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山本藤光の文庫で読む500+α

著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

伊藤左千夫『野菊の墓』(新潮文庫)

2018-02-11 | 書評「い」の国内著者
伊藤左千夫『野菊の墓』(新潮文庫)

政夫と民子は仲の良いいとこ同士だが、政夫が十五、民子が十七の頃には、互いの心に清純な恋が芽生えていた。しかし民子が年上であるために、ふたりの思いは遂げられず、政夫は町の中学へ、民子は強いられ嫁いでいく。数年後、帰省した政夫は、愛しい人が自分の写真と手紙を胸に死んでいったと知る。野菊繁る墓前にくずおれる政夫……。涙なしには読めない「野菊の墓」、ほか三作を収録。(アマゾン内容紹介より)

◎牛乳搾取業から歌の道へ

 伊藤左千夫は1864年に、上総の国・成東(現・千葉県山武市)で生まれています。生まれ故郷の山武市のホームページをみると、伊藤左千夫の生家は保存され、隣接する形で民俗資料館が建てられています。九十九里海岸の波音が聞こえるところで、資料館のかたわらには歌碑もあります。「牛飼いが歌よむ時に世の中のあらたしき歌大いに起る」と書かれていました。ネット検索では「あたらしき歌」とでてきます。「新潮日本文学小辞典」で確認しました。「新(あらた)しき歌」とルビがふられていました。

伊藤左千夫は明治法律学校へ入学するのですが、眼疾のために帰郷します。その後22歳のときに再度上京して、牧場に勤めます。26歳のときに独立し、牛乳搾取業をいまのJR錦糸町駅前で開業します。経営は順調で30歳ころから茶の湯や和歌と親しむようになります。

最終的には正岡子規に師事し、やがて後継者となるわけです。子規の教えにより、「写生の道」を追求しながら、小説も書きはじめます。『野菊の墓』を発表したのは40歳をすぎた明治39年のことです。

 ここまでがホームページからのレビューです。JR総武線錦糸町駅の南口バスターミナルには、「伊藤左千夫牧舎兼住居跡」という碑が建っています。行ってみました。碑に向かって左側がバスの降車場になっており、降り立った乗客はおおむね急ぎ足で駅へと駆けてゆきます。碑に目をとめる人はだれもいません。終日人通りの絶えないこの駅前ロータリに、伊藤左千夫の搾乳牧舎があったとは思いもよらないことでしょう。

 ほとんどの方は、『野菊の墓』(新潮文庫)のストーリーをご存知だと思います。『野菊の墓』は歌人として名をはせている伊藤左千夫が、はじめて書いた小説です。夏目漱石が伊藤左千夫に宛てた絶賛の書簡をご紹介します。

――近代恋愛小説の代表作『野菊の墓』は、歌人伊藤左千夫の処女小説である。この頃同じく雑誌「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を発表していた夏目漱石は、左千夫宛書簡で「野菊の花(注:ママ)は名品です。自然で、淡白で、可哀想で、美しくて、野趣があって結構です。あんな小説なら何百篇よんでもよろしい」と、その読後感を伝えている。(安藤宏・編『日本の小説101』新書館より)

◎はじめて書いた小説

 主人公の政夫は、有名な旧家の次男坊で15歳です。従姉の民子は2歳年長で、病弱な政夫の母親の看病のために斎藤家にきています。2人は幼少のころから仲がよく、民子が奉公にきてからも親しく接しあっていました。
 
 政夫の家は、矢切の渡しを見下ろす丘の上にありました。快活な民子はしじゅう政夫の部屋を訪ね、2人の仲は甘酸っぱいものに変わります。小さな村のことです。2人のことが噂になりはじめます。噂が広がるにつれ、2人の間はぎこちないものになってゆきます。心配した母親は政夫に村の噂を伝え、注意をあたえます。そのことが政夫の火に、油を注ぐ結果となってしまいました。
 
 ある朝2人は母にいいつけられて、山畑に綿を摘みにゆきます。2人はお互いの気持ちを知りながら、愛をささやくでもなく畑をあとにします。その後民子は、意地悪な兄嫁に追い出されてしまいました。政夫は町の中学校へと進みます。
 
 2人は引き離されたまま、時がすぎてゆきます。民子は政夫の母や親類に強く勧められ、別の家へ嫁いでしまいます。民子は身ごもり、流産で重態となります。一報を受けて政夫は駆けつけてきますが、すでに民子は帰らぬ人になっていました。民子は政夫の写真と手紙を、握り締めたまま亡くなっていました。2人の純愛を知り、周囲の人たちは涙ながらに政夫にわびます。
 
 政夫は民子の墓に通い、野菊でいっぱいにします。
 
『野菊の墓』が永年読みつがれている理由を、久世光彦が思わずニヤリとさせられる感想をのべています。

――この作品が百年にわたって読み継がれてきているのは、凡俗の純愛小説にはない、男の大変身勝手な自己陶酔が手放しと言っていいくらい正直に、稚いほどに無邪気に描かれているからなのだ。男にとって、自分が紫紺の竜胆(りんどう)で、すぐ傍に上目づかいに羞じらった野菊が咲いているほど気持ちのいいことはない。(集英社文庫編集部『私を変えたこの一冊』集英社文庫)

久世光彦のふれていている「竜胆」の場面を、『野菊の墓』本文から引いておきます。政夫と民子が山畑に綿を摘みにいったときの会話です。

(引用はじめ)
 花好きな民子は例の癖で、色白の顔に其の紫紺の花をおしつける。やがて何を思いだしてか、ひとりでにこにこ笑いだした。
「民さん、なんです。そんなにひとりで笑って」
「政夫さんはりんどうの様な人だ」
「どうして」
「さアどうしてということはないけど、政夫さんは何かなしに竜胆の様な風だからさ」
 民子は言い終って顔をかくして笑った。
(P34引用おわり)

 読み終わった私の気持ちを、代弁してくれている文章があります。それで結びたいと思います。

――『野菊の墓』は、普通にいう文章の下手という意味では、もとより、下手な文章で、(いわゆる美文調のところがあったり、漢文脈の文章になったり、して)書かれてあり、その言いまわしも、幼く、単純であり、ときに間のぬけたようなところもあるけれど、その幼い単純な表現のなかに、無類の、正直な、むきな、一途な、左千夫の人柄が、この小説の全編に満ちあふれている。それが、読む人の心をうち、読む人に涙をさそうのである。(宇野浩二。岩波文庫『野菊の墓』解説より)

(山本藤光:2009.10.21初稿、2018.02.11改稿)

池田清彦『やぶにらみ科学論』(ちくま新書)

2018-02-10 | 書評「い」の国内著者
池田清彦『やぶにらみ科学論』(ちくま新書)

クローン人間作ってなぜ悪い?地球温暖化なんてホントにあるのか?科学とオカルトって、どう違う?…オソロシイ勢いで進歩し専門化してゆく科学に、多くの人びとはついてゆけない。そのくせ、いかがわしい科学(まがい)は無根拠に信じてしまう。かように厄介な科学的現実から虚飾を剥ぎ取り、本質を見極めるにはどうしたらいいのか。そこで、生物学の風雲児(?)池田センセが最新の科学トピックに縦横に斬り込み、徹頭徹尾「論理」で腑分けする。(「BOOK」データベースより)

