山本藤光の文庫で読む500+α

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夏目漱石『坊ちゃん』(新潮文庫)

2018-03-16 | 書評「な」の国内著者
夏目漱石『坊ちゃん』(新潮文庫)

松山中学在任当時の体験を背景とした初期の代表作。物理学校を卒業後ただちに四国の中学に数学教師として赴任した直情径行の青年<坊っちゃん>が、周囲の愚劣、無気力などに反撥し、職をなげうって東京に帰る。主人公の反俗精神に貫かれた奔放な行動は、滑稽と人情の巧みな交錯となって、漱石の作品中最も広く愛読されている。近代小説に勧善懲悪の主題を復活させた快作である。(アマゾン内容紹介)

◎婆や「清」の存在価値

夏目漱石『坊ちゃん』(新潮文庫)を「山本藤光の文庫で読む500+α」の「+α」として紹介させていただきます。1作家1作品ときめてしまった関係で、こんな扱いになってしまいました。児童書で読んで以来、何度この作品を読み返したことでしょう。『吾輩は猫である』(新潮文庫)同様、私にとってきわめて大切な1冊が『坊ちゃん』でもあるわけです。もちろんまた再読しました。

『坊ちゃん』の初出は、1906年です。生誕100年を過ぎても、いまだに色あせることなく、日本文学の最高峰に君臨しています。そのあたりの秘密について、何冊かの資料で明らかにしてみたいと思います。本稿執筆にあたり、書棚から37冊の漱石関連資料を引き出してきました。

最初に「感動のメッセージ」から、お伝えさせていただきます。漫画家の江川達也は、『坊ちゃん』(全2巻、ガンボコミックス)というコミックを発表しています。本書は2巻で2万円ほどの古書価格がついているため、残念ながら読んではいません。コミック化にあたって、江川達也が大切に考えたのは次の点でした。

――『坊ちゃん』は基本的に、清への愛情の話です。坊ちゃんの心の安住の地は、やっぱり清であるんですね。だから清はキャラクターとして、江戸時代の侍そのものなんです。それを書きたくて書きたくてね。(『NHK私の1冊日本の100冊・感動がとまらない』学研より)

ねじめ正一も「清」の存在に着目しています。

――清は坊ちゃんを愛するあまり、坊ちゃん以外の人間のイイところをぜんぜん認めない。坊ちゃんの兄も父も認めない。反対に、坊ちゃんのすることはすべてイイこと、正しいこと、エライことである。ようするに無条件なのである。(中略)坊ちゃんの正義は貧乏性で、清の正義は鷹揚である。貧乏性の正義のうしろに、愛に裏打ちされた鷹揚な正義を救いのように配することで、小説『坊ちゃん』は並みの小説ではなくなった。(集英社文庫編集部『私を変えたこの一冊』ねじめ正一・文、集英社文庫より)

2人のコメントを、引用させていただきました。私は下村湖人『次郎物語(全3巻、新潮文庫、初出1954年、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)は、おおいに『坊ちゃん』の影響をうけていると思っています。約50年を経て、『坊ちゃん』は名作『次郎物語』を生み出したのです。

もうひとつ、清についてのユニークな分析があります。『丸谷才一全集・第9巻』(文藝春秋)で、こんな文章を見つけたのです。

――坊ちゃんの生母が清だといふ、わたしに言わせればかなり妥当な解釈がこれまで現れなかった(?)のはどうしてだらう。多分、清を忠義者として見たかったせいだと思ふ。語り手=主人公である坊ちゃん自身がさう見ようとしてゐる。何しろ戦前の日本では忠義が大事な徳目だったから、読者の意識はその色調に染められがちで、清が実の母だから坊ちゃんをかはいがるといふごく自然な見方を排除したのだらう。(『丸谷才一全集・第9巻』(文藝春秋P218)

