国木田独歩『武蔵野』(岩波文庫)

初期の作品一八篇を収めた国木田独歩(一八七一‐一九〇八)自選の短篇集。ワーズワースに心酔した若き独歩が、郊外の落葉林や田畑をめぐる小道を散策して、その情景や出会った人々を描いた表題作「武蔵野」は、近代日本の自然文学の白眉である作者の代表作。(「BOOK」データベースより)
◎自然豊かな明治の武蔵野
国木田独歩『武蔵野』(岩波文庫)は、明治31(1898)年に発表(発表時は「今の武蔵野」という題名でした)されています。つまり1世紀をこえた作品ですが、いまなお名作としての評価は色あせていません。最近電子書籍(kindle)で『国木田独歩はこれだけを読め』(¥99)がでました。なんと40篇ほどの作品が網羅されていました。もちろん「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」「空知川の岸辺」「春の鳥」などは所収されています。岩波文庫『武蔵野』には18の短篇が所収されています。ただし「牛肉と馬鈴薯」「空知川の岸辺」「春の鳥」は、はいっていません。
『武蔵野』は、とことん不思議な作品です。小説でも詩でも随筆でもなく、かといって旅行記でもありません。あえていうなら観察記なのかもしれません。国木田独歩がワーズワース(『ワーズワース詩集』岩波文庫)やトゥルゲーネフ(『あひびき』岩波文庫)の観察力の影響を、強く受けていたことは有名な話です。これらの作家については、本書のなかでも引用があります。
国木田独歩は26歳(1897年)のとき、渋谷村で過ごしています。明治時代の武蔵野は、現在の渋谷、世田谷、中野、小金井あたり一帯のことをいいます。「渋谷村」を調べてみて驚きました。古い歴史があったのです。明治22(1889)年ころからの「渋谷村」の変遷をみてみましょう。
1889年:南豊島郡渋谷村が合併により、東京府豊多摩郡渋谷村になる。
1909年:町制で、東京府豊多摩郡渋谷町になる。
1932年:渋谷町が東京市に編入され町名は廃止となる。
現在:千駄ヶ谷町、代々幡町といっしょになり、渋谷区となる。
現在の渋谷区は、渋谷川と宇田川の合流する谷状の地形にあります。本書『武蔵野』を読むときには感覚を過去にもどして、渋谷村までたどりつかなければなりません。読者には緑を失った武蔵野を忘れ去り、田畑や山林などが広がる自然を、イメージしてもらわなければなりません。
国木田独歩『武蔵野』の冒頭では、国木田独歩(自分)が文政年間の武蔵野に、思いをはせる場面が描かれています。
――「武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある。そしてその地図に入間郡「小手指原(こてさしはら)久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦ふ事一日が内に三十余度日暮れば平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄ると載せたるはこの辺(あたり)なるべし」と書込んであるのを読んだことがある。(本文P5より)
国木田独歩は「画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤(おもかげ)ばかりでも見たい」と思います。古地図から一転して、国木田独歩はむかしの日記へと筆をはこびます。明治29年の秋から春にかけて住んでいた武蔵野のおもかげを、日記のなかから抜粋してみせます。
――九月七日:昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払ひつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時煌めく(本文P6より)
――昔の武蔵野は萱原のはてなき光景を以って絶類の美を鳴らしていたように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といってもよい。則(すなわ)ち木は重に楢(なら)の類で冬は悉(ことごと)く落葉し、春は滴るばかりの新緑萌え出づるその変化が秩父嶺以東十数里の野一斉に行われて、春夏秋冬を通じて霞に雨に月に風に霧に時雨に雪に、緑蔭に紅葉に、様々の光景を呈するその妙はちょっと西国地方また東北の者には解し兼ねるのである。(本文P10より)
