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インドリダソン『湿地』(創元推理文庫、柳沢由実子訳)

2018-02-26 | 書評「ア行」の海外著者
インドリダソン『湿地』(創元推理文庫、柳沢由実子訳)

レイキャヴィクの湿地にあるアパートで、老人の死体が発見された。侵入の形跡はなし。何者かが突発的に殺害し逃走したらしい。ずさんで不器用、典型的なアイスランドの殺人。だが、残されたメッセージが事件の様相を変えた。明らかになる被害者の過去。肺腑をえぐる真相。ガラスの鍵賞2年連続受賞の快挙を成し遂げ、CWAゴールドダガーを受賞した、北欧ミステリの巨人の話題作。(「BOOK」データベースより)

◎雨、雨、雨

なぜか北欧ミステリーが、大ブレークしています。代表的な作品は次のとおりです。

・マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー『笑う警官』(角川文庫)
・スティーグ・ラーソン『ミレニアム1・ドラゴン・タトゥの女』(上下巻、ハヤカワ文庫)
・ユッシ・エーズラ・オールスン『特捜部Q―檻の中の女―』(ハヤカワ文庫)

今回はこれらの作品に先駆けて、アーナルデュル・インドリダソン『湿地』(創元推理文庫、柳沢由実子訳)を取り上げたいと思います。『笑う警官』は全編が雨、雨、雨でしたが、『湿地』も長雨のなかでの捜査の連続となります。前者はスウェーデンが舞台ですが、本書はアイスランドの雨、雨、雨となります。雨の描写を少し拾ってみます。

――十月の夕暮れどきのレイキャヴィック。雨交じりの風が吹いている。(P14)

――激しい雨のため、ほとんど前方が見えない。P66)

――雨が降り続いていた。太陽はもう何日も顔を出していない。P310)

 雨の引用例でおわかりのとおり、本書の一文は非常に短く読みやすいものです。

北欧ミステリーは、登場人物の名前や地名がわかりにくい。よくこんな声を聞きますが、『湿地』にはそんな懸念はいりません。
いつもは「主な登場人物」と「地図」をしおり代わりにはさんでおき、それを参照しながら読み進めます。しかし本書のしおりは、無用の長物でした。
本書は360ページを、45の章で区分しています。著者は新たな章への誘いを、おおかた人物説明からスタートさせます。風景描写が延々と続くスタイルとは違い、形容詞なども極力そいであります。こんな具合です。

――3:エーレンデュル(補:レイキャヴィック警察犯罪捜査官。主人公)とシグルデュル=オーリ(補:エーレンデュルの同僚)が車から降りたときは、まだ雨が降っていた。(P32)

――16:夜帰宅すると、エヴァ=リンド(補:エーレンデュルの娘)はいなかった(P132)

章の冒頭に人物をもってくることで、前回と今回の読書がつながりやすくなる。著者のインドリダソンには、そんな認識があるのだと思います。

巻末解説で川出正樹は、次のように書いています。

――本書はテーマの重さとは裏腹に驚くほど読みやすい。その理由は、作者がサガ(補:アイルランドにおける散文の表記法)の伝統に則り、くだくだしく細部を描写することなく簡潔な文章を連ねて、テンポよく物語を展開しているためだ。(P384)

 解説のとおり意図的にムダを排除してあり、実に読みやすい一冊でした。

巻末には、「訳者あとがき」「文庫版訳者あとがき」「川出正樹解説」があります。ネタバレになりますので、これらは必ず読後にお読みください。

◎一気読みさせられる

舞台は北欧のアイスランド。湿地帯のアパートの半地下室で、事件が起きました。
 一人の老人が、撲殺死体で発見されます。事件の指揮をとるのは、エーレンデュル犯罪捜査官。妻と離婚しており、20年間会っていません。彼には2人の子どもがいます。最近接触がありましたが姉は薬物中毒、弟は少年更生施設を出たり入ったりしています。さっそうと物語に登場すべき主人公エーレンデュルは、非常にみじめな環境にいます。

 撲殺された老人の名前はホルベルク。死体のそばには、犯人が残したとみられるメッセージがありました。そして机の引き出しからは、墓が写された写真が見つかりました。メッセージと写真は謎めいたものです。
 エーレンデュルは2つの謎を抱えたまま、ホルベルクの過去を洗い出します。若いころの遊び仲間や犯罪履歴を調べているうちに、墓の写真の正体にたどりつきます。写真は33年前に亡くなった、当時4歳の少女のものでした。被害者ホルベルクと墓の写真の少女とのつながりは? 
 ここから物語は、一気に加速します。たたみかけるような文章は、緊張感を持って読者に突きつけられます。刑務所の収容中の、被害者の仲間に面談します。以前被害者に事情聴取した、元警官から情報を得ます。降り続く雨のなかをエーレンデュルは、ずぶ濡れになって這いずり回ります。

 ストーリーに、これ以上深入りすることは避けます。アイルランド特有のジメジメ感。湿地に建つ半地下の一室にただよう臭気。ホルマリン容器から漏れ出す臭気。娘とのバトルでいらだつエーレンデュル。これらは章が変わるたびに、かくはんされます。
 とにかく先へ先へと引きずりこまされました。北上次郎は本書を北欧ミステリーのベストと絶賛しています。その理由として次のように書いています。

――人物造形が際立っているので、一つ一つのシーンが鮮やかに残り続けること。さらには地味な捜査が次々に真実を暴き出していく過程も、うまい。つまり、読ませる工夫が随所にあるのだ。だから、一気読みさせられるのだろう。(北上次郎『極私的ミステリー年代記・下巻』(論創社P448)

 最後に、なるほどと思った寸評があります。紹介させていただきます。

――ホルベルク(補:撲殺された独居老人)の死が浮かび上がらせた〈闇〉は、麻薬に溺れ、しかも妊娠している娘のエヴァ=リンドがいるエーレンデュルの複雑な家庭環境とも共鳴しているので、家族の物語としても楽しめるのである。(末國善己『海外ミステリハンドブック』ハヤカワ文庫P140)
山本藤光2017.07.09初稿、2018.02.26改稿

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