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島崎藤村『夜明け前』(全4巻、新潮文庫)

2018-02-08 | 書評「し」の国内著者
島崎藤村『夜明け前』(全4巻、新潮文庫)

山の中にありながら時代の動きを確実に追跡する木曽路、馬籠宿。その本陣・問屋・庄屋をかねる家に生れ国学に心を傾ける青山半蔵は偶然、江戸に旅し、念願の平田篤胤没後の門人となる。黒船来襲以来門人として政治運動への参加を願う心と旧家の仕事にはさまれ悩む半蔵の目前で歴史は移りかわっていく。著者が父をモデルに明治維新に生きた一典型を描くとともに自己を凝視した大作。(アマゾン内容案内)

◎木曽路はすべて山の中である

――木曽路はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。(本文より)

これは『夜明け前』の冒頭部分です。あまりにも有名な書き出しで、私は「知っている、知ってるぞ」との軽いノリで全4冊に挑みました。ところが、木曽路は、楽には進めませんでした。物語の展開が遅く、途中から歴史書を読んでいるような錯覚を覚えてしまったのです。
 
途中で何度も、読むのをやめようと思いました。こんなに退屈な作品だったのなら、『破戒』(新潮文庫)をとりあげるほうが無難だったかな、と後悔もしました。しかし島崎藤村の長編『夜明け前』(全4巻、新潮文庫)を読まずして、代表作を選ぶことに恥じる気持ちがありました。
 
篠田一士が『21世紀の十大小説』(新潮文庫)にあげた作品です。日本にはドストエフスキーやトルストイのような長編小説が存在しません。世界に通用する唯一の長編小説として、選ばれた作品が『夜明け前』なのです。
 
島崎藤村は『若菜集』(新潮文庫)に代表されるように、元詩人でした。「まだあげ初めし前髪の/林檎のもとに見えしとき/前にさしたる花櫛の/花ある君と思ひけり」(『藤村詩抄』岩波文庫の「初恋」より)というフレーズは、だれもが知っていると思います。
 
島崎藤村は、詩人から散文家への転身をはかりました。文章修行として、エッセイに挑みました。そして生まれたのが、『千曲川のスケッチ』(新潮文庫)でした。

詩人だったゆえに、『夜明け前』の文章は巧みでした。島崎藤村が目指したのは、時代の変化に色あせない文章を書くことでした。美文体は風化しやすい。そんな信念から、エッセイによる文章修行をおこなったのでしょう。
 
島崎藤村の生涯は、周到に準備をされたものでした。敬愛する花村太郎『知的トレーニングの技術』(ちくま学芸文庫)から、引用してみたいと思います。島崎藤村は「人生を7年くぎりで考えよ」と、自らの生涯を振り返った遺訓を残しています。

(引用はじめ) 
1.二〇歳で明治学院を卒業、女学校教員――失恋による関西漂白の旅、
2.二六~二八歳で第一詩集『若菜集』刊行(詩人として確立)――『一葉舟』『夏草』刊行――信州の小諸義塾へ赴任、足かけ七年ここで過ごして、
3.三四~三五歳では、東京へ出てきて『破戒』を刊行(小説家への転向)、
4.四二歳でフランスへ、
5.四八歳で『新生』発表、
6.それから五八歳で書きはじめた『夜明け前』を足かせ七年間で完成させる。(花村太郎『知的トレーニングの技術』(ちくま学芸文庫より)

しかしその人生は、ゆううつそのものだったようです。『夜明け前』のモデルだった実父は、郷里で牢死していますし、母は過ちで生を受けた人だったのです。『新生』(上下巻、新潮文庫)は姪との不倫を描いた作品です。

◎ズーム機能のあるカメラ

『夜明け前』は、島崎藤村の父親をモデルにした作品です。島崎藤村が生まれた家は、木曾街道馬籠宿の本陣・問屋・庄屋を兼ねた旧家で、父親は17代目の当主でした。島崎藤村は、東京の泰明小学校へ入学しました。それ以来、実家とは離れて暮らしています。『夜明け前』の舞台に木曾街道馬籠を選んだのは、故郷喪失者たる島崎藤村の、ふるさと回帰への熱い思いからでした。

