炉端での話題

折々に反応し揺れる思いを語りたい

完結していない技術

2011-10-21 16:42:40 | Weblog
 喉もと過ぎれば暑さ忘れるではないが、福島原発事故の検証が済んでいないまま、またぞろ、原発必要論が息を吹き返し始めたようだ。しかし、原発廃炉まで数十年かかるというニュースを聞いて、私の心は凍りついてしまった。おそらく私はそれを見届けることはできないであろう。いや、私の息子も見届けられない。その次の孫たちが、どうしてこうなったのかが分からないまま、災禍の後始末に苦労しなければならないのだ。
 使用済み核燃料の後始末の技術が、原発開始から半世紀が過ぎてもまだ確立されていない。使用済み核燃料を野積みにして(水の中だが)置き、それが爆発したのは象徴的だ。汚染水を浄化する装置も、単に汚染水をフィルターで濾過するだけだから、そのフィルターには核物質が高濃度に蓄積されてしまう。その始末をどうするのであろうか。青森県の核燃料の再処理工場もうまく行っていないまま、稼動させればさせるほど金がかかってしまうという話しを聞く。汚染泥を剥ぎ取っても、それを集積すれば、また高濃度の泥の山ができるだけではないのか。
 結局、原発はテクノロジーとして完結していないのだ。後始末の見込みがないまま、何故、原発導入の見切り発車をしてしまったのであろうか。その見込みがないまま原発を外国に輸出するのであろうか。廃棄物を外国に捨ててしまえばそれでよいと言うのであろうか。
 エネルギーが本当に不足するのか(何とか節電を乗り越えてしまったではないか)、エネルギーの無駄な消費をなくしもっと節約できるのではないか、新しいエネルギーの獲得が実用的に可能なのか、といったエネルギーの需給関係についての冷静な議論がどの程度なされているのか分からないので(やらせをしておいて、開き直って白を切るなようなことをしていては駄目だ)、脱原発でゆくのか否か、にわかに結論しがたい。
 しかし、廃棄物の後始末の方法がテクノロジーとして確立されることが原発使用には絶対に必要なのは明らかだ。(AO)