龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

『怪物はささやく』パトリック・ネス(あすなろ書房)を読むべし。

2015年04月30日 06時30分00秒 | メディア日記
 『怪物はささやく』原案:シヴォーン・ダウド 著者:パトリック・ネス 訳者:池田真紀子 出版:あすなろ書房

を読んだ。

本の形式からいえば、ヤングアダルト向け(小6~大人向け)の「絵本」ということになるのだろうか。

昨夜、ちょうど夜中の12時過ぎに読み始めたら、途中で止めることができず、読み終えると2時半を回っていた。

物語は、

毎晩真夜中の12:07になるといちいの木の怪物が13歳の少年コナーのところにやってくる

というところから始まる。

なぜか少年は少しもその怪物が怖ろしくはない。
そして怪物は少年に3つの物語を語っていく。

日常の学校生活の中でいじめられることも、幼なじみのリリーとうまくいかないことも、母親が病気がちなことも、父親が新しい妻とアメリカで暮らしていることも、気むずかしい祖母が時折少年の家にくることも、さまざまなことが少年を取り巻いているのだがコナーはそれらの中で次第に孤立を深めていく……。

怪物の語る物語は、普通の物語とはどこか違う。怪物はなんのために少年コナーに物語を語り続けるのか。そして怪物は、3つの物語を怪物が語り終えたとき、少年コナーは怪物に自分の物語を語らねばならない、と言うのだ。

怖ろしい怪物に襲われる悪夢でもなければ、勧善懲悪のファンタジーでもない、意外なしかし同時にきわめて身近な「怖ろしさ」にコナーはしだいに誘われていく。
何か「物語」的な「普通」の展開を想像していると、その予想は微妙にずれていく。主人公にとってもそうだし、それは読者にとっても同様だろう。


そして私は、その怪物がイチイの木であるということの意味に気づいたとき、瞬間、読者」としての役割を瞬間的に止めて、「私自身」として思わず泣いてしまった。

私にもそういう体験があったことに気づかされたからだ。
「物語」の力とは、こういうところにもあるのか、と思った。ストーリーの魅力だけではない。物語に瞬間、突き放され、あらためて抱擁されなおす。そんな読み方(読まれ方)もあったことを思い出させられた一冊。

愛しい人を愛しいと思いつつそれを表現できずにいる全ての人に、好適な作品かと。

お薦めです。

白井聡の解説が面白い。『一九四六年憲法-その拘束』江藤淳(文春学芸ライブラリー)

2015年04月29日 22時16分30秒 | 大震災の中で
白井聡の解説が面白い。
『一九四六年憲法-その拘束』江藤淳(文春学芸ライブラリー)

『永続敗戦論』の白井聡が解説を書いていて、

「戦後の思想空間が決して自律的なものではありえず、さらにその非自律性が十分に意識されないことがもたらす言説空間のひずみを明るみに出すという江藤の問題意識は、いまなお高く評価されるべきものである」

と白井氏が江藤淳を高く評価しているのは、『永続敗戦論』の著者として納得がいく。


加えて、江藤淳が行った戦後民主主義の「敗戦否認」批判は、いかに鋭いものであったとしても、結果として

「戦後日本が立派な国でないのはアメリカ製の憲法のせいだ」

と米国の世界戦略を支持する人が言ってはばからない奇怪な状況に「言葉」を与えてしまった……

という白井氏の指摘は、安倍首相が訪米している「今」第一に考えなければならないことだろう。

この時期に改めて江藤淳を読むのは、意味があるなあ、と実感。



『朽ちないサクラ』柚木裕子(徳間書店刊)はアイディアのリズムで読む中編小説

2015年04月29日 12時45分13秒 | メディア日記
『朽ちないサクラ』柚木裕子(徳間書店刊)はアイディアのリズムがいい警察小説だ。

描写のテンポがいい、というわけでは必ずしも、ない。
警察小説らしい内情の濃厚な描写があるわけでも、ない。
主人公が徹底的に「探偵」として危険を冒しながら犯人を追いつめていく、というのともちがう。 
物語の展開がサスペンスに満ちている、というわけでもないのだ。