昔は田畑と山林ばかりだった武蔵野に、国木田独歩は歩を進めます。ここで注目しておきたいのは、武蔵野は楢などの広葉樹林だったことです。従来の小説では松などの針葉樹が、美の対象として描かれてきました。広葉樹のほとんどは季節の移ろいに、敏感に反応します。針葉樹林を歩いていたら、こんな描写にはならないわけです。国木田独歩は、日記のなかから武蔵野に思いをはせます。
このあとトゥルゲーネフ(本文ではツルゲーネフと表記されています)『あひびき』(岩波文庫、二葉亭四迷訳)からの長い引用がつづきます。本書のなかでは、熊谷直好(江戸時代後期の歌人。歌集に「浦のしお貝」があります)の和歌、蕪村の俳句、ワーズワースの詩も引用されています。引用されたジャンルといい、引用者といい、実にバラエティに富んでいるのも、意図的なものだと思います。
国木田独歩は、武蔵野の林をゆったりと歩きます。自らの目と耳と肌で、武蔵野を感じとります。少し文語体が混じった文章は、短くリズミカルです。武蔵野の空間的な広がりを視線でとらえる。林を見る。樹木を見る。草花を見る。虫の声を聞く。風の音を聞く。秋風を肌で感じる。そうしながら、さらに奥へと踏みこんでいきます。そしてはじめて、生活を営む村人たちの音を聞くのです。
――鳥の羽音、囀る声。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。叢(くさむら)の蔭、林の奥にすだく虫の音。空車荷車の林を廻り、坂を下り、野路を横ぎる響。蹄で落葉を蹴散らす音、これは騎兵演習の斥候か、さなくば夫婦連れで遠乗に出かけた外国人である。何事をか声高に話しながらゆく村の者のだみ声、それも何時しか、遠かりゆく。独り淋しそうに道をいそぐ女の足音。遠く響く砲声。……。(本文P13より)
◎夏目漱石が絶賛した「巡査」
国木田独歩には、明治時代の青年特有の政治への野望が、色濃くありました。しかし人生について考えているうちに、キリスト教への関心が芽生えて、洗礼をうけます。そこで佐々城信子と知り合い、結婚を夢見て北海道へと住居の下見にいきます。そのときの体験が「空知川の岸辺」(新潮文庫『牛肉と馬鈴薯/酒中日記』所収)となります。北海道には「空知川の岸辺」から引いた、国木田独歩の碑が2つあります。
――「余は今も尚ほ空知川の沿岸を思うと、あの冷厳なる自然が、余を引きつけるように感ずるのである。何故だろう」(砂川市の滝川公園にある国木田独歩の碑より)
――「余は時雨の音のさみしさを知っている、しかし未だかつて、原始の大深林を忍びやかに過ぎゆく時雨ほどさみしさを感じたことはない」(歌志内市にある国木田独歩の詩碑より)
その後独歩は、北海道の地を踏んでいません。しかし当時の体験が強烈に残っていて、それが武蔵野へとつながったのだと思います。
独歩と信子はやがて結婚しますが、信子の失踪で半年後に破たんします。失意の独歩は独りさみしく、渋谷村へと居をうつします。国木田独歩は幼いころから、人一倍自然を愛する少年でした。愛の崩壊は、独歩をキリスト教から離れさせました。そして独歩は自然のなかに、癒しを求めるようになりました。このころのことは、「欺かざるの記」(講談社文芸文庫)として発表されています。本書には「佐々城信子との恋愛」という副題がついています。(ここまでの文章は佐古純一郎『青春の必読書』旺文社新書を参考にしました)
三好行雄に『近代小説の読み方』(全2巻、有斐閣新書)という著作があります。第2巻のほうで国木田独歩がとりあげられています。三好行雄は国木田独歩の作品を、発表年次で3区分しています。それにしたがって、諸作品をながめてみたいと思います。
前期作品は今回紹介させてもらっている、岩波文庫『武蔵野』所収の短編です。とくに「源叔父」は、国木田独歩の小説処女作です。源叔父は桂港の船頭で愛妻を亡くし、海でこどもも失っています。失意のなか源叔父は、少年乞食を救い同居しましたが、少年にも去られてしまう結末となります。人生の悲哀を色濃く描いた良質な短篇です。私はこの作品が好きです。
