龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

『オープンダイアローグがひらく精神医療』が面白い

2019年10月02日 08時10分45秒 | 評論
斎藤環の『オープンダイアローグがひらく精神医療』を読み始めた。
自分にとって重要な本になる、という感触がある。
つまり、全く「終わコン」として扱われている印象すらある?ポストモダン的なスタンスを、開かれた対話として拾い直せる可能性を感じる、ということでもある。
一体何を言っているのか、という話だが、「あの」斎藤環がオープンダイアローグ(OD)に入れ込んでいるというだけでも興味深い(偉そうですいません。そうじゃなくてね)。

自由は余白にある、のだとしたら、枠組みと同時に余白が確保されねばならない、、しかし、余白は予め固定化され用意されているものではなく、そこに見いだされるものだろう。そしてしかるべきプロセスを経て消えて行くものでもあるかもしれない。
べてるの家の「当事者研究」の時もびっくりだったし、『中動態の世界』も衝撃だったが、この本も刺激的だ。

いろいろと楽しみな本だ。

J.デリダ・豊崎光一『翻訳 そして/ 或いは パフォーマティヴ 脱構築をめぐる対話』

2016年10月05日 06時03分35秒 | 評論
ここでは、デリダはとても率直に語っている。口ごもり、躊躇い、 「少し間を置」きつつ、さまざまなことを肉声で語っている、という印象を受ける。

肉声で、というのは何か難解なテキストの平易な種明かしがある、というのではもちろんない。分かりやすい、というのでもない。この対談を読んだからといって、デリダのテキストが読めるようになりするわけではない。東裕紀でも読んだ方がよほどすっきりする。

ちょっと違った話だが、ある意味では、もはやデリダのテキストが 「難解」だったことなど、懐かしい思い出のようなものになりつつある、とも言える。それはまた、デリダが 「読めてしまった」ということではもちろんないけれど。

肉声で、というのはデリダが身体を伴ってそこで思考し、語っている 「感じ」、いわゆる 「息遣い」を感じる、ということだ。

哲学のテクストは一般にその主著になればなるほど難しい。個人的な感想だが、ほぼ解説抜きでは読めないといっていいだろう。もし、その主著が読めるようになりたい、と本気で思ったら、遠い遠い旅(迂回)に出ることを覚悟しなければならない。

なにせ書き手の 「主戦場」なわけだし。

だが、身体を伴った語りは違う。
ためらいや回避、言い直しや付け足し、間や繰り返しなど、私たちの身体から発生するリズムというか、動きと同時に彼らの観念が手渡されていくのに従って、その微妙なバランスを共に 「今」として生きることがしやすい。

知的に武装されたテキストは、あらかじめ 埋設された「地雷」の存在が分からないと、いつまでたっても 「読めない」感から脱出できない。お勉強が必要な所以である。その時代の、そのときの彼自身の向き合っている課題や共有している(もしくは共有を拒もうとしている)前提、そういったものが分からなければ歯が立たない。じっくり学ぶ楽しみ、繰り返し読みながらたった一つの(それは複数性を持っていたりもする)小径を発見する喜びはもちろんその先にあるのだけれど。

この対談を読むと、そういった学ぶべきものの手がかり、文字通りどこに 手をかけて山を登ればよいのか、という 「手がかり」のありかが学べる、ということがある。それは身体的なものと、観念的なことが、語り手の上に同時に存在する 「今」を目の当たりにできる、ということでもあるだろう。

もちろん、単に本人がしゃべっている、というだけでそういうことがいつも生じるわけではない。対談の相手との間合いあってのことなのだが。

とにかく、いろいろ面白かった。

『存在の一義性を求めて』山内志朗著 岩波書店を読了。

2016年02月23日 16時57分12秒 | 評論
何度か「つまみ食い」はしていたのだが、今回ようやく最初のページから最後のページまで読み通した。

中世キリスト教哲学の巨人?の一人であるヨハネス・ドゥンス・スコトゥスという人が唱えた「存在の一義性」について実に執拗に「分からなさ」を強調しながら迫っていく本である。まあ、スコラ哲学といえば煩瑣な「神学論争」に終始していたというステレオタイプのイメージがあって、そこに身を投じるのだからこの山内志朗さんという人もまあ物好きなのかなあ、という印象があった。