こう書いてしまうと面白くない小説、ということになりかねないがそういうことではない。一気に読んでしまった。

「親友が殺された。県警広報事務の私に、何ができる?」

という腰巻き惹句は、そういう意味でなかなか含蓄がある。典型的な中編小説、といえばいいかなあ。

文庫になるまで待って読むのが吉。
悪くはないですよ(^_^)

『図書館の魔女』上巻を読んでいる。

2015年04月27日 14時56分42秒 | メディア日記
高田大介の『図書館の魔女』講談社

の上巻を読んでいる。
ハイファンタジーというのだろうか、最初からどこか中世の匂いがする世界が設定されていて、そこで物語が進行していく種類の作品である。

そういう設定の場合、序盤はサラッとよみながしながら雰囲気を味わうのが普通だ。

確かに世界観に浸る、というのは物語でもゲームでも同じだ。

だが、物語においては、世界観だけを味わうことは、通常できない。

想像力の自由を確保して虚構を広げる役割と、同時に別世界を緻密に構築するリアリティとを同時に満足させてくれる「お約束」のようなものとして、テイストを味わいつつもまずはストーリーの展開をワクワクして追っていくものだろう。

ところが、この物語は少し様子が違っているようだ。
学者肌の物語作家には共通するのだが(ル・グィン、上橋菜穂子など)、その世界観自体の提示がすでに作品の大切なパフォーマンスの一部になっている、ということはある。

さてしかし、この作品は、その段階、というかそのレベルでとらえるだけでも足りない気がしてくる。

そう、たとえばフンケの『魔法の声』シリーズのような手応えがあるのだ。

とはいっても、言葉を蝶番のように「使って」作品の内と外を行ったり来たりしつつ物語が進行する、という、物語のフレームを利用した仕掛けがある、というのではない。

それ(物語と言葉)は図書館において「重なって」いるのだ。

「なんだ、それは言葉についての、言葉を題材にした物語ではないか」

と思われるかもしれない。

まあ、大枠、大域的にいえばざっくりそうともいえるが、それだけでもない。微細な音や文字、手話を巡る身体と精神を同時に抱えた叙述のなかから、それでなくては生まれ出てこない
「言葉=物語」
の実践がそこにある、とでもいおうか。

大きくは「政治」もまた「言葉」が紡いでいく「物語」でもあるが、「言葉」はまた小さくは皮膚や身体と共に紡がれていくものでもある。

そう、それは単なる「言葉」でもなければ単なる「物語」でもない。

というより、単なる「物語」が存在しないように単なる「言葉」もまた存在しないものであろう。

まどろっこしいメモを書いているのは承知の上で、このあたりの消息を考えながら読みたいな、とも思うような、そんな文章、でもあるのだ。

例えば、いわゆる魔法物語がともすれば「近代的」な成長の物語に終わってしまいがちなのは、呪文が最終的に「個人的な能力」として(作品によって)とらえられてしまうからだ。

酒見賢一の『陋巷に在り』が、たんなる古代中国を舞台にした超能力話(もちろんそう読んで楽しんでもらって全く問題ないエンタテイメントなんですが)に終わらないとしたら、そのフィールドの可能性はどういうところに広がっていくのだろう、というようなこともちょっと考えさせられる作品として、この『図書館の魔女』は読めるような気がしてくる。

つまり、とりあえず、私には、この本を飛ばし読みすることができない。

物語の落としどころがどこになるのかは分からない。

それを知る前に、この冒頭200ページの印象を書いておきたかった。

圧倒的にお薦めです(2013年の出版時点で気づかなかったことが悔やまれるほどに)。




YouTubeを観る愚かさ、面白さ。

2015年04月27日 13時45分10秒 | メディア日記
YouTubeは、なるべく観ないようにしている。

特に、昔懐かしいプログラムを観るのが良くない。

新着動画はまだいい。それが面白くても面白くなくても、そこで閲覧を止めることができる。

だが、昔聴いていた音楽を一旦再生し始めると、関連する動画が次々に表示されてしまい油断するといつの間にか一大懐メロイベントになってしまう。

さらに危険なのは、昔のテレビ番組だ。

特に普段思い出りたりはしない、だからすっかり忘れているようなテレビ番組が実は脳味噌の中にしっかりと刻まれていて、その中の一つをYouTubeで再生しようものなら、その瞬間に記憶が刺激されて、止めようがなくなってしまうのだ。