中期作品の代表は、『牛肉と馬鈴薯』(新潮文庫)となります。理想と現実のはざまに揺れる独歩が、現実社会に視点をうつしはじめた時期です。ある食堂で、北海道開拓の話になります。一人の紳士が理想に燃えて北海道で百姓をしましたが、暮らしは貧しく芋ばかり食べていました。結局、牛肉が恋しくなって挫折することになります。
後記作品の代表作は「窮死(きゅうし)」(新潮文庫『牛肉と馬鈴薯/酒中日記』所収)です。独歩は現実を、客観視するようになっています。このころ自然主義文学が隆盛をきわめ、独歩の初期作品が高く評価されるようになりました。
もう1冊読んでいただきたい、著作があります。『牛肉と馬鈴薯/酒中日記』(新潮文庫)所収の「巡査」です。この作品は、今回紹介させていただいている岩波文庫にも、kindleにも収載されていません。「巡査」は『牛肉と馬鈴薯』発表の翌年(1902年)に書かれています。
「巡査」は、夏目漱石が「独歩氏の作に低徊趣味あり」という文章のなかで絶賛しています。
――すなわち、筋とか結構とかいうものがおもしろいのではなくて、一酔漢なるものに低個して、その酔漢の酔態を見るそのことに興味あり、おもしろみあるのである。それを余は低徊趣味という。普通の小説は、筋とか結構とかで読ませる。すなわち、その次はどうしたとか、こうなったとかいうことに興味を持ち、おもしろみを持って読んでいくのである。しかし、低徊趣味の小説には、筋、結構はない。あるひとりの所作行動を見ていればいいのである。『巡査』は、巡査の運命とかなんとかいうものを書いたのではない。あるひとりの巡査を捕えて、その巡査の動作行動を描き、巡査なる人はこういう人であったという、そこがおもしろい。すなわち、低徊趣味なる意味において、『巡査』をおもしろく読んだのである。(『新潮』明治41年7月15日より)
夏目漱石のいう「低徊趣味」は、『武蔵野』にも通じるものです。自然のなかに人間の内面をとらえる、国木田独歩の感性は1世紀をへだてたいまも光輝いています。前記作品からたどると、独歩の足跡が少しだけ浮かびあがってくるように思えます。
(山本藤光:2009.10.02初稿、2018.03.17改稿)

初期の作品一八篇を収めた国木田独歩(一八七一‐一九〇八)自選の短篇集。ワーズワースに心酔した若き独歩が、郊外の落葉林や田畑をめぐる小道を散策して、その情景や出会った人々を描いた表題作「武蔵野」は、近代日本の自然文学の白眉である作者の代表作。(「BOOK」データベースより)
◎自然豊かな明治の武蔵野
国木田独歩『武蔵野』(岩波文庫)は、明治31(1898)年に発表(発表時は「今の武蔵野」という題名でした)されています。つまり1世紀をこえた作品ですが、いまなお名作としての評価は色あせていません。最近電子書籍(kindle)で『国木田独歩はこれだけを読め』(¥99)がでました。なんと40篇ほどの作品が網羅されていました。もちろん「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」「空知川の岸辺」「春の鳥」などは所収されています。岩波文庫『武蔵野』には18の短篇が所収されています。ただし「牛肉と馬鈴薯」「空知川の岸辺」「春の鳥」は、はいっていません。
『武蔵野』は、とことん不思議な作品です。小説でも詩でも随筆でもなく、かといって旅行記でもありません。あえていうなら観察記なのかもしれません。国木田独歩がワーズワース(『ワーズワース詩集』岩波文庫)やトゥルゲーネフ(『あひびき』岩波文庫)の観察力の影響を、強く受けていたことは有名な話です。これらの作家については、本書のなかでも引用があります。
国木田独歩は26歳(1897年)のとき、渋谷村で過ごしています。明治時代の武蔵野は、現在の渋谷、世田谷、中野、小金井あたり一帯のことをいいます。「渋谷村」を調べてみて驚きました。古い歴史があったのです。明治22(1889)年ころからの「渋谷村」の変遷をみてみましょう。
1889年:南豊島郡渋谷村が合併により、東京府豊多摩郡渋谷村になる。
1909年:町制で、東京府豊多摩郡渋谷町になる。
1932年:渋谷町が東京市に編入され町名は廃止となる。
現在:千駄ヶ谷町、代々幡町といっしょになり、渋谷区となる。