この人の『普遍論争』(平凡社ライブラリー)を読んで、単なる中世キリスト教神学における「普遍」についての論争の早わかりかと思ったら、見事に書いてあることが分からないのにびっくりたまげたことがある。
よその国よその地域よその時代のよその言語でかかれたテキストを研究するということは、まあそういうことなのだろうけれど、実にリアルに「分からなさ」が繰り返し表現されていて、あきれ果てると同時に感心してしまった。

つまりは、「別のOS」が起動している中で動いているプログラムは、現代の私たちの思考の基盤ではほとんど無意味に見えてしまうけれどそうではない、という当たり前といえば当たり前だが、私たちが無意識に、そして絶望的に踏み越してしまう断絶を、丁寧に書いてくれているはなはだ教育的な書物だった。

その山内志朗が書くスコトゥス論なのだから、分からなさは最初から覚悟の上である。

だが、それにしてもほとんど分からないのには参った。というかむしろいっそ笑いがこみ上げてくる。

早わかり的に存在の一義性とは神と被造物が出会うための枠組みを準備するものだとか言おうとしても、山内ロック(鍵)がかかっていてとうてい早わかりをつぶやくことができない。

でも、神様と被造物(人間)がアナロジー的に関係づけられるのではなく、神を直接「愛」するということが人間に可能なのか、という「感じ」 の問いがそこにあるとするなら、5%程度しか理解できていないとしても、興味は持ち続けていたいものだと思う。

私は

スピノザ←ドゥルーズ←國分功一郎

という「視角」でしか読めないから、ほんのたまに「ふーん」と思うだけなのだが、それでもおもしろい。スピノザの『エチカ』の上巻を読むためには、基本的な教養として中世キリスト教哲学を読んでおくことは必要でもあり、興味深いことでもあるわけだし。

一度読んだ

八木雄二の『中世哲学への招待』

を読み直したら、忘れないうちに

『「誤読」の哲学』山内志朗 青土社

を平らげておきたい。

まあ、山内志朗節が全開なんですけどね、『普遍論争』以上に。
これ、たぶん著者の性格ですかね。もちろん現代日本で西洋中世のキリスト教哲学なんていうものに手を染めるというだけでそりゃまあスゴいことなわけですが。

まるで大江健三郎の長編を1冊読んだような充実感がありました(笑)。

誰にお勧めしたらいいのか皆目検討がつかないけれど、それでもかなりのおすすめです。

菅野絵里という画家の個展に行ってきた。

2014年10月05日 12時08分51秒 | 評論
福島市のテルサ4Fで個展が開かれている、という告知をFacebookで知り、昨日、郡山に用事があったので足を伸ばして観てきた。

ステキな感触の絵だった。なんだろう、コントロールされたイラスト的な表面の表現の中に、輪郭を画定されていないものが薄っすらと漂ってくる感じ、とでも言えばいいだろうか。絞られていない瑞々しい果実のシャープな断面=切り口を、ソフトフォーカスで撮影したみたいな?

明日までです。台風の雨を避けて、ふらっと福島市のテルサまで、いかがですか。
私は1枚購入予約してしまいました。



國分功一郎さんの『哲学の先生と人生の話をしよう』の感想を

2013年11月26日 00時08分09秒 | 評論
こちらに書きました。

國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』は怖い本だ。

http://ryuuunoo.jugem.jp/?_ga=1.80894551.1533769670.1364212955

すごく面白い本です。
でも、ちょっと怖い。こういう本、あまり読んだことないなあ。
中島らも以来のおもしろさ。
上野千鶴子の人生相談は、過激っぽいけど意外じゃない。
開高健がそういえばプレイボーイでやっていた人生相談は当時としては面白かった気がする。
こう考えると人生相談も一大ジャンルなんですかね?

でも、人生相談の本って、人に勧めるもんなのかどうか、その辺りは疑問。
どうせだったら『ドゥルーズの哲学原理』とか『暇と退屈の倫理学』とかを読んだ方がいいのかなあ、「読む」ならね。

この人生相談本についてはむしろ「『読む』ことを読む」本に(結果として)仕上がってる、という書評が多い、とか。



『動きすぎてはいけない』出版記念千葉雅也×國分功一郎対談(池袋リブロ)のメモです

2013年11月13日 01時11分48秒 | 評論
千葉雅也×國分功一郎『動きすぎてはいけない』出版記念トークイベント(11/8於:池袋リブロ) のメモです。


http://blog.goo.ne.jp/foxydogfrom1999/e/055dff22f17dfcdfb5744a6f920409f0

トークイベントはとっても面白かったです。
でも、『動きすぎてはいけない』の本そのものは、必ずしもこの対談のようなトーンではありません。

國分さんがきわめてクリアに、お二人に共有する問題意識から本の説明をしてくれていて、だから自分がすらすら千葉さんの本を読めたような気持ちになったりもしたのだけれど、実のところをいえば、千葉さんの文体は國分さんのクリアカットな「文体」とはある種対照的な「繊細さ」を持っていますから(それ自体は國分さんがこれまた実にクリアに説明してくれているんだけれど)、簡単には読めない。