今日は休日勤務の振り替えで家にいて、読みさしの本を手に取る前、何気なく週一回届いていたYouTubeのお知らせメールを配信停止しよう、とその「おすすめメール」を開いたのが運の尽き。

漫才「ナイツ」の傑作ネタ(野球)を観たのだが、そういえばポイゾンガールバンドに中日ネタがあった、というのを思い出し、2004年M1の南海キャンディーズ、笑い飯、と進んでいってしまった。

2004年のM-1グランプリのことなど、全く記憶になかったはずなのだが、驚くべきことに、彼らのネタをほとんど全部、流れの中で思い出していくのだ。

YouTube、恐るべし。

だが、それ以上に、その10年前にたった一度観ただけなのにそのネタのほとんどを(演者が演じ始めると当時に)思い出してしていく脳みその動きにびっくりさせられた。

例えば南海キャンディーズの火に怯えるサイ、のネタに対する審査員のコメントまで、その「シークエンスの中」で記憶として甦ってくるのだから。
もちろんそれは、最初から自分で再現できるようなレベルではない。しかし、次に何が起こるか、は体の中から感じが立ち現れてくる、という感覚がまちがいなくあるのだ。

ちょうどピアノやバイオリンの発表会で、暗譜ほしているけれど必ずしも全体の楽譜が入っているというわけはではなく、しかしながら弾き始めてしまえば次が何なのかは分かる、というような。

YouTubeを観て午後を過ごすのは、本当に勿体ない無駄な時間の費やし方だ、とも思うけれど、新しいものだけに頭が反応するというわけでもない。
普段のネットサーフィンとはひと味違った「引き込まれ」具合だった。

さて、ちょっとでかけようかな。




ビデオ配信の便利さに目覚めてしまった……

2015年04月21日 20時48分47秒 | ガジェット
グーグルのビデオ配信サービスのレンタルで、初めて2本も借りてしまった。


3Dのドラえもん『Stand by meドラえもん』

『X-MEN ファーストジェネレーション』

を寝転がりながら、タブレット(7インチ)で観切ってしまった。

ちょっと恥ずかしい(笑)。

でも、3Dのドラえもんは思ったより楽しかった。
もう、声優が変わった時点で昭和の体験は区切りがついていたのだろう。
っていうか、『ウルトラQ』世代だからリアルタイムじゃないんですよね。

それにしても、ネット配信レンタルは便利すぎる。

今まで、Kindleの本は、所詮「消えモノ」だから、と思って本気で購入しようと思ったことがなかったが、「消えモノ」というのなら、二度も時間を潰して観たりはしないビデオこそ、ネットを利用すべきなのかもしれない。
まだ、Googleのビデオは本数が限られている印象だけれど、ラインナップが揃ってきたらもうレンタル屋さんに出かける気持ちになれなくなるかもしれない。

YouTube視聴もやり始めたらクセになるけれど、「作品」を2時間じっくり観る感じとはちょっと違うね。

さて、しかし今夜は本を読もう!




キャリア縛りから解放するためのSIMフリー化なのに……

2015年04月21日 16時47分48秒 | ガジェット
こんな記事が産経BIZにあった。

「2年縛り」更新月を2カ月に延長 携帯大手3社、改善策示す

http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20150420-00000008-biz_fsi-nb

やれやれ、だね。
もともとSIMフリー化は、ユーザーが端末とキャリアを自由に選べるということが、適正な価格と競争をもたらす、という方向性を目指していた、と思っていたんだけど、大手キャリアの対応が今回のこの記事ののようにしかならないとしたら、SIMフリーによる「市場の適正化」は望めないだろうね。

「端末が安く買える」、というユーザーへの訴求力が、二年縛りにあるのは間違いない。
けれど、二年に一度解約できるのが2ヶ月の間だけで、それ以外の時期の解約は違約金を払う必要がある、というのは、どこをどう考えてみても、不当なやり方だろう。

端末代を実質的に肩代わりするから安くしている、というのが二年縛りの理由なら、解約時に残った割賦を払えばいいだけのことだ。

それなら分かる。
だが、

通信のSIMに対する契約を止める権利が、二年間の間で1カ月とか2カ月とかしか行使できないというのは、どう考えてもおかしいよね。
転売を防ぐ目的とかいうなら、新機種発売から半年とか10カ月ぐらいで十分だろう。

