龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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福島から発信するということ(24)移転しても農業は続けられる!

2011年07月31日 22時44分57秒 | 大震災の中で
先日フランスレンヌ第2大学の准教授に、

福島県内の農家・酪農家で今は一時的に福島を離れて農業・酪農を続けたい人

を支援をするから連絡を、というお話を伺いました。

興味ある方はfoxydogまで連絡を。

福島の厳しい現実を目の当たりにしていると、そういう支援があるなら、積極的に福島県の農家・酪農家はその支援に「乗る」ことを考えてみていいのではないか、と考えるようになりました。

Twitterやブログを見ても、避難支援の手はいくつもさしのべられています。福島県の住民の方は、それも真剣に選択肢の一つに入れて行動することが必要かもしれませんね。敢えて残る、と言う選択肢だってもちろんあるけれど、それだけが唯一の道ではない、ということは、考えに入れるべき時期になってきたのかもしれません。
なぜそう考えるかといえば、事態は、対応・立法の遅れも相まって(東電福島第一原発の事故が深刻すぎるのが最大の原因ですが)、長期化の様相を呈してきたからです。

小さい子どももなく、妊婦や若い女性を身近に持たず、年寄りの最後の10年20年を見守るのが「家族」としての仕事である定年前の初老の私は、職もあることだし、福島に踏みとどまって生きていくつもりではありますが。

さまざまな選択肢を考慮しながら、「自分でこうする」と決めるのが大事ですよね。
所詮誰かに決めてもらうことはできないですから。
国は補償なしに避難を語れないものね、所詮。
法律変えろ!
って運動を起こすべきだね。政治家もそのあたりもっと勉強してほしい。
「大丈夫です」
っていいたいだけなら、方向は違っても「東電」と同じ垂直統合型の現地に選択肢を与えないやり方に終わってしまうもの。

「基準」と「強制避難」とセットになった補償だけでは子どもは所詮その狭間に落ち込んで救えないよね。
さまざまな可能性を探りましょう!

前述の児玉教授が資料で引用されていたデータでは

(引用開始)
前ガン状態チェルノブイリ膀胱炎の解明された膀胱ガンの増加
(国立バイオアッセイ研究センター福島昭治所長)
増えた増えない、という論争は、結局国民の健康を真乗る役に立たない。そこで前ガン状態のメカニズム解明が進んでいる。
セシウムは尿中に出るので膀胱の細胞に蓄積する。
ウクライナなどでは10万人辺りの膀胱ガンが62%増加した。そこで福島博士は500名の組織を検討し6ベクレル/リッターが15年でP53変異と増殖性膀胱炎
発表概要
http://t.co/2ld0mdE
同詳細
http://t.co/u5BM8up
(引用終了)

とあります。
福島県内の母親の母乳からも(あれはヨウ素だったかな?)検出されていたし、子ども達の尿からも検出されていたと記憶しています。
低線量ではあっても放射性物質の尿からの排出が長期化すれば、かなりの確率で前ガン状態の増加が考えられるという指摘でした。

いつか福島に戻ってくるとしても、ここで出荷できないまま何年も事業(農業・畜産・酪農)を続けて行くことは不可能に近い。
だから今は、思い切って別の場所に仕事場を移し、将来の帰還を視野に活動してみるのも一つの選択肢かもしれません。

高校生(普通高校)の求人状況の厳しさを見ているだけで、「これが続いたらやばい」と思わずにはいられないです。




福島から発信するということ(23)

2011年07月31日 21時58分29秒 | 大震災の中で
セシウムは尿管上皮=膀胱の前ガン症状をもたらす、という指摘は特に重要。
「補償問題と線引の問題と、子どもの問題は、ただちに分けて下さい」
という主張も極めて大切。
児玉龍彦氏のYouTube動画です。
http://www.youtube.com/watch?v=DcDs4woeplI
上の動画を文字起こしをしたサイトはこちら。
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65754131.html
児玉氏は東京大学先端科学技術センター教授<東大アイソトープ総合センター長。
彼が7月27日衆議院厚生労働委員会「放射線の健康への影響」参考人説明で発言した画像です。

これを福島県内の人は直ちに見るべきだと思います。
見て、考えて、一人一人の選択をしましょう。
その上で、その選択を最大限行政として保障できるよう、国と自治体に要求していきましょう。
上を見ていただければ分かりますが、児玉龍彦氏の主張は、数値や基準の話ではなく、私達最大の被曝差異者である福島県民が、自ら何を求めて行動すべきか、についての大事なフックが無数に入っています。