◎皮肉のつぶて

 池田清彦『やぶにらみ科学論』(ちくま新書)の大半は、雑誌「ちくま」に連載されていました。私が生物や科学のジャンルに手を出すことは、めったにありません。ところが本書には、連載の第1回目から圧倒され続けました。
 わかりやすいうえに、辛口の提言に味があったのです。私は本書を、何人もの友人に勧めています。みんな面白かったといってくれました。たまには、違うジャンルの本を読んでみてほしいと思います。養老さんの『バカの壁』が売れたのですから、本書はもっと売れてもいいはずです。
 
――世間の正義という風圧とおせっかいという名の暴力のために、言いたい事も言えずにウジウジしている人もいるのではないかと思案する。本書がそういう人に少しでも勇気を与えることができれば、私はうれしい。反対に、何であれ私が嫌いなのは、錦の御旗を立てている原理主義者たちであるから、そういう人が本書を読んで、頭に来れば、私はもっとうれしい。(「あとがき」より)

 何とも皮肉をきかせた「あとがき」だと思います。本書は全体が、こうした皮肉のつぶてに満ちています。体操競技のフィニッシュのように、「きめ」の言葉が決まっています。
 ときどき、相容れない主張にも出くわします。そんなときは、笑い飛ばせばよいわけです。科学を身近にさせてくれた著者に拍手。
 
◎15年を経た今

アメリカ第一主義を掲げるトランプ大統領が。地球温暖化抑止策にそっぽを向きました。喫煙をめぐる包囲網が、北朝鮮への制裁のように厳しさを増しています。
そんなときふと懐かしくなって、池田清彦『やぶにらみ科学論』(ちくま新書)の再読を敢行しました。写真で見る池田清彦は、どれも破顔しています。しかし文章は辛辣なものです。結構、論的も多いようです。

池田清彦は1947年生まれの、構造主義科学論の提唱者です。再読してみて、前回読み流していた部分を15年を経たいまと照らし合わせてみました。池田清彦の15年前の主張と、現在の論調を重ねてみます。

・地球温暖化は大騒ぎするほどのものではない→アメリカを除く多くの国はまっとうな理論として対策に動いています。

・タバコの害よりも車の害の方が問題→小谷野敦も『禁煙ファッシズムと断固戦う』(ベスト新書)でがんばっていますが、旗色は悪いようです。

・外来種の侵入ぐらい別に問題じゃない→この意見を支持する論調は生まれていません。

・定期検診は体に悪い→癌検診は必要ですが、定期検診不要論は少しずつ広がっています。

 どうやら池田清彦の説は、いまだに少数派のようです。ただし、こうした見識から、問題の本質を捉える必要があります。一人ぐらいこんな科学者がいたほうが、ステレオタイプの世論に、小さな風穴をあけてくれるのかもしれません。

 本書は優れているのは化学論文ではなく、独善的なエッセイだからです。池田清彦の切り口は。科学的に論証されていない地球温暖化などに、ハテナマークを点灯させている専門家からは、拍手喝采のようです。 
(山本藤光2003.12.23初稿、2018.02.10改稿)

井上靖『天平の甍』(新潮文庫)

2018-02-09 | 書評「い」の国内著者
井上靖『天平の甍』(新潮文庫)

天平の昔、荒れ狂う大海を越えて唐に留学した若い僧たちがあった。故国の便りもなく、無事な生還も期しがたい彼ら―在唐二十年、放浪の果て、高僧鑒真を伴って普照はただひとり故国の土を踏んだ…。鑒真来朝という日本古代史上の大きな事実をもとに、極限に挑み、木の葉のように翻弄される僧たちの運命を、永遠の相の下に鮮明なイメージとして定着させた画期的な歴史小説。(「BOOK」データベースより)

◎鑑真来朝の史実を描く

 最初に「遣唐使」の歴史を、ひもといておきたいと思います。

――遣唐使は平安時代の894年に廃止されるまでに十数回派遣されたのだけれど、ここではその中で有名な人を見ていこう。/まずは阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)。この人は非常に優秀でなんと留学先の唐で役人になった。その後何度か帰国しようとするが失敗、ついに日本に帰ることができぬままに唐で、一生を終えた。(中略)その仲麻呂の日本を思う気持ちがよく表れている有名な歌がある。「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」という歌だ。(後藤武士『読むだけですっきりわかる日本史』宝島社文庫P59より)

「遣唐使」以前には、遣隋使がありました。「群れなしてゆく遣隋使=607年聖徳太子遣隋使派遣」と、ゴロ合わせをしていた記憶があります。

井上靖『天平(てんぴょう)の甍(いらか)』(新潮文庫)は、第9次遣唐使を描いたものです。時代は天平5年(733年)のことですから遣隋使からは130年ほどたっています。本書は鑑真来朝の史実をもとに、遣唐使の苦難を描いた作品です。鑑真は本書のなかでは、鑒真(がんじん)という表記になっています。鑑真にかんする史実をおさえておきたいと思います。日本からの遣唐使(留学僧)が鑑真を訪ねて、弟子を日本に派遣してもらいたいとお願いします、弟子たちはみんな尻込みします。鑑真はそれなら自分が行くと宣言します。

――鑑真を引き止めたい弟子の妨害にあったり、せっかく出た船が嵐にあって戻ってきてしまったり、別の島に漂着してしまったり、鑑真を信じてついてきた弟子が死んでしまったり、たび重なる航海の失敗のはてに鑑真はついに失明してしまいます。それでもまだ鑑真は日本に仏教のありがたい教えを伝えるために頑張ったんだ。彼の才能を惜しむ唐の皇帝が鑑真の出発を反対するのをふりきり、こっそり遣唐使船に乗り込み、ついに10年の月日を経て彼は念願の日本に着いた。(後藤武士『読むだけですっきりわかる日本史』宝島社文庫P60より)

 普照(ふしょう)、戒融(かいゆう)、栄叡(ようえい)、玄朗(げんろう)ら留学僧を乗せた船は、荒波にもまれながら4カ月を要して唐につきます。彼らは仏法の修業のほかに、日本に授戒制度を設けるための伝戒の師を勧誘する目的があたえられています。当時の社会は、課税を忌避するために農民の出家者でみちあふれていました。また正式な僧尼の認定手続きが徹底されていませんでした。伝戒師とは、僧尼の正式な認定者のことです。 

来唐してから戒融は托鉢僧となり、唐にとどまる道をえらびます。玄朗は唐の女との生活をえらびます。普照と栄叡だけが、留学の目的にそった道を歩みます。普照と栄叡が鑒真にめぐりあったのは、渡唐してから8年もたってからでした。2人は渡日の承諾をえて感涙します。