それは単に「難しい」ということとは違っている。
もちろん簡単ではないが、でも単に難解・晦渋というのとも違う。

ものすごく面白いし、全く知らないことが書いてあっても、千葉さんの「誘い」は常に読者を見失わない。この高い水準の哲学書としては「すごい」ことですよねえ。普通はポップになっちまうか、もっとガチガチになる。でも千葉さんの本はそうはならない。
これもまた千葉さん國分さんがトークで指摘しているとおりなんですが。

なんだろう、終わらないというか、収斂しないというか。
でも、國分さんのあたかも神さまがいるかのようなクリアさとはまた違う、神様を丁寧に消去しつつしかしその軌跡はたどれるようにしてあるといった、微細なクリアさがそこにはあるんですよ。

ぜひよろしかったら『動きすぎてはいけない』の前でも後でも、参照してみてください。
例によってノートと記憶を頼りに再現していますから、間違っているところがあったらごめんなさいです。

p.s.
ちなみに、今、翌日(11/9土)に駒場で行われた表象文化論学会での、お二人の本の書評パネルのまとめメモも作っています。
これは
國分功一郎(高崎経済大)
千葉雅也(立命館大)
堀千晶(早稲田大)
佐藤嘉幸(筑波大)
の4人のパネラーが、みっちり國分・千葉両氏の本について互いに批評し、評価し、疑問をぶつけるという密度の濃い内容なので、これはなかなか終わりそうにありません。
だいたい哲学者の名前とか専門用語とかが飛び交ってて、聞いていてもよく分からない場合があるわけで、メモにもなっていないところがあるのですが。

期待している方もおられないかもしれませんが、今しばらくお待ちを(笑)。



青春小説のこと(続き)

2013年10月14日 01時43分13秒 | 評論
『横道世之介』の話の続きです。

さっき、庄司薫の唯一裁断してあった
『白鳥の歌なんか聞こえない』
を読み返した。

なるほど、青春小説って「性」は当然の悩みだとして「死」もまたテーマなんだよなあ、と納得してしまった。
「死」からは最も遠い場所にいるんだけどそこはそれを最も意識する場所でもある……。

『横道世之介』を読んでいて常に感じるのはその存在=「不在性」だ。
それは単純な人の「死」とはちょっと違っていて、時間の隙間みたいな、自分自身との関係における記憶の裂け目みたいな、そこを満たすものとしての「世之介」になっている。

「薫クン」については何もいうことはない。

自分のことについていえば、年齢的にはもう小説に出てくる小林秀雄的な凄いおじいさんの方に近くて、中身は「薫クン」のグルグルからやっと這い出したところだ
となると、どうすればいいのやら、分からないままだ。

ただ、「青春小説」ってのはただこっぱずかしいことをおそれもなく書いてしまった、というだけのものでもなく、年をとってからでも読めるというか、むしろ年をとってからなら書ける、というものでもあるのかもしれない、とも思った。
ということは、年をとってから読むこともまた、できるのかもしれない。





國分功一郎『来るべき民主主義ー小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』

2013年09月14日 03時08分13秒 | 評論
國分功一郎先生の新刊。
彼が問題の当初から関わって来た小平市の都道建設計画、という身近な問題と向き合うことの中で、民主主義の来るべき未来を考えていく、というとても興味深い著作です。
よろしかったはぜひ。
『来たるべき民主主義──小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』
http://koichirokokubun.tumblr.com/post/61101249341/328


koichirokokubun.tumblr.com


國分功一郎×坂本龍一対談はこちら

2013年02月06日 23時25分42秒 | 評論
國分功一郎×坂本龍一対談も連載で始まりました。

「知の発見が世界を救う」
1:出会い。原発。デモ。科学技術。社会保障。そして哲学と音楽。


科学技術だけじゃ、だめなんだ。
政治だけじゃ、だめなんだ。
もういちど、つかもう。
知の力を。芸術の力を。

芸術の実践者坂本龍一、知の実践者國分功一郎、 ふたりが時間無制限で語り合いました。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20130124/242715/?rt=nocnt

