天藤真『大誘拐』(創元推理文庫)

三度目の刑務所生活で、スリ師戸並健次は思案に暮れた。しのぎ稼業から足を洗い社会復帰を果たすには元手が要る、そのためには―早い話が誘拐、身代金しかない。雑居房で知り合った秋葉正義、三宅平太を仲間に、準備万端調えて現地入り。片や標的に定められた柳川家の当主、お供を連れて持山を歩く。…時は満ちて、絶好の誘拐日和到来。三人組と柳川としの熱い日々が始まる! 第32回日本推理作家協会賞長篇賞受賞作。(「BOOK」データベースより)
◎大奥さまは言われた
数十年ぶりに、電子書籍で再読しました。やっぱり素敵な誘拐物語でした。誘拐小説の最高傑作を紹介させていただきます。ちなみに天藤真『大誘拐』(創元推理文庫)は、文藝春秋編『東西ミステリーベスト100』(文春文庫)の1985年版が12位、2013年版が7位でした。今なおベスト10に君臨する堂々たる作品なのです。
天藤真(てんどう・しん)は1915年に生まれ、1983年に没しています。『大誘拐』は天藤真の代表作といわれ、いまだに色あせることなくミステリー小説の最前線にいます。この作品の人気がすたれないのは、百億円という途方もない身代金に代表されるように、型破りな設定にあります。
これから読む方のために、ストーリーの詳細は伏せておきます。天藤真『大誘拐』(双葉文庫)は、犯人側と被害側の双方向を巧みに描き分けています。この構造は劇場型の誘拐物語をきわだたせる効果をもたらしています。
――紀州随一の大富豪といわれる柳川家の女主人、とし子刀自(とじ)が、不意に山歩きがしてみたいと言い出したのは、一週間ほどまえ、九月上旬のことだった。(第1章1)
――やがて「虹の童子」の名で知られるようになったこの誘拐団は、同志三人。大阪刑務所で知り合った刑余者たちである。かれらについては刑務所におよそ次のような記録が残っている。(後略)(第1章2)
この構造により読者は、テニスのラリーを観ているような感覚にさせられます。スリで大阪刑務所に服役していた戸並健次は、務所仲間の秋葉正義と三宅平太に営利誘拐話を持ちかけます。標的は紀州一の大富豪・柳川家の女主人82歳のおばさん・とし子刀自。
3人は下見を繰り返し、ひたすらチャンスを待ちます。そんなおり、刀自は吉村紀美という少女をお供に、敷地内を散策します。そこて犯人グループと遭遇します。犯人たちは少女をいっしょに誘拐しようとします。その様子は少女の独白文でつづられています。
――「なりまへん」と大奥さまは言われたのです。「この子には指一本触れてはなりまへん。そないなことは、私が許しまへん!」(本文P78)
犯人たちは刀自の気迫に負けて、少女を解放します。こうして「大」誘拐の膜が上がります。
◎ふわりとした紀州方言
刀自は少女を解放するなら、何でもいうことをきくと約束しました。刀自は誘拐団に隠れ家を紹介します。彼らのアジトでは、すぐに見つかってしまうと判断したからです。刀自と誘拐団は、以前柳川家の女中頭・中村くらの山奥の家へ移ります。そこで犯人たちは、身代金を五千万円と決めます。犯人たちは問い返した刀自に胸を張って伝えます。
――「五千万いうたんや。そらおばあさんには世話になったわ。そやけどな、それとこれとは話が別や。五千万や。ビタ一門負けるわけにはいかへんで」(P158)
それに対して、刀自は次のようにいいます、。
(引用はじめ)
「あんた、この私を何と思うてはる。やせても枯れても大柳川家の当主やで。見損のうてもろうたら困るがな。私はそない安うはないわ」
「え?」
「端たは面倒やから、きりよく百億や。それより下で取引きされたら、末代までの恥さらしや。ええな、百億やで。ビタ一文負からんで」
(引用おわりP158-159)
本書の醍醐味は、このやり取りに凝縮されています。刀自は次第に若い誘拐団を翻弄してゆきます。誘拐団を「虹の童子」と名乗らせ、柳川家の代理人として和歌山県警の井狩本部長を指名します。さらに連絡手段は、テレビとラジオに実況中継との条件を提示します。
これ以上、ストーリーを追うのはやめます。最後に向井敏に結んでもらいます。
――このくだりを境に誘拐犯とおばあちゃんとの位置が逆転することになるのだが、紀州方言のふわりとした口調と、きりりと引きしまった地の文とのコントラストが楽しませる。(向井敏『書斎の旅人』中公文庫P46)
ユーモアにあふれた本書はこれからも、ミステリー小説の代表作として君臨することでしょう。ぜひ読んでみてください。
(山本藤光2017.04.08初稿、2018.02.23改稿)