けっきょくのところ、ユーザーに不自由な契約を強いていることは間違いない。

お金が必要なら、必要だといえばいい。そしてそういうシステムにすればいいのだ。
二年縛りの解除月がたった1カ月だったものを2ヶ月間に増やせばいい、という種類のことなのか?
受け入れられるかどうか、はまた別のもんだいだけれど、二年縛りを、そうしなければならない根本的な理由から示した上で、気持ちよくお金を払わせてほしいものだ。

本屋さんの役割

2015年04月19日 17時42分16秒 | メディア日記
昨日、仙台アエルの1Fに入っている丸善に行ってきた。
やはり本棚が楽しい。
郡山のうすい8F・9Fにあふジュンク堂は売り場面積や点数が多いのだろうけれど、専門書のラインナップひとつとっても、はるかに狭いはずのこちらの方が見ているだけでおもしろい。
むしろ限られたスペースだからこそ、なのかもしれない、とも思うが、平積みでも棚の方でも、並んでいる文庫の魅力が違う。
だって、たとえば写真にある『やちまた』が平積みになっている、なんて普通の書店では考えにくい。
ファンタジーの棚もそうだ。
今回買った『図書館の魔女』も、書店で出会ったのは初めてだ。



誰でもが必要でかつ楽しめる入門のラインナップはもちろん必要なのだろう。
他方で、専門家にとって必要不可欠なものもあるに違いない。

が、誰もが読みやすいところからはちょっと先にいったところで、かつコアな専門家しかうろつけない深い闇のちょっと手前あたり、そんなところで品揃えしてもらえると、私たち素人の本好きにはありがたい。

震災関連の本も、地元からの発信が多く、じっくり考えさせてくれるものが多かった。

取り合えずは『図書館の魔女』上下巻ですね(^_^)


『1941年 パリの尋ね人』 パトリック・モディアノ(作品社)、読むべし!

2015年04月16日 18時08分57秒 | 大震災の中で
同僚の友人から
『1941年 パリの尋ね人』パトリック・モディアノ(作品社)

を薦められて、昨晩から読んでいる。感想をどう書けばいいのだろう、余計なことは書いていない極めてシンプルな作品だ。

訳者の言葉を借りれば

「浜辺にうっすらと残されたかすかな足跡でしかなく、打ち寄せる波にたちまちかきけされてしまうたぐいのものでしかあるまい。しかしそのかすかな足跡を、かすかであればあるほど消されないよう懸命に残し、忘却から守るように努めた」

そういう作品である。

1941年12月31日付けの昔の新聞に載った尋ね人の広告を、モディアノという作家が1988年に偶然見つけ、その尋ね人である15才の少女に関心を持つところから、書き始められる。

フランスがドイツ占領下にあって、ユダヤ人を強制収容所に送り始めようとするころの時代に生きていたそのドラ・ブリュデールという女の子についてモディアノは調べ始め、10年の歳月をかけて調査をし、作品を完成させていく。

作家が戦後に生まれて育ったパリの同じ街に、そのドラという移民のユダヤ人を両親に持つ少女は生きていた。つまり、同じ街のことを描きながら、1941年から1942,年のパリと、作家が生きている1990年代のパリが、作品の中で交錯しながら、次第に多重な像として私たちの目の前に立ち上がってくるのだ。

その筆致は本当に波に消える砂の足跡のようであり、しかし、今もそこにあるパリの通りで、ユダヤ人が逮捕され、その通りの建物の中で取り調べられ、今もあるそのパリの駅から、列車に乗せられていく……。

様々な記録をたどり、調査をし、街を歩いて取材して書かれた、素っ気ない小品なのだが、描かれていることがら自体以上に、作家の肝が据わった静かな孤独が伝わってきて、まだ形容する言葉を持てずにいる。