◎ユーモアという秘伝で味付け

――親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る。

『吾輩は猫である』と同様に、鮮烈な書き出しではじまる本書は、この一文で物語のすべてを表しています。夏目漱石は1895年に、愛媛県松山市の尋常中学校教師になっています。『坊ちゃん』はそのときの体験が、色濃く出ている作品です。最近刊行された「別冊宝島」から、ポイントを引かせていただきます。非常によくまとまった、楽しい雑誌でした。

――漱石は教育者特有の偽善に強く反発し、さらに世間一般の不正や悪に憤りを感じ、その矛先を本作に向けてたたきつけたのだ。(『夏目漱石という生き方』別冊宝島2424、P59より)

坊ちゃんは2階から飛び降りて腰を抜かしたり、ナイフで自分の指を切ってみせたり、直情径行な人間です。そして正義感が強く、いかなる不正も許しません。通常なら堅物の主人公を配したら、おもしろくない小説になるはずです。ところが夏目漱石はユーモアという秘伝で味付けを施し、みごとな作品に仕上げてみせました。

さきほど紹介させていただいた「別冊宝島」には、「漱石の7つの苦悩」というコラムがあります。不遇、挫折、憂鬱、覚悟、脆弱、葛藤、大病とならんでおり、漱石の負の部分にスポットがあてられています。しかし漱石作品を読むとき、どうしてもシニカルなユーモアのセンスを見逃すことはできません。

漱石が落語や講談好きだったことはよく知られています。そこにイギリスジョークが加わり、俳句で鍛えた厳選された言葉が生み出されたのでしょう。私はユーモアと書きましたが、吉田健一は著作のなかで、漱石の初期作品にすてきな冠をつけています。

――『坊ちゃん』は暗い作品でありそうなのが、誰もこの作品からそのような印象を受けるものはないのであって、寧ろこれは『吾輩は猫である』とともに、漱石一流の諧謔(かいぎゃく)に満ちた、彼の初期の代表作に数えられている。(吉田健一『文学人生案内』講談社文芸文庫P47-48)

「諧謔」って、いい表現だなと思います。孫引きで申し訳ありませんが、もうひとついいなと思った論評があります。

――『坊ちゃん』は、調子にのった漱石の出まかせの余技にすぎない。ヒステリックな、日頃の鬱憤の爆発にすぎない。が爆発にしろ、余技にしろ、本音でないとは言へない。そこに匂ひでてゐる封建的正義感と癇癪は、同時に彼の骨にくっついてゐるものに外ならない。――竹盛天雄編「別冊國文學・夏目漱石必携」昭和55.2(引用書は『知っ得・夏目漱石の全小説を読む』學灯社P54)

『吾輩は猫である』と『坊ちゃん』は、漱石の「骨にくっついているもの」という切り口からはじまり、引用書には最近の漱石研究資料が2ページにわたって紹介されています。そのなかの何冊かを図書館で借りて読みました。

目立った発見はありませんが、2つの作品が「なぜおもしろいのか」について深堀している論調ばかりでした。そして結論は、吉田健一が言っている「漱石の諧謔性」の根源探しから導き出されたものだらけでした。

◎夏目漱石をおおいに楽しむ

深堀は学者にお任せして、私たちは漱石作品を楽しめばいいのです。夏目漱石をいかに楽しんで読むか。そんな指標として、大きく分類してくれている文章があります。新潮社からは『文豪ナビ』(新潮文庫)というシリーズが出ています。『夏目漱石・先生ったら、超弩級のロマンティストなのね。』では、次のような順序で読むことを薦めています。