現在の渋谷区は、渋谷川と宇田川の合流する谷状の地形にあります。本書『武蔵野』を読むときには感覚を過去にもどして、渋谷村までたどりつかなければなりません。読者には緑を失った武蔵野を忘れ去り、田畑や山林などが広がる自然を、イメージしてもらわなければなりません。
国木田独歩『武蔵野』の冒頭では、国木田独歩(自分)が文政年間の武蔵野に、思いをはせる場面が描かれています。
――「武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間に出来た地図で見た事がある。そしてその地図に入間郡「小手指原(こてさしはら)久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦ふ事一日が内に三十余度日暮れば平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄ると載せたるはこの辺(あたり)なるべし」と書込んであるのを読んだことがある。(本文P5より)
国木田独歩は「画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤(おもかげ)ばかりでも見たい」と思います。古地図から一転して、国木田独歩はむかしの日記へと筆をはこびます。明治29年の秋から春にかけて住んでいた武蔵野のおもかげを、日記のなかから抜粋してみせます。
――九月七日:昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払ひつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時煌めく(本文P6より)
――昔の武蔵野は萱原のはてなき光景を以って絶類の美を鳴らしていたように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といってもよい。則(すなわ)ち木は重に楢(なら)の類で冬は悉(ことごと)く落葉し、春は滴るばかりの新緑萌え出づるその変化が秩父嶺以東十数里の野一斉に行われて、春夏秋冬を通じて霞に雨に月に風に霧に時雨に雪に、緑蔭に紅葉に、様々の光景を呈するその妙はちょっと西国地方また東北の者には解し兼ねるのである。(本文P10より)
昔は田畑と山林ばかりだった武蔵野に、国木田独歩は歩を進めます。ここで注目しておきたいのは、武蔵野は楢などの広葉樹林だったことです。従来の小説では松などの針葉樹が、美の対象として描かれてきました。広葉樹のほとんどは季節の移ろいに、敏感に反応します。針葉樹林を歩いていたら、こんな描写にはならないわけです。国木田独歩は、日記のなかから武蔵野に思いをはせます。
このあとトゥルゲーネフ(本文ではツルゲーネフと表記されています)『あひびき』(岩波文庫、二葉亭四迷訳)からの長い引用がつづきます。本書のなかでは、熊谷直好(江戸時代後期の歌人。歌集に「浦のしお貝」があります)の和歌、蕪村の俳句、ワーズワースの詩も引用されています。引用されたジャンルといい、引用者といい、実にバラエティに富んでいるのも、意図的なものだと思います。
国木田独歩は、武蔵野の林をゆったりと歩きます。自らの目と耳と肌で、武蔵野を感じとります。少し文語体が混じった文章は、短くリズミカルです。武蔵野の空間的な広がりを視線でとらえる。林を見る。樹木を見る。草花を見る。虫の声を聞く。風の音を聞く。秋風を肌で感じる。そうしながら、さらに奥へと踏みこんでいきます。そしてはじめて、生活を営む村人たちの音を聞くのです。
――鳥の羽音、囀る声。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。叢(くさむら)の蔭、林の奥にすだく虫の音。空車荷車の林を廻り、坂を下り、野路を横ぎる響。蹄で落葉を蹴散らす音、これは騎兵演習の斥候か、さなくば夫婦連れで遠乗に出かけた外国人である。何事をか声高に話しながらゆく村の者のだみ声、それも何時しか、遠かりゆく。独り淋しそうに道をいそぐ女の足音。遠く響く砲声。……。(本文P13より)
◎夏目漱石が絶賛した「巡査」
国木田独歩には、明治時代の青年特有の政治への野望が、色濃くありました。しかし人生について考えているうちに、キリスト教への関心が芽生えて、洗礼をうけます。そこで佐々城信子と知り合い、結婚を夢見て北海道へと住居の下見にいきます。そのときの体験が「空知川の岸辺」(新潮文庫『牛肉と馬鈴薯/酒中日記』所収)となります。北海道には「空知川の岸辺」から引いた、国木田独歩の碑が2つあります。