多くの人に読んでほしいとも思うものの、この感じはたやすく共感されるような種類の事柄でもない、のが分かる。

その街に戦中も戦後も生きてきたそれすべてに瞳をこらしつつ、そこで空気を吸って生きているそのすごさは形容しがたいものがある、ということだろうか。

戦後何十年か経って、フランスでもドイツ軍占領下の政権におけるユダヤ人虐殺問題(収容所移送を含む)が裁かれるようになったこととか、歴史的な経緯はあるのかもしれないが、そういう時代の事情とは別個の、感情移入ということとは違う種類の、心が「震えるような」感覚を覚えた。

よろしかったらぜひ一読を勧めたい一冊。

ただ、魂の「どこで」これを受け止めればいいのかまだ分からずにいる。

ただ一ついえることがあるとすれば、こういう作品を勧めてくれる同僚がいる、ということは間違いなく「僥倖」ではある。

読むべし、國分功一郎『近代政治哲学-自然・主権・行政』ちくま新書

2015年04月13日 22時16分17秒 | 観光
ちくま新書から

國分功一郎『近代政治哲学-自然・主権・行政』

が刊行されました。

これがメチャメチャ面白いんです。
まあ、國分先生のファンである私の言うことだから2割引ぐらいで考えてもらっていいんですけれど、それでも私の中では今年の上四半期ベスト3に入ります。

1位は佐藤正午『鳩の撃退法』(上下)
2位は上村菜穗子『鹿の王』(上下)
3位が國分功一郎『近代政治哲学』

かな。他に何を読んだかあまり覚えていなかったりするんですが(笑)。

あ、でも今読んでいる最中の牧野英二さんの『カントを読む』も楽しい本です。
山内志朗氏の『哲学の誤読』も読み中ですが、例によって『普遍論争』でもおなじみの山内節の抑揚についていけていません。

やっていることはスコトゥスの「存在の一義性」におけるドゥルーズの誤読とか、なんだか面白そうな内容なんですが、さっぱり要領を得ない。

わざと難しく書いている、というのとは違うのは分かるんだけれど、こちらの教養不足は当然としても、それだけじゃなくてその屈曲した文体に「んー!」てなります(笑)。

レオ・シュトラウスの『自然権と歴史』はとっても面白いし、國分さんの講座がベースにあるので理解しやすいけれど、もはや古典扱いだから別格。

というわけで、とりあえず『近代政治哲学』のお話。

ジョン・ボダン→ホッブズ→スピノザ→(ロック)→ルソー→ヒューム→カント

という流れで近代の政治哲学における「自然権」と「主権」について明確な道筋をつけようとする1冊。新書ですから、初学者(まえがきによれば大学1年生対象の講座が基になっているとのこと)にとっても読みやすく、きわめて明快です。

とくに、ホッブズからスピノザへのところと、ルソーからヒュームのところは、個人的に國分先生のスピノザ講座とドゥルーズ講座(&学会発表)の内容から記憶している断片を当てはめていくことができるので、ちょっとした「ライブ」の快楽を感じてしまいました。

ホッブズでよく早わかりでも解説される

希望の平等(みんな似たようなものだ)から自然状態=戦争状態が導き出され、だから「せーの」でその「自然権」(國分せんせによれば「自由という事実」)を放棄(lay down:銃を床に置く、などの意味)して権力を一人の人間もしくは合議体に譲渡する。

という道筋も、

その「設立のコモンウェルス」はむしろホッブズのテキストに内在する論理に従うなら後付けの方便であって、

銃を突きつけられて従うか命を奪うか、と迫られた時、その契約は有効だ

というところから導かれる獲得のコモンウェルスこそがホッブズの権力生成の論理だ、と解説する國分先生の「読み」は、そこからスピノザの書簡にある有名な、
「ホッブズと私の違いは、自然権は放棄できないということです」
につながっていきます。

つまり、自然権が自由という事実なら、放棄などできない、ただlay downしているだけだ、というのですね。

國分先生の論では、そこでホッブズがスピノザにつながっていくのですが、このあたりはホッブズの専門家にも話をちょっと聴いてみたいところです。

確かに自然権を「せーの」で放棄して権力をゆだねるっていう図式よりも、銃をつきつけられたら言うことをきくしかないよね、そうやって国ができたんだから、しょうがないじゃん、っていうことを後から理論づけるための「設立のコモンウェルス」だよっていう説明の方が、腑に落ちる感じはしますけど。

スピノザを近代政治哲学の流れの中に明確に位置づけて論じてもらえたこの本は、個人的には本当にありがたいものでした。

あとはヒュームのところの読みがちょっと個人的には「なーるほど!」だったんですがそれはまた後で。


とりあえず、めちゃめちゃお薦めです。ぜひどうぞ。
特に、私のように政治哲学素人っていう人は、とりあえずの見取り図、考える手がかりとして最適なんじゃないかなあ。

IIJmioに変えて良かった!