ちなみに、國分さんが中心的に関わっている
「小平都市計画道路に住民の意思を反映させる会」
のことが、
1月6日放送の坂本龍一さんのラジオ番組でも、都市計画道路3・2・8号線について、國分さんと坂本さんが話されています。以下よりpodcastで、放送分より長い対談全体を聞くことができます。

【RADIO SAKAMOTO 新春対談 第三弾 : 坂本龍一 × 國分功一郎】PODCASTING(2013年1月6日放送)


http://pod.j-wave.co.jp/original/radiosakamoto/pod/archives/radiosakamoto1301_interview2.mp3

いよいよ始まった國分功一郎の『エチカ』論講義

2012年11月19日 23時09分07秒 | 評論
國分功一郎「スピノザ入門」第8回のメモをメディア日記にアップしました。

「スピノザ入門」第8回(その1)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980401
「スピノザ入門」第8回(その2)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?PHPSESSID=48eaada7fc98c8e51711074a6665bdc2

いよいよ話は佳境に入って来ました。

あの『エチカ』の冒頭部の説明です。
スピノザの遺稿が出版されてから数百年の間に、いったい何人の人がこの冒頭を読み始めて挫折したことか!

いわゆる「幾何学的秩序によって論証された」って部分です。
この説明も丁寧にしていただいたのですが(だからといって十分理解できたわけじゃござんせんけれど)、それだけではなく、この冒頭部の説明による神へのアプローチだけではなく、もう一つ別のアプローチが『エチカ』の中にはある、という國分センセの説(ドゥルーズを参照しつつ)が展開されていきます。

興味深いです。自分で読んでるような気になるぐらい、面白いです(笑)。

つまり、理性的認識で神=自然=実体に迫ろうとしても、接近はできるが、それは結果から原因をたどる道だから、誰もが認識できるわけではない。むしろその理性的認識(スピノザのいう第2種認識)は、接近はできるが、直接的にたどりつくことは難しい、とスピノザ自身も考えている。

そこで登場するのがスピノザのいう第3種認識、つまり「直観知」です。

スピノザは、『エチカ』冒頭部からの幾何学的秩序による論証、即ち第2種認識的に神に接近するけれども、それは万人が理解できる道ではないことを知っていて、第五部以降、直観知のレベル、つまり第3種認識のアプローチも同時に提示していた、っていうのが國分功一郎のスピノザ読解仮説です。

私の説明じゃあ、むしろ謎が増すばかり、でしょうね。
詳しくは、来年以降に出版される『スピノザの方法』の次の著作を待たれよ、っていうことになります。

でも、『知性改善論』を、完成しなかった『エチカ』の序ととらえ、その困難(失敗)をきちんと踏まえた上で『エチカ』を読む、という線、加えてデカルトを脱構築する形で徹底し、完成を見た、という線、さらに、もう一本の線として(これは今回のお話には出てきてはいません。あくまでfoxydogの想像です)は、経験論的な線、それらが重ねられつつ、『エチカ』は編まれているのではないか、っていう感じは、そこはかとなくではありますが、納得力がじわじわと出てきつつあります。

私にとっての國分功一郎という読み手の魅力は、なんといっても、精緻なテキスト読解の小さな現場のスタイルが、決して自己目的化せず、私たちにも通じるロジックを纏いながら、しかも大きな世界の秩序と(遠く離れているのに、見事に)照応していく点にあります。

こどものころ、疑問に思った(永井均的にいえば「子どもの哲学」的)疑問に

「私の見ている緑と貴方の見ている緑は同じなのか」
「宇宙の果ての向こうはどうなっているのか」
「全てのものに意味はあるのか(誤謬は果たして可能か)」

という三本柱がありました。
スピノザは、この子どもの哲学的疑問に、見事に答えてくれます。

でも。

異様というかあられもないというか、大人げないというか、スピノザにはどこか遠いところにいて全く理解しがたいところと、無邪気なところと無慈悲なところと、奇妙に現実なところと、不思議に戦闘的なところがあるように、文章を読んでいると感じます。
遠すぎて何をいっているのかさっぱり分からないのに、次の瞬間ものすごくありえないぐらい近かったりする。
私(たち)の遠近法が通じないテキスト、といえばいいでしょうか。