主人公の青山半蔵は、馬籠の本陣・問屋・庄屋を兼ねた家の長男として生まれます。この設定も、父親・青山吉左衛門が17代目の当主であることも、現実とまったく同じです。青山半蔵は、生後間もなく生母と死別します。
 
舞台の馬籠は、木曾11宿の1つです。青山半蔵が生まれたのは、大名などが泊まるもっとも格式の高い本陣でした。『夜明け前』には、多くの高名な固有名詞や史実が登場します。
 
嘉永6年、浦賀に黒船が来航したとの噂が、半蔵の耳に入ります。当時半蔵は23歳。妻籠宿の本陣の娘・お初と結婚しています。結婚後、半蔵は江戸へ出て、国学者・平田篤胤や本居宣長に学びます。
 
明治維新のころを、島崎藤村は青山半蔵の生涯と重ねてみせます。父親の背中を見つめつづけていた半蔵。結婚し、子どもを授かった半蔵。そして、半蔵の暮らす木曾街道をとおる人々。本陣に泊まる人々。島崎藤村は多くの人群れを描き、青山半蔵を浮かびあがらせます。活気にあふれる明治の人々。ペリーの来航、明治維新、大政奉還、東京遷都、廃藩置県、華族令、開国を迫る外国人。幕府の動乱と村人の生きるための闘い。『夜明け前』は壮大なドラマだったのです。
 
――『夜明け前』というのは、時に応じて、かって読んだときには気づかなかったような描線が構図のなかから突然現れてくるといった不思議な奥行きをもつ重層的な作品だ。(朝日新聞学芸部編『読み直す一冊』の井出孫六「夜明け前」より)

島崎藤村『破戒』(新潮文庫)と夏目漱石『こころ』(新潮文庫)が、明治以降の小説で売れている双璧のようです。『破戒』を紹介しているガイドブックは数多くあります。しかし『夜明け前』は長すぎるがゆえに、敬遠されがちです。私も苦労して読みました。ちょっと重厚ですが、日本を代表する長編小説に挑戦していただきたいと思います。
 
島崎藤村の作品は、映画監督になった気持ちで読むのがいいようです。これは加賀乙彦(推薦作『宣告』全3巻、新潮文庫)が教えてくれました。『加賀乙彦が語る島崎藤村』(「カセット文芸講座・日本の近代文学2」C・B・エンタープリズ、絶版)で、加賀乙彦はつぎのような解説をしてくれています。カセットで聞いたことの箇条書きになりますが、おもしろい読み方だと感心しました。

――島崎藤村の作品は、全体的な展望からはじまる。『破戒』もそうだが、カメラを高いところにすえて映し出し、少しずつ登場人物に迫る。

――『破戒』は、家の構造、住人、一人の人物へとズームアップされている。

――『夜明け前』では、主人公の半蔵に焦点をあてるのは、最後の方になる。
(引用おわり)

なるほどと思います。ズーム機能のついたカメラをもって、『夜明け前』の美しい文章を楽しんでいたたきたいと思います。ドストエフスキー(推薦作『カラマーゾフの兄弟』全5巻、光文社古典新訳文庫)やトルストイ(推薦作『戦争と平和』全4巻、新潮文庫)の作品のような感動を覚えることは、保証させていただきます。

◎ちょっと寄り道

『夜明け前』は、司馬遼太郎『街道をゆく』(全43冊、朝日文庫)の影響を受けたという論評もあります。残念ながら、司馬遼太郎『街道をゆく』は読んでいません。また小説の構造は、トルストイ『戦争と平和』と似ているという人もいます。しかしそれらは、些細なことです。
(山本藤光:2010.06.14初稿、2018.02.08改稿) 


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