2015年04月13日 20時32分46秒 | ガジェット
IIJのミニマムスタートプラン 税抜き1,040円
(高速データ通信クーポン3GB・SMSオプション付き・音声なし)

にして約3週間が過ぎました。

4/1からデータ量が3GBに増量されたのだが、家では光回線をWi-Fiで利用しているので、2週間で高速通信のクーポンは、600MB程度しか使っていません。
動画を使わなければそんなもので十分だということが分かります。

アクセスした瞬間だけは高速でデータを送ってくれるので、動画以外のサイトやメールなら、ほぼ瞬時にやりとりができてしまうため、ほとんどクーポンスイッチオフでも大丈夫なのです。

ちなみにSMSオプションなしの「大人仕様」(LINEやショートメール不要)なら900円です。

これに、auの電話カケ放題プランのガラケー1,470円をセットにして、

1,470+1,124=、2594円

大満足の状態にたどりつきました。

本当にお薦めです。
スマホ料金を7,000円~10,000円以上支払っている方には、今すぐ変更をお勧めしたいなあ。

だいたいそういう方は
「メールアドレスがキャリアメールだから変えるのが面倒」
といいます。
一度一斉送信でgoogleメールかyahoo!メールにするなり、メールアドレスを取得できる格安sim(BIGLOBEはその点良かった。遅いけどね)のメールにするなりすれば、その問題は解決するのですけどねぇ。

っていうか、キャリアメールを変更しないために、2年間15万円以上とか支払うのはどうかと思う。

iPhoneじゃなくちゃ、Xperiaの最新型じゃなくちゃ、っていう人はもちろん別。でも、そういう人は2年縛りのお得度とか、MNPのメリットとかプラン選択とか、自分なりに考えているのでしょう。
それならそれでOKだと思います。

お願いだから、さほど使っていないのに、なんとなくキャリアスマホを、しかも3年目に入っても使っている方が周囲にいたら、教えてあげてください。それはもう止めた方がいいよ、と。

やっぱり余計なお世話、なんだろうか(笑)。



レオ・シュトラウス『自然権と歴史』第三章「自然権観念の起源」読了。

2015年04月05日 14時45分13秒 | 大震災の中で
レオ・シュトラウス『自然権と歴史』の第三章「自然権観念の起源」を読んだ。

しかし、何がいいたいのか今ひとつはっきりしない。

コンベンショナリズム(規約主義?)の議論をずっと追っている。基本この人はアンチ・コンベンショナリズムのはずだから、理論的な輪郭の明示によってそのコンベンショナリズムの限界を示そうとしているのではないか、とは推測できる。

まあ、書き手の意図の汲み取りはさておくとして、「自然権観念の起源」について考えていくのことは、どこかで哲学の起源と重なって見える、という論の進め方は興味深い。

起源を云々するのは基本的に「思考実験」みたいな感じを受けていて、省略可能であるかのように感じていたけれど、この議論を読んでいると、そうばかりいって片付けられない、と思った。

今までは、ルソーとかホッブズとか、「自然状態」とか「起源」とか、妄想癖のカテゴリーに入れてましたから(笑)
「ねえよ、そんなもの!」
って感じでね。

どこかに予め「真理」が予定されていてそれを宝探しみたいにしているかのように「教わる」と、なんだかつまらなくなる。そうじゃなくて、探索しつつ発生してくる感じを捉えるのだとすれば、それは面白いかもしれない。

概念の発明=誤読

みたいな、ね。
そういう意味では、レオ・シュトラウスのこの本、なかなか面白そうだ。
たどり着かない、といいながら単に神様を招き寄せる身振りになってしまわないためにも。