◎何度も挫折をくりかえして

 唐には業行(ぎょうこう)という、日本人の僧がいました。在唐歴20数年の彼は、ひたすら日本へ持ち帰るために、経文を筆写していました。

――(補:作中の日本の僧の)中でも忘れられないのは、業行という僧です。写経にのみ人生を捧げる彼は、他の僧侶からは変わり者と目される人物です。/業行は唐で本場の仏教に触れた際、結局のところ自分一人が何かを学んでも、日本にたいした影響は与えられないと悟ります。それよりも、ここにある重要な仏教書の数々を、書き写して持ち帰るほうが、よほど意味があるのではないか。そう考えるのです。(小川洋子『みんなの図書室2』PHP文庫より)

普照は唐にわたってから20年、6度目の挑戦でついに失明している鑒真に随行して帰国をはたします。しかしそのなかには、栄叡の姿はありません。彼は志なかばで死んでしまいます。またおびただしい経典をかかえて、別の船に乗っていた業行は帰国をはたせませんでした。4船団のなかでからくも日本にたどりついたのは、3船だけだったのです。

航海の模様について、井上靖は実にリアルに描いています。引用文は鑒真を乗せた船が2度目の失敗に終わる場面です。羅針盤などない時代です。荒海に翻弄されながら、木の葉のような船は、どこともしれぬ島へと漂着します。

――夕方から強風が吹き始め、俄かに波浪が高くなった。潮は墨のように黒く不気味であった。夜になるとますます風は強く、船は波浪に弄ばれ、宛(さなが)ら山頂から谷底へ落ち、谷底から山頂へ上るに似て、いまや総勢七十余人を乗せた船は、一片の木片にしか過ぎなかった。/いつか乗員の全部が観音経を唱えていた。(本文P103より)

 20年の歳月のなかで、日本は大きく様変わりしていました。伝戒の師としての、鑒真の価値が希薄なっていたのです。しかし東大院に戒壇院が落成し、鑒真は授戒伝律の権をゆだねられます。しかし既得権を得ている僧侶たちの猛反発をうけます。普照は彼らを堂々と論破してみせます。

その後鑒真は、唐招提寺を開きます。そんなころ普照のもとに唐から甍が届きます。その甍は唐招提寺の金堂の屋根に、すえられることになります。

 高校時代の私は、日本史も世界史もきらいな科目でした。国文学を学ぶにあたり、日本文学史の学習は必須でした。そんな関係で必然、日本史も勉強しなければなりませんでした。最近では引用させていただいたような、後藤武士『読むだけですっきりわかる日本史』(宝島社文庫)などがあり、楽しく日本史を学んでいます。井上靖の作品は、そんな私にとってずっと歴史の指南書でもありました。『敦煌』『楼蘭』『風濤』(いずれも新潮文庫)も楽しく読ませていただきました。

◎本格的な歴史小説を書こう(追記2015.03.09)

『井上靖・わが文学の軌跡』(中公文庫)を読んでいて、『天平の甍』の執筆意図についての文章がありました。本書は篠田一士と辻邦生が聞き手となっています。井上靖の声をひろってみたいと思います。

(引用はじめ)
井上靖:『天平の甍』のときは、本格的な歴史小説を書いてみようという気持ちはありました。辻さんがおっしゃったように、歴史のなかにちゃんとロマネスクがはめ込まれてある……。『天平の甍』の題材など、書いてくれといわんばかりにはめ込まれています。どんな取り扱いもできます。正面から人間を書いてもいいし、歴史をそこだけ切り取って額縁に入れてもいい。(『井上靖・わが文学の軌跡』中公文庫P143より)
(引用おわり)

(山本藤光:2011.11.24初稿、2018.02.09改稿)

伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』(創元推理文庫)

2018-02-07 | 書評「い」の国内著者
伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』(創元推理文庫)

引っ越してきたアパートで出会ったのは、悪魔めいた印象の長身の青年。初対面だというのに、彼はいきなり「一緒に本屋を襲わないか」と持ちかけてきた。彼の標的はたった一冊の広辞苑!?そんなおかしな話に乗る気などなかったのに、なぜか僕は決行の夜、モデルガンを手に書店の裏口に立ってしまったのだ! 注目の気鋭が放つ清冽な傑作。第25回吉川英治文学新人賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

◎現在と2年前の出し入れ

『アヒルと鴨のコインロッカー』(創元推理文庫)を高く評価します。緻密なストーリ展開、味のある会話、ユーモアという香辛料、仙台という魅力的な舞台。どれもこれも一級品でした。もっと早くに読んでおけばよかった、と後悔したほどです。

『アヒルと鴨のコインロッカー』を読んでいて、村上春樹を重ねてしまいました。ディテールを描く巧みさは、村上春樹よりも上かもしれません。後日「北上次郎×大森望『読むのが怖い!』(ロッキング・オン)を読んでいると、『アヒルと鴨のコインロッカー』についてこんなやりとりがありました。追記しておきます。

北上:つかみがすごくうまいんだよね。広辞苑を盗みに書店に入る話っていうだけで、「何それ?」って思うじゃない。
大森:まあそこは村上春樹の『パン屋再襲撃』(文春文庫)が下敷きだと思いますけど。

 さらに私の脳裏を、ちらついた作品があります。カミュ『異邦人』(新潮文庫)です。脇役の個性がそっくりなのです。

【『異邦人』の脇役】
・老犬を散歩に連れ出す老人・サラマノ
・女を食い物にしていると噂されるレイモン

 老人は引きこもりの外国人と重なりますし、レイモンは河崎と似ています。

 伊坂幸太郎は、『あるキング』(徳間文庫)のエピソードをつぎのように語っています。
――「早く出てくればいい」というセリフは、書いた時にはほとんど忘れていたけれど、今思うと、打海文三さんの『ぼくが愛したゴウスト』(補:中公文庫)の影響があるのかもしれません」
(木村俊介『物語論』講談社現代新書のインタビュー記事P248より)

 打海文三のこの作品が伊坂作品に、どのような影響をおよぼしているのかの、検証はまだおこなっていません。おそらく短い会話に、共通点があるのかもしれません。

本書は「カットバック」といわれている形式で書かれています。カットバックとは、2つの場面を交互に挿入して、劇的効果を高める映画の技術のことです。評論家も誤用することがありますが、「フラッシュバック」とは違います。「フラッシュバック」は映画で物語の進行中に、過去のできごとを挿入する技術のことです。

文学用語としては、カットバックはあまりなじまないかもしれません。
 
 伊坂幸太郎はみごとに「現在」と「過去」を書き分けていました。独立したものとして、2つを書くのは簡単なことです。それらをいかにつなげるかが、作家としての手腕なのです。
 
 間違えないように、読んでいただきたいと思います。私も少し混乱しましたので、読書メモからポイントをおさえておきます。
 
僕(椎名):関東から仙台へ引っ越してきたばかりの大学生
河崎:僕のアパートの住人(103号室)。
引きこもりの外国人:アパートの住人(101号室)。
私(琴美):ペットショップでアルバイト。
ドルジ:ブータンからの留学生。琴美と同棲。
麗子:ペットショップの店長。

