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谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(中公文庫)

2018-02-22 | 書評「た」の国内著者
谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(中公文庫)

陰翳礼讃/懶惰の説/恋愛及び色情/客ぎらい/旅のいろいろ/厠のいろいろ 人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。(本文より) -西洋との本質的な相違に眼を配り、かげや隈の内に日本的な美の本質を見る。(「BOOK」データベースより)

◎床の間を知らない生徒たち

日本の伝統美は陰翳のなかにある、と谷崎潤一郎はいいます。昔の家屋はいちようにほの暗かったし、街並みも薄明のなかにしずんでいました。縁側がベランダに、厠がトイレに、台所がキッチンに、障子がガラス戸となりました。欄間や床の間すら、ない家がめだちます。

『陰翳礼讃』(中公文庫)は教生だった私が、中央大学附属高校で教えた作品です。それゆえ繰り返し読んでいますし、教則本も熟読しました。教科書に載っていたのは、「日本座敷」の章でした。私は「わらんじゃ」「吸い物椀」「昔の女」の章が好きだったので、いつも脱線してこれらの章を紹介したものです。

 教壇に立った私は黒板にむかって、積み木のような単純な家と太陽の絵を描きます。長方形の上に大きな台形をかさねます。
「これが昭和8年当時の、代表的な日本の家屋です」
 いっせいに笑いがおきます。絵が稚拙すぎるようです。私はつづけます。
「きみたちもノートに家と太陽の絵を描いて、影をつけなさい」

 一瞬静寂がおとずれますが、お互いの絵を見せ合って、ふたたび笑いがおきます。「影を美しいと思いますか?」だれもうなずきません。つぎに「家に障子がある人?」と質問します。さらに「家に床の間のある人?」と質問します。どのクラスでも手をあげるのは数人ぐらいのものでした。障子はほとんどの生徒が知っていましたが、床の間のイメージができない生徒もけっこういます。これでは教科書の冒頭部分が理解されません。

――もし日本座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。(「日本座敷」より)

しかたがないので黒板に向かって、さらに「床の間」らしい絵を少しだけ立体的に描きます。

――そこにはこれと云う特別なしつらえがあるのではない。要するにただ清楚な木材と清楚な壁とを以て一つの凹んだ空間を仕切り、そこへ引き入れられた光線が凹みの此処彼処へ朦朧(もうろう)たる隈(くま)を生むようにする。にも拘らず、われらは落懸(おとしがけ)のうしろや、花活の周囲や、違い棚の下などを填(う)めている闇を眺めて、それが何でもない蔭であることを知りながらも、そこの空気だけがシーンと沈み切っているような、永劫不変の閑寂がその暗がりを領しているような感銘を受ける。(本文P35より)

生徒が教科書を朗読します。朗読がすんだら「落掛」(おとしがけ)などの意味を「床の間の正面上部の下り小壁を受け止める横木のこと」ですなどと注釈します。これでは日本家屋の微妙な美しさを理解してもらえません。

そこで「舞妓さんって、顔から首筋まで真っ白に塗るけれど、なぜだか知っている人?」となげかけます。このあたりの展開は指導要領にはない、私のアドリブです。「吉行淳之介って、作家はしっているよね」と念押ししてから、私はつぎの文章を紹介することになります。

――『陰翳礼讃』を途中まで読んだときに気がついた。芸者のあの化粧は、わが国の照明がまだ燭台とか行燈によっていて部屋が仄暗かったときのものにちがいない、ということだ。つまり仄暗さのなかで効果が出て、美しく見える化粧である。(吉行淳之介『自家謹製小説読本』集英社文庫P229より)

「吉行淳之介は『陰翳礼讃』を読んでいて、自分は大発見をしたと早とちりしたのです。この文章の後段には、谷崎潤一郎はそのことにまで言及している、ときちんと書いているんです」

◎暗さを尊ぶこと

高校生に『陰翳礼讃』の一部だけをきりとって、指導するのはたいへんなことでした。しかも蛍光灯の明かりのしたでの授業です。できれば教室のカーテンをしめて、燭台のもとで教科書を読ませたいと思いました。男子生徒ばかりでしたので私の脱線はエスカレートしてゆきました。 

――日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。それらは必ず母屋(おもや)から離れて、青葉の匂や苔の匂のして来るような植え込みの蔭に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、何とも云えない。(「京都や奈良の寺院」P11より)

――殊に関東の厠には、床に細長い掃き出し窓がついているので、軒端や木の葉からしたゝり落ちる点滴が、石燈籠の根を洗い飛び石の苔を湿おしつつ土に沁み入るしめやかな音を、ひとしお身に近く聴くことが出来る。まことに厠は虫の音によく、鳥の声によく、月夜にもまたふさわしく、四季おりおりの物のあわれを味わうのに最も適した場所であって、恐らく古来の俳人は此処から無数の題材を得ているであろう。(「京都や奈良の寺院」P12より)

厠は田舎に実家がある生徒にはイメージできたようです。ドッポン式のトイレの臭気など、生徒たちも脱線をはじめます。脱線を沈めるために冗談で、「金隠しと金閣寺のちがいがわかるかい?」などと、笑わせてもいました。

――日本の漆器の美しさは、そう云うぼんやりした薄明りの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮されると云うことであった。「わらんじや」の座敷と云うのは四畳半ぐらいの小じんまりした茶席であって、床柱や天井なども黒光りに光っているから、行燈式の電燈でも勿論暗い感じがする。が、それを一層暗い燭台に改めて、その穂のゆらゆらとまたたく蔭にある膳や椀を視詰めていると、それらの塗り物の沼のような深さと厚みとを持ったつやが、全く今までとは違った魅力を帯び出して来るのを発見する。(「わらんじゃ」より)

鎌田浩毅が『座右の古典』(東洋経済)のなかで、つぎのように書いています。

――陰翳礼讃とは暗さを尊ぶことである。明るい光の中ではわからない物の魅力が、陰の中に置くと格段に栄える場合があり、これこそ日本における美の神髄であると大作家、谷崎は主張する。英語で陶器をチャイナ、漆器をジャパンと言うが、まさに漆器の魅力は日本的な陰翳の内にこそ浮かび上がるのである。(鎌田浩毅『座右の古典』東洋経済P140より)

大きな脱線をしてから、教科書にもどります。「山本藤光の文庫で読む500+α」では、近代日本文学の代表作として『痴人の愛』(新潮文庫)を紹介させていただいています。批判的な書評を書いている人もいますが、私は「陰翳」を掘り下げた感性を高く評価しています。
(山本藤光:2012.07.26初稿、2018.02.22改稿)


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