作『時間』(講談社文芸文庫、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)は、『暗い絵』を意識下において書かれたものです。学生運動を題材にした作品としては、桐山襲『風のクロニクル』(河出書房新社、初出1985年)、柴田翔『されど われらが日々――』(文春文庫)、立松和平『光の雨』(新潮文庫、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)などがあります。

◎1枚の絵を原稿用紙に

『暗い絵』は冒頭から4ページ半にわたって、ひたすら1枚の絵について語られます。絵はプリューゲルの「磔刑」で、野間宏は暗い絵を執拗に原稿用紙に書き写してみせます。

――そこには股のない、性器ばかりの不思議な女の体が幾重にも埋め込まれていると思える。どういう訳でプリューゲルの絵には、大地にこのような悩みと痛みと疼きを感じ、その悩みと痛みと疼きによってのみ生存を主張しているかのような黒い円い穴が開いているのであろうか。(本文冒頭の6行目から)

そして主人公の深見進介が登場します。時代は第2次世界大戦の、真っ只中です。彼は空爆を受けて燃え上がる、大阪の軍需工場の消火活動をしています。そんな彼の脳裏を走ったのは、焼失した寄宿舎に残した、1冊の画集でした。その画集とはプリューゲルのもので、大学時代に友人から借りたものです。

京大生・深見進介は友人・永杉英作の下宿で、プリューゲルの画集を見ます。そしてひとつの絵に魅せられます。主人公・深見進介はプリューゲルの「暗い絵」に、自らの青春を重ねます。深見たちの前には、自由な思想を封じる巨大な権力の壁が立ふさがっています。それは中世のフランドルの農民たちが描かれている絵に照射されています。

――日中戦争を経て、やがて太平洋戦争へと突入していく日本の時代状況そのものの暗さや、そのなかでの日本の民衆の抑圧され歪められた生存の暗さもまた重ねあわされている。(松原新一・磯田光一・秋山駿『戦後日本文学史・年表』講談社P61)

――人びとは、『暗い絵』の冒頭のプリューゲルの絵の描写を読んだとたん、ああ、これこそが真正の戦後文学だ、と叫んだのであった。そこには、奇怪な絵の世界を描きつくそうとする執拗な努力が積み重ねられていた。そして、その、暗い奇怪な絵の世界は、そのまま、小説の主人公――昭和十年代はじめの、日本のまじめに生きようとする青年の、精神のありようなのであった。(小田切秀雄『日本の名著』高校生新書P191)

『暗い絵』は小田切秀雄が書いているように、プリューゲルの絵の執拗な描写で一躍有名になりました。絵に主人公の心象風景を重ねる手法が新しかったのです。

◎自己の完成を目指して

この時代の日本の革命運動は、壊滅的な状態にありました。唯一京都大学が、左翼の楽園として存在していました。しかしここも特高警察の監視下におかれていました。

深見進介は反戦主義者の小泉清と対立し、スポイルされます。必然彼は合法グループから、非合法グループへと立ち位置をかえます。そこには革命成就を思い描いている、永杉英作や羽山純一や木山省吾らがいます。しかしここでも深見進介は彼らの思想から浮き上がっています。

戦争は激化の一途をたどり、非合法の反戦グループの永杉と羽山は力尽きてしまいます。深見は自己の完成を目指しています。彼は木山とともに、永杉の下宿を出ます。しかし木山とも人生観が合わずに、訣別することになります。

木山は永杉と羽山のために決起します。そして逮捕され、最後は獄中で死んでしまいます。深見がそれを知ったのは、転向して兵役を務め戻ってきてからでした。

闘いをまっとうした仲間に対し、深見進介は負い目を感じながら生きる道を選びます。黒井千次が『時間』のラストに描いた世界も似ています。ぜひ『暗い絵』と『時間』を読み比べてみてください。当時、こうした青春は確かに存在していたのです。
(山本藤光:2011.07.14初稿、2018.02.23改稿)

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