阿川弘之『雲の墓標』(新潮文庫)

太平洋戦争末期、南方諸島の日本軍が次々に玉砕し、本土決戦が叫ばれていた頃、海軍予備学生たちは特攻隊員として、空や海の果てに消えていった……。一特攻学徒兵吉野次郎の日記の形をとり、大空に散った彼ら若人たちの、生への執着と死の恐怖に身をもだえる真実の姿を描く。観念的イデオロギー的な従来の戦争小説にはのぞむことのできなかったリアリティを持つ問題作。(文庫案内より)
◎あっち側にいた
2015年8月6日の朝刊に、阿川弘之の訃報が掲載されました。94歳ですから大往生といえるでしょう。少しだけ新聞記事を引いてみたいと思います。
――1942年に東大国文科を繰り上げ卒業して海軍予備学生に。中国大陸で敗戦を迎え、捕虜生活の後、復員して故郷の惨状を目のあたりにした。(中略)戦中、戦後の一途な青春像を描いた長編「春の城」(52年)で読売文学賞。広島原爆の後遺症に苦しむ人々を描いた「魔の遺産」、学徒出陣した特攻隊員の苦悩をテーマにした「雲の墓標」など、優れた戦争文学を著した。(「朝日新聞」2015.8.6)
阿川弘之は志賀直哉門下として、頑固に我が道を歩きつづけました。安岡章太郎や吉行淳之介らとともに、第三の新人としてくくられていますが、時流に乗ることを拒み、置いて行かれてしまいます。何かで読んだのですが、日常でも瞬間湯沸器と呼ばれているほど、一本気な人だったようです。
百目鬼恭三郎はそんな阿川弘之の一面を、次のように書いています。
――山本健吉によると、戦後作家たちを集めた座談会で、武田泰淳が、阿川だけはあちら側だ、という発言をしたそうだ。このように、出発当初から時流の「あちら側」を歩く作家が、ぱっとしないのは当然だろう。しかも、戦争に関する一切を罪悪視する戦後の風潮の中で、「やる気」があった予備学生のことを書いたりしては、なおさらのことである。(百目鬼恭三郎『現代の作家一〇一人』新潮社)
このことは阿川本人も自覚しており、娘・阿川佐和子との対談で次のように語っています。
――戦後僕なんか冷遇された。あいつ一人意識の低い向こう岸の人間だといわれた。めざめていないってわけよ、阿川というのは(笑)。だけど目覚める気はまったくなかったな。(阿川佐和子『男は語る・アガワと12人の男たち』文春文庫)
◎純粋な若者の心と行動
『雲の墓標』(新潮文庫)は、学徒動員された4人の京大生の苦悩と行動の物語です。阿川弘之の実体験に、実際に特攻出撃した若者の日記や書簡を重ねた戦争小説です。
昭和18年京大生だった吉野次郎は、学友である藤倉、坂井、鹿島らと広島の大竹海兵団に入隊します。物語は吉野の日記の形式で、この場面から静かに滑り出します。
――大竹海兵団/昭和十八年十二月十二日/今日は入団後はじめての日曜日で、日課は身の廻り整理。わずかに晏如の心を得て日記をつけはじめる。(本文冒頭より)
鹿島を除く3人は航空科に入り、土浦、出水などでの訓練の後、大分県宇佐航空隊に配属されます。
吉野次郎は、蕗子という女性と知り合います。しかし吉野は定められた道を進むだけだと、その恋情を断ち切ります。いっぽう藤倉は、特攻出撃の思想を受け入れられず、恩師に宛てて苦悩の胸の内を手紙に書きます。吉野と藤倉は、戦争に対してまったく異質な考え方を抱いています、
藤倉は恩師に手紙を書いた2か月後、訓練中に事故死します。坂井は特攻隊員として、敵機に突っ込み戦死します。そして吉野も特攻隊員として戦死します。
本書は唯一生き残った鹿島が、吉野の日記や遺書、藤倉の書簡をまじえて追悼の気持ちをつづったものです。これらの挿入が作品の現実味を深め、純粋な若者の心と行動を際立たせています。
◎阿川弘之の戦争文学
阿川弘之は『山本五十六』『井上成美』(ともに新潮文庫)などの海軍軍人の伝記も書いていますが、戦争文学の第1人者というのが文壇での位置づけになると思います。そのあたりについて福田和也は、次のように書いています。ちなみに福田和也は、『雲の墓標』の評価は67点としています。
――阿川にとって戦争にかかわる想いは、いささかも観念的なものではなく、むしろ身体の側に肉化されている。古山高麗雄と並んで阿川の作品が戦争について考える時に逸せない所以である。(福田和也『作家の値うち』飛鳥新社)
阿川弘之の戦争文学は、文学史上は3部作ととらえられています。次の引用のなかの『魔の遺産』は、PHP文庫になっていますが絶版で読んでいません。
――志賀直哉の小説技法を継承している阿川弘之は、『春の城』(昭和27)に学徒兵の青春のあり方を描いたが、広島に育った阿川は『魔の遺産』(昭和29)で原爆をうけた戦後の広島を描き、さらに『雲の墓標』(昭和31)で、学徒兵の内診を飾りけのない素直さで描き出した。(松原新一ほか『戦後日本文学史・年表』(講談社P205)
阿川弘之の著作は、文庫だけで40冊以上ありました。本日すべてを引っ張り出し、8月6日の風にあてました。広島原爆投下の日に、阿川弘之は戦争小説を残して消えてしまいました。合掌。
(山本藤光:2013.09.14初稿、2018.02.26改稿)

