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山本藤光の文庫で読む500+α

著書「仕事と日常を磨く人間力マネジメント」の読書ナビ

池田晶子『14歳からの哲学』(トランスビュー)

2018-03-02 | 書評「い」の国内著者
池田晶子『14歳からの哲学』(トランスビュー)

人には14歳以後、一度は考えておかなければならないことがある!今の学校教育に欠けている、14、5歳からの「考える」ための教科書。 「言葉」「自分とは何か」「死」「心」「体」「他人」「家族」「社会」「規則」「理想と現実」「友情と愛情」「恋愛と性」「仕事と生活」「メディアと書物」「人生」など30のテーマを取り上げる。読書感想文の定番,中高大学入試にも頻出の必読書。年代を超えて読み継がれる著者の代表作。(本書案内より)

◎哲学することの意味

本書はちまたの「哲学」関連本とは、まったくちがっています。私の書棚にはたくさんの「わかりやすい哲学」「哲学入門」などの書籍があります。大学時代はそれこそ「デカンショー」を読んでいなければ、恥ずかしいという強迫観念にかられていました。読んでみてもさっぱりわかりませんでした。そのあげく簡便本でお茶をにごしていたのでしょう。デカンショーが、「デカンショ」は、「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」の略であることは、年配の人ならご存知でしょう。

私が本書を読んだのは、年金受給者になってからです。孫にプレゼントするような顔をして、自分のために買い求めました。読んでみました。「1.考える」のページから、早くもストンとなにかが腑におちてきました。

――生きていることが素晴らしかったりつまらなかったりするのは、自分がそれを素晴らしいと思ったり、つまらないと思ったりしているからなんだ。(本文P5より)

――君は、つまらないことをつまらないと思わないこともできるはず。(本文P5より)

私が営業リーダー時代、不愉快そうにしている部下がいました。私は笑いながら彼の肩をたたいて、「声にだして、不愉快だ、と10回くりかえしてごらん」といいます。呪文のように「不愉快だ」をいっている彼は、途中から「愉快だ」といっています。「ほら、不愉快が愉快になっただろう」。若いころのこんな場面がよみがえってきました。

池田晶子が説いている世界は、心の中のこと、あるいは考え方についてですが、じつにわかりやすい言葉で諭してくれます。 

――自分では正しいと思っているんだけど、本当は間違っているという場合は、どうしたものだろう。自分では絶対に正しいと思っているんだけど、本当はまったく間違っていて、そのこと気がつかずに、大きな声でそれを主張しているとしたら、これはすごく恥ずかしいことなんじゃないだろうか。(本文P13より)

池田晶子は「考えよう」とくりかえします。そして「思う」と「考える」のちがいについて、言及してみせます。井上ひさしの著作にもこの2つのちがいにふれているものがあります。出典はわすれましたが、こんな感じです。

「マンションを買おうと思う」
「マンションを買おうかと考えている」
 ちがいを説明できますか? 
 前者は漠然としている心理状態です。後者はAかBかなどと、選択にまよっているレベルの表現です。

◎「友情と愛情」をじっくりと考える

池田晶子は難解な哲学用語を、いっさい封印しています。また先達の哲学者の言葉を、寸借することもしていません。まるで目の前の14歳に、話しかけているような感じです。後半は「17歳からの哲学」という章となり、「自由」や「宗教」などについても示唆してくれます。

「15友情と愛情」の章をくわしく紹介させていただきます。本書が従前の哲学書とは、ちがうことを実感していただくためです。14歳というと「友だち関係で悩んでいる人が多いみたいだ」と前おきしてから、「友だちが少ない」などと具体例を列挙します。そして「単なる遊び友だち」と「大事なことを語り合える友だち」との違いを示してみせます。

――本当の友情というのは、自分の孤独に耐えられる者同士の間でなければ、生まれるものでは決してないんだ。なぜだと思う?/自分の孤独に耐えられるということは、自分で自分を認めることができる、自分を愛することができるということなんだ。そして、自分を愛することができない人に、どうして他人を愛することができるだろう。(本文P100より)

――孤独というのはいいものだ。友情もいいけど、孤独というのも本当にいいものなんだ。今は孤独というとイヤなもの、逃避か引きこもりとしか思われていないけれども、それはその人が自分を愛する仕方を知らないからなんだ。自分を愛する、つまり自分で自分を味わう仕方を覚えると、その面白さは、つまらない友だちといることなんかより、はるかに面白い。(本文P100-101より)

――自分を愛し、孤独を味わえる者同士が、幸運にも出会うことができたなら、そこに生まれる友情こそが素晴らしい。お互いにそれまで一人で考え、考えを深めてきた大事な事柄について、語り合い、確認し、触発し合うことで、いっそう考えを深めてゆくことが出来るんだ。(本文P101より)

この流れは、心底いいなと思います。おしつけがましくなく、断定形でもなく、池田晶子は病床に見舞いにきた人のように、静かに淡々と語ります。私は若い営業マンや営業リーダーに向けて、たくさんの本を書いています。『14歳からの哲学』にふれてみて、絶叫調の自分の著作が恥ずかしくなりました。

「愛情」についても、こんなヒユがありなのか、と思わず納得してしまいました。引用してみます。

――もしも君が、犬や猫やハムスターや、自分のペットを買っているなら、彼らに対する気持ち、あれが愛情の原点だ。大事で、いとおしくて、何がどうなのであれ、居てくれればそれでいいと思うだろう。少々噛みつかれたりひっかかれたりしても、まあコイツのすることならいいやって、許しちゃうだろ。つまり、彼らのすべてを丸ごと受け容れて認めること、無条件の愛情だ。愛情というのは無条件であるものなんだ。ただ、ペットの場合は、彼らの方が無条件でなついてくるから、人間の方も無条件で受け容れやすい。(本文P101より)

「自分を愛する」のは、とてもたいせつなことです。それは最終的に社会や世界を愛することになります。

池田晶子の『14歳からの哲学』の「あとがき」を、紹介させていただきます。あとがきは、「14歳の人へ」と「14歳以上の人へ」と区分されています。

あとがきの「14歳のきみへ」では書店や図書館へいけば、おびただしい数の「哲学」と出会うことができる、と書きだされています。

――でも、たとえ今の君がそれらの本を手に取って読んでみても、聞きなれない言葉や変な言い回しがいっぱい出てきて、おそらくちんぷんかんぷんでしょう。。

――君が求めているのは、「考えて、知る」ことであって、「読んで、覚える」ことではないからです。自分で考えて知るために、他人の本を読んで覚える必要はありません。 

「14歳以上の人へ」のポイントも、紹介させていただきます。

――対象はいちおう14歳の人、語り口もそのように工夫しましたが、内容的なレベルは少しも落としていません。落とせるはずがありません。なぜなら、ともに考えようとしているのは、万人もしくは人類に共通の「存在の謎」だからです。

――子供とともに、生徒とともに、あるいは一人で、なお謎を考えて知りたいという意欲をおもちのいかなる年齢の人にも、何らかお役に立てるものと思っております。 

『14歳からの哲学』(トランスビュー)は、地道に売れています。やさしい本ではありません。私自身も3回読み直し、書評を書いています。「自分とはだれか」「他人とはなにか」「死をどう考えるか」など、避けてはとおれない難解なテーマが、びっしりとならんでいます。本書の初出は2003年なのですが、哲学の古典みたいに評価は高まるいっぽうです。

一つひとつの問いかけごとに、活字から目を離して考えてみました。こんな世界を、まともに考えたことはありませんでした。それゆえ、おおいなる刺激をあたえられました。

◎自分の頭で考えなさい
 
――生命体を維持するための食欲、子孫を繁殖するための性欲、じゃあ恋愛は、何のためにするものだろう。自然法則にとっては恋愛なんて、無用のものでしかないはずだ。もし恋愛が自然の本能だったら、恋愛の相手は、誰でもいいのでなければおかしいね。子孫を増やすためだけなのだったら、雄と雌であればいいはずだよね。(本文P106より)

著者の問いかけのひとつを紹介してみました。では生きるってなにか。読者は、ひたすら考えまくることになります。14歳には難しい設問ですが、一度は考えておきたいテーマです。

本書は、自分の頭で「考えなさい」と一貫しています。水辺まで読者をつれていき、そこで放りだします。考える習慣をつけるためには、うってつけの「教科書」だと思います。そういえば本書のサブタイトルは、「考えるための教科書」でした。

池田晶子の著作は、文庫化されているものもたくさんあります。「哲学」は敷居が高いと考えているのなら、何冊か手にしていただきたいと思います。ざっとあげてみます。

『ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け』(新潮文庫)
『メタフィジカル・バンチー 形而上より愛をこめて』(文春文庫)
『考える人・口伝西洋哲学史』(中公文庫)
『帰ってきたソクラテス』(新潮文庫)
『さようならソクラテス』(新潮文庫絶版)

 本書を卒業したら、すばらしいアンソロジーがあります。北上次郎編『14歳の本棚』(新潮文庫)です。本書は「部活学園編」「初恋友情編」「家族兄弟編」とテーマごとに3冊になっています。とりあげている作品に味があります。本書は「知・教養・古典ジャンル」の125+αとしてとりあげる予定です。
(山本藤光:2010.05.13初稿、2018.03.02改稿)

石黒達昌『新化』(ハルキ文庫)

2018-03-01 | 書評「い」の国内著者
石黒達昌『新化』(ハルキ文庫)