無論、直接的には国と自治体が今すぐ取り組むべき施策・立法について発言ですが、それは私達市民が何を考えどう行動していくか、を鋭く提案しているものでもあります。

ぜひ見てください。
何をすればいいのか?どこまでなら安全か?
という「安心」を安易に求める言説が、いかに私達自身をさらなる矛盾に陥れているか、が分かってきます。
少なくても私はそう感じています。
安心なわけはない。
ではどうするか?全員逃げればいいってもんじゃない。
「どうすればいいのか?」なんて答えはないんですよね。
深刻な状況を深刻だと認識しつつ、「どうしたいのか」「どうするか」「今なにができるのか」を考えて、一歩直ちに踏み出し、粘り強くその方向に歩み続けていくことが不可欠なのでしょう。

除染を徹底的にやり続けること。選択的避難を全面支援すること。
国内の技術を総動員して、線量低下のプロジェクトを始動すること。
子ども達を被曝から守ること。
以上のことを可能にする法律を直ちに立法し、施策を実施すること。
力を尽くして力説する児玉氏の姿勢に強く共感しました。

特に、セシウムは尿管上皮に影響を与えて、膀胱ガンもしくは前ガン症状を明確に引き起こす、という指摘は、長年アイソトープ治療に携わった専門家の知見として、重みがあると感じました。

ホールボディーカウンターなんて意味がないという主張。
線量測定は高機能な技術・機材ができているのに、現行法律は高線量の狭い範囲における少量被曝を前提としていて、低線量広域長期被曝に全く対応していないから、放射能汚染された検体を移動して測定することすら「違法状態」だという指摘。
も「うはっ、」という感じ。
主張のクリアさに、目から鱗でした。
全て反論可能な明確さで主張しているところがクリアで、信頼性が高いのです。
ただの素人の印象ではなく、ね。

とにかくぜひ一人でも多くの人に見てほしい。
YouTubeで一部削除されたのはなぜか、気になるところです。
でも、上記のところはまだ見られるはず。


大震災以後を生きる(21)

2011年07月31日 20時30分28秒 | 大震災の中で
いわき市の渡辺市長は、いちはやく「いわき市は安全だ」と宣言し、4月6日に始業式を全市内の小中学校で実施する、と決めた。
結果、いわき市内の平均的な線量は比較的低く、一部のホットスポットを除けば年間外部被曝線量は1ミリシーベルトを超えない場所が多いようだ。

市長はたまたま「賭け」に勝った、といえるかもしれない。
(実情は商工業者の意向と市の存続の必要性から、「安全」に賭け金を張っただけかもしれない。賭け金はもちろん、市民の<生命の安全>なんだけどね)

安全だ、といって本当に安全なら、これに越したことはない。賠償責任も問われないし、人口の流出も防げる。

だが、たかだかそれだけのことだ。

いわき市内にも一部、北側にホットスポットが存在することが明らかになった後の対応が、市民全体に見えてこない。

「安全/危険」

という二項対立のその「/スラッシュ」が入っているポイントをどこに定めるか、はたかだか一地方首長が背負うには本来重すぎる荷物だろう。
本当は、「安全宣言」など口にするのは反則技だったのではないか。

そしてこれはいわき市の問題に止まらない。
福島県内で何かと話題になっている年間20ミリシーベルト以下、という基準は、中通りの中核都市が避難しなくても良いように定められた「基準」なのだろう、と私達県民は「分かっている」。
それは(たとえ決定プロセスが全て明らかになったわけではなくても)、私達が現実の中で日々生活をし、さまざまな情報を受け取りながら、私達の「初期衝動」を受け止めて条件を詰めて考えていけば、自ずと結論にたどり着く種類の「知」だ。

グレーゾーンは放置かい?!と言ってみたくもなる。

他方、1ミリシーベルト/年以上の被曝が考えられる地区のヒトは一刻も早い全員避難を!と叫ぶ人たちもいる。
健康が第一、ということだろう。それも分かる。

だが、福島県内に今なお住み、仕事や生活を営んでいるヒトは、避難後の生活や仕事に大きな不安を抱えると同時に、自分が今ここに住んでいることの意味を、誰もが考えつつ、見えない決断をしてそこに生きている。

「市長が安全宣言をしたから」とか「山下なんたら」というヒトが大丈夫といったから、といっていわき市に、あるいは福島県内に思考停止して止まっているわけではない。当たり前のことですが。