――「坊ちゃん」→「三四郎」「それから」「門」→「彼岸過迄」「行人」「こころ」→「草枕」→「道草」→「明暗」→「吾輩は猫である」→「硝子戸の中」

無難な順番だと思います。ほぼ発表順に並べられています。作品の傾向について、説明されている文章があります。補足させていただきます。

――コトバの才能に恵まれているということは、結局、想像力に恵まれているというわけになる。初期の漱石は、天与の想像力をのびのびと発揮して、『坊ちゃん』や『草枕』を書いた。/が、漱石はやがて、想像力を駆使することをやめてしまい、人間性を追求する小説を書きはじめた。その最初が『三四郎』『それから』『門』の三部作であり、以後、『彼岸過迄』『行人』『こころ』と、その傾向は進化してゆく。(百目鬼恭三郎『乱読すれば良書に当たる』新潮社P44)

丸谷才一が語ったという、おもしろい話で結ばせていただきます。

――『坊ちゃん』について、あれは田舎の悪口を言う小説だよね、と私に教えてくれたのは丸谷才一先生だ。ある雑誌で対談した時にその話が出た。/もともと日本には悪口を言う文化があって、歌舞伎を見たってそれはいっぱいあるし、江戸時代の狂歌や川柳だって悪口だらけだ。(清水義範『独断流読書必勝法』講談社文庫P11)

今度再読する機会があったら、清=生母という点を念頭におきたいと思います。

◎『坊ちゃん』に関して触れている関連著作

私の蔵書だけですので限られています。参考までに紹介させていただきます。
――石原豪人:謎とき。坊ちゃん(飛鳥新社)
――NHK:私の1冊日本の100冊――感動がとまらない(学研)
――大岡信ほか:近代日本文学のすすめ(岩波現代文庫)
――奥泉光:虚構まみれ(青土社)
――尾崎秀樹:新文章スタイル読本(日本文芸社)P16
――小田切進・尾崎秀樹:日本名作事典(平凡社)
――小田切進:日本の名著(中公新書)
――菅野昭正:書物の達人・丸谷才一(集英社新書P48)
――小林信彦:うらなり(文春文庫6-24)※「坊ちゃん」の「うらなり」から見た世界
――小谷野敦:夏目漱石を江戸から読む(中公新書)
――斎藤美奈子:名作うしろ読み(中央公論新社)
――重松清:百年読書会(朝日新書)
――知っ得・夏目漱石の全小説を読む(学燈社)
――島田雅彦:漱石を書く(岩波新書)
――清水義範:独断流読書必勝法(講談社文庫)
――清水義範:身もフタもない日本文学史(PHP新書)
――集英社文庫編集部:私を変えたこの一冊(集英社文庫)
――辰野隆:忘れ得ぬ人々(講談社文芸文庫)
――百目鬼恭三郎:乱読すれば良書に当たる(新潮社)
――長尾剛:漱石ゴシップ(文春文庫)
――夏目房之介:孫が読む漱石(新潮文庫)
――日本名作委員会:日本の名作あらすじ200本(宝島文庫)
――秦郁彦:漱石文学のモデルたち(中公文庫)
――半藤一利:歴史をあるく、文学をゆく(文春文庫)
――半藤一利:私の選んだ文庫ベスト3(ハヤカワ文庫、丸谷才一・編)→丸谷才一
――ダミアン・フラナガン世界文学のスーパースター夏目漱石(講談社インターナショナル)
――丸谷才一:星のあひびき(集英社)
――丸谷才一全集・第9巻(文藝春秋)
――三浦雅士:漱石・母に愛されなかった子(岩波新書)
――三木卓監修:日本の名作文学案内(集英社)
――村上護:教科書から消えた名作(小学館文庫)
――明治書院:おじさんは文学通1(明治書院新書版)
――茂木健一郎:脳のなかの文学(文春文庫)P75
――洋泉社MOOK:国民的作家10人の名作100選(洋泉社)
――吉田健一:文学人生案内(講談社文芸文庫)
――吉本隆明:夏目漱石を読む(ちくま文庫)
――リテレール別冊:文庫本の快楽・ジャンル別ベスト1000(メタローグ)P197
(山本藤光2016.02.20初稿、2018.03.16改稿)

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