コレット『青い麦』(光文社古典新訳文庫、河野万里子訳)
コレットは14歳年上から16歳年下までの相手と、生涯に三度結婚した。ミュージック・ホールの踊り子時代には同性愛も経験した。恋愛の機微を知り尽くした作家コレットが、残酷なまでに切ない恋心を鮮烈に描く。(「BOOK」データベースより)
◎若い男女の恋愛などなかった時代
『青い麦』は大学時代に、新潮文庫(堀口大学訳)で読んでいます。そのときは翻訳がごつごつしていて、あまり好感を持てませんでした。古い翻訳なので仕方がないかと諦めていました。今回光文社古典新訳文庫(河野万里子訳)で読み直す機会がありました。
読んでみて、『青い麦』はまったく別の物語になっていると感激しました。翻訳もリズミカルで、少女の心のひだも繊細に描かれていました。そして何より、空咳みたいだった会話に余韻が生まれていたのです。そのあたりについては、のちほど紹介させていただきます。
本稿を書くにあたって最初に、これから読む読者に大切なことを伝えさせていただきます。読み終わって解説文を読んで、この文章は冒頭にあるべきだと感じたからです。
―― 一九二三年にコレットが発表した『青い麦』は、今日の視点からフランス文学史を振り返ってみるとき、非常に画期的な作品であるということができます。というのも、この小説においては、「若い男女の恋」が語られているからです。(本書解説、鹿島茂)
鹿島茂はこう前置きしたうえで、この時代の恋愛について次のように続けます。
――若い男女の恋、少なくともブルジョワ階級以上の若い男女の恋というものは、コレットが『青い麦』を執筆する一九二〇年代までは、「なかった」と見なしてもかまわないのです。
つまり若い男女の恋は、常道ではなかった時代の作品だったのです。この前提を抑えて本書を読んでいただくと、その斬新さに驚かれることでしょう。
◎互いを異性として意識
本書の主役は16歳のフィリップ少年(愛称フィル)と15歳のヴァンカ少女です。2人はブルジュワ家庭のこどもで、毎年夏にヴルターニュ海岸に避暑にきています。これまでは単なる遊びともだちだった2人は、お互いを異性として意識するような年齢になりました。しかしそれを素直に表現できないまま、いつものように口ゲンカをしたり避けあったりを繰り返します。
そんなフィリップに、避暑地にきていた30歳ほどの貴婦人から誘惑の手が伸びます。フィリップは成熟した女に夢中になり、彼女の別荘へ足繁く通いはじめます。そんなフィリップの行動を、ヴァンカは知ってしまいます。ヴァンカの心は千路に乱れ、失意の底に沈んでしまいます。
ある日、女から別荘を発つとの連絡が入ります。それを知り、追いかけようとしたフィリップをヴァンカが殴ります。そして、大切なことを叫びます。この言葉の引用は控えます。このあたりの少女心理の微妙さを、みごとに解説している文章があります。
――フィリップと彼女(補:30歳ほどの貴婦人)の仲に勘づいたヴァンカのなかでは、急速に「女」が成長し、悲しみ、諦め、怒り、そして嫉妬とめまぐるしく感情が移り変わり、その嫉妬がスプリングボードとなってフィリップに体をゆだねることになるのである。(『明快案内シリーズ・フランス文学』自由国民社、品田一良・文、P183)
松本侑子は著作『読書の時間』(講談社文庫)のなかで、次のように書いています。少し長くなりますが、紹介させていただきます。
――本書の魅力は、やはり次の二つだろうか。/一つは、フランスの田舎の海辺の描写の確かさ。描写から海の匂い、強い陽射しが感じられ、海水浴や岩場の景色が浮かぶ。(中略)もう一つは、思春期の男女の感じやすい心の揺れであり、しかもそれが立派に大人の恋人たちの嫉妬であり、鞘当てであり。絶望であるところだ。(同書P151-152)
松本侑子は同書のなかで、堀口大学訳を絶賛しています。彼女にはぜひ、河野万里子訳に触れていただきたいと思います。いっぽう中沢けいは、あえて訳者名を伏せていますが、集英社文庫(手塚伸一訳)を読んで、「訳者によってこんなに違うのか」と初めて実感したと書いています。その著作のなかにおもしろい見識がありますので、紹介させていただきます。
――少年と少女を描いたこの小説をまさか今一度読みたくなることがあるとは五年前には想像がつかなかった。ある日ある時、それがコレット五十歳の作品であることを思い出し、彼女がほんとうに描きたかったのはヴァンカでもないフィルでもない、女盛りの例の貴婦人ではないかと予断が走った。(中沢けい『書評・時評・本の話』河出書房新社P83)
◎息子に「小僧」はないと思います
私が違和感を覚えた訳文と、読み終えた新訳とを比較してみます。
■新潮文庫(堀口大学訳)
「もう帰るのかい?」