最新の技術を駆使して、永遠に近い生命を持ちながら生殖によって絶命する幻のハネネズミを再生するプロジェクトが今始まる。現在の遺伝子研究の最先端を行くサイエンス・フィクション。(「BOOK」データベースより)

◎学術論文的な色彩

文芸誌のなかで、いちばん好きだったのは『海燕』(福武書店)でした。いまでも何冊かは書棚に残っていますが、残念なことに1996年廃刊になってしまいました。福武書店は、個人情報漏えいでゆれる現在のベネッセの前身です。優秀な新人作家を数多く輩出していました。ざっとならべてみます。

【おもな海燕文学新人賞】
1982年:干刈あがた『樹下の家族』
1984年:小林恭二『電話男』、佐伯一麦『木を接ぐ』
1987年:吉本ばなな『キッチン』
1988年:小川洋子『揚羽蝶が壊れる時』
1989年:石黒達昌『最終上映』
1990年:松村栄子『僕はかぐや姫』、角田光代『幸福な遊戯』

石黒達昌は『最終上映』(福武書店)で1989年「海燕文学新人賞」を受賞しています。本作は石黒達昌の本職である、癌の専門医らしい切り口で書かれた作品として話題となりました。

それから5年後、石黒達昌は『平成3年5月2日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに、』(福武書店1994年)で、私を異世界へと案内してくれました。本書は当初タイトルのない作品でしたが、便宜的につけられたのが冒頭の長い1文でした。本書は横書きで、しかも写真や図表を駆使した、まるで科学論文のような作品でした。北海道の神居古潭でのみ生息していた、稀少動物・ハネネズミにまつわる科学者のドラマです。

今回紹介させていただく『新化』(ハルキ文庫)は、『平成3年5月2日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに、』と、その後に発表された『新化』(ベネッセ、初出1997年)を全面改稿してまとめられたものです。

ハルキ文庫『新化』は、Part1 とPart2にわかれています。
Part2(『新化』改訂版)では、絶滅したハネネズミの再生ものがたりです。縦書き形式になった関係で、単行本で読んだときよりも学術論文的な色彩は消えました。文庫本帯カバーのコピーに「SFミステリー」とうたっていますので、そんな意味では成功だったのかもしれません。
 
◎SF界に新種誕生

神居古潭(カムイコタン)は神秘的なところです。現在はトンネルができて、原生林を映す川面は見えなくなってしまいました。単行本ではじめて『平成3年5月2日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに、』を読んだときに、あそこなら稀少動物ハネネズミはいると思ったほどです。

『新化』(ハルキ文庫)のPart1では、ハネネズミの発見から、絶滅にいたる経緯が細かく描かれています。ハネネズミは背中に小さな羽根をもった、ネズミの新種です。暗い所で羽根は発光します。また涙をながすことも認められています。

当初はハネネズミ捕獲のために、神居古潭を探しまわります。しかしまったく見つかりません。絶滅していることが、すこしずつ明らかになってゆきます。現存する2匹の交配に希望をたくします。しかし夢はかなわぬまま、2匹はほぼ同時に死亡してしまいます。

ものがたりは一挙に、絶滅種の再生へと向かいます。本書はハネネズミ研究の第1人者である明寺伸彦博士、榊原景一博士の急逝後に集めた資料を駆使した形で進められます。したがって通常の小説のような、滑らかな展開にはなっていません。

――昨年十二月に急逝された榊原景一博士から、〈ハネネズミの絶滅の知られていない側面に関して〉詳述したい旨のお手紙をいただいたのが、氏の臨終のわずか三週間前でした。(本文P6より)

一般的には小説のなかに日記や手紙を挿入すると、違和感をおぼえるものです。ところが本書はちがいます。科学オンチの私ですので、難しいことはわかりませんでした。しかし地の文と資料が、みごとに融合していることは理解できました。

Part1で謎の失踪をした石川悟氏は、新鮮なハネネズミの屍骸を発見した町医者です。彼は外科医でしたので、それをもちかえり解剖して論文発表しています。

――人間も含めて哺乳動物の腹の中は栄養を貪欲に取り込むための臓器で満ちている。しかしハネネズミの場合、胃も大腸も区別のつかない消化管は短い一本の管にすぎず、肝臓さえマウスの四分の一程度のものでしかないという報告が、博物学的発表としては異例なほどのトピックスとなる。(本文P13より)

Part2は、ハネネズミ研究者の3人目の死亡記事から、幕があけられます。

――絶滅から七年後、一人の研究者が神居古潭での化石発掘中に落石に遭って死亡したことが、「七年目の犠牲者」という見出しのもと、北海道新聞に掲載され、記事を書いた記者から掲載紙が私の自宅へ送られてきた。驚くべき事に、記事に記されていた石川晶という人物は、「ハネネズミ研究初期の功労者であり、研究から間もなく失踪を遂げた石川悟氏の甥」であると記されていた。(本文P83-84より)

石川晶氏はハネネズミ再生のために、似た遺伝子をもつエンジェルマウスを発見しました。そして近親交配をくりかえし、わずかに羽根のある個体をつくりあげたのです。そんな矢先の突然の事故死だったのです。

100年も長生きするハネネズミは、生殖行為をすると死亡します。そしてハネネズミの研究をする人たちが、つぎつぎと姿を消します。

石黒達昌はいままで読んだことのない、新種のSFを提供してくれました。私は2つの作品の交配は、大成功だったと思います。単行本では「山本藤光の文庫で読む500+α」で紹介できませんでしたが、晴れて文庫になったのでリストアップさせてもらいました。
(山本藤光:2000.06.14初稿、2018.03.01改稿)。

池内紀『すごいトシヨリBOOK』(毎日新聞社)

2018-03-01 | 書評「い」の国内著者
池内紀『すごいトシヨリBOOK』(毎日新聞社)

年をとると、昨日できたことが、今日はできなくなる。できないことは日々増えていく。これを喪失・衰えととらえるか、それとも未知への冒険と考えるか。池内紀の『すごいトシヨリBOOK』は後者だ。著者はカフカやゲーテなどの翻訳で知られるドイツ文学者で名エッセイスト。(内容紹介)

◎「老い」を手玉にとる

カフカ研究の日本の第一人者・池内紀『すごいトシヨリBOOK』(毎日新聞社)は、自らの老いを現在進行形でつづった素敵なエッセイです。まるで「老い」を手玉にとっているような著作です。

池内紀は70歳で「すごいトシヨリBOOK」と名づけた手帳をつけはじめました。本書はそれをまとめたものであり、本書のエキスを著者は次のように書いています。

――この本でお話しすることは、老人になって気づいたことを記録することで発見した、自分なりに「楽しく老いる秘訣」です。(「はじめに」より)

 誰にでも平等で確実に、やってくるのが「老い」です。池内紀は、それを冷静に受けとめ、ポジティブに老化現象を笑い飛ばします。本書を読みながら何度も笑い、考えさせられもしました。

池内は老化の進度を3段階に分けて説明しています。
初期段階(カテゴリ3)は、物忘れがひどくなります。人や物の名前が、すっと出てこない状態です。また人の話を横取りしたり、過去を自己都合でいいようにすり替えてしまう症状がでます。
さらに老い進むカテゴリ2では、横取症がペラペラ症に変化したり、人や物の名前失念症が失語症に進化すると書きます。
そしてカテゴリ1になると、
――すり替えたり、都合よく作ったりしたことも、すっかり忘れてしまいます。完全に「事実」と思うようになる。(本文P63)
と書いています。

これらの症状があらわれているのに、「体はフケたが心は若い」と強弁するトシヨリがいます。そんな人に池内は、まず鉄槌を下します。

――自分では「心は若い」と思っているけれど、心という見えないものを当てにしているだけ。鏡に映るシワだらけの自分の顔が本当の年齢で、心も当然、シワだらけです。(本文P17)

 池内紀は、自分をごまかしてはいけない。自分自身の老いを直視し、さらりとそれを受けとめなさいと書きます。

◎トシヨリに極上のプレゼント

本書のなかには、日常の再生について書かれた章があります。老いてもなお日常を磨きなさい。テレビばかり見てだらだら過ごすのは、内面から老化を促進しているようなものです。
池内は大好きなワインのラベルを収集しています。これはなんでもいいから、趣味を持ちましょうとの推奨です。いちばん手軽なのは、何かを集めることですので。

老人同士が群れるのもヨシとしていません。
――群れるのをやめて一人ひとりが過去を背負い、一人ひとりが自分の老いを迎えるのが本来であって、群れて、集って、はしゃいで、というのは老いの尊厳に対する侮蔑ではないか。(本文P37)

 孤独を甘受し、一人でなすべきことを見つけなさい。池内紀は、この文章でそう語りかけています。

池内紀は本書のなかで、こんな川柳を引いて笑わせてくれます。
――オムツしてデートに出かける八十歳

 小便の出が悪い。小便が近くなる。小便のキレが悪い。ちょび漏れをしてしまう。シモの悩みにもいろいろあります。そんなときに、はつらつとしてオムツをまとう姿は、いいなと思います。

楽しい一冊でした。70歳以上のトシヨリには必読の一冊です。老夫婦のあり方、病との向き方、お金の話し、旅の仕方など、ヒントになることが凝縮されています。文庫ではありませんが「+α」として紹介させていただきます。
池内紀はトシヨリに極上のプレゼントをくれました。
山本藤光2017.12.17

石田衣良『娼年』(集英社文庫)

2018-02-24 | 書評「い」の国内著者
石田衣良『娼年』(集英社文庫)