ヒトは、土地を離れては生きられないのだ。

無論、「人間至る所に青山あり」も半面の真実だろう。
死ぬのはどこであってもいい。だが、今ここに生きる営みを原子力発電所の事故によって鋭利な刃物で切り裂かれて、おまえの生活はもはや「ゾンビ」だ、実際には「おまえはもう死んでいる」と言われたって、「はいそうですか」と荷物をまとめて動くわけにはいかない。

ここに生きているということは、そこに生きてきた、ということでもあり、これからも生きていくであろうという一貫性の上に、それを大きな拠り所・基盤として私達の生活は成立しているからだ。

だとすれば、強制的に移住を要求する水準が、健康被害を最大限に考慮した、1ミリシーベルト以下というわけにはいかないのではないか。

第一、「政府も残った県民も等しく愚かだと」いうのは簡単だが、200万県民の避難なんて、だれがいつどこでどこまでそれを補償・保証・保障してくれるというのか。

むしろ、県民の選択に応じたサービスがほしい。

年間20ミリシーベルト以下の被曝線量を超えるヒトには補償も含めた生活の保障が急務だ。
だが、それだけが対応の全てであってはなるまい。

たとえばの話、5ミリ~19シーベルト/年以上の被曝線量が予想される生活を営んでいるヒトについては、避難選択可能者として避難支援を積極的に行うなどの施策があるべきだろう。

地域や地点を簡易な計測で決定して、その場所を「お上」が認め、避難を突然強制する、というやり方は、決定的に現状から乖離した「古い」やり方だ。
お上は幅を持った基準を提示し、市民の選択を支援していけばいい。そのときに、リスクの高低はあっていいのだ。

たとえば20ミリシーベルト/年以上の線量を受ける生活をしているヒトは、無条件で補償をすればいい。
被曝線量5ミリシーベルト/年の程度でも逃げたいヒトは、非認定とするのではなく、補償程度を考慮しつつ、お金だけではない就労とか、期間限定避難の雇用や住宅の斡旋促進など、やれることはあるだろう。

全部丸抱えで東電や国が補償する、というのは、理想的だが非現実的だ。

むしろ、国が全部コントロールするような法律ではなくすべきではないか。

垂直統合型の法律も社会制度も行政政策も、もはや通用しない。

水平分散型の人間の営みの選択、自分自身がその可能性条件を知り、選択し、生きていくための支援を、私達は「国」としても「行政」としても「地方自治体」としても、そして市民同士としても、行いはじめる時期にきていると私は考えている。

そのためには、私達自身が、「どうすればいいのか?」ではなく、現況を踏まえて「どうするか」を自ら「よりよい生」のために選択する「人生の手間」=「コスト」を払う必要が生じてくる。

だからこそ情報の公開、共有の重要性は、これからどんどん増していく。
そして、その速度の方が行政の施策や政治家の決断よりも必ず「速い」。
政治は市民の行動を法律で縛るのではなく、生きる多様な選択を支援する必要がある。

お金は無限ではない。人的資源も限りがあるだろう。
その上で、「初期衝動」(原発事故はこりゃかなりやばいぜ、という)の方向性を踏まえた上で、分散的な社会包摂性を保障するような、その方向性を踏まえた「支援」を行っていくべきだ。

そのとき、私達は「人格に収斂しない」厳しい他者批判と、「処世術」に還元されない「自分が生きる姿勢」とを同時に必要としていくのではないか?

どんなに厳しい批判に見えても、枝野官房長官や菅首相の「悪口」をいくらいってもらちはあかない。
だって、どう考えてももともとそんな個人に「影響力」のある社会システムじゃないわけだし。

与党自民党&官僚&財界&行動経済成長=垂直統合型システムの優位性
が崩れたのですから。

ちなみに、菅首相の本日のコメント「保安院の行為は薬害エイズの時の厚生省の対応と同じだ」
は、当たってると思うけれど、あまりに視野が小さすぎて切なくなる。
大きな視点と同時に、細部の方向性を示唆する(制御ではない)政治的言説を持たない首相だなあ、としみじみ思う。

それでも、彼を下ろそうとするだけの政治家よりは、「脱原発」の方向性を示そうとする努力においては、私達の「初期衝動」に合致している。

たぶん私達は、この大きな「事件」において感じている「初期衝動」と政治システムのあまりに大きな乖離にいらだっている。それは政治家も行政も財界も同じなんじゃないかな。
「初期衝動」に対し、瞳を凝らし続けていくこと。

それは、「理念的に反原発」を信仰することとは違うし
「原発推進/原発反対」
の二項のうちどちらかを選ぶ短絡・縮減とも違うんだけどね、きっと。


公共性について、共同体について、国家について、そして存在論について、考え直すべきことはたくさんあるなあ。
(この項も継続して考えます)