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九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)

2018-02-15 | 書評「く・け」の国内著者
九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)

日本民族に独自の美意識をあらわす語「いき(粋)」とは何か.「運命によって〈諦め〉を得た〈媚態〉が〈意気地〉の自由に生きるのが〈いき〉である」――九鬼は「いき」の現象をその構造と表現から明快に把えてみせたあと,こう結論する.再評価の気運高い表題作に加え『風流に関する一考察』『情緒の系図』を併収. (解説 多田道太郎)

◎のほほんのほん訳「いきの構造」

気位の高い相手だとは、知っていました。哲学者って、独善的で、上から目線で、堅物で、へそまがりで、相手が戸惑うのを薄笑いして楽しむ人種だと思っていました。そもそも「哲学」って、タマネギみたいなもので、べつにそれを食べなかったとしても、別に健康上の害はないのだから、と思っていた時期がありました。

私は中大文学部の国文学科を専攻しています。北大へはいりたかったのですが、健康上の問題で断念してしまいました。受験勉強は、英数国まではやっていました。これらの科目だけで受験できる私大学の文学部を調べてみると、中大しかありませんでした。

授業は日本の古典文学ばかりで、退屈きわまりないものでした。ペンクラブという創作集団に参加し、小説を書くかたわら、安部公房(推薦作『砂の女』新潮文庫)の研究をはじめました。

安部公房が影響を受けたカフカ(推薦作『変身』光文社古典新訳文庫)まで研究の範囲が広がり、やがてリルケやサルトル(推薦作『嘔吐』人文書院)やハイデッガーにまで、首を突っこまざるをえなくなりました。日本の作家なら、三木清(推薦作『人生論ノート』新潮文庫)、和辻哲郎(推薦作『古寺巡礼』岩波文庫)、九鬼周造などは「常識」として、読んでおかなければならない雰囲気がありました。

いちばん薄いという理由で、九鬼周造に突撃してみました。『「いき」の構造』(岩波文庫)は、意外に包容力があり、やさしく品格のある相手でした。ただし言葉が難解で、へきへきとさせられました。しかたがないので、1冊の大学ノートを買い求め、自分流(私は「のほほんのほん」流とノートに書きました)の訳書をつくることにしたわけです。そのノートはとうに手元にないので、ひさしぶりに「のほほんのほん訳」をやってみることにします。

まずは原文を書き写しておきます。これが理解できるのなら、「のほほんのほん訳」は読みとばしてください。

【原文】
「いき」という現象はいかなる構造をもっているか。まず我々は、いかなる方法によって「いき」の構造を闡明(せんめい)し、「いき」の存在を把握することができるであろうか。「いき」が一の意味を構成していることはいうまでもない。また「いき」が言語として成立していることも事実である。しからば「いき」という語は各国語のうちに見出されるという普遍性を備えたものであろうか。我々はまずそれを調べてみなければならない。そうして、もし「いき」という語がわが国語にのみ存するものであるとしたならば、「いき」は特殊の民族性をもった意味であることになる。しからば特殊な民族性をもった意味、すなわち特殊の文化存在はいかなる方法論的態度をもって取扱われるべきものであろうか。「いき」の構造を明らかにする前に我々はこれらの先決問題に答えなければならない。(1・序説の冒頭より) 

【のほほんのほん訳】
一般的に「いきなやつ」などと、何気なく用いることがあります。「いき」といわれているのは、どんな意味なのでしょうか。

わたしたちは「いき」という言葉が、日常のなかで用いられている現実を、どのような方法で見出すことができるのでしょうか。何気なくつかっている「いき」は、特定の意味をもっていることは疑いのないことです。

「いき」という言葉が、日本以外で通用するのか、あるいはもちいられているのか、調べてみなければなりません。その結果「いき」という言葉が日本でだけ通用するものであったなら、それは日本民族のみしか理解できない特殊性をもっていることになります。

つまり「いき」は、日本文化の特殊性から生まれた可能性があるということです。「いきの構造」を明らかにする前に、日本文化の特殊性に焦点をあててみなければなりません。(1.序説の冒頭)

いかがでしょうか。私は難解といわれる哲学書は、すべてこのような「のほほんのほん訳」で対処しています。

九鬼周造のいう「いき」は、イコール「粋」なのですから、あまり深くおつきあいする必要はないな、との前提で読んでいただきたいと思います。たよりになる助っ人をひいてみます。

――いき(粋):(着ている物のかっこうやしぐさが)気がきいて見える様子。副次的には、遊びなれていることや花柳界の事情に通じていることも表わす。いきな身なり。いきな計らい。さりげないやり方の中に、思いやりの感じられる処置。反対語は「やぼ」(三省堂『新明解国語辞典』より)

オリンピック招致で一躍有名になった、滝川クリステルさんの「おもてなし」も日本特有のものです。私たちは特別なはからいをされると、「いきなおもてなしだね」などとつかっています。