 主な登場人物は、これだけです。乗船準備はできましたか。いざ過去と現在の荒波のなかへ、出航です。

◎味わい深い文章

『アヒルと鴨のコインロッカー』は、ストーリーを紹介してしまうと興ざめになります。したがってポイントだけのつまみぐいでお茶を濁すことにします。

読者はプロローグで、ぐいぐい作品のなかへと引きこまれることになります。3箇所ほど書き抜いてみます。

――「僕はモデルガンを握って、書店を見張っていた」(本文P7)
――「椎名のやることは難しくないんだ」河崎はそう言っていた(本文P8)
――当の河崎はすでに、閉店直前の書店に飛び込んで、「広辞苑」を奪いに行った(本文P9)

『アヒルと鴨のコインロッカー』の映画(監督:中村義洋)は、2008年1月に公開されました。その案内パンフレットにはこんな文章がならんでいました。

――「人生を変えるほどの切なさが、ここにある」
――「誰かが来るのを待ってたんだ。ディランを歌う男だとは思わなかった」
――仙台に越してきたその日に、ボブ・ディランの「風に吹かれて」を口ずさみながら、片付けをしていた椎名は、隣人の河崎に声をかけられた。/「一緒に本屋を襲わないか」/同じアバートに住む引きこもりの留学生・ドルジに、一冊の広辞苑を贈りたい、という。(映画パンフレットからの引用)
 
「伊坂幸太郎WORLD&LOVE!」(洋泉社MOOK)は、伊坂幸太郎の世界を網羅した、ファン必見の1冊です。そのなかからいくつかを書き抜いておきます。

――心に残るセリフ:(補:悪戯電話があった琴美だが河崎に気を遣わせないようにいう言葉)「楽しく生きるには、二つのことだけ守ればいいんだから。車のクラクションを鳴らさないことと、細かいことを気にしないこと、それだけ」(本文P258)

――(補:ブータン人は自分のためでなく他人のために祈るのか? という琴美の質問に対する川崎の答え)「世の中の動物や人間が幸せになれればいいと思うのは当然だろう。生まれ変わりの長い人生の中で、たまたま出会ったんだ。少しの間くらいは仲良くやろうじゃないか」(本文P350)
 
 つまみぐいだけで、おなか一杯になったかと思います。伊坂幸太郎の文章には、シンプルゆえの味わいがあります。私はその後、『SOSの猿』(中公文庫)『死神の精度』(文春文庫)なども読みましたが、『アヒルと鴨のコインロッカー』を1著者1作品の推薦作であることは揺るぎませんでした。
(山本藤光:2009.08.05初稿、2018.02.07改稿)

井上ひさし『吉里吉里人』(上中下巻、新潮文庫)

2018-02-05 | 書評「い」の国内著者
井上ひさし『吉里吉里人』(上中下巻、新潮文庫)

ある六月上旬の早朝、上野発青森行急行「十和田3号」を一ノ関近くの赤壁で緊急停車させた男たちがいた。「あんだ旅券ば持って居だが」。実にこの日午前六時、東北の一寒村吉里吉里国は突如日本からの分離独立を宣言したのだった。政治に、経済に、農業に医学に言語に……大国日本のかかえる問題を鮮やかに撃つおかしくも感動的な新国家。日本SF大賞、読売文学賞受賞作。(文庫案内より)

◎『吉里吉里人』は井上ひさしの集大成

井上ひさし死去の訃報にふれ、大きな衝撃をおぼえました。井上ひさしの幅広い活躍は、だれもが知っています。私は「文章の手ほどき」に関する多くの著作から、学ばせていただきました。『私家版日本語文法』(新潮文庫)、『自家製文章読本』(新潮文庫)、『ニホン語日記1・2』(文春文庫)、『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(新潮文庫)などには、特にお世話になりました。
 
 井上ひさしの代表作を1つ選ぶなら、ちゅうちょすることなしに『吉里吉里人』(上中下巻、新潮文庫)をあげます。この作品は日本国、日本語などを諷刺した、現代文学を代表するSFユートピア小説です。『吉里吉里人』の発表で井上ひさしは、小説デビュー作『ブンとフン』(新潮文庫)から約10年で、文壇に確固たる地位を築いたことになります。
 
『吉里吉里人』は『ひょっこりひょうたん島』(全13巻、ちくま文庫)で高い評価を受けた井上ひさしの、2度目の開花でもありました。戯曲、エッセイ、文章論、そして小説。しかし井上ひさしの原点は、「戯作者」であることでした。『吉里吉里人』は、幅広い活動の集大成ともいえる作品といえます。

今回読み返してみましたが、現代社会や風俗から違和感を覚える部分もあります。ただ作品の崇高さはまったく色あせていませんでした。福田和也は『作家の値打ち』(飛鳥新社)で、『吉里吉里人』をこう切り捨てています。

――東北小村の独立譚。標準語にたいするプロテキストでもある。さまざまなエピソードが、「どうです、おかしいでしょう」とばかりに展開するが、ただただ痛ましいばかりである。同じ独立問題を扱った作品として、面白さでも批評性でも、獅子文六の『てんやわんや』の足元にも及ばない。(本文P28より) 

がちがち頭の批評家・福田和也は、28点しかつけませんでした。お受験で横道をそれることは悪、という性癖がしみついているからでしょう。『吉里吉里人』は多くの若者に受けいれられました。お受験でテレビを封印されていた人たち以外は、「ひょっこりひょうたん島」を見て育っているのです。

◎物語は快調に滑り出す

 舞台は東北の、人口4187人の村落です。日本国のでたらめな中央集権体制に反発して、独立宣言をしてしまいます。農業は近代化しなければなりません。誤った政策のなかに埋没することを恐れて、吉里吉里村は過激な選択をしたのです。
 
 急行十和田3号には、売れない小説家・古橋健二が乗車していました。雑誌「旅と歴史」の取材のためです。下車した古橋は不法入国のかどで、収容所に連行されてしまいます。『吉里吉里人』は、この古橋健二が「記録係(わたし)」となって語られています。 

――ある六月上旬の早朝五時四十一分、十二両編成の急行列車が仙台駅のひとつ上野寄りの長町駅から北へ向かって、糠雨のなかをゆっくりと動きはじめた。/というところから事件の記録をはじめることにしよう。(『吉里吉里人』上巻P11-12より)
 
 その後、十和田3号の乗客の様子などの描写が延々とつづきます。物語は快調に滑り出すかに思われました。 

――じつはグリーン車に男装した女とも、女装した男とも見分けのつかない正体不明の五人組がいて、彼らの、あるいは彼女たちの性別が判然としないのだ。記録係(わたし)には厳正に、また忠実にこの事件を記録する義務があるが、しかし、彼らの、あるいは彼女たちのはいているパンタロンを引っ剥(ぱ)いで性器を確かめるのはやはりやりすぎだろう。それにちかごろではたとえ性器を見極めたからといって油断はできない。なにしろ性器を改造してまで自分の性を曖昧にしておこうとする有耶無耶(うやむや)趣味の持ち主がすくなくないからである。(『吉里吉里人』上巻P12-13より)

 物語はなかなか前へ進みません。言葉遊びの天才は、十和田3号の乗客(「男が四百三十九名、女が三百六十四名」)と書いてから、前記5名の扱いに悩んでみせたりします。とにかく、400字詰め原稿用紙で2500枚の長編ユートピアSF小説です。読者は笑いながら、つきあうほかはありません。