私はもちろん、神様が規約のうちに予め存在するとはおもわない。
では、神様はどこにどんな風に「いる/ある」んだろう。

自然について考えることは、政治について考えることでもあり、神様についてかんがえることでもある。

なんだかまとまらないけれど、面白そうだ。
再読しながらちょっと整理しておこうと思う。

佐藤優×柳澤協二「安保法制の問題点」(3)終

2015年04月05日 11時11分17秒 | 観光
柳澤、佐藤両氏の報告が終わって、質疑応答に。
まず司会からの質問。

佐藤優氏は公明党が頑張っている、と述べている。創価学会と平和主義の関係と集団安全保障の関わりを聞きたい。
また、与党合意がある。今後閣議決定を守れるのか、守られそうにないのか?

佐藤優
木村草太氏が、集団的自衛権についていっていること に、見るべきものがある。

創価学会と平和主義ということでいえば、
2015年11月、創価学会で重要な決定があった。先月教学部の解説が(聖教新聞に?)に載っていた。
そこにあるのは、創価学会が世界宗教になる、ということだ。たとえば、中国でも(いずれ5000万~1億人ぐらいになるだろう。
そして、政教分離でいえび、公明党と学会は明らかに近づいている。そういう意味で学会は歯止めになる、と評価している。


たとえば、『新・人間革命』にこんな話がある。

戦争で人を殺したくない、と第二次大戦中に信者が思ったとき、「お題目を唱えなさい」という教えに従った。すると大砲が壊れて撃てなくなった。その結果1人も人を殺さずに済んだ、と。

まあそれだけをとると「奇蹟かっ!?」ということになってしまうけれども、これはいわば


存在論的平和主義

とでもいうべきだろう。今いる場で何ができるか。ある意味では、むしろ良心的兵役拒否は、別の「精鋭」が戦場にいくだけだ。そうではなく、

今いる場で何ができるか。

それは迎合しているようにみえるが。

柳澤

与党合意というが、結局何も協議していない。話を詰めるつもりもない。公明党は統一地方選まではそんなことをなるはずがない。

終わってから法案がでたときに考える、というつもりだろう。

そして、実質は何も決まらないまま法律は通るんだろう。

その後どうするの?という話しだ。
それで終わりじゃない。

おかしいことはおかしい、と言わなければならない。

そういう意味で公明党は歯止めになっていないとおもう。公明党は妥協している(だけだ)。

個別的自衛権→集団的自衛権

この変化は「独り歩き」をはじめるだろう。

それなのに政府にフリーハンドを与えていいのか?、公明党は不真面目だ。

法案が通ってから、大変なことが始まる。


佐藤優

いいたいことをいわせているだけ、という公明党の役割はある。

 安倍首相の、
個別的自衛権ということばを否定して集団的自衛権にする(ことだま)の要求を満たしただけ。

一発の弾も中東で撃たない選択はある。

逆に、民主党には、集団的自衛権の賛成派と反対派が両方いて、だから民主党を代表した「話者」が信頼されていない。

安倍は自分の思っていることを正直に言っている。つまり、ことばの信頼性はある。

公明党にも言葉の信頼性はある。

社民党と共産党は、現実性の問題があるね。



司会(猿田)
私は法律家だからかもしれませんが、法律の条文にこだわるところがあるんですけれども。

佐藤優
私も13年前なら、猿田さんと同じ意見でした。しかし、私は有罪になった人間です(笑)
本来公共圏には出てこれない。

法というものがどういうものか、拘置所でそして事実を曲げてでも真実を追求する検事との取り調べで私は考えた。

そこでインテグリティとか、宗教者のあり方とが、皮膚感覚で心に届くためには、ということを考えるようになった。

柳澤

安全保障の議論は、世界観・国家観があって、日本はこうあるべき、というそこで考えるというのかあるべき。
つまり、そこでリスクを説明するべきだ。

それなのに、(安倍首相の)心の満足のためにやっていることがなぜ通ってしまうのか?
それを阻止するのは国民だ。

私はイラク以上のことをやってはいけない、という考えだ。
(様々な考えはあると思うが)とのポイントで多くの声を集めて政権批判するのかが大切。

(今の状況は)民主主義の成熟がなっていない。戦争の基準を勝手に決められてはだめ!
それでは法治国家ではない。

今はいろいろな問題が問われている。