ダグラス・ケネディ『仕事くれ。』(新潮文庫、中川聖訳)

ネッド・アレンにとって、栄光は目前だった。メイン州を出てほぼ10年、マンハッタンはいよいよ彼に微笑みかけようとしていた。だが、破滅は前触れもなく襲ってきた―失業。残された負債。不信を募らせる妻。それでも、辛酸をなめ尽くした彼にも蜘蛛の糸は下りてきた。ビッグ・ビジネスのチャンス。ところが…。『ビッグ・ピクチャー』で世界の注目を浴びた著者の再就職サスペンス。(「BOOK」データベースより)
◎ありきたりな主人公『仕事くれ』
会社内で他部門の人と会うと、交わされるあいさつはこんな具合です。「どう、忙しい?」「まあまあ」。サラリーマンは、忙しくもなく、暇でもない状態が最も好ましいものです。だからこんなあいさつになります。ときには時候のあいさつていどの問いかけに、本気になって答える人もいます。「めちゃ忙しくて、ぶっ倒れそうだよ」。こんな人にかぎって要領が悪く、うだつがあがっていないものです。
『仕事くれ。』(新潮文庫、中川聖訳)の主人公・ネッド・アレンは田舎の出身で、3流大学を卒業したことにコンプレックスをもっています。出世欲は旺盛で、一流品へのこだわりも強くもっています。
現在ネッドは、「コンピュワールド」の地域セールスマネージャーです。「コンピュワールド」は、アメリカで3番目に大きなコンピュータ雑誌です。4年前に業界に参入したものの、2番手の「コンピューターアメリカ」の発行部数に迫りつつあります。ネッド・アレンは腕利きのマネージャーで、雑誌の広告とりに駆けまわる部下たちを強力にサポートしています。
多忙な毎日の連続で、妻との日常に亀裂が入りはじめています。しかしネッドはまったく意にかいしません。そんなとき、彼の会社が吸収合併されることになります。彼は「コンピュワールド」の発行人を内示され、降ってわいたような幸運に狂喜します。
のぼりつめたジェットコースターは、ここから一挙に落ちはじめます。とことん奈落まで墜落してしまうのです。まず吸収合併された会社が、更に身売りされることになります。ネッドの発行人の夢は、同時に失墜します。
職を失ったネッド。再就職先を探しまわる毎日がつづきます。しかし道はひらけません。穴のあいた広告を、なかば恐喝まがいの行動で埋めた過去が邪魔をしています。「コンピュワールド」の発行人を内示した男への、暴力が露呈します。浮気がもとで妻が離れてゆきます。
急速に「負」へ転ずる日常。喪失感を酒でいやす毎日。ここまではミステリーというよりも、企業小説のようです。これまでの「ツケ」がネッドを包みこみます。
そして、事態はもっと悪くなります。ネッドの同級生が、ある魅力的な仕事をもちかけてきます。巧妙な罠を仕掛けられたネッドは、にっちもさっちもいかなくなります。まだ墜ちるのかと思わず胸を痛めてしまうほどに、主人公は絶望の淵に立たされます。こんなにすさまじい小説は、読んだことがありません。
殺人事件が起きます。それもネッドが見ている前で。しかも状況証拠は、すべて犯人がネッドであるように仕組まれています。手のこんだ罠が、ネッドを呪縛します。迫りくる警察。死を考えるネッド。
スピーディな展開は猜疑が不安に変わり、絶望が絶体絶命にまで追いこまれます。優秀なセールスマネージャーだったネッドには、偉大なる財産がありました。
それは4人の元部下。1人は仕事に絶望して自殺しますが、残る3人は上司の恩を忘れていません。ネッドは、自分を理解してくれる人たちの支えでよみがえります。
ダグラス・ケネディは前作『ビッグ・ピクチャー』(新潮文庫)でも、追いつめられてもけっしてあきらめない主人公を描いてみせました。
◎七転び八起きの人生
人はだれでも、未来に夢をはせます。そして挑戦します。成功か、失敗か、結果がでます。成功なら有頂天になります。失敗なら落ちこみます。簡単にいってしまえば、人生ってこんな感じになるものなのでしょう。
ダグラス・ケネディの小説は、いずれも生真面目にこの世界を描きつづけています。主人公と環境を変えただけのように、感じるほどです。極端にいうと、初期作品『どんづまり』(講談社文庫)のくりかえしなのです。ところが、まったくあきません。読者は知らぬ間に、主人公に感情移入しているのです。
「がんばれ」「負けるな」「やめておけ」……。読者は主人公に向かって、心のなかで何度も叫び声をあげることになります。『仕事くれ』は、入手が難しいようです。アマゾンを検索してみました。1円で38冊ありました。安心してお薦めさせていただきます。
日本にはこのような世界を、描ける書き手はまだいません。最近の池井戸潤(推薦作『下町ロケット』小学館文庫)が近いかもしれません。現代の日本の写し絵のような世界を、堪能していただきたいと思います。
(山本藤光:2009.08.19初稿、2018.03.02改稿)

