二葉亭四迷『浮雲』(新潮文庫)
江戸文学のなごりから離れてようやく新文学創造の機運が高まりはじめた明治二十年に発表されたこの四迷の処女作は、新鮮な言文一致の文章によって当時の人々を驚嘆させた。秀才ではあるが世故にうとい青年官吏内海文三の内面の苦悩を精密に描写して、わが国の知識階級をはじめて人間として造形した『浮雲』は、当時の文壇をはるかに越え、日本近代小説の先駆とされる作品である。(文庫案内より)
◎ロシア憎いから好きへ
二葉亭四迷は、小説を3編しか書いていません。しかも私のつたない調べでは、『浮雲』以外は文庫化されていません。もちろん、通(つう)のための個人全集は発行されています。出版社はその他の作品について、一般読者向けに文庫化するだけの価値を認めていないのでしょうか。つまり売れるとは思っていないのでしょう。
私も著者名と作品名くらいしか知りませんでした。「山本藤光の文庫で読む500+α」執筆にあたり、有名な作品は読んでおかなければなりません。そんな義務感で、二葉亭四迷『浮雲』(新潮文庫)を読みました。いいね、これは、と思いました。
『浮雲』は言文一致体の小説の先駆けとなった作品であり、二葉亭四迷の処女作でもあります。非常に読みやすいし、当時の社会や思想が手にとるように理解できました。二葉亭四迷の文学は、ロシアを抜きにしては語れません。
ロシア憎しの気持ちが、ロシア文学にふれるうちに大きな変化をみせます。二葉亭四迷は1864年に生まれ、1909年に死去しています。明治8年(1875年)千島樺太交換条約に刺激され、ロシアの侵攻を防ぐために軍人を目指しました。しかし陸軍士官学校を受験しましたが3度落ち、東京外語学校露語部に入学しています。大学では、ゴーゴリ(推薦作『外套』岩波文庫)、トゥルゲーネフ(推薦作『初恋』光文社古典新訳文庫)、トルストイ(推薦作『戦争と平和』全4巻、新潮文庫)などを学びながら、ドストエフスキーの『罪と罰』(上下巻、新潮文庫)に感動してしまいます。
◎現代に通じるものがたり
『浮雲』の主人公・内海文三は、叔父の家に身を寄せています。明治11年15歳のときのことです。そこには如才のない叔母と、文三よりも5つ年下のお勢が住んでいます。内海文三は、学業を終え某省の下級官員になっています。文三はいつか、やんちゃなお勢と結婚するものと思っていました。
ある日文三は、人員整理にあい仕事を失ってしまいます。文三はそのことをうちあけられないまま、時をすごします。そして偶然、お勢と2人きりになる機会を得ます。お勢は遠まわしに、親は文三と結婚したらいいといっているなどと話します。
文三の失職を知ったお勢は、急に冷たくなります。文三の同僚である本田昇が、お勢にとりいりはじめます。本田は出世欲が強く、順調に官員の仕事をこなしています。上司へのとりいり方も巧みで、世渡り上手でした。本田は自分の口利きで、復職は可能だと文三に伝えます。お勢もそれに賛成します。
出世してほしいと願う文三の実母。お勢と結婚したいと願う文三。出世のためなら、と課長の腰ぎんちゃくになって世渡りをしている本田。本田に心をゆるしつつあるお勢の本心。『浮雲』は複雑な人間模様を、明快なリズムで写しとっています。
ものがたりは、現代にも通じます。いちばんいやな男から、復職に手を貸してやろうかといわれる。これって、つらすぎます。
内海文三は学校教育で教わった条理にしたがって、「仕事」を考えるまじめなタイプでした。ところが某省では、お世辞、つけ届けが出世の道だと知ることになります。明治時代はしっかりと勉学に励めば、出世できるというのが常識でした。結婚も、親の意向抜きには考えられなかった時代です。
文三は出世競争をひた走る本田に、お勢を渡してはならないと焦っています。お勢のことを軽薄だと思います一方、このままでは幸せにならないと思ってもいます。条理だけでは通用しない世の中。理性や学問だけでは、ままならないお勢への恋情。お勢の心根がつかめぬまま、本田が楔(くさび)のように2人の間に分けいってきます。
学問ってなんなのだろう。もんもんとしながら、文三はお勢への恋情を捨てきれません。そのうちに、お勢と本田の間も疎遠になってゆきます。文三はお勢がぐっと近づいてきたことを意識します。今度こそ、自分の気持ちを打ち明けよう。もしダメだったら、この家を出るしかないと決心します。
ものがたりは、プツンと途切れてしまいます。二葉亭四迷がつぎに小説を書いたのは、そこから20年の後でした。『浮雲』は、3篇の構成で、19回雑誌連載されています。実は20回以降のストーリーもあったとされています。しかし二葉亭四迷は、公表しませんでした。20年間のブランクの意味は、20回目の連載を中止したことと通じています。そのあたりのことについて知りたい人は、小田切進『日本の名作』(中公新書)を立ち読みするか、買い求めてもらいたいと思います。
小谷野敦が『もてない男・浮雲新訳』(河出書房新社)を刊行しています。小谷野敦らしい切り口で、なかなかユニークな仕上がりになっています。参考まで。
(山本藤光: 2009.09.07初稿、2018.02.20改稿)