恋愛にも大学生活にも退屈し、うつろな毎日を過ごしていたリョウ、二十歳。だが、バイト先のバーにあらわれた、会員制ボーイズクラブのオーナー・御堂静香から誘われ、とまどいながらも「娼夫」の仕事をはじめる。やがてリョウは、さまざまな女性のなかにひそむ、欲望の不思議に魅せられていく……。いくつものベッドで過ごした、ひと夏の光と影を鮮烈に描きだす、長編恋愛小説。(アマゾン内容紹介)

◎亡き母の存在に注目

石田衣良は1998年『池袋ウエストゲートパーク』(オール読物推理新人賞、集英社文庫)でデビューしています。その後ほぼ1年に1作のペースで、『うつくしい子ども』(文春文庫、初出1999年)『エンジェル』(集英社文庫、初出1999年)『娼年』(集英社文庫、初出2001年)、『約束』(角川文庫、初出2001年)『4TEEN(フォーティーン)』(直木賞、新潮文庫、2003年)と順調に文壇を駆けあがってきました。
 
石田衣良は、魅力あふれる作家です。まず作品のテンポがよいこと。性を扱った場面は、研ぎ澄まされた自重気味の文章がきわだっています。石田衣良の本名は、石平庄一。苗字の「いしだいら」をそのまま、ペンネームにしています。

正直なところ、『娼年』と『4TEEN』との、どちらを取り上げようかと迷いました。迷ったすえに、ここまでの代表作は『娼年』だろうと決断しました。

『娼年』の主人公・リョウは大学生です。学校にはほとんど行っていません。バーでアルバイトをしています。リョウは「女性だけではなかった。大学も友人も家族も、世のなかすべてつまらない」(本文より)と思っています。

そんなときに、客として亡き母と同年代の御堂静香があらわれます。リョウは静香に勧められて、男娼の道を歩きはじめます。中年女性の欲望に応え、謝礼としての金を受け取る。リョウは金にはこだわりをみせません。

作品のなかには、個性豊かなキャラクターが数多く登場します。御堂静香とともに暮す聾唖の少女。大学の同級生でもあるガールフレンド。あくの強いホスト仲間。どの個性もていねいに描かれており、最後まで主人公とともに日常を分かち合っています。

『娼年』を引っ張っているのは、プロローグに登場する母親の存在です。存在と書きましたが、母親は亡くなっています。石田衣良は亡き母の影を、巧みに作品に投射してみせます。これが巧い。思わず本を閉じてから唸ってしまったほどです。

◎川端康成『眠れる美女』がヒントに
 
『娼年』では、惜しくも直木賞を逃しています。選考委員の井上ひさしと阿刀田高の選評が、落選のすべてを物語っています。引用してみましょう。

――「全編に埋め込んだ多彩な性描写は、どれを取って見ても扇情的でありながら清潔、具体的でありながらも豊かな詩情に溢れ、ほとんど完璧、輝くような才能である。そこで逆に、結末の、HIVがらみの因果物めいた俗っぽさが気になりもする。(中略)この結末を除けば、これは永く記憶にのこる名作なのだが。(井上ひさし選評の引用)

――端倪すべからざる作品である。(中略)抑制のきいた、クールな文体。確かな観察と巧みな描写。きわどい性の世界を描きながら少しも卑しくない(中略)そんな長所を感じながら、もう一作、見たい、というのが率直な印象だった。(阿刀田高の選評の引用)

その後、石田衣良は『4ティーン』で、みごとに直木賞を受賞します。『4ティーン』は確かに完成された作品ですが、私は『娼年』から石田衣良作品を読みはじめてもらいたいと思っています。そして時間のある方は、『池袋ウエストゲートパーク』シリーズへと進めばいいでしょう。

石田衣良『フォーティーン』の掌編が、「びっくりプレゼント」というタイトルで、北上次郎編『14歳の本棚・初恋友情編』(新潮文庫)に転載されています。この本にはほかに、三島由紀夫「仮面の告白(抄)や佐藤多佳子「ホワイト・ピアノ」(『サマータイム』に所収)などが紹介されています。

石田衣良は、恋愛小説について、つぎのように語っています。まだまだ引き出しは、豊富なはずです。

――「恋愛の短編を書くのは、自分に向いていたみたいです。小ちゃいケーキを形よくきれいに仕上げる、ケーキ職人みたいな感じですね。僕は大げさな話より、普通の女の人が、普通の男の人にふっと心が傾く瞬間がおもしろいと思うんです。そういうのって、ありそうでないでしょう。みんなが恋愛をしているような錯覚があるけど、実はみんなけっこう寂しく生きている。人生の中で恋のチャンスって、そう何回もない。その瞬間をすくいとるのが楽しいんです。(「スマートネット」の『1ポンドの悲しみ』インタビューより)

『娼年』について、石田衣良は次のように書いています。
――『娼年』という学生娼夫の物語の構想を練っていたころ、参考になる小説はないかと読み漁ったのである。そのなかに川端の『眠れる美女』(新潮文庫)があった。今度は一撃で打ち倒された。/文章の見事さ、感覚表現の冴え、デカダンスを突き抜け黒々と澄んだロマンティシズム。(中略)結局『娼年』は『眠れる美女』の設定を裏返した作品になった。(「文豪ナビ・川端康成」新潮文庫収載、石田衣良「幸福な日本作家」より)

『娼年』を読み終えたら他の石田衣良作品はもちろん、ぜひ川端康成『眠れる美女』(新潮文庫)にも触れていただきたいと思います。
(山本藤光:2009.10.22初稿、2018.02.24改稿)

五木寛之『私訳・歎異抄』(PHP文庫)

2018-02-23 | 書評「い」の国内著者
五木寛之『私訳・歎異抄』(PHP文庫)

鎌倉幕府から弾圧を受けながら、真の仏の道を求めた浄土真宗の開祖・親鸞。その教えを弟子の唯円が「正しく伝えたい」と願って書き残し、時代を超えて読み継がれたのが『歎異抄』である。本書は、親鸞の生涯に作家として正面から向き合い、三部作の大長編に挑んできた著者が、自らの心で深く受け止めた『歎異抄』を、滋味あふれる平易な文体で現代語訳した名著。ベストセラー、待望の文庫化! (「BOOK」データベースより)

◎心の浄化という世界

『歎異抄(たんにしょう)』は以前に、阿満利麿訳『歎異抄』(ちくま学芸文庫)と野間宏『歎異抄』(ちくま文庫)を読んでいます。読んでいますというよりは、とおりすぎていますと書いた方が正確かもしれません。なにしろ、ちんぷんかんぷんだったのです。

あまりにも情けないので、倉田百三『親鸞』(角川文庫)を読みました。『歎異抄』は「山本藤光の文庫で読む500+α」のメンツにかけて、絶対に避けてはとおれない1冊です。なんとか理解しようと必死でした。そんなときに、五木寛之『私訳・歎異抄』(PHP文庫)と出逢ったのです。五木寛之は「まえがき」でつぎのように書いています。

――他人を蹴落とし、弱者をおしのけて生きのびてきた自分。敗戦から引き揚げまでの数年間を、私は人間としてではなく生きていた。その黒い記憶の闇を照らす光として、私は歎異抄と出会ったのだ。(本書「まえがき」より)

「人間としてではなく生きていた」のところに、目が釘づけになりました。五木寛之はその理由を、「他人を蹴落とし、弱者をおしのけ」て、と書いています。終戦後の自分を顧みての文章ですが、これって企業人時代の私につうじることです。自分は意図していなかったにもかかわらず、OB会などで露骨に指摘されたことがあります。同期で一番出世したので、おそらく天狗になっていたのでしょう。

五木寛之『私訳・歎異抄』は、実にわかりやすい言葉で語りかけてくれました。心が洗われるような、すがすがしい読後感でした。薄い本なので、何度もくりかえして読みました。まるで毎朝祖母が仏壇に向かって、念仏をとなえているかのようでした。

毎年正月には近所の神社へ出かけます。神殿に向かって賽銭を投じ、願いを伝えます。企業人時代は、家内安全と仕事がうまくいきますように、と祈りました。隠居した現在は仕事がうまくいきますようにのかわりに、健康でありつづけますように、となっています。

ところが仏さまについて、手を合わせる場はありません。せいぜい両親の命日に、仏壇にろうそくをともして感謝を告げるくらいです。あるいは年に1度墓参にいって、孫たちが健やかに育っていることを報告するのが関の山です。

『歎異抄』にふれて、心の浄化というこれまでとは次元のちがう、世界に迷いこみました。これまでぼんやりとしていた「易行(いぎょう)の念仏」を、理解することができました。

――親鸞さまの師、法然上人のお説きになったのは、易行の念仏、ということだった。貧しい者も、字の読めない者も、誰でもがやさしく行うことのできる教えである。これを易行という。(本文P10より)

◎悪人こそ救われる

ずっと理解できなかった、教えがあります。第三条のつぎの言葉です。「悪人こそ救われる」という真逆の言葉が、どうしてもぴんとこないのです。

――善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや」。(『歎異抄』原典より)

――善人ですら救われるのだ。まして悪人が救われぬわけはない。しかし、世間の人びとは、そんなことは夢にも考えないし、いわないはずだ。(五木寛之『私訳・歎異抄』P20より)

五木寛之はこの法語に、「自力」と「他力」をもちいて説明しています。「自力」とは「自分の力を信じ、自分の善い行いの見返りも疑わない」こととなります。いっぽう「他力」とは、「ほかにたよるものがなく、ただひとすじに仏の約束のちから、すなわち他力に身をまかせようという」ことです。つまり「自力におぼれる心をあらためて、他力の本願にかえるならば、必ず真の救いをうることができる」ということなのです。