ネッド・アレンにとって、栄光は目前だった。メイン州を出てほぼ10年、マンハッタンはいよいよ彼に微笑みかけようとしていた。だが、破滅は前触れもなく襲ってきた―失業。残された負債。不信を募らせる妻。それでも、辛酸をなめ尽くした彼にも蜘蛛の糸は下りてきた。ビッグ・ビジネスのチャンス。ところが…。『ビッグ・ピクチャー』で世界の注目を浴びた著者の再就職サスペンス。(「BOOK」データベースより)
◎ありきたりな主人公『仕事くれ』
会社内で他部門の人と会うと、交わされるあいさつはこんな具合です。「どう、忙しい?」「まあまあ」。サラリーマンは、忙しくもなく、暇でもない状態が最も好ましいものです。だからこんなあいさつになります。ときには時候のあいさつていどの問いかけに、本気になって答える人もいます。「めちゃ忙しくて、ぶっ倒れそうだよ」。こんな人にかぎって要領が悪く、うだつがあがっていないものです。
『仕事くれ。』(新潮文庫、中川聖訳)の主人公・ネッド・アレンは田舎の出身で、3流大学を卒業したことにコンプレックスをもっています。出世欲は旺盛で、一流品へのこだわりも強くもっています。
現在ネッドは、「コンピュワールド」の地域セールスマネージャーです。「コンピュワールド」は、アメリカで3番目に大きなコンピュータ雑誌です。4年前に業界に参入したものの、2番手の「コンピューターアメリカ」の発行部数に迫りつつあります。ネッド・アレンは腕利きのマネージャーで、雑誌の広告とりに駆けまわる部下たちを強力にサポートしています。
多忙な毎日の連続で、妻との日常に亀裂が入りはじめています。しかしネッドはまったく意にかいしません。そんなとき、彼の会社が吸収合併されることになります。彼は「コンピュワールド」の発行人を内示され、降ってわいたような幸運に狂喜します。
のぼりつめたジェットコースターは、ここから一挙に落ちはじめます。とことん奈落まで墜落してしまうのです。まず吸収合併された会社が、更に身売りされることになります。ネッドの発行人の夢は、同時に失墜します。
職を失ったネッド。再就職先を探しまわる毎日がつづきます。しかし道はひらけません。穴のあいた広告を、なかば恐喝まがいの行動で埋めた過去が邪魔をしています。「コンピュワールド」の発行人を内示した男への、暴力が露呈します。浮気がもとで妻が離れてゆきます。
急速に「負」へ転ずる日常。喪失感を酒でいやす毎日。ここまではミステリーというよりも、企業小説のようです。これまでの「ツケ」がネッドを包みこみます。
そして、事態はもっと悪くなります。ネッドの同級生が、ある魅力的な仕事をもちかけてきます。巧妙な罠を仕掛けられたネッドは、にっちもさっちもいかなくなります。まだ墜ちるのかと思わず胸を痛めてしまうほどに、主人公は絶望の淵に立たされます。こんなにすさまじい小説は、読んだことがありません。
殺人事件が起きます。それもネッドが見ている前で。しかも状況証拠は、すべて犯人がネッドであるように仕組まれています。手のこんだ罠が、ネッドを呪縛します。迫りくる警察。死を考えるネッド。
スピーディな展開は猜疑が不安に変わり、絶望が絶体絶命にまで追いこまれます。優秀なセールスマネージャーだったネッドには、偉大なる財産がありました。
それは4人の元部下。1人は仕事に絶望して自殺しますが、残る3人は上司の恩を忘れていません。ネッドは、自分を理解してくれる人たちの支えでよみがえります。
ダグラス・ケネディは前作『ビッグ・ピクチャー』(新潮文庫)でも、追いつめられてもけっしてあきらめない主人公を描いてみせました。
◎七転び八起きの人生
人はだれでも、未来に夢をはせます。そして挑戦します。成功か、失敗か、結果がでます。成功なら有頂天になります。失敗なら落ちこみます。簡単にいってしまえば、人生ってこんな感じになるものなのでしょう。
ダグラス・ケネディの小説は、いずれも生真面目にこの世界を描きつづけています。主人公と環境を変えただけのように、感じるほどです。極端にいうと、初期作品『どんづまり』(講談社文庫)のくりかえしなのです。ところが、まったくあきません。読者は知らぬ間に、主人公に感情移入しているのです。
「がんばれ」「負けるな」「やめておけ」……。読者は主人公に向かって、心のなかで何度も叫び声をあげることになります。『仕事くれ』は、入手が難しいようです。アマゾンを検索してみました。1円で38冊ありました。安心してお薦めさせていただきます。
日本にはこのような世界を、描ける書き手はまだいません。最近の池井戸潤(推薦作『下町ロケット』小学館文庫)が近いかもしれません。現代の日本の写し絵のような世界を、堪能していただきたいと思います。
(山本藤光:2009.08.19初稿、2018.03.02改稿)