◎日本文壇の最高傑作である

 吉里吉里国が目指すのは、農業立国・医学立国・好色立国です。最終的には、国際的に独立国としての承認を得たいと考えています。「憲法」が制定され、「イエン」という金貨も流通させます。記録係(わたし)は、そのなかで八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をします。しかし口が軽いことが災いし、彼のやることはことごとく失敗に終わります。
 
 本書には無数の固有名詞や商標が登場します。世界中の国々をも俎上にのせ、陳腐な日本語も氾濫します。井上ひさしはみちのくの風土に江戸文学を重ね、まるで「いも煮会」会場のごとく、紙面を賑わわせます。
 
 本書は吉里吉里国独立から崩壊までの、たった2日間を臨場感あふれる誇張で、記録係(わたし)が語りまくるものです。全編、洒落、諷刺、言葉遊び、誇張、比喩、擬声語、擬態語に満ち満ちた本書は、井上ひさしでなければ書けないものです。
 
 たび重なる転校で、方言をばかにされた少年時代。ストリップ劇場で、笑わせることだけに集中した文芸員時代。連続ドラマ「ひょっこりひょうたん島」でのこどもに向けた目線。てんぷくトリオの台本を書いていたときの、笑いへの間(ま)のとりかた。江戸文学に没頭した経験。それらの知的財産が、一挙に花開いた作品こそ『吉里吉里人』なのです。
 
――井上ひさしは、たとえば『ブンとフン』(補:新潮文庫)のような誇張、『青葉繁れる』(補:文春文庫)のようなからかい、『ドン松五郎の生活』(補:新潮文庫)のような諷刺、といったさまざまな笑いの文章体を苦心してつくりだしている。(「国文学・現代作家110人の文体」1978年11月臨時増刊号より)

 本書は日本文壇において、稀有(けう)な名作です。だれもマネができません。方言にルビが振られ、糞尿描写もたくさんあります。これほど翻訳に不適当な作品は珍しいでしょう。最後に海外文学との比較で、『吉里吉里人』を論じている一文を紹介します。
 
――井上ひさしは主人公・古橋健二をあたうかぎり演戯的人間に仕立てているが、彼の運命の急激な転変、その性格の「知的退廃(いいかげんなところ)」、その猥褻なところ、軽佻浮薄なところ、言語遊戯(地口、駄洒落、ギャグ、語呂あわせ)に淫するところ、等々において、ジョイス『ユリシーズ』(補:全4巻、集英社文庫)、とりわけ夜のダブリンを徘徊するレオボルド・ブルームをほうふつとさせる。(曽根博義『現代小説を狩る』中教出版1986年。赤祖父哲二、森常治の共同編著より)

 私は『吉里吉里人』を高い評価で、「山本藤光の文庫で読む500+α」の1冊に加えました。読書って楽しいものです。教養のために読むわけではありません。井上ひさしのガハハハが聞こえています。
(山本藤光:2012.01.27初稿、2018.02.05改稿)

井伏鱒二『山椒魚』(新潮文庫)

2018-02-04 | 書評「い」の国内著者
井伏鱒二『山椒魚』(新潮文庫)

老成と若さの不思議な混淆、これを貫くのは豊かな詩精神。飄々として明るく踉々として暗い。本書は初期の短編より代表作を収める短編集である。岩屋の中に棲んでいるうちに体が大きくなり、外へ出られなくなった山椒魚の狼狽、かなしみのさまをユーモラスに描く処女作『山椒魚』、大空への旅の誘いを抒情的に描いた『屋根の上のサワン』ほか、『朽助のいる谷間』など12編。(「BOOK」データベースより)

◎短編小説ナンバーワン

 すぐれた短篇小説をひとつあげるようにいわれたら、迷うことなく井伏鱒二『山椒魚』(新潮文庫)と答えます。『山椒魚』は、文庫本でわずか10ページ足らずの作品です。以前は中学国語の教科書にも掲載されていましたが、最近は消えてしまっているようです。(村上護『教科書から消えた名作』小学館文庫を参考にしました)

 書き出しが美しい小説の代表格として、川端康成『雪国』(国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。)や島崎藤村『夜明け前』(木曽路はすべて山の中である。)をあげる人は多々おります。いっぽう『山椒魚』の冒頭の一文は、美しいというよりも唐突感が強くて印象深いものです。

――山椒魚は悲しんだ。

 夏目漱石『吾輩は猫である』(新潮文庫)の冒頭よりも、ずっとインパクトがあります。書きだしの文章は、つぎのようにつづきます。

――彼は彼の棲家である岩屋から外に出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることができなかったのである。
  
 山椒魚はうっかりしている間に肥満して、棲家から出られなくなってしまいます。それを絶望しているのが、冒頭の1文です。ある日岩屋に1ぴきの蛙がまぎれこみます。山椒魚は自らの体で出口をふさぎ、蛙を幽閉してしまいます。2ひきは狭い岩屋で反目しあいます。絶望的な2年がすぎます。絶望のなかで黙りこむ2匹……。

『山椒魚』は1923(大正2)年に、「幽閉」というタイトルで発表されました。それから6年後、タイトルを「山椒魚」と改めて再度発表されました。このとき井伏鱒二は、冒頭の一行だけを残して全文を書き改めています。「幽閉」のときには、蛙との罵り合いの場面はなかったようです。(『おじさんは文学通2』明治書院新書を参考にしました)

 井伏鱒二はさらに晩年(正確には1985年『自選全集』に収載時)になって、最後の1ページ(20行)をばっさりと削除してしまいます。私の手もとにある新潮文庫は、平成21年102刷ですが、最後の20行は削除されていません。
阿刀田高『短編小説を読もう』(岩波ジュニア新書)でこの逸話を読んでから、ずっと削除された作品を探していました。そしてついに発見しました。『群像日本の作家16井伏鱒二』(小学館)に所収されていた『山椒魚』は、「作品推敲のあと」が赤字で表記されていました。最後の20行には、赤い線がくっきりと引かれていたのです。

 『山椒魚』は、井伏鱒二の処女作です。はじまりとおわりにこだわりつづける、著者の熱気のようなものが伝わってきます。。

◎坐っていられないほど興奮した

 太宰治は中学時代に『山椒魚』を読んで、「坐っていられないほど興奮した」と書いています。(「井伏鱒二選集第1巻後記」より)この記事を読んだとき、『山椒魚』の世界は、太宰治の一連の作品と似ていると思いました。絶望のなかのユーモア。それが太宰をひきつけたのかもしれません。

 精神科医の斎藤環は、本書を「引きこもりの人が出られなくなる様を、本当にリアルに切り取った話」(『NHK私の1冊日本の1冊・感動がとまらない1冊』より)と評価しています。

『山椒魚』は、意図的に美文を避けて書かれています。何度も読み返しているはずですがそのことは、「佐藤正午『小説の読み書き』(岩波新書)」の指摘を読むまで知らずにすごしました。佐藤正午はなぜ意図的に悪文にしたのか、理由はわからないと記しています。