――「余は今も尚ほ空知川の沿岸を思うと、あの冷厳なる自然が、余を引きつけるように感ずるのである。何故だろう」(砂川市の滝川公園にある国木田独歩の碑より)
――「余は時雨の音のさみしさを知っている、しかし未だかつて、原始の大深林を忍びやかに過ぎゆく時雨ほどさみしさを感じたことはない」(歌志内市にある国木田独歩の詩碑より)
その後独歩は、北海道の地を踏んでいません。しかし当時の体験が強烈に残っていて、それが武蔵野へとつながったのだと思います。
独歩と信子はやがて結婚しますが、信子の失踪で半年後に破たんします。失意の独歩は独りさみしく、渋谷村へと居をうつします。国木田独歩は幼いころから、人一倍自然を愛する少年でした。愛の崩壊は、独歩をキリスト教から離れさせました。そして独歩は自然のなかに、癒しを求めるようになりました。このころのことは、「欺かざるの記」(講談社文芸文庫)として発表されています。本書には「佐々城信子との恋愛」という副題がついています。(ここまでの文章は佐古純一郎『青春の必読書』旺文社新書を参考にしました)
三好行雄に『近代小説の読み方』(全2巻、有斐閣新書)という著作があります。第2巻のほうで国木田独歩がとりあげられています。三好行雄は国木田独歩の作品を、発表年次で3区分しています。それにしたがって、諸作品をながめてみたいと思います。
前期作品は今回紹介させてもらっている、岩波文庫『武蔵野』所収の短編です。とくに「源叔父」は、国木田独歩の小説処女作です。源叔父は桂港の船頭で愛妻を亡くし、海でこどもも失っています。失意のなか源叔父は、少年乞食を救い同居しましたが、少年にも去られてしまう結末となります。人生の悲哀を色濃く描いた良質な短篇です。私はこの作品が好きです。
中期作品の代表は、『牛肉と馬鈴薯』(新潮文庫)となります。理想と現実のはざまに揺れる独歩が、現実社会に視点をうつしはじめた時期です。ある食堂で、北海道開拓の話になります。一人の紳士が理想に燃えて北海道で百姓をしましたが、暮らしは貧しく芋ばかり食べていました。結局、牛肉が恋しくなって挫折することになります。
後記作品の代表作は「窮死(きゅうし)」(新潮文庫『牛肉と馬鈴薯/酒中日記』所収)です。独歩は現実を、客観視するようになっています。このころ自然主義文学が隆盛をきわめ、独歩の初期作品が高く評価されるようになりました。
もう1冊読んでいただきたい、著作があります。『牛肉と馬鈴薯/酒中日記』(新潮文庫)所収の「巡査」です。この作品は、今回紹介させていただいている岩波文庫にも、kindleにも収載されていません。「巡査」は『牛肉と馬鈴薯』発表の翌年(1902年)に書かれています。
「巡査」は、夏目漱石が「独歩氏の作に低徊趣味あり」という文章のなかで絶賛しています。
――すなわち、筋とか結構とかいうものがおもしろいのではなくて、一酔漢なるものに低個して、その酔漢の酔態を見るそのことに興味あり、おもしろみあるのである。それを余は低徊趣味という。普通の小説は、筋とか結構とかで読ませる。すなわち、その次はどうしたとか、こうなったとかいうことに興味を持ち、おもしろみを持って読んでいくのである。しかし、低徊趣味の小説には、筋、結構はない。あるひとりの所作行動を見ていればいいのである。『巡査』は、巡査の運命とかなんとかいうものを書いたのではない。あるひとりの巡査を捕えて、その巡査の動作行動を描き、巡査なる人はこういう人であったという、そこがおもしろい。すなわち、低徊趣味なる意味において、『巡査』をおもしろく読んだのである。(『新潮』明治41年7月15日より)
夏目漱石のいう「低徊趣味」は、『武蔵野』にも通じるものです。自然のなかに人間の内面をとらえる、国木田独歩の感性は1世紀をへだてたいまも光輝いています。前記作品からたどると、独歩の足跡が少しだけ浮かびあがってくるように思えます。
(山本藤光:2009.10.02初稿、2018.03.17改稿)
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