彼女は、被り物を、一皮むくような具合に引っぺがした。そして固いブロンドの髪を揺すぶりながら言った。
「昼食(おひる)にお客様が一人あるのよ! 着替えをするようにとパパが言ってたわ」
彼女は駆けていた。全身濡れたままで、大柄で男の子みたいな身体つきながら、がっちりとした骨組みと伸びやかな目立たない筋肉のために、さすがにほっそり見えた。(P11)
■光文社古典新訳文庫(河野万里子訳)
「もう帰るの?」
ヴァンカはまるで頭から一皮むくみたいにスカーフを取り、硬いまっすぐな金髪を振った。
「お昼にお客さんが来るでしょ! それなりの格好をしろって、パパが言ってたから」
全身濡れたまま、彼女は走りだした。背が高くて男の子のようだが、のびやかで目立たない筋肉のおかげで、ほっそりとしたシルエットだ。(P16)
もうひとつ、父とフィリップの会話場面です。ここがいちばん引っかかった箇所です。
■新潮文庫(堀口大学訳)
「ここにいたのかい、小僧?」/「そうです、パパ」/「あんたひとりなのかい? ヴァンカは?」「僕、知りません」(P102)
■光文社古典新訳文庫(河野万里子訳)
「おう、ここにいたのか」/「はい、お父さん」/「ひとり? ヴァンカは?」「いや、知らないです」(P148-149)
どうですか? ぎくしゃくしていた親子の会話が、みごとに弾んでいます。それにしても、息子に「小僧」はないと思います。フィリップの愛称はフィルですから、私は小僧をフィルに置き換えて読みました。
最後にコレット大好きな、作家の熱い文章で結びます。
――ところが、コレットはちがう。これはどういうのだろう? 何年をへだてて読んでも、刺激され、ゆすぶりたてられ、老いて硬ばり、冷えて青ざめた心が熱を持ってしまう。コレットの本のページが好ましい熱気を帯び、いつか私の心も、ポッと引火するのである。(田辺聖子・文『私を変えたこの一冊』集英社文庫P72)
コレット『青い麦』は、「海外小説100+α」のリスト外においていました。(以前は4ジャンルで400+αでしたので)それで紹介できなかったのですが、今回4つのジャンルを「125+-α」に増やしましたので、胸を張って推薦させていただきます。できれば、光文社古典新訳文庫で読んでください。この作品は、kindleでも読むことができます。
山本藤光2017.05.03初稿、2018.03.05改稿
コレットは14歳年上から16歳年下までの相手と、生涯に三度結婚した。ミュージック・ホールの踊り子時代には同性愛も経験した。恋愛の機微を知り尽くした作家コレットが、残酷なまでに切ない恋心を鮮烈に描く。(「BOOK」データベースより)
◎若い男女の恋愛などなかった時代
『青い麦』は大学時代に、新潮文庫(堀口大学訳)で読んでいます。そのときは翻訳がごつごつしていて、あまり好感を持てませんでした。古い翻訳なので仕方がないかと諦めていました。今回光文社古典新訳文庫(河野万里子訳)で読み直す機会がありました。
読んでみて、『青い麦』はまったく別の物語になっていると感激しました。翻訳もリズミカルで、少女の心のひだも繊細に描かれていました。そして何より、空咳みたいだった会話に余韻が生まれていたのです。そのあたりについては、のちほど紹介させていただきます。
本稿を書くにあたって最初に、これから読む読者に大切なことを伝えさせていただきます。読み終わって解説文を読んで、この文章は冒頭にあるべきだと感じたからです。
―― 一九二三年にコレットが発表した『青い麦』は、今日の視点からフランス文学史を振り返ってみるとき、非常に画期的な作品であるということができます。というのも、この小説においては、「若い男女の恋」が語られているからです。(本書解説、鹿島茂)
鹿島茂はこう前置きしたうえで、この時代の恋愛について次のように続けます。
――若い男女の恋、少なくともブルジョワ階級以上の若い男女の恋というものは、コレットが『青い麦』を執筆する一九二〇年代までは、「なかった」と見なしてもかまわないのです。
つまり若い男女の恋は、常道ではなかった時代の作品だったのです。この前提を抑えて本書を読んでいただくと、その斬新さに驚かれることでしょう。
◎互いを異性として意識
本書の主役は16歳のフィリップ少年(愛称フィル)と15歳のヴァンカ少女です。2人はブルジュワ家庭のこどもで、毎年夏にヴルターニュ海岸に避暑にきています。これまでは単なる遊びともだちだった2人は、お互いを異性として意識するような年齢になりました。しかしそれを素直に表現できないまま、いつものように口ゲンカをしたり避けあったりを繰り返します。
そんなフィリップに、避暑地にきていた30歳ほどの貴婦人から誘惑の手が伸びます。フィリップは成熟した女に夢中になり、彼女の別荘へ足繁く通いはじめます。そんなフィリップの行動を、ヴァンカは知ってしまいます。ヴァンカの心は千路に乱れ、失意の底に沈んでしまいます。