 しかしその答えは、三浦哲郎『師・井伏鱒二の思い出』(新潮社)のなかにありました。三浦哲郎の習作について、井伏鱒二がつぎのような評価をくだすの場面があります。
――材料がまだ熟してなかったね。それに、やっぱりうまく書こうとしているよ。(P20より)

 幽閉された山椒魚の鬱屈を表現するには、流れるような美文は不似合です。そんな著者の意志が、色濃くあらわれているのかもしれません。
 
井伏鱒二にはほかに、『駅前旅館』(新潮文庫)『黑い雨』(新潮文庫)『ジョン萬次郎漂流記』(直木賞、新潮文庫)など紹介したい作品は数多くあります。いずれ「+α作品」として紹介させていただきます。『山椒魚』には「屋根の上のサワン」「朽助のいる谷間」など12の短篇が所収されています。阿刀田高(『短編小説を読もう』岩波ジュニア新書)や筒井康隆(『短編小説講義』岩波新書)が力説しているとおり、短篇小説っていいなと思われるはずです。
(山本藤光:2013.08.31初稿、2018.02.04改稿)

池井戸潤『下町ロケット』(小学館文庫)

2018-02-02 | 書評「い」の国内著者
池井戸潤『下町ロケット』(小学館文庫)

あの直木賞受賞作が、待望の文庫化/「お前には夢があるのか? オレにはある」/研究者の道をあきらめ、家業の町工場・佃製作所を継いだ佃航平は、製品開発で業績を伸ばしていた。そんなある日、商売敵の大手メーカーから理不尽な特許侵害で訴えられる。圧倒的な形勢不利の中で取引先を失い、資金繰りに窮する佃製作所。創業以来のピンチに、国産ロケットを開発する巨大企業・帝国重工が、佃製作所が有するある部品の特許技術に食指を伸ばしてきた。特許を売れば窮地を脱することができる。だが、その技術には、佃の夢が詰まっていた――。男たちの矜恃が激突する感動のエンターテインメント長編!(文庫案内より)

◎半沢直樹って知っている?

佐高信に『経済小説の読み方』(知恵の森文庫、文庫初出2004年)という著作があります。企業人へのおすすめ本が網羅されています。企業マネジャー研修で、読書ナビとして推奨していました。城山三郎、高杉良、清水一行、江波戸哲夫、山田智彦などの著作がならんでいます。しかしそのなかには、池井戸潤の名前はありません。かろうじて幸田真音の名前があるくらいで、真山仁の名前すらありません。

現在の経済小説・企業小説の世界は、時流をとらえた3人がけん引しています。3人のお勧め代表作はつぎのとおりです。

池井戸潤『下町ロケット』(小学館文庫、初出2010年小学館)
真山仁『バイアウト』(講談社文庫上下巻、初出2006年講談社)
幸田真音『傷』(文春文庫上下巻、初出1998年文藝春秋)

 経済小説は、陳腐化するのが早いものです。それゆえ長い間話題になりつづけるのはまれなことです。そんななかで前記3作品は色あせることはないでしょう。なぜなら真山仁『バイアウト』は企業買収、幸田真音『傷』は金融界の闇に迫った、時代に不変の作品だからです。しかも3人に共通しているのは、登場人物を丹念に描いていることにあります。

そんななかから、今回は池井戸潤『下町ロケット』(小学館文庫)をとりあげたいと思います。池井戸潤は地味な経済小説のなかで、一躍脚光をあびています。「倍返し」という決めセリフとともに、テレビの「半沢直樹シリーズ」は大ブレークしました。原作は『オレたちバブル入行組』『オレたち花のバブル組』(ともに文春文庫)です。

池井戸潤は慶応大学卒業後、三菱銀行(現三菱東京UFJ)に入行し、約7年間勤務しています。「半沢直樹シリーズ」が書かれたのは、退職してから10年後にあたります。このくらい時間をあけると、現場体験の澱(おり)だけが、鮮明に浮かび上がってきます。現場体験時の苦々しい思いにも、存分に加工がほどこせるようになります。まさに熟成しきった過去に、スポットをあてる絶好の時期だったのです。

その後池井戸潤は、2006年『空飛ぶタイヤ』(上下巻、講談社文庫)、2009年『鉄の骨』(講談社文庫)と、直木賞候補作品を書きつなぎます。そして2010年『下町ロケット』で3度目の正直を果たすわけです。

私は1998年のデビュー作『果つる底なき』(講談社文庫)から、池井戸追っかけ組でした。しかし銀行関連の作品がつづき、いささか食傷気味になっていました。そんなとき家内から「半沢直樹って知っている?」と質問されました。テレビドラマで大ヒットしているようです。原作を調べて、やっと思い出しました。「半沢直樹シリーズ」は、本では話題にならなかったのですから仕方がありません。

◎『下町ロケット』は現代日本文学の最高峰

『下町ロケット』は直木賞受賞作ですが、かならずしもすべてが高評価だったわけではありません。ストーリーがご都合主義である点に、目くじらをたてる審査員がいました。そんな評価をおそらく池井戸潤は、にやにやしながら受けとめていたのでしょう。小説は読者にワクワク、ドキドキしてもらうために書いている。そう言い放つ池井戸潤だからです。

――私自身が暗い話が嫌いなんですね。子どもの頃から小説を読んできて、やはり暗くなる小説は読みたくないですし、自分が読みたくない小説は書けないんですよ。僕は読んで面白くてスカっとしてどきどきしてワクワクして、あーおもしろかったと思って本が閉じられる、そういう小説を読みたかったし、やはり自分が書く側にまわったときに、どういう小説を書くかというとやっぱりそういう小説しか書きたくないし、そういう意味では自分が書きたい、読みたいと思ったものを書いている。今回の「下町ロケット」もそのうちのひとつだと思います。(「NHKかぶんブログ」2111年7月14日)

『下町ロケット』のストーリーは、前掲の文庫案内で十分です。執筆中のエピソードを紹介させていただきます。

――『下町ロケット』では、若手社員が主人公の社長に反発するシーンがある。書いているときは若手の気持ちになってガンガン筆を進めましたが、妙に説得力がでてしまい、(社長側から)反論できないくらいになってしまった。連載だったので、社長の反論を書くまで1週間あったんですが、「どうやって反論するんだ、これ」と困ってしまった。でも作者が一番困る箇所こそ、読者にとって一番楽しいところなんですよね。
(「日経プレミアプラスvol.2」2012年11月号より。池上彰との対談)

 池井戸潤は実にたんねんに、小さな会社に放りこまれた手りゅう弾の行方を描きます。やがて町工場の心意気はひとつにまとまり、崇高な夢へと舵をきりはじめます。

ワクワク、ドキドキ。完璧に池井戸潤の術中にはめられました。町工場ものでは、小関智弘『町工場・スーパーなものづくり』(ちくま文庫)『町工場巡礼の旅』(中公文庫)などに親しんでいましたが、大企業の暴力や従業員との葛藤までは理解できませんでした。小さな町工場を描出しながら、『下町ロケット』は、とりわけスケールの大きな作品でした。池井戸潤から目が離せなくなりました。
(山本藤光:2014.04.17初稿、2018.02.02改稿)