斎藤孝は著作のなかで、第三条をつぎのように解説しています。

――病気の子には親は特別世話をする。自力ではどうしょうもない。他力をたのむところに阿弥陀仏の救いの手が伸びる。愚かな自分(親鸞)は法然上人にだまされて念仏で地獄行きでも後悔はない。念仏を信じるか信じないかはあなた次第、という。やさしいようで突き放す距離感が絶妙。(斎藤孝『古典力』岩波新書P215より)

さらに阿刀田高の解釈をつづけさせていただきます。少しながくなりますが、やっともやもやが晴れた気持ちになりました。

――第一条で、阿弥陀如来は老人か若者か善人か悪人かを問わず、ただ信心のある者を救うことが本願であり、特に、罪が著しく深い者、煩悩の強い者を助けることを誓願とすると説いている。つまり、悪人を救うことこそ弥陀の願いなのだから、善人でさえ救われるのなら悪人が救われるのは当然なのである。どんな罪悪であっても、弥陀の本願が及ばないほどのものはない。(阿刀田高監修『日本の古典50冊』知的生きかた文庫P223より)

――「他力本願」という言葉は、日常生活では、自力でがんばらないで他人任せにするという意味で使われがちだが、本来、「他力本願」とは、弥陀の本願にすがるという意味なのである。(阿刀田高監修『日本の古典50冊』知的生きかた文庫P224より)

『歎異抄』は親鸞の教えを、弟子の唯円がまとめたものです。あるとき親鸞は唯円に、「私のことを信じているなら、いうとおりにできるな」と念押しします。そして「千人殺せ」(第十三条)と命じます。当然、唯円はそんなことはできるはずはありません。この問いの意味についても、五木寛之はていねいに説明してくれました。

これから、五木寛之『親鸞・激動篇』(上下巻、講談社文庫)を読みます。五木寛之『親鸞(上下巻、講談社文庫)は読み終わりました。いずれ「+α」として書いてみたいと思っています。

◎追記2015.03.01

中沢新一の最新刊『日本文学の大地』(角川学芸出版2015年)のなかに「歎異抄」の章があります。読んで共感する箇所がありました。紹介させていただきます。

――親鸞の教えは、その大地に深く根を下ろすことのできた、日本では数少ない、宗教思想なのである。思想や観念が、そういう大地に根を下ろして、そこから栄養を吸収して、大地に内蔵されている生命そのものに、表現をあたえることができた、という例は少ない。いつの時代にも、学問とか観念とか思想とかに夢中になっている人たちは、大地から浮き上がったままなので、美しいけれどか弱い、観念の空中花を咲かすことができるだけだ。(中沢新一『日本文学の大地』角川学芸出版より)

親鸞は、フィールドワークの人だったことが実感できました。倉田百三『出家とその弟子』(新潮文庫、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)のなかに、猛吹雪の大地を歩く親鸞と弟子たちの場面があります。中沢新一の文章にふれて、あの場面が腑に落ちました。

(山本藤光2014.12.25初稿、2018.02.23改稿)


稲田浩二・稲田和子・編著『日本昔話100選』(講談社+α文庫)

2018-02-22 | 書評「い」の国内著者
稲田浩二・稲田和子・編著『日本昔話100選』(講談社+α文庫)

日本人はいつの時代も、物語を聞いて想像力を養い、人の心を学んできた。怖い話、滑稽な話、幸運が舞い込む話、何百世代にわたって語りつがれてきた昔話には、それを伝えてきた人々の思いが潜んでいる。本書は、北海道から沖縄まで各地に伝わる代表的な昔話を土地の言葉を生かして編纂した名著であり、今こそ語りつぎたい決定版昔話集である。(「BOOK」データベースより)

◎「日本昔話」は選んだ本で内容が異なる

日本昔話は、こどものための本ではありません。私は40歳前後の企業のリーダー研修のプログラムとして、「日本昔話を読む」をいれています。今回は「桃太郎」を例に、いかに活用しているのかを説明させていただきます。

1. 研修に参加するにあたって、絵本でもなんでもいいので『桃太郎』を1冊読んできてもらいます。
2. 受講者の1人に「自分の記憶のなかの桃太郎」と「読んだ本の桃太郎」の相違点を発表してもらいます。
3. 受講者同士は小グループで、それぞれの「桃太郎」を語り合い、相違点をリストアップします。
4. そのうえで講師である私からつぎのような質問を投げかけます。グループごとに、回答をまとめて発表してもらいます。
(1) 流れてきたのはなぜ「桃」だったのか? スイカやメロンではいけないのだろうか?
(2) 桃はいくつ流れてきたのか? 複数流れてきたのなら、同時に流れてきたのか、別々に流れてきたのか?
(3) 流れてきた桃の大きさはどのくらいだったのか?
(4) 桃はどこにしまわれたのか?
(5) 桃太郎が鬼が島へ行くときに持参したのはなぜキビ団子だったのか? なぜそれが「日本一」なのか?
(6) 途中で家来となる動物がでてくるが、なぜその種類だったのか? 家来が登場する順番はどうなっているのか?
(7) 登場した動物は桃太郎に「お腰につけたキビ団子を一つください」といいますが、なぜキビ団子だとわかったのか? 桃太郎はいくつキビ団子をもっていて、いくつあげたのだろうか?
(8) 鬼が島には何匹くらいの鬼がいたのか? 鬼が島はどんなところなのか?
(9) 鬼が島から財宝をもちかえった桃太郎は、それをどうしたのだろうか?
 
受講者たちは額を寄せ合って、ばかげたともいえる難問に挑みます。この時間は研修の幕開けとしては、きわめて有効なものとなります。記憶の世界のあいまいさを知る。読んだ体験を語る。ほかの人の意見や考えを聞く。自分の意見をのべる。ひとつの結論に向けて融合させる。講師からあたえられた設問を考える。固定概念だけでは答えられない設問にたいして、知識の総動員をはかる。『桃太郎』には、私のそんな筋書きがあるのです。
 
 私のお薦め本は、稲田浩二・稲田和子・編著『日本昔話100選』(講談社+α文庫)ですが、絶版になっています。本書の帯には「想像力や感受性を養い、時に人の心の奥底をのぞかせてくれるいい話」というコピーがあります。そのとおりだと思います。

私は本書がいちばんなじみやすかったのですが、みつからなければ関敬吾編『日本の昔ばなし』全3冊、岩波文庫)のほうをお読みいただきたいと思います。そして先の設問に答えてみてください。

「稲田浩二・稲田和子・編著」と「関敬吾編」とでは、昔話の中味が異なります。どっちがホントという話ではありません。日本昔話は「口承文芸」なので、聞きとり先により物語がちがっているのです。それゆえに前記の営業リーダー研修では、それぞれに1冊の「桃太郎」を読んでもらい、内容の違いを語り合ってもらうことにしています。意見交換のポイントについては、のちほど説明したいと思います。

ちょっと2つの違いを紹介しましょう。おばあさんが川に洗濯に行きます。ここまではどんな「桃太郎」でも同じです。ちがうのは、流れてくる「桃」のくだりです。
 
――ばあさんが洗濯しとったところが、川の上の方から大きな桃が、ドンブリ、カッシリ、スッコンゴウ、ドンブリ、カッシリ、スッコンゴウと流れて来たそうな。ばあさんがそれを拾うて食べてみたところが、とってもうまいそうな。こりゃ、じいさんにもあげようと思うて、「もう一つ流れい、じいさんにあげよう。もう一つ流れい、じいさんにあげよう」言うたところが、大きな桃がまた流れて来たそうな。(稲田浩二・稲田和子・編著『日本昔話100選』講談社+α文庫)

――婆が洗濯していると、上の方から桃こがつんぷらつんぷらと流れて来たそうです。婆が拾って喰って見たら、なにもかもうまかったそうです。「あまりうまえ桃こだ。おら爺なにも持っててこけべあ」と思って、「うまえ桃こあこっちゃ来い、にがい桃こああっちゃ行げ」というと、おおきなうまい桃が、婆の方に流れて来たそうです。(関敬吾・編『日本の昔ばなし2』所収「桃太郎」、岩波文庫)

この2冊ではいずれも、桃が2つ流れてきています。絵本を選んだ受講者の多くは、桃が1つしか流れてきていないと発表します。正解はない世界です。物語としてどちらがふさわしいのか、意見を交わすことに意味があるのです。

◎『桃太郎』の謎に迫る

【記憶のなかの『桃太郎』】
受講者の大半は、つぎのように記憶しています。

むかしあるところに、爺と婆が住んでいる。爺は山へ柴刈に、婆は川へ洗濯に行く。すると川上から大きな桃が流れてくる。婆はそれを拾い、家へ持ち帰る。食べようとして俎板の上へ乗せると、桃は二つに割れてなかから赤ちゃんが出てくる。二人は赤ん坊に桃太郎という名前をつけ、大切に育てる。成長した桃太郎は、鬼が島へ鬼退治に行く。婆は日本一のきび団子をつくり、桃太郎を送り出す。途中できび団子をくれればお供するという犬、猿、雉が合流する。そしてめでたく鬼退治をする。

【流れてきた桃】
流れてきたのは「桃」であることへの疑問。スイカでもメロンでもなく、なぜ「桃」なのでしょうか? 日本の昔ばなしには「漂流物」がよく登場します。あなたは「桃」からなにを連想しますか? 「女性器」を連想した人が多いと思います。赤ん坊が生れる環境として、「桃」でなければならなかった。この解釈が有力だと思います。