◎「いき」を徹底的につきつめると

「いき」(粋)という言葉は、最近あまり耳にすることがありません。かといって、死語になったわけでもありません。現に小林信彦『現代死語ノートⅠ、Ⅱ』(岩波新書。推薦作)には、登場していません。「いき」にかぎらず、私たちは何気なくつかっている言葉は、数多くあります。九鬼周造はそうしたつかいかたを、許せないのです。きちんと理解して用いるべきだといっているのです。

最近では、クラフト・エヴィング商会『ないもの、あります』(ちくま文庫)という本があります。「よく耳にするけれども、いちどもその現物を見たことがない」ものを、あつかったユニークな本です。たとえば「転ばぬ先の杖」の「杖」とか、「堪忍袋の緒」の「緒」とか、「思う壺」の「壺」などをお届けしますというノリで、思わず笑ってしまう1冊です。クラフト・エヴィング商会は、小説家の吉田篤弘(ちくま文庫)が妻である吉田浩美とともに運営しています。

九鬼周造『「いき」の構造』には、そうした遊び心はありません。さすがにクラフト・エヴィング商会でも「遊び心」の「心」はとりあつかっていません。また明治の哲学者が主張している「いき」も、店頭にはならんでいません。もしもあつかっていたら、ごめんなさい。

九鬼周造の主張は、クラフト・エヴィング商会に近いものです。
私たちはどんな場面に、「いき」(粋)を感じるのでしょうか。少しだけ考えてみてもらいたいと思います。もうひとつ「いき」の反対語を、思い浮かべてほしいものです。「いきな人」と「やぼな人」との境を明確にいうことができますか? また反対語として「無粋(ぶすい)」という表現もあります。関西では「粋」を「スイ」といいます。そこから生まれたのが、粋(すい)がない「無粋」だと思います。
 
九鬼周造の父は、明治を代表する文部官僚で男爵の九鬼隆一です。母は周造妊娠中に岡倉天心と恋におち、夫と別居したのちに離婚しています。九鬼周造の両親は、なんともすごい人だったのです。
 
ヨーロッパで哲学を学び、京都帝国大学哲学科教授となった九鬼周造は、学生にデカルトやベルグソンなどを教えています。彼が日本の美や文化にひかれたのは、両親やヨーロッパ滞在の影響が根深いといわれています。

やがて九鬼周造は、日本でハイデッガーの哲学を受容した三羽烏といわれるようになりました。あとの2人は、三木清と和辻哲郎です。
 
文庫解説の多田道太郎は、ハイデッカーが自著『ことばについての対話』のなかで、九鬼周造への賛辞をおくっていると書いています。岡倉天心、三木清、和辻哲郎、西田幾太郎とならんで、ハイデッカーまで飛び出すのですから、九鬼周造のまわりにはすごいメンバーがいたことになります。さらに多田道太郎は、サルトルが九鬼周造の家庭教師だったとまで書いています。

『「いき」の構造』のなかで「いきな女性」について、私が首肯できた部分をぬきだしてみます。
 
――全身に関して「いき」の表現とみられるのは〈うすものを身に纏う〉ことである。

――「いき」な姿としては〈湯上り姿〉もある。裸体を回想して近接の過去にもち、あっさりとした浴衣を無造作に着ているところに、媚態とその形相因とが表現を完(まっと)うしている。

――〈素足〉もまた「いき」の表現となる場合がある。

少しだけ識者の応援演説をあおぎます。

――本書は、定義が難しい「いき」という概念を、哲学の立場から追求し、クリアにしようと試みます。そして、その過程はスリリングなほど見事です。「いき」とは何かが明らかになるにつれ、日本人とはこうした美意識を持つ民族なのだと誇らしく思えるようになっていきます。(齋藤孝『読書入門・人間の器を大きくする名著』新潮文庫)

――江戸時代に定着した美意識の解析を試みた本書は、表題どおり、構造主義的な発想の先駆的日本版といえるか。わけても、「さび」「雅」「味」「乙」といった美意識を、直六面体の各頂点に配分された対立要素間(〈意地/野暮〉〈地味/派手〉〈上品/下品〉等)の各種結合体として説くくだりなどは、模範的な分析に類する。(この章は渡部直己・著。柄谷行人ほか『必読書150』太田出版)

――「いき」とは、つまり垢抜けして、〈諦め〉、張のある〈意気〉、色っぽさ〈媚態〉、ということになるが、九鬼が日本人の美的精神としての「いき」を、媚び〈色情〉+意気〈武士道精神〉+諦め〈仏教思想〉でとらえていることは、注目すべきであろう。(桑原武夫『日本の名著』中公新書)

最後に九鬼周造の「いき」の定義を書いておきます。私はかえって混乱してしまいましたが。

――運命によって,〈諦め〉を得た〈媚態〉が〈意気地〉の自由に生きるのが〈いき〉である。 

(山本藤光:2009.12.09初稿、2018.02.15改稿)

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