ある日、女から別荘を発つとの連絡が入ります。それを知り、追いかけようとしたフィリップをヴァンカが殴ります。そして、大切なことを叫びます。この言葉の引用は控えます。このあたりの少女心理の微妙さを、みごとに解説している文章があります。
――フィリップと彼女(補:30歳ほどの貴婦人)の仲に勘づいたヴァンカのなかでは、急速に「女」が成長し、悲しみ、諦め、怒り、そして嫉妬とめまぐるしく感情が移り変わり、その嫉妬がスプリングボードとなってフィリップに体をゆだねることになるのである。(『明快案内シリーズ・フランス文学』自由国民社、品田一良・文、P183)
松本侑子は著作『読書の時間』(講談社文庫)のなかで、次のように書いています。少し長くなりますが、紹介させていただきます。
――本書の魅力は、やはり次の二つだろうか。/一つは、フランスの田舎の海辺の描写の確かさ。描写から海の匂い、強い陽射しが感じられ、海水浴や岩場の景色が浮かぶ。(中略)もう一つは、思春期の男女の感じやすい心の揺れであり、しかもそれが立派に大人の恋人たちの嫉妬であり、鞘当てであり。絶望であるところだ。(同書P151-152)
松本侑子は同書のなかで、堀口大学訳を絶賛しています。彼女にはぜひ、河野万里子訳に触れていただきたいと思います。いっぽう中沢けいは、あえて訳者名を伏せていますが、集英社文庫(手塚伸一訳)を読んで、「訳者によってこんなに違うのか」と初めて実感したと書いています。その著作のなかにおもしろい見識がありますので、紹介させていただきます。
――少年と少女を描いたこの小説をまさか今一度読みたくなることがあるとは五年前には想像がつかなかった。ある日ある時、それがコレット五十歳の作品であることを思い出し、彼女がほんとうに描きたかったのはヴァンカでもないフィルでもない、女盛りの例の貴婦人ではないかと予断が走った。(中沢けい『書評・時評・本の話』河出書房新社P83)
◎息子に「小僧」はないと思います
私が違和感を覚えた訳文と、読み終えた新訳とを比較してみます。
■新潮文庫(堀口大学訳)
「もう帰るのかい?」
彼女は、被り物を、一皮むくような具合に引っぺがした。そして固いブロンドの髪を揺すぶりながら言った。
「昼食(おひる)にお客様が一人あるのよ! 着替えをするようにとパパが言ってたわ」
彼女は駆けていた。全身濡れたままで、大柄で男の子みたいな身体つきながら、がっちりとした骨組みと伸びやかな目立たない筋肉のために、さすがにほっそり見えた。(P11)
■光文社古典新訳文庫(河野万里子訳)
「もう帰るの?」
ヴァンカはまるで頭から一皮むくみたいにスカーフを取り、硬いまっすぐな金髪を振った。
「お昼にお客さんが来るでしょ! それなりの格好をしろって、パパが言ってたから」
全身濡れたまま、彼女は走りだした。背が高くて男の子のようだが、のびやかで目立たない筋肉のおかげで、ほっそりとしたシルエットだ。(P16)
もうひとつ、父とフィリップの会話場面です。ここがいちばん引っかかった箇所です。
■新潮文庫(堀口大学訳)
「ここにいたのかい、小僧?」/「そうです、パパ」/「あんたひとりなのかい? ヴァンカは?」「僕、知りません」(P102)
■光文社古典新訳文庫(河野万里子訳)
「おう、ここにいたのか」/「はい、お父さん」/「ひとり? ヴァンカは?」「いや、知らないです」(P148-149)
どうですか? ぎくしゃくしていた親子の会話が、みごとに弾んでいます。それにしても、息子に「小僧」はないと思います。フィリップの愛称はフィルですから、私は小僧をフィルに置き換えて読みました。
最後にコレット大好きな、作家の熱い文章で結びます。
――ところが、コレットはちがう。これはどういうのだろう? 何年をへだてて読んでも、刺激され、ゆすぶりたてられ、老いて硬ばり、冷えて青ざめた心が熱を持ってしまう。コレットの本のページが好ましい熱気を帯び、いつか私の心も、ポッと引火するのである。(田辺聖子・文『私を変えたこの一冊』集英社文庫P72)
コレット『青い麦』は、「海外小説100+α」のリスト外においていました。(以前は4ジャンルで400+αでしたので)それで紹介できなかったのですが、今回4つのジャンルを「125+-α」に増やしましたので、胸を張って推薦させていただきます。できれば、光文社古典新訳文庫で読んでください。この作品は、kindleでも読むことができます。
山本藤光2017.05.03初稿、2018.03.05改稿
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