「古事記」には、「桃」は霊力のある果物として登場します。
――イザナギの命(みこと)は、例の十拳剣を抜いて追っ手を振り払い、最後の比良坂(ひらさか)まで来て坂の登口に桃の木のあるのを見つけ、桃の実を三つ取って投げつけた。/この効果は抜群。さしもの追っ手も退いて行く。「助かった」イザナギの命は胸をひとつ撫でおろしてから桃の木を見つめ、「よう助けてくれた。これからは私を助けてくれたと同じように苦しみに遭っている人間たちを助けてやってくれ」と告げ、桃の木に対してオオカムズミの命という尊い名前を与えた。これは偉大な神の霊くらいの意味だろう。中国の伝承では桃の実は邪悪を払い病を癒すものとして尊ばれている。古事記の記述もこの影響を受けていると考えてよいだろう。(阿刀田高『楽しい古事記』角川文庫)

多くの昔話は「霊力」と無縁ではありません。爺が柴刈りに行く「山」は、霊が集う神聖な場所。婆が洗濯に行く「川」は「霊力」が降臨する道筋。「桃」は川上である「山」から「川」へと流れてきます。流れてくるのは霊力のある「桃」でなければなりませんでした。

【流れてきた桃の数】
戦時中は修身の手本にもなった「桃太郎」の話です。婆は次に流れてくる確証もない桃を、一人で食べるとは考えられません。婆は桃を食べていない、ストーリをとりたいと思います。

私が収録している「巷の文芸」(現代風に面白おかしく語られている話)では、2つの桃が同時に流れてきます。婆は大きな桃を選びました。小さい桃は川下へと流れてしまいます。のちに桃太郎は、婆から何度もその話を聞かされます。桃太郎は川下に流れた桃から、妹「桃子」が誕生しているとの噂話を耳にします。成人した桃太郎は、妹探しの旅に出ます。桃子は鬼が島に捕らわれている、との情報を入手したからです。

【流れてきた桃の大きさ】
流れてきた桃の大きさは、どのくらいなのでしょうか? 婆が柄杓(ひしゃく)で掬ったことになっているものや、単に「拾った」としか書かれていないものがあります。これから推察すると、桃はソフトボールくらいのサイズではないでしょうか。サッカーボールでは柄杓で掬えないし、戸棚にも入らないと思います。

【桃のしまい場所】
爺が戻るまで、桃は戸棚にしまわれていたとするテキストが大多数です。箪笥となっているものもあります。青森県西津軽郡に伝わる「桃の子太郎」話では、桃は戸棚ではなく箪笥にしまわれています。夜中に泣き声がします。桃から赤ん坊が産まれていました。この話でも、桃はそんなに大きくはありません。箪笥の引き出しに納まるサイズなのですから。

絵本系では桃を強調するために、大きく描かれています。仕舞い場所も明示されておらず、いきなり俎板(まないた)の場面が描かれています。

【きび団子について】
桃太郎が腰に下げたきび団子。犬も雉も猿もそれを欲しがります。テキストの1つには、こんなやりとりがあります。
「ももたろうさん、ももたろうさん、どこへおいきで?」「鬼ケ島に鬼退治だ」「おともします、どうかその日本一のきびだんごをひとつください」
犬たちは何故腰に下げているのが「きび団子」とわかるのだろうか?

別のテキストでは、犬たちが「あなたの腰の物は何ですりゃあ」「やあ、こりゃあ、日本一のきび団子」との会話になっています。こっちの方が筋が通っています。鼻の良い犬にはきび団子はわかっても、雉には匂いでわかるはずがないからです。

桃太郎が腰にさげたのは、なぜ「きび団子」なのでしょうか? 「団子」はすぐに想像がつきます。お神酒とともに供えられるのは、団子や餅です。「団子」は、おそらく神聖な供物の代表格なのでしょう。

ではなぜ「黍(きび)」なのか? いも団子ではダメなのでしょうか? 黍はイネ科の一年草。餅は、黍を根気強くついて作られます。つまり黍はもっとも位の高い食物なのではないでしょうか? あるテキストには、きび団子は十人力のエネルギーを生むものと表現されています。

桃太郎はきび団子をいくつ持っていたのでしょうか? 1冊のテキストでは、3つとなっています。桃太郎は、求めに応じてそれぞれに半分を渡します。したがって自分の手元には1個半が残されています。

もうひとつのテキストでは、持参した数の記載がありません。惜しげもなく、まるまる1個を渡しています。大切なきび団子です。桃太郎がすべてを渡すことはないと思いますので、最低4個以上もっていたことになります。
 
犬、雉、猿はいずれも「私に1つくれればお伴する」と条件を提示しています。くれなければ家来にはなってやらない、と高圧的なのです。桃太郎は家来を欲していました。だから身を切る思いで、きび団子を与えました。おそらく何も残っていないか、最後の1個を残したくらいだと思います。

【日本一へのこだわり】
桃太郎が鬼退治に出陣するとき、爺は「日本一の桃太郎」というのぼりをつくります。婆は「日本一のきび団子」をつくります。なぜ「日本一」なのでしょうか? おまけに鬼が島についたとき、「日本一の桃太郎である」と口上を述べています。「日本一」にどんな意味があるのでしょうか。

【家来の存在】
新入社員への訓示で、「桃太郎」を引用にする人がいます。猿は知力、雉は情報収集力、犬は行動力の象徴とし、みなさんは3つを兼ね備えなさいと結びます。わかりやすいたとえです。家来はなぜ犬と猿と雉でなければならないのでしょうか?

私は選択基準を「日本」に、こだわりたいと思います。雉は日本の国鳥です。だから鳥類の代表として選ばれるのは当然です。猿も犬も「日本」の冠をかぶせた品種があります。ほかに「日本」をかぶせられた動物はいるのでしょうか? 少なくとも「広辞苑」には記載がありません。思い浮かぶのは日本カモシカ。これは洋モノっぽいし、力はなさそうです。逃げ足だけは速そうですが。桃太郎が選んだ家来は、いずれも日本の代表的な品種。そう考えて間違いないと思います。

桃太郎の類話「桃の子太郎」では、鬼が島へ渡るには、大きな河を越えなければならないことになっています。桃太郎は犬の背に乗り、流れを渡ります。猿は雉の背に乗り、宙を飛びます。だから雉と犬は必要だったと説明すると、猿の存在の意義がわからなくなります。

桃太郎は、智恵も行動力も兼ねそなえています。ではなぜ、智恵・猿と行動力・犬が必要だったのでしょうか? 鬼が島に、鬼がどのくらい棲息していたかの記載はありません。桃太郎の実力プラスきび団子効果(十人力)だけでは、太刀打ちできなかった数の鬼がいた。こう解釈するのが正しいと思います。だから桃太郎は家来を欲っしたのです。それも自分の分身みたいな、猿と犬が必要だったわけです。猿と犬の参加により、もう一人前の桃太郎が誕生しました。桃太郎が2人できた計算になります。

桃太郎はまだ不安でした。絶対的に勝利するためには、なにかが欠けています。そんなときに雉があらわれました。

やがて家来となる3種の動物が、桃太郎の前に登場する順序に着目したいと思います。多くの物語は、犬、猿、雉の順序で家来になっています。私はトリで現れる鳥に注目したいと思います。桃太郎には、雉のヘリコプタービュー(高いところから大局を観る)だけはできません。桃太郎が、もっとも必要としていた家来は雉。真打は最後にあらわれるのです。

例外のテキストもあります。、犬、雉、猿の順序で登場します。あ行のいぬ、か行のきじ、さ行のさるの順番だろうでは、説得力がありません。

【鬼ケ島について】
私の記憶のなかの「桃太郎」には、鬼退治に行く必然性が希薄です。鬼は村人たちに危害を及ぼしているのだろう、との推測はできます。1つのテキストでは、殿様の命令で鬼退治に行くことになっていますが、理由ははっきりとしていません。別のテキストには、鬼が村へやってきて、小判や村人の大切なものを盗んで行くとあります。

鬼が島へ行く目的は妹探し。「巷の文芸」の例は先に紹介しました。ほかには「嫁探し」とする話も存在するようです。松居直『ももたろう』(福音館書店)がそうらしいのですが、まだその本が見つかりません。

あるテキストには、「桃太郎は日本一という旗を背負い日本男児の象徴として、侵略戦争の国威発揚の道具とされてゆく」てんまつが書かれています。このころの「鬼」は、鬼畜米英に見立てられていました。この説は後づけだと思います。桃太郎の話が伝播したのは、はるかに前のことですから。

【持ち帰った財宝】
桃太郎にひれ伏し、鬼は命乞いをします。助けてくれれば、奪った財宝のすべてを返却するといいます。桃太郎は財宝をもち帰ります。爺と婆は、元気で戻ってきた桃太郎を見て安心しました。ほとんどのテキストは、こんな具合に物語は終っています。ただし2冊のテキストだけは、天子さまが桃太郎の活躍にほうびをくれるとなっています。それで爺と婆は幸せに暮しましたと結ばれています。

類話「桃の子太郎」は、「爺さまと婆さまはよい着物ばかりきて、いつまでもながく暮した。そこでとっぱれ。」で終ります。これでは鬼からとりもどした財宝を、着服したように感じてしまいます。2人は豊かにならなくともよいのです。