飯嶋和一『始祖鳥記』(小学館文庫)

2018-02-01 | 書評「い」の国内著者
飯嶋和一『始祖鳥記』(小学館文庫)

大大飢饉に始まり災いが続いた暗黒の江戸・天明期、大空を飛ぶことにおのれのすべてを賭けた男がいた。その〃鳥人〃備前屋幸吉の生きざまに人々は奮い立ち、腐りきった公儀幕府の悪政に敢然と立ち向かった。伝説の作家が心血を注いだ感動の歴史巨編。(出版社からのコメント)飢饉に始まり災いが続いた暗黒の江戸・天明期、大空を飛ぶことにおのれのすべてを賭けた男がいた。その〃鳥人〃備前屋幸吉の生きざまに人々は奮い立ち、腐りきった公儀幕府の悪政に敢然と立ち向かった。伝説の作家が心血を注いだ感動の歴史巨編。(出版社からのコメント)

◎鳥のように空を舞いたい

今をさかのぼること200余年の天明5年。そこには凧(たこ)に魅せられた、ひとりの聡明な若者がいました。この作品は、鳥のように空を舞うことに一生をかけた男のロマンを描いたものです。

主人公の幸吉は、桜屋の次男として備前児島湾の八浜で生れました。幸吉は5歳のとき、児島湾の海上に突然出現した、一幅の異国の蜃気楼を見ます。それが幸吉の人生をかえる、引金となりました。

のちに幸吉は岡山に渡り、周吾という名で表具師として頭角をあらわします。彼には大きな夢があります。鳥のように空を舞いたい。周吾は仕事の合間に雀が空を飛ぶ構造を調べ、それを凧に模する作業をつづけます。

周吾は何度も試行錯誤をくりかえします。夜な夜なつくりあげた大凧で、橋の欄干や家屋の屋根から空を舞います。

 岡山城下に、鵺(ぬえ)が「イツマデ、イツマデ」と叫びながら、空を飛んでいるという噂が広がります。腐敗した藩への反抗。噂は周吾の純粋な思いとは裏腹に、あらぬ方へと広がりはじめます。周吾は捕らえられ、牢屋へ入れられ、所払いの罪に課されます。

所払いにあった周吾改め幸吉は、八浜へ戻ります。そこで幼なじみの源太郎と出会います。源太郎は千石積み弁財船の船主です。ここから新たな物語がはじまります。

塩の独占とりひきをめぐる話。米俵2500俵を積んだ、二階屋造りの八軒長屋を四棟合わせたほどの弁財船。幸吉も乗りこむことになります。帆は風をはらみ、苦もなく船を運びます。

この体験が幸吉の夢に火をつけます。幸吉は伊豆半島の沖合いで目にした、沖太夫(あほうどり)の飛行を忘れられません。下へ落ちてゆくことを、翼でどれだけ防ぐのか。空を舞うことの意味を、幸吉は沖太夫から学びました。

◎飯嶋和一の魅力

飯嶋和一は『汝ふたたび故郷へ帰れず』(河出書房新社1989年、小学館文庫)で、文藝賞を受賞しデビューしています。プロボクサーを扱った作品で、主人公をとりまく脇役の個性の描き方が秀逸でした。

その後、『雷電読本』(小学館文庫)を発表します。飯嶋和一作品の魅力は、主人公の一途さと脇役の慈愛を、克明に描くところにあります。これはデビュー作から、一貫しています。

船乗りの生命は視力。星で現在地を確かめる。遠くの木々の一枝で現在の居所を知る。それがかなわぬようになった幸吉は、船をおりることになります。杢平に代表される、様々な脇役が光ります。

――陸暮らしの者たちは、いずれ己が永遠の静けさの中に消し去られる身であることが全くわかっていない。死を間近にした者が、突然それに気がつくことがあるだけだ。(本文より)

 幸吉は陸へ上がって、入れ歯師、時計師の業をきわめます。しかし空を舞う夢は捨て切れません。幸吉47歳。最後の夢の実現に向かいます。今度も所払いは必須。男のロマンへの挑戦です。

 飯嶋和一は200余年の時を超えて、忘れかけていた壮大な世界を突きつけてみせました。私の眼前には、天明の時が蜃気楼のように見えます。迷うことなく、最高傑作の5つ星作品です。ぜひ読んでいただきたい。特に脇役をしっかりと、観察していただきたいと思います。

 飯嶋和一は1983年『プロミスト・ランド』で第40回小説現代新人賞を受賞してデビューしています。1952年生まれなので30歳をすぎてからの遅咲きでした。その後1988年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞しました。その後2000年『始祖鳥記』で第6回中山義秀文学賞、2008年『出星前夜』で第35回大佛次郎賞しています。これまで刊行された著作はわずかに6冊(いずれも小学館文庫となっています)しかありません。デビュー作の「プロミスト・ランド」は、『汝ふたたび故郷へ帰れず』(小学館文庫)に所収されています。
 飯嶋和一作品をまだ読んだことのない方に、私は胸を張って「日本現代文学の最高峰である」とお伝えします。
(山本藤光:2009.08.15初稿、2018.02.01改稿)

石川淳『紫苑物語』(講談社文芸文庫)

2018-02-01 | 書評「い」の国内著者
石川淳『紫苑物語』(講談社文芸文庫)

優美かつ艶やかな文体と、爽やかで強靭きわまる精神。昭和30年代初頭の日本現代文学に鮮烈な光芒を放つ真の意味での現代文学の巨匠・石川淳の中期代表作―。華麗な〈精真の運動〉と想像力の飛翔。芸術選奨受賞作「紫苑物語」及び「八幡縁起」「修羅」を収録。(「BOOK」データベースより)

◎極上の名文

 名文家といわれる作家は、たくさんいます。そのなかでも石川淳は、ぬきんでています。三島由紀夫が硬質の金属的な文章だとしたら、石川淳は庶民的な川の流れに似ています。大江健三郎も一文は長いのですが、石川淳はその比ではありません。

石川淳の文章に最初に接したのは、安部公房『壁』(新潮文庫)によせた「序文」ででした。息つくひまもないほどに、たたみかけてくる文章にオーラを感じました。卒論を「安部公房」としたため、影響を受けた作家の作品もずいぶん読みました。カフカ、リルケ、石川淳、花田清輝などです。

『壁』の序文に魅せられて、石川淳の芥川賞受賞作『普賢』(集英社文庫、講談社文芸文庫)をいちばんに読みました。重厚でいて、流れるようなリズムに鷲づかみされました。特別サービスで、一文を紹介しましょう。楽しめるでしょうか? こうした文章は、よほど博学でなければ書けません。正直にいうと、大学時代はかなり背伸びして、石川淳を読んでいたように思います。