江戸文学のなごりから離れてようやく新文学創造の機運が高まりはじめた明治二十年に発表されたこの四迷の処女作は、新鮮な言文一致の文章によって当時の人々を驚嘆させた。秀才ではあるが世故にうとい青年官吏内海文三の内面の苦悩を精密に描写して、わが国の知識階級をはじめて人間として造形した『浮雲』は、当時の文壇をはるかに越え、日本近代小説の先駆とされる作品である。(文庫案内より)
◎ロシア憎いから好きへ
二葉亭四迷は、小説を3編しか書いていません。しかも私のつたない調べでは、『浮雲』以外は文庫化されていません。もちろん、通(つう)のための個人全集は発行されています。出版社はその他の作品について、一般読者向けに文庫化するだけの価値を認めていないのでしょうか。つまり売れるとは思っていないのでしょう。
私も著者名と作品名くらいしか知りませんでした。「山本藤光の文庫で読む500+α」執筆にあたり、有名な作品は読んでおかなければなりません。そんな義務感で、二葉亭四迷『浮雲』(新潮文庫)を読みました。いいね、これは、と思いました。
『浮雲』は言文一致体の小説の先駆けとなった作品であり、二葉亭四迷の処女作でもあります。非常に読みやすいし、当時の社会や思想が手にとるように理解できました。二葉亭四迷の文学は、ロシアを抜きにしては語れません。
ロシア憎しの気持ちが、ロシア文学にふれるうちに大きな変化をみせます。二葉亭四迷は1864年に生まれ、1909年に死去しています。明治8年(1875年)千島樺太交換条約に刺激され、ロシアの侵攻を防ぐために軍人を目指しました。しかし陸軍士官学校を受験しましたが3度落ち、東京外語学校露語部に入学しています。大学では、ゴーゴリ(推薦作『外套』岩波文庫)、トゥルゲーネフ(推薦作『初恋』光文社古典新訳文庫)、トルストイ(推薦作『戦争と平和』全4巻、新潮文庫)などを学びながら、ドストエフスキーの『罪と罰』(上下巻、新潮文庫)に感動してしまいます。
◎現代に通じるものがたり
『浮雲』の主人公・内海文三は、叔父の家に身を寄せています。明治11年15歳のときのことです。そこには如才のない叔母と、文三よりも5つ年下のお勢が住んでいます。内海文三は、学業を終え某省の下級官員になっています。文三はいつか、やんちゃなお勢と結婚するものと思っていました。
ある日文三は、人員整理にあい仕事を失ってしまいます。文三はそのことをうちあけられないまま、時をすごします。そして偶然、お勢と2人きりになる機会を得ます。お勢は遠まわしに、親は文三と結婚したらいいといっているなどと話します。
文三の失職を知ったお勢は、急に冷たくなります。文三の同僚である本田昇が、お勢にとりいりはじめます。本田は出世欲が強く、順調に官員の仕事をこなしています。上司へのとりいり方も巧みで、世渡り上手でした。本田は自分の口利きで、復職は可能だと文三に伝えます。お勢もそれに賛成します。
出世してほしいと願う文三の実母。お勢と結婚したいと願う文三。出世のためなら、と課長の腰ぎんちゃくになって世渡りをしている本田。本田に心をゆるしつつあるお勢の本心。『浮雲』は複雑な人間模様を、明快なリズムで写しとっています。
ものがたりは、現代にも通じます。いちばんいやな男から、復職に手を貸してやろうかといわれる。これって、つらすぎます。
内海文三は学校教育で教わった条理にしたがって、「仕事」を考えるまじめなタイプでした。ところが某省では、お世辞、つけ届けが出世の道だと知ることになります。明治時代はしっかりと勉学に励めば、出世できるというのが常識でした。結婚も、親の意向抜きには考えられなかった時代です。
文三は出世競争をひた走る本田に、お勢を渡してはならないと焦っています。お勢のことを軽薄だと思います一方、このままでは幸せにならないと思ってもいます。条理だけでは通用しない世の中。理性や学問だけでは、ままならないお勢への恋情。お勢の心根がつかめぬまま、本田が楔(くさび)のように2人の間に分けいってきます。
学問ってなんなのだろう。もんもんとしながら、文三はお勢への恋情を捨てきれません。そのうちに、お勢と本田の間も疎遠になってゆきます。文三はお勢がぐっと近づいてきたことを意識します。今度こそ、自分の気持ちを打ち明けよう。もしダメだったら、この家を出るしかないと決心します。
ものがたりは、プツンと途切れてしまいます。二葉亭四迷がつぎに小説を書いたのは、そこから20年の後でした。『浮雲』は、3篇の構成で、19回雑誌連載されています。実は20回以降のストーリーもあったとされています。しかし二葉亭四迷は、公表しませんでした。20年間のブランクの意味は、20回目の連載を中止したことと通じています。そのあたりのことについて知りたい人は、小田切進『日本の名作』(中公新書)を立ち読みするか、買い求めてもらいたいと思います。
小谷野敦が『もてない男・浮雲新訳』(河出書房新社)を刊行しています。小谷野敦らしい切り口で、なかなかユニークな仕上がりになっています。参考まで。
(山本藤光: 2009.09.07初稿、2018.02.20改稿)
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