【その後の桃太郎】
桃太郎の話は、まだ完結していません。鬼退治を終えた桃太郎は、目標を失ってしまい、虚脱感にさいなまれています。することがないのです。ましてや、山の中での暮らしです。退屈で仕方がないはずです。若くて力持ち、しかも聡明で勇気があります。この人をいつまでも、田舎暮らしさせておくわけにはゆかないと思います。

「続・桃太郎」の話は、どこかに存在しているはずです。もしも存在していなければ、私が書こうと思います。

まずは、稲田浩二・稲田和子・編著『日本昔話100選』(講談社+α文庫)を探してみていただきたいと思います。そして私の設問のようなことを考えてみてください。結構楽しめますよ。 
(山本藤光:2010.05.22初稿、2018.02.22改稿)


乾くるみ『イニシエーション・ラブ』(文春文庫)

2018-02-22 | 書評「い」の国内著者
乾くるみ『イニシエーション・ラブ』(文春文庫)

僕がマユに出会ったのは、代打で呼ばれた合コンの席。やがて僕らは恋に落ちて…。甘美で、ときにほろ苦い青春のひとときを瑞々しい筆致で描いた青春小説―と思いきや、最後から二行目(絶対に先に読まないで!)で、本書は全く違った物語に変貌する。「必ず二回読みたくなる」と絶賛された傑作ミステリー。(「BOOK」データベースより)

◎「タロット・シリーズ」第2弾

『イニシエーション・ラブ』の初出は、2004年原書房からです。文庫化されたのは、それから3年後。そして芸能人(しゃべくり有田)がテレビで火をつけました。2015年には映画化もきまって、ついに100万部突破とのことです。

本書は「タロット・シリーズ」の第2作にあたります。シリーズの第1作『塔の断章』(講談社文庫)は1999年に発表されました。タロット・カードの「16番・塔」をイメージにした作品です。

――作家・辰巳まるみが書いた小説『機械の森』。そのゲーム化をはかるスタッフ8人が湖畔の別荘に集まった。その夜に悲劇が起こる。社長令嬢の香織が別荘の尖塔から墜落死したのだ。しかも彼女は妊娠していた。自殺なのか、それとも? 誰もが驚くジグソー・ミステリ、著者自身による解説を加えた「完全版」で登場!(文庫案内より)

この作品はあまり評判にはなりませんでした。そして『イニシエーション・ラブ』(文春文庫)は、タロット・カードの「6番・恋人」がもちいられました。『イニシエーション・ラブ』初出(原書房)のカバーは、セピア色の写真になっています。テーブルの上には、ホットコーヒーとアイスコーヒとともに、タロットカード6番とカセットテープがのせられています。私はこのカバーが好きだったのですが、文庫になったのをみて驚きました。手を固く結びあっている、2人の写真になっていたのです。タロット・カードは小さく右下にそえられていました。

そして第3作『リピート』(文春文庫)には「10番・運命の輪」がつかわれています。そのあたりについて、乾くるみ自身はつぎのように語っています。

――何かいいカードはないかとめくっていて、「運命の輪」のカードが使えるんじゃないかと。輪廻とか時の循環を連想させるでしょう。だからタイムトラベルを繰り返す話。タロット・カードには番号がついていて、「運命の輪」は10番なので、10人、10カ月……と連想してつくりました。(『文蔵』2014.7)より)

『イニシエーション・ラブ』は、レコードのようにside-A、Bの表裏のような構成になっています。この方法は以前に本多孝好が『真夜中の五分前』(2分冊、新潮文庫、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)で試みており成功しています。『真夜中の五分前』は、驚愕のエンディング(side-B)で評判となりました。「かならず(side-A)からお読みください」と帯に警告がなされていたほどです。

『イニシエーション・ラブ』もまったく同じ構造になっています。(side-A)は甘いラブソング、(side-B)には別れをにおわせる曲目を見出しにしています。乾くるみは、おそらく熱烈な本多孝好の読者だと思います。

◎亀裂の間から、きなくさいにおいが

物語の舞台は、1980年代の静岡です。乾くるみは、1963年に静岡で生まれた男性作家です。黒々としたあごひげをはやし、縁なし眼鏡をかけています。大学も地元の静岡大学理学部数学科を卒業しています。

本書は恋愛小説というよりは、まぎれもなくミステリー作品のはんちゅうにおさまるべきです。ただしミステリー小説に変化するのは最後の2行からですが。それまではタイトルどおり、ごくごく普通(イニシエーション)の、少し退屈なラブ小説です。

主人公の鈴木夕樹(たっくん)は就活中の大学の4年生。人数あわせで誘われた合コンで、歯科衛生士の成岡繭子(マユ)と知り合います。2人は、恋におちいります。夏休みがすぎクリスマスを迎えて、2人のぎこちない恋はすこしずつ進展してゆきます。たっくんの就職がきまります。配属先は東京となりました。ここからが(side-B)となります。

静岡と東京。2人の遠距離恋愛がはじまります。たっくんは毎日電話をして、毎週末に静岡にもどろうと心にきめます。ところがいろいろな予定がはいって、それらの実行が難しくなっていきます。文面から亀裂がはいる音が、聞こえてきます。たっくんは必死の努力をしてマユに会いにいきますが、マユは東京に出てこようとしません。亀裂の間から、きなくさいにおいが、たちのぼりはじめます。

『イニシエーション・ラブ』は、書評家泣かせの作品なのです。ここまでに私は、乾くるみの仕掛けたいくつかの地雷(伏線)をふんでいるはずです。しかし古風な恋愛小説を読んでいる感覚から、脱しきれません。就活、合コン、遠距離恋愛など、ありきたりなお膳立てに、へきえきしてくるような展開です。B面の収録曲が残り少なくなってきました。この先にはふれられません。

私は個人的に、存分に楽しませてもらいました。文句なしに日本の現代文学125+α入りの作品です。
(山本藤光:2014.12.05初稿、2018.02.22改稿)


石川啄木『一握の砂』(新潮文庫)

2018-02-21 | 書評「い」の国内著者
石川啄木『一握の砂』(新潮文庫)

啄木の処女歌集であり「我を愛する歌」で始まる『一握の砂』は、甘い抒情にのった自己哀惜の歌を多く含み、第二歌集の『悲しき玩具』は、切迫した生活感情を、虚無的な暗さを伴って吐露したものを多く含む。貧困と孤独にあえぎながらも、文学への情熱を失わず、歌壇に新風を吹きこんだ啄木の代表作を、彼の最もよき理解者であり、同郷の友でもある金田一氏の編集によって収める。(内容紹介より)

◎天才・石川啄木の足跡

世界規模で石川啄木をとらえた、ユニークな論文から紹介をはじめます。同時代の作家を見比べたもので、私は強く心を打たれました。

――たしかにゲーテに照応しうる詩人、バイロンに比定できる詩人は日本にはいない。だが、啄木に相当する詩人、牧水、晶子にあたる詩人もまた西洋には見当たらず、冷静な目で世界の文芸と明治の文芸を読み比べれば、優劣を論ずることが虚しくなるほど、双方の秀れた詩人たちの達成は独立した価値をもっている。(草壁焔太『石川啄木・「天才」の自己形成』講談社現代新書P9)

石川啄木の歌は、とにかくわかりやすいのが特徴です。考えこむ必要はなく、スラスラと先へ先へと読むことができます。啄木は日常の一場面を、照射してみせる天才です。心のなかの悲しみを、すくい上げる天才です。もうひとつだけ、石川啄木のことに触れた文章を引かせていただきます。

――現状への憤怒と語るに値しない自己の真実とを語る結果とはなった。現実の壁に閉ざされた卑小なる自己と、かかる現実を基盤に生ずる短歌とへの見下しが、自尊心の壁をやぶって赤裸の自己告白となったのです。(註:引用文中「語るに値しない自己」には傍点がついています)(明快案内シリーズ『明治の名著2』自由国民社P189-190)

後段の都合もあり、少しだけ石川啄木の足跡をたどってみたいと思います。

1886(明治19)年:岩手県で生まれる。生後すぐに一家は、北岩手郡渋民村に移る。
1899(明治32)年、13歳:岩手県盛岡尋常中学校時代に、盛岡女学校の堀合節子と初恋。翌年から「明星」を愛読。
1902(明治35)年、16歳:中学校を退学。上京。短歌をはじめる。与謝野鉄幹・晶子を訪問。
1904(明治37)年、18歳:堀合節子と婚約。「明星」に詩歌を発表。
1905(明治38)年、19歳:処女詩集「あこがれ」刊行。堀合節子と結婚。
1906(明治39)年、20歳:渋民村に戻る。渋民尋常高等小学校の代用教員となる。
1907(明治40)年、21歳:函館に到着。函館商業会議所の臨時雇いとなる。函館へ妻子、老母らを迎える。生活困窮。札幌から小樽へと転々。
1908(明治41)年、22歳:1月釧路新聞社へ入社。4月函館へ。5月家族を函館に残し上京。翌年本郷に家族を迎える。
1910(明治43)年、24歳:『一握の砂』刊行
1912(明治45)年、26歳:死去。死去後に『悲しき玩具』刊行。

◎石川啄木の歌碑

本稿を執筆するにあたり、石川啄木関連の資料を書棚から選び出しました。驚きました。石川啄木関連18冊と、『一握の砂』の資料が10冊ありました。1か月を要して、机の上に積まれた山を読破しました。漂白の歌人・石川啄木に迫ってみたいと思います。