そのテキストを、身近なところで導きつつ読んでくれる師は、本当に貴重です。
出会えたことに感謝。

この幸福を、ぜひ分かち合いたいです。
よろしかったら、
『スピノザの方法』國分功一郎 みすず書房
いかがでしょうか。
私にとっては、こちらの本の方が、『暇と退屈の倫理学』よりも腑に落ちました。分かったって話じゃありません。「直観」として、腑に落ちた、っていうことです(笑)。




『哲学大図鑑』三省堂 がお薦め。

2012年11月02日 21時53分50秒 | 評論

『哲学大図鑑』三省堂のお薦め

http://ryuuunoo.jugem.jp/?PHPSESSID=3a6e4fe48deeb1f49f41e06572c31c8b

を、メディア日記に書きました。
この本、おもしぇえです。
なんだろう、今までのスタンダードな哲学史とか早わかり紹介とは違っていて、一つ一つの哲学者の勘所を丁寧に教えてくれる本になっています。
もちろん、見開き2ページ~4ページ(カント・ニーチェ・マルクスは6ページ)ですから、書けることは限られている。

当然、その限られた中で何を書くか、何を書かないか、がこういう本のポイントなんだけど、遠近法が昔と確実に変わってきたのを感じるのです。

数千年の時を経ても、かつての哲学者たちが向き合った課題は「問い」として意義深いよねっていう「生きたサンプル」を提供してくれている、その感じがいいんだなあ。

それは、書かれている内容の深さというより、デザインの問題のような気もする。
本の装丁もそうだし、大きさもそうだし、図解(マップ)もそうだし、語られ方もそうだし。

そう、哲学とその周辺が、いよいよ最近、「語られ方」に関心を抱きだしたっていうか、そういう感想を持っています。

だから最近、哲学が面白いのだと思う。
それは、かつての哲学なるものの有効期限が切れたということなのか、そういう哲学の「文体」に興味を持つ人が増えたというだけなのか、私自身の関心がそういうところに向かいだした、というだけなのか分からないけれど。

哲学も、文章として読み得る、としなたら、これほど幸せなことはありません。
なにせ哲学っていうのは、用語の定義が超絶技巧的に面倒で、絶対「読めない」もの、っていう固定観念があったからねえ。

専門家が読むときには、当然そこをクリアしなければ何も言えないっていうことはあるんだろうけれど。

その辺りも面白い課題が埋まっていそう。
哲学の文体問題、これも宿題ですね。



そうはいうものの、クイズ番組は隆盛を極めてる

2012年09月21日 22時25分31秒 | 評論
クイズ番組は、一頃のカルトな感じや博覧強記の称揚という「頂点」系のものから、誰でもが分かる可能性のある「常識」に近い出題になってきている。

よく分からないけれど、視聴率が取れるのは極端に出題難度が先鋭化した深夜番組的なものが主流でなくなっているのは分かる。
そして、クイズ番組の中でも「おばか」なのか「インテリ」なのかのざっくりとした分類が既に確立していたりもして、それも一時期のように超絶「無知売り」ではなく、「普通」を中心としてゆるやかな広がりの分布をみせているように見えるのは気のせいか。

だが、だからこそ昨夜はクイズタイムショックスペシャルを2時間も見てしまったのだと思う。

つまり、

「ああ、そう、それ、そういえば聞いたことがある」

的な出題の範囲を超えない微妙な匙加減と、こちらの50代半ばにおける確実な記憶へのアクセス困難の「開始」とが、絶妙にシンクロしてしまったのだ。

「かつてはこれが瞬間的に出てきたのになあ」

という思い。

おそらくそれは、必ずしも「ボケ準備」の始まりたる50歳代だけがそういう感慨にふけるのではないのだろう。

「学校」を終えた者、年齢的にいえば15歳~17歳の記憶力黄金期を過ぎた者たちすべてが、この「ノスタルジックな」感じを味わうことができる。

「知るわけないだろ、こんなの」

という問題が続く番組ジャンルとは別の、浅くなでる感覚、とでもいえばいいだろうか。

職場の親しい同僚の名前が突然言えなくなる症候群にかかり始めた(これ、けっこうびびりますよ)私としては、覚えていた昔を思い出させるクイズ、というのは、「浸る」のに最適なぬるま湯だったのかもしれませぬ。

一昨日、職場を出る前にコーヒーカップを洗おうとして流しの前に立ったら、持っていたのがボールペンだったことに気づいて愕然。

これは病気じゃないんだろうか?
一度暇になったら問診ぐらいしてもらおう。

「デーモン閣下、ノーバンで始球式、活を入れる」

「デーモン閣下、ノーパンで始球式、カツを入れる」

と読んでしまう自分。たぶん「カツを入れる」という表現がなければ
始球式=ノーバウンド
という連想が出来たはず。

でも、「デーモン閣下」が始球式でカツをいれるのだから、何かへんてこりんなパフォーマンスをするのだろう、という文脈読解が動き、「ノーパン」になってしまったらしい。

性的な「言いまつがい」が優先になって、「そんなことあるわきゃないだろう」=常識=抑圧が弱くなり始めているのか?