太平洋戦争末期、南方諸島の日本軍が次々に玉砕し、本土決戦が叫ばれていた頃、海軍予備学生たちは特攻隊員として、空や海の果てに消えていった……。一特攻学徒兵吉野次郎の日記の形をとり、大空に散った彼ら若人たちの、生への執着と死の恐怖に身をもだえる真実の姿を描く。観念的イデオロギー的な従来の戦争小説にはのぞむことのできなかったリアリティを持つ問題作。(文庫案内より)
◎あっち側にいた
2015年8月6日の朝刊に、阿川弘之の訃報が掲載されました。94歳ですから大往生といえるでしょう。少しだけ新聞記事を引いてみたいと思います。
――1942年に東大国文科を繰り上げ卒業して海軍予備学生に。中国大陸で敗戦を迎え、捕虜生活の後、復員して故郷の惨状を目のあたりにした。(中略)戦中、戦後の一途な青春像を描いた長編「春の城」(52年)で読売文学賞。広島原爆の後遺症に苦しむ人々を描いた「魔の遺産」、学徒出陣した特攻隊員の苦悩をテーマにした「雲の墓標」など、優れた戦争文学を著した。(「朝日新聞」2015.8.6)
阿川弘之は志賀直哉門下として、頑固に我が道を歩きつづけました。安岡章太郎や吉行淳之介らとともに、第三の新人としてくくられていますが、時流に乗ることを拒み、置いて行かれてしまいます。何かで読んだのですが、日常でも瞬間湯沸器と呼ばれているほど、一本気な人だったようです。
百目鬼恭三郎はそんな阿川弘之の一面を、次のように書いています。
――山本健吉によると、戦後作家たちを集めた座談会で、武田泰淳が、阿川だけはあちら側だ、という発言をしたそうだ。このように、出発当初から時流の「あちら側」を歩く作家が、ぱっとしないのは当然だろう。しかも、戦争に関する一切を罪悪視する戦後の風潮の中で、「やる気」があった予備学生のことを書いたりしては、なおさらのことである。(百目鬼恭三郎『現代の作家一〇一人』新潮社)
このことは阿川本人も自覚しており、娘・阿川佐和子との対談で次のように語っています。
――戦後僕なんか冷遇された。あいつ一人意識の低い向こう岸の人間だといわれた。めざめていないってわけよ、阿川というのは(笑)。だけど目覚める気はまったくなかったな。(阿川佐和子『男は語る・アガワと12人の男たち』文春文庫)
◎純粋な若者の心と行動
『雲の墓標』(新潮文庫)は、学徒動員された4人の京大生の苦悩と行動の物語です。阿川弘之の実体験に、実際に特攻出撃した若者の日記や書簡を重ねた戦争小説です。
昭和18年京大生だった吉野次郎は、学友である藤倉、坂井、鹿島らと広島の大竹海兵団に入隊します。物語は吉野の日記の形式で、この場面から静かに滑り出します。
――大竹海兵団/昭和十八年十二月十二日/今日は入団後はじめての日曜日で、日課は身の廻り整理。わずかに晏如の心を得て日記をつけはじめる。(本文冒頭より)
鹿島を除く3人は航空科に入り、土浦、出水などでの訓練の後、大分県宇佐航空隊に配属されます。
吉野次郎は、蕗子という女性と知り合います。しかし吉野は定められた道を進むだけだと、その恋情を断ち切ります。いっぽう藤倉は、特攻出撃の思想を受け入れられず、恩師に宛てて苦悩の胸の内を手紙に書きます。吉野と藤倉は、戦争に対してまったく異質な考え方を抱いています、
藤倉は恩師に手紙を書いた2か月後、訓練中に事故死します。坂井は特攻隊員として、敵機に突っ込み戦死します。そして吉野も特攻隊員として戦死します。
本書は唯一生き残った鹿島が、吉野の日記や遺書、藤倉の書簡をまじえて追悼の気持ちをつづったものです。これらの挿入が作品の現実味を深め、純粋な若者の心と行動を際立たせています。
◎阿川弘之の戦争文学
阿川弘之は『山本五十六』『井上成美』(ともに新潮文庫)などの海軍軍人の伝記も書いていますが、戦争文学の第1人者というのが文壇での位置づけになると思います。そのあたりについて福田和也は、次のように書いています。ちなみに福田和也は、『雲の墓標』の評価は67点としています。
――阿川にとって戦争にかかわる想いは、いささかも観念的なものではなく、むしろ身体の側に肉化されている。古山高麗雄と並んで阿川の作品が戦争について考える時に逸せない所以である。(福田和也『作家の値うち』飛鳥新社)
阿川弘之の戦争文学は、文学史上は3部作ととらえられています。次の引用のなかの『魔の遺産』は、PHP文庫になっていますが絶版で読んでいません。
――志賀直哉の小説技法を継承している阿川弘之は、『春の城』(昭和27)に学徒兵の青春のあり方を描いたが、広島に育った阿川は『魔の遺産』(昭和29)で原爆をうけた戦後の広島を描き、さらに『雲の墓標』(昭和31)で、学徒兵の内診を飾りけのない素直さで描き出した。(松原新一ほか『戦後日本文学史・年表』(講談社P205)
阿川弘之の著作は、文庫だけで40冊以上ありました。本日すべてを引っ張り出し、8月6日の風にあてました。広島原爆投下の日に、阿川弘之は戦争小説を残して消えてしまいました。合掌。
(山本藤光:2013.09.14初稿、2018.02.26改稿)