前記のとおり、石川啄木は1886(明治19)年に生まれ、26歳の若さでその生涯を閉じています。1908(明治41)年、22歳のときに4カ月ほど釧路で生活をしています。釧路にはおびただしい数の、石川啄木の歌碑があります。「啄木歌碑マップ」(釧路市観光振興室・制作)を見ながら、25の歌碑をめぐることができます。釧路駅から幣舞橋を越えて右に曲がると、すぐのところに啄木像があります。そこでは第1番の歌碑がむかえてくれます。

――浪淘沙ながくも声をふるはせてうたふがごとき旅なりしかな

大好きな歌は第9番で見つけました。啄木ゆめ公園のなかにありました。私は釧路の共栄小学校へ入学しています。そのときには、この歌をそらんじることができました。

――さいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき

そしてもうひとつの有名な歌碑には、12か所目でめぐりあえました。米町ふるさと館のそばにありました。

――しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな

この歌も小学校の授業で、暗唱させられました。意味はわからないまま、いまでも釧路へ行くたびに口をついて出ます。釧路へは同窓会で、何度も行っています。

◎函館と石川啄木

函館に「石川啄木記念館」がオープンしたのは、1999年です。函館は啄木がもっとも愛した町、として知られています。有名な観光地・立待岬に石川啄木一族の墓所があります。そこには石川啄木の処女歌集『一握の砂』のなかの、有名な歌が刻まれています。

――東海の小島の磯の白砂にわれ泣なきぬれて蟹とたはむる

この歌の深い読み方を、示唆している文章があります。紹介させていただきます。

――日本を「東海の小島」に見立て、「磯」には峻厳なたゆみない人間活動を、「白砂」には苛酷な生存競争の坩堝(るつぼ)である都会生活の場を暗示し、「われ泣きぬれて」に峻厳苛酷な人生の活機に直面して、現実の苦痛に泣かねばならぬこと多い己の引き裂かれた心情を示し、「蟹」には玩具としての短歌を、「たわむる」に短歌の虐使によって瞬時の快を覚える心情を表現している。(明快案内シリーズ『明治の名著2』自由国民社P191)

明治40年、21歳の石川啄木は、
――石をもて追はるるごとくふるさとを出しかなしみ消ゆる時なし
の心境で函館にやってきます。しかし生活は困窮し、商業会議所の臨時雇いになったり、小学校の代用教員をしたりします。そして函館青柳町に妻子、老母、妹みつこを迎えます。そのときの心境を読んだ歌は函館公園のなかにあります。

――函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花

函館については、木原直彦『文学散歩・名作の中の北海道』(北海道新聞社)を参考にさせていただきました。また函館「啄木浪漫館」では、次の歌碑が待っていてくれます。

――砂山の砂に腹這い初恋のいたみを遠くおもひ出づる日

私は釧路を歩きぬきましたが、函館は友人の車で案内してもらいました。浜風のなかに生臭い匂いがあり、いくつもの歌が浮かび上がってきました。

北海道で石川啄木が詠ったのは、いずれも即興歌ではありません。その点にふれた文章を紹介させていただきます。

――啄木研究家、岩城之徳氏のよると、すべての歌が東京時代の作品であるということであって、そのことは、この歌集を味わううえに極めて重要な示唆をふくんでいる。「煙」の中の故郷を詠んだ歌や、「忘れがたき人人」の北海道のことを詠んだ歌も、すべてが思い出を歌ったものであることがあきらかだったからである。(佐古純一郎『青春の必読書』旺文社新書P129)

◎その他の啄木の歌碑

そのほか、私の好きな歌をならべてみたいと思います。カッコ歌碑の所在地です。

――たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず(岩手県八幡平市平舘・平舘駅前に歌碑)

――はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る
――ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく(東京都台東区上野・JR新幹線上野駅コンコースに歌碑)

――ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな(岩手県盛岡市本宮・盛岡先人記念館に歌碑)

ドナルド・キーンは著作のなかで、何度も石川啄木に言及しています。私はほとんどを『ドナルド・キーン著作集』で読みました。ドナルド・キーンは啄木を早熟な文学者である、と書いています。啄木に『ローマ字日記』という著作があります。キーンは自著『日本語の美』(中公文庫)のなかで、長文の論評を書いています。おもしろい記述がありますので、紹介させていただきます。

――啄木の思想には一貫性がありません。子供っぽいとしかいえないような発言が多数あります。責任を負うことを嫌ったので家族をなかなか東京へ呼ぶことができなかった。そればかりでなく、しきりに結婚という制度そのものを攻撃していました。愛情に束縛されたくなかったと思っていました。自分を愛する人を裏切りたくなりました。何という複雑な人物、何という現代的な人物なのでしょう。(ドナルド・キーン『日本語の美』中公文庫P130

石川啄木は、「悲しい」歌を数多く残しました。そんな啄木との出会いを、13歳のころを振り返って、萩原葉子は次のように書いています。

――私はもう夢中になっていた。啄木の詩の世界に、飢えた心の私は救われたのであった。こんなに悲しい心の中をじっと抱いている人が、いたのか? とまるで親友にでも出会ったような救いを覚えたのだった。(萩原葉子、扇屋正造編『一冊の本』PHP文庫P128)

萩原葉子と同様に、畑山博も青春の1冊のなかで『一握の砂』をあげています。畑山博は宮沢賢治やサン・テグジュベリに傾倒している作家です。その畑山博は、宮沢賢治と比べて、石川啄木について次のように書いています。

――啄木もまた、何かを守るために生涯をかけて闘った文学者の一人だった。でもその守るものが希望ではなく、過ぎた時間への郷愁だった。(畑山博、文藝春秋編『青春の一冊』文春文庫プラスP97-98)

悲しいことがあったとき、そっと開いてみたい歌集。それが『一握の砂』であり、『悲しい玩具』なのです。
(山本藤光:2012.04.14初稿、2018.02.21改稿)

石井桃子『ノンちゃん雲に乗る』(角川文庫)

2018-02-21 | 書評「い」の国内著者
石井桃子『ノンちゃん雲に乗る』(角川文庫)

ある朝小学校二年生のノンちゃんが目をさますと、お母さんがお兄ちゃんをつれて出かけてしまった後。大泣きして神社の境内にある大きなモミジの木に登ったノンちゃんは、池に落ちたと思ったら空に落ちて、雲に乗ったおじいさんに拾われて…。第一回文部大臣賞受賞。(「BOOK」データベースより)

◎クマのプーさんとの出会い

 角川文庫『ノンちゃん雲に乗る』を、古書店のワゴンで発見したときは狂喜しました。それまでは児童書(福音館創作童話シリーズ『ノンちゃん雲に乗る』)しか手元にありませんでした。角川文庫は裸本(カバーなし)で、紙ヤケは活字までせまっていました。奥付は昭和48年初版となっています。それを何度くりかえし読んだことでしょう。

「山本藤光の文庫で読む500+α」の近代日本文学の125冊に選んでから、改めて骨董品に挑みました。ところが紙ヤケが進行しており、おまけに老眼まで進行しているので、読むのに難渋してしまいました。そんなときに講談社文芸文庫の『日本の童話名作選・戦後編』に「ノンちゃん雲に乗る」が収載されていることを知りました。ヤケひとつないきれいな本をひらいて愕然としました。「ある春の朝」しか収載されていなかったのです。

『ノンちゃん雲に乗る』は、文庫本で300ページほどの長編です。「ある春の朝」は序章にあたり、30ページ未満のものなのです。仕方がないので、アマゾンで『石井桃子集1』(岩波書店)を購入しました。函入りの本で、活字もきれいでした。2度も読みました。その間ずっとさわやかな日々をおくりました。本書は私にとってかけがえのない、最高峰の児童書なのです。

 石井桃子は、A.A.ミルン『クマのプーさん』(岩波少年文庫)の翻訳者として有名です。石井桃子は26歳のときに犬養健邸(評論家・犬養道子の実家)で、「プーさん横丁にたった家」の原書(The House at Pooh Corner)にめぐりあいました。1933(昭和8)年のクリスマス・イヴのことです。当時小学4年生くらいだった犬養道子たちに「読んで」とせがまれて、石井桃子は作者や物語について知らないままに、翻訳して読み聞かせました。以下石井桃子の文章です。

――その時、私の上に、あとにも先にも、味わったことのない、ふしぎなことがおこった。私は、プーという、さし絵で見ると、クマとブタの合の子のようにも見える生きものといっしょに、一種、不可思議な世界にはいりこんでいった。(石井桃子「プーと私」、『石井桃子のことば』とんぼの本より)

 そして1940年『クマのプーさん』(岩波書店)として世にでたのです。『ノンちゃん雲に乗る』(光文社)が発刊されたのは、1947年のことです。本書はたちまちベストセラーとなりました。

◎ノンちゃんのお話

主人公のノンちゃんは小学校2年生です。新学期からは級長になる、優秀な女の子です。私がはじめて『ノンちゃん雲に乗る』を読んだのは、ノンちゃんと同じ歳のときでした。翌年(1955年)にそれが鰐淵晴子の主演で映画化となりました。小学校の授業として、映画館へ引率された記憶があります。

物語は「いまから何十年まえの、ある晴れた春の朝のできごとでした」で書きだされます。ところが天沢退二郎(『石井桃子全集1』の解説)によると、初出本はちがっていたようです。孫引きになりますが、引用させていただきます。