(引用はじめ)
あくる朝、正午近く眼をさますと……だが、わたしにとって朝眼をさますということほど不思議な事件はないのだ。わたしは床の中でまたも日の光の下によみがえったわが手足を撫でながら、ああまだこのからだは生きているのかと、あたかも自分ではない微生物を指先につまみ上げて見るごとく、いましがた浮き出たばかりの仮睡の世界、夢と現(うつつ)のあわいの帷(とばり)を愛惜しつつ、数本の煙草を茫漠とくゆらすのであるが、これはわたしの一日のうちもっとも精彩ある時間で、たとえば太陽伝説についていうと心ひかれるのは太陽そのものよりも太陽の生殺を支配する朝焼け夕焼けの光であり、その明暗の中にわが身を浸して濛濛たる大病人の意識にふわりとくるまっているときにこそわたしは初めてたましいの秘密に参じえたような料簡になって、禅家のいわゆる透関の眼とは決してからりと晴れた青空を仰ぐようなばかばかしいものではなく、こうして世ならぬ霧の香をかぎあてた一瞬の妙機をさすのではあるまいかと独り合点をする始末で、人間の悟りがはたしてこの道のかなたにあるとすればそれは途方もない憂鬱の行き止りであろう。(引用おわり。石川淳『普賢』第8章冒頭の文より)

『紫苑物語』(講談社文芸文庫)には、表題作をふくめて3つの短編が所収されています。『普賢/佳人』(講談社文芸文庫)も捨てがたいのですが、いちばん好きなのは「紫苑物語」です。

 主人公の守(宗頼)は勅撰集の選者である父をもつ、先祖代々の歌の家に生まれました。幼いころから、歌の才能は豊かでした。ある日父の添削をみて逆上し、主人公は朱筆を父の顔面に投げつけて、歌の道をやめてしまいます。

主人公・宗頼には、弓に秀でた伯父(弓麻呂)がいます。叔父は父の兄ですが、身分の低い異腹の子でした。宗頼は無頼漢の弓麻呂の指導で、たちまち弓の道でも才能を発揮するようになります。

14歳のとき宗頼は、10歳のうつろ姫と呼ばれる女と結婚します。うつろ姫は醜く、白痴の疑いもありました。彼女は夜の営みについては、飽きることのないほど積極的でした。宗頼はそれを不潔と感じ、うつろ姫を遠ざけます。

18歳になった宗頼は、遠国の守に任ぜられます。うつろ姫もついてきます。宗頼は弓を携えて、狩に明け暮れます。その間うつろ姫は下賤の輩を自室に招き、快楽をむさぼりつづけます。

 宗頼の家臣に、藤内という腹黒い男がいます。宗頼は以前から気になっていた「岩山の向こうに何があるのか?」と藤内にたずねます。「血のちがう輩が住んでおり、危険なので近寄らない方がよい」との答えがあります。

 そういわれれば、なおさら見たくなるのが人情です。宗頼は岩山の向こうへと出かけます。そこには平太という岩に仏を彫っている、同年代の若い男がいました。

岩山の向こうからの帰路で、宗頼は美しい若い女(千草)とめぐりあいます。女は彼が射た弓に倒れた、子ぎつねの化身だったのです。正体を知っても、宗頼は千草を愛しつづけます。

 ある日弓麻呂は、庭で2人の家来を弓矢で殺します。宗頼は血で汚れたところに、紫苑を植えるように命じます。邸内での殺戮がつづき、庭はたちまち紫苑でいっぱいになります。

 この先については触れません。宗頼と千草のその後。平太との再会など、後半に物語は大きく動きます。ただただ石川淳の筆力に圧倒されながら、見知らぬ「紫苑」を思い浮かべてしまうことになります。
「紫苑」(しおん)を植物図鑑で確認しました。薄い紫色の花で、九州でわずかに自生している、とありました。

◎最後の文士

 手元に文芸誌『すばる』(1988年4月臨時増刊号)があります。「石川淳追悼記念号」です。宝物のように大切にしていますが、小口のヤケが活字面にまで浸食してきました。そのなかに「石川淳の文学と位置」という鼎談があります。佐々木基一、中村真一郎、丸谷才一の豪華な組み合わせです。『紫苑物語』について、中村真一郎が直に聞いたという石川淳の言葉があります。

――中村:おれ(補:石川淳)はある朝、目が覚めたら、頭のなかに「ル・セニュール・エーメ・ラ・シャス」というフランス語の句が浮かんだ。すぐにそれを日本語に直して、「国の守は狩を好んだ」と書いて、それから先、ずっと空想を増殖させていってあれができた。プロはそういうものだ、おまえみたいに初めから終わりまで構成を考えて書くのは素人であると、福永(補:武彦)をつかまえて言ったのを聞いてて、「ああ、そうか。石川さんはそうなんだな」と。

 このつづきがおもしろいので、重ねて引用させていただきます。

丸谷:福永さんが石川さんのメモを見たんですって。淳さんが立ち上がったときに。小さな名刺みたいな紙に登場人物五人か六人の名前と職業と年齢が書いてあるだけで、あれを見るだけで書くんだ。「今の日本の小説家で、一番頭が強いのは、石川淳ではないか」と、福永さんが何かに書いていました。
中村:福永の小説ノートたるや、小説ぐらい長いんだ、綿密で。福永は小説ノートを書くのが趣味なんだ。道楽なんだよ。

 石川淳の作品には起承転結がない、と安原顕が書いていました。とりあげた『紫苑物語』は、めずらしく骨格がしっかりとした作品ですが。その理由は、鼎談で理解できました。冒頭だけ浮かんで、あとは発酵するのを待った作品だったのです。

石川淳は1899(明治32)年浅草で生まれています。1936(昭和11)年に『普賢』で芥川賞を受賞しています。その2年後に発表した「マルスの歌」(『焼跡のイエス/普財』講談社文芸文庫所収)が発禁処分となります。それからしばらくは、「森鴎外」などの評論や、江戸文学の研究に没頭します。

石川淳は太宰治、織田作之助らとともに「無頼派」と呼ばれています。私にはあまりぴんとこないくくりです。石川淳は若手の文学者にも寛容な姿勢をみせました。安部公房や中野重治に目をかけ、2人からは師とあおがれていました。大江健三郎や金井美恵子を、支援したのも石川淳でした。文学者・石川淳の原点に触れた文章があります。紹介させていただきます。

――荷風がヨーロッパに触れることによって、逆に伝統的な規範を発見したのと同じように、石川淳もまた、昭和時代における東京の文化の風化を代償として、逆に貴族主義的精神を手に入れることができたのではなかろうか。彼のうちには、「江戸っ子」としての「血」がなおも動かしがたいものとして生きている。(磯田光一『昭和作家論集成』新潮社P142より)

 石川淳の博識について、吉田健一はつぎのように書いています。
――江戸の人間であって和漢の学がその素養をなし、ヨオロッパの文学に明るくその昔金に困っていた頃に小遣い稼ぎに翻訳をする位のことは何でもなかった。(吉田健一『交遊録』講談社文芸文庫より)

 私はジッド『背徳者』(新潮文庫)を、石川淳訳で読みました。ジッド『狭き門』(新潮文庫)の解説は石川淳が書いています。古典では『新釈雨月物語/新釈春雨物語』(ちくま文庫)という著作があります。小説家というよりも、文士という称号のほうがふさわしいのが石川淳です。日本一の名文をどうぞ堪能してください。
(山本藤光:2010.05.30初稿、2015.02.18改稿)