三度目の刑務所生活で、スリ師戸並健次は思案に暮れた。しのぎ稼業から足を洗い社会復帰を果たすには元手が要る、そのためには―早い話が誘拐、身代金しかない。雑居房で知り合った秋葉正義、三宅平太を仲間に、準備万端調えて現地入り。片や標的に定められた柳川家の当主、お供を連れて持山を歩く。…時は満ちて、絶好の誘拐日和到来。三人組と柳川としの熱い日々が始まる! 第32回日本推理作家協会賞長篇賞受賞作。(「BOOK」データベースより)
◎大奥さまは言われた
数十年ぶりに、電子書籍で再読しました。やっぱり素敵な誘拐物語でした。誘拐小説の最高傑作を紹介させていただきます。ちなみに天藤真『大誘拐』(創元推理文庫)は、文藝春秋編『東西ミステリーベスト100』(文春文庫)の1985年版が12位、2013年版が7位でした。今なおベスト10に君臨する堂々たる作品なのです。
天藤真(てんどう・しん)は1915年に生まれ、1983年に没しています。『大誘拐』は天藤真の代表作といわれ、いまだに色あせることなくミステリー小説の最前線にいます。この作品の人気がすたれないのは、百億円という途方もない身代金に代表されるように、型破りな設定にあります。
これから読む方のために、ストーリーの詳細は伏せておきます。天藤真『大誘拐』(双葉文庫)は、犯人側と被害側の双方向を巧みに描き分けています。この構造は劇場型の誘拐物語をきわだたせる効果をもたらしています。
――紀州随一の大富豪といわれる柳川家の女主人、とし子刀自(とじ)が、不意に山歩きがしてみたいと言い出したのは、一週間ほどまえ、九月上旬のことだった。(第1章1)
――やがて「虹の童子」の名で知られるようになったこの誘拐団は、同志三人。大阪刑務所で知り合った刑余者たちである。かれらについては刑務所におよそ次のような記録が残っている。(後略)(第1章2)
この構造により読者は、テニスのラリーを観ているような感覚にさせられます。スリで大阪刑務所に服役していた戸並健次は、務所仲間の秋葉正義と三宅平太に営利誘拐話を持ちかけます。標的は紀州一の大富豪・柳川家の女主人82歳のおばさん・とし子刀自。
3人は下見を繰り返し、ひたすらチャンスを待ちます。そんなおり、刀自は吉村紀美という少女をお供に、敷地内を散策します。そこて犯人グループと遭遇します。犯人たちは少女をいっしょに誘拐しようとします。その様子は少女の独白文でつづられています。
――「なりまへん」と大奥さまは言われたのです。「この子には指一本触れてはなりまへん。そないなことは、私が許しまへん!」(本文P78)
犯人たちは刀自の気迫に負けて、少女を解放します。こうして「大」誘拐の膜が上がります。
◎ふわりとした紀州方言
刀自は少女を解放するなら、何でもいうことをきくと約束しました。刀自は誘拐団に隠れ家を紹介します。彼らのアジトでは、すぐに見つかってしまうと判断したからです。刀自と誘拐団は、以前柳川家の女中頭・中村くらの山奥の家へ移ります。そこで犯人たちは、身代金を五千万円と決めます。犯人たちは問い返した刀自に胸を張って伝えます。
――「五千万いうたんや。そらおばあさんには世話になったわ。そやけどな、それとこれとは話が別や。五千万や。ビタ一門負けるわけにはいかへんで」(P158)
それに対して、刀自は次のようにいいます、。
(引用はじめ)
「あんた、この私を何と思うてはる。やせても枯れても大柳川家の当主やで。見損のうてもろうたら困るがな。私はそない安うはないわ」
「え?」
「端たは面倒やから、きりよく百億や。それより下で取引きされたら、末代までの恥さらしや。ええな、百億やで。ビタ一文負からんで」
(引用おわりP158-159)
本書の醍醐味は、このやり取りに凝縮されています。刀自は次第に若い誘拐団を翻弄してゆきます。誘拐団を「虹の童子」と名乗らせ、柳川家の代理人として和歌山県警の井狩本部長を指名します。さらに連絡手段は、テレビとラジオに実況中継との条件を提示します。
これ以上、ストーリーを追うのはやめます。最後に向井敏に結んでもらいます。
――このくだりを境に誘拐犯とおばあちゃんとの位置が逆転することになるのだが、紀州方言のふわりとした口調と、きりりと引きしまった地の文とのコントラストが楽しませる。(向井敏『書斎の旅人』中公文庫P46)
ユーモアにあふれた本書はこれからも、ミステリー小説の代表作として君臨することでしょう。ぜひ読んでみてください。
(山本藤光2017.04.08初稿、2018.02.23改稿)