――いまから十四五年まえの、ある晴れた春の朝のできごとでした。いまでいえば東京都、そのころでは東京府のずっとずっと片隅にあたる菖蒲町という小さな町の、またずつとずつと町はずれにある氷川様というお社(やしろ)の、昼なお暗いような境内を、ノンちゃんという八つになる女の子が、ただひとり、わあわあ泣きながら、つうつうはなをすすりながら、ひょうたん池の方へ向かって歩いておりました。(『少年文学代表選集1』光文社、一九四九年)

引用原文は「社」は示ヘン、昼は旧字となっていました。天沢退二郎が推察しているとおり、改変後のほうがぼんやりした時間で適切だと思いました。

ノンちゃん(本名は田代信子)は、お母さんと兄ちゃんが自分をおいて出かけたので、悲しくて泣いていたのです。泣きながらノンちゃんは、木の上からひょうたん池に映る空をのぞいていました。そして誤って池に落ちてしまいます。

気がつくとノンちゃんは、水に映った雲の上にいました。そこには白いひげを生やした、おじいさんがいました。おじいさんに請われて、ノンちゃんは自分や家族の話をはじめます。本書は「ノンちゃんのお話」という大見出しのもとに、「ノンちゃんの家」、1度だけにいちゃんをぶった「おとうさん」、大好きな「おかあさん」、乱暴な「にいちゃん」へとつながります。その後やさしい「おじいさんのお話」をへて、ノンちゃんは小雲に乗って、自宅へと帰ってきます。

◎自分と数人の友人のために

『考える人』(2014年春号)で、「海外児童文学ふたたび」という特集が組まれていました。表紙がムーミン人形をもつ若き日のトーベ・ヤンソンでした。内容を吟味することなく、思わず購入してしまいました。小特集として「石井桃子を読む」というページがありました。

 川本三郎が『ノンちゃん雲に乗る』について筆をとっています。川本三郎は「中島京子『小さいおうち』(補:文春文庫)が『ノンちゃん雲に乗る』とほぼ同時期の東京の郊外住宅地の物語である」と書いています。それでハッとしました。バートン作の『ちいさいおうち』(岩波書店)は、石井桃子の訳書だったことを思い出したのです。おそらく中島京子は、石井桃子の訳書を読んでいて、タイトルをきめたのだと思います。

上橋菜穂子が国際アンデルセン賞を受賞してから、にわかに児童文学の世界がにぎやかになりました。中島京子(推薦作『FUTON』講談社文庫)などにも、ぜひ児童書を書いてもらいたいものです。

とんぼの本に『石井桃子のことば』という1冊があります。そのなかから少し紹介させていただきます。

――私には、ほとんど無意識のうちに――というのは、これが本になるだろうかとか、大勢の人に読んでもらいたいとかいう気持ちなしに――書きつづけ、訳しつづけた本が二つある。一つは「ノンちゃん」であり、もう一つは「クマのプーさん」である。これらの本を書き、訳していたときの心境は、純粋に自分と数人の友人の為というのであった。(自作再見「ノンちゃん雲に乗る」。『石井桃子のことば』とんぼの本P17より)

 石井桃子は『ノンちゃん雲に乗る』の執筆動機について、つぎのように書いています。
――『ノンちゃん雲に乗る』は最初、兵隊に行っている友達の憂さ晴らしのために書きました。友達が兵営で私が送る原稿を夜中に隠れて読んで、「読んでいる時だけ人間になっている」と言ってくれたんですね。(『文藝』1994年。『石井桃子のことば』とんぼの本P16より)

 最後に「逸話ともいえない小さな出来事があります」との前置きで書かれた文章を紹介します。

――ある高台の駅のホームから、青空に浮かぶ雲に日が射して、ぱっと輝くのを見た思い出がある。ああ、まだ雲の上には光り輝く世界があると思った。(自作再見「ノンちゃん雲に乗る」。『石井桃子のことば』とんぼの本P17より)

 この光景が別の日に見た、おどっている女の子たちの姿と重なりました。『ノンちゃん雲に乗る』誕生の瞬間です。

井伏鱒二に、「ドリトル先生」の翻訳を依頼したのは石井桃子です。石井桃子は101歳で亡くなりました。しかしたくさんの翻訳本や企画本は、いまだに健在です。

2014.11.05の日記
石井桃子『ノンちゃん雲に乗る』(角川文庫)をゲット。古書店の廉価ワゴンでついに発見。裸本で、小口の黄ばみははなはだしいのですが、読むことはできます。ついでに書店で『石井桃子の言葉』(とんぼの本)も購入しました。『ノンちゃん雲に乗る』は、『日本の童話・戦後編』(講談社文芸文庫)の抄録でしか読んでいませんでした。そこには「ある春の朝」が収載されています。角川文庫にはほかに「雲の上」「ノンちゃんのお話」(9話所収)「おじいさんのお話」(2話所収)「小雲に乗って」「家へ」「それから」とつづきます。読みはじめました。ほのぼのとして、至福の時がやってきました。書斎から窓外をながめると、雲ひとつない青空が広がっていました。
(山本藤光:2014.11.28初稿、2018.02.21改稿)

泉鏡花『高野聖』(新潮文庫)

2018-02-18 | 書評「い」の国内著者
泉鏡花『高野聖』(新潮文庫)

飛騨天生(あもう)峠、高野の旅僧は道に迷った薬売りを救おうとあとを追う。蛇や山蛭の棲む山路をやっと切りぬけて辿りついた峠の孤家(ひとつや)で、僧は匂うばかりの妖艶な美女にもてなされるが……彼女は淫心を抱いて近づく男を畜生に変えてしまう妖怪であった。幽谷に非現実境を展開する『高野聖』ほか、豊かな語彙、独特の旋律で綴る浪漫の名作『歌行燈』『女客』『国貞えがく』『売色鴨南蛮』を収める。(文庫案内より)

◎読者を夢幻の世界に誘う

泉鏡花の文章は、驚くほど読みやすいものです。一文が当時としては、極端に短いためでしょう。一般的に泉鏡花の文章は、美文調といわれています。単語を重ねると、どうしても文章がぎすぎすしてしまいます。ところが、泉鏡花の文章は澄んでいます。
 
『高野聖』(新潮文庫)は旅籠屋で眠れない「私」に、道連れになった僧が語ってくれた話です。飛騨から信州へ向かう分かれ道で、僧は富山の薬売りが危険な近道を行ったことを知ります。そのまま見殺しにはできず、僧も危険な道に分けいります。
 
蛇や山ヒルに遭遇しながら、僧は山道への難行をつづけます。薬売りの姿は見えません。そんなとき僧は、一軒家を発見します。そこには絶世の美女が住んでいました。僧は一宿をお願いします。女は僧を川へと案内します。女は川で僧を裸にし、自らも全裸になります。
 
川への往復では、蛙や蝙蝠が近寄ってきます。女は「お客さまがあるじゃないかね」とはねつけます。猿が女に抱きつきます。「畜生、お客様が見えないかい」といい捨てて殴りつけます。
 
家へ入ろうとすると、小父様と称する男が、女に問いかけます。「やあ、大分手間が取れると思ったに、御坊様旧(もと)の体でかえらっしゃったの」。
 
このあたりから否応なく、不気味さが増してきます。この先にはふれませんが、泉鏡花はあやしげな世界へと読者を引きずりこみます。泉鏡花は森鴎外『即興詩人』(上下巻、岩波文庫)などの影響を受け、美しく流れるような文章を追い求めました。
 
◎『高野聖』は「能」の世界と同じ

『高野聖』に関する書評は、びっくりするほどたくさんあります。そのなかで、村田喜代子(推薦作『鍋の中』文春文庫)が書いた「泉鏡花『高野聖』・魔界の子守歌」が、もっともまとを得ていると思いました(大岡信、加賀乙彦ら編『近代日本文学のすすめ』岩波文庫別冊13に所収)。引用してみたいと思います。

――鏡花の幻想怪奇物は、「能」などと似ている。近代小説は読者の日常と地続きの場所で話がはじまるものだ。しかし鏡花の小説は能の舞台と同様な、異域、神域の舞台の上でおこなわれる。最初に嘘の約束事が必要となる。何もない所に結界の線を引いて、暗黙の内に了解し合うのは古来からの男の世界だ。/そこでは「やり過ぎじゃありませんか」とか、「そんな女いないわよ」などと水をかけるような女性は入場禁止で、覗き趣味の私のような者は、闇にまぎれて入り込むしかない。(本文より)


 村田喜代子は女には書けない世界である、といっています。女が女を描くのとちがい、男はさまざまな女を表出できるのでしょう。山奥の女は、生娘であったり、娼婦であったり、女王さまであったり、母のようであったり、妖女であったりします。
 
 飛騨から信州へと分け入る近道は、泉鏡花の幼い時期と重ね合わせています。泉鏡花はさまざまな作家から評価、尊敬されています。「新潮日本文学小辞典」から、泉鏡花について評価をしている作家の名前だけを拾ってみたいと思います。
 
 芥川龍之介、夏目漱石、志賀直哉、谷崎潤一郎など。佐藤春夫は、漱石、鴎外と並ぶ作家と評価していました。
 
 プロからプロが評価される。これは稀有な例だと思います。泉鏡花は初期作品『夜行巡査』および『外科医』では、一定の評価を得ていました。しかし泉鏡花を有名にしたのは、『高野聖』を発表してからのことです。怪奇・ロマンティシズムに満ちあふれた作品は、「幻想文学」の先駆者といわれました。このジャンルは、上田秋成『雨月物語』以来、鳴りを潜めていました。そこに再びスポットをあてた、泉鏡花の功績は非常に大きなものでした。
(山本藤光:2009.08.13初稿、2018.02.18改稿)