物事の「本質が見えてきた」感じがあると同時に、無意識がちらちらと、常識の抑圧の代わりに意識の側に信号を送ってくる。
そんなことがあるのかもしれない。

つまり、理性1→理性2へ、という動きは、どこかで意識されている「常識」の抑圧が、次第に弱まって、その代わりに構造化された無意識に「理性2」が接触を試みているというか、無意識が「理性2」に近づいてきているというか、そういう感じもないではない。

与太話にもならないだろうか(苦笑)。

ノスタルジックなクイズ番組は、緩やかな「常識」の連帯が、黄昏懐旧的にとても気持ちいいのではないか、という暴論でした。


井上光晴は、一日250ページは本を読むっていってたけど、

2012年09月21日 00時09分04秒 | 評論

本を一冊も読まずに寝てしまった夜は、その日1日を無駄にしてしまったような気がする。
特に今日のようにテレビのクイズ番組スペシャルなどを茫然と眺めてズルズル過ごしてしまったりするとかなりへこむ。
別に本など読んでも読まなくても構わない、という時期は過ぎた。
何をやっても勉強になる、というのは若いうちの話だ。
正直なことを言えば、50歳を過ぎてから全く新しいことに手を染めるのはそれはそれとして物凄く大事なんどけれど、でも50歳を過ぎているということは、何か自分の確固とした専門的領域があるという前提での「新しいことにチャレンジ」でなければなるまい。

悪いけれど、覚えも悪い体力も衰えたドシロウトの仕事は、それだけでは尊敬を生まない。

愛嬌がなければただの邪魔だ。

繰り返すが、それが悪いというのではない。ただ、自分の使い方を間違えてると本当に辛いことになる、という話しである。

自分の使い方として、常に頭を動かし続けているために、読書が私の場合欠かせないのだ。

考えることはほとんど忘れてしまうのが常だ。

とくに最近その傾向が強い。だから、考えたことはブログに書き出しておくようになった。
外部に痕跡があれば、自分自身も他者としてたどり直せるからだ。

さっきも、
「デーモン閣下、ノーパンで始球式に活を入れる」

とか読んじゃう「解像度」だからさあ。

一番信用できないのが自分。
細かいところの風景はもうボケはじめている。だから、今のうちに「全体性」のありようを記憶に刻んでいかねばならない。そのためには、「読む」こと、がどうしても必要なのだ。

かつては知識を得るために、思考の道具立てを手に入れるために、あるいは暇つぶしとして、楽しみとして、謎を味わうために、読書を楽しんでいた。

今はただ、世界と出会いたい、と思うばかりだ。


週刊読書人8/31の辻村深月インタビューが良かった。

2012年09月10日 01時25分01秒 | 評論
たまたま
辻村深月『凍りのくじら』(講談社文庫)
を読む前に、週刊読書人8/31号の8ページに辻村深月直木賞受賞インタビューが載っていた。
なかなか興味深い内容だった。

インタビュアー側の質問文が長くて、微妙に「誘導解説風」だったのはご愛敬か(笑)。

私が読んだのは
『冷たい校舎の時は止まる(上下)』
『名前探しの放課後(上下)』
いずれも講談社文庫の2作品のみ。
今回がようやく3作目だが、どの作品もほぼ一気読みさせられてしまった。
作品の主人公が必ずしも人物ではなく、むしろ作品の主人公は「語り」だからだろう、と思った。

大学一年生の頃、井原西鶴が大好きだった。たいして意味も分からず、あの文章が気持ちよかった。
卒論は石川淳、それもあの文体に惹かれたからだ。

この辻村深月も、「語り」の作家だとつくづく思う。

「語る」ことは一見何かを伝えようとしているかのように見えるけれど、必ずしも伝わっているのはその「何か」だけではないし、その「何か」を伝えるためだけならば、小説なぞ書かなくてもよいし、読まなくても一向差し支えはない。

だが、その「語り」はついつい耳をそばだてて何度でも聞き入ってしまうだろう。

久しぶりに、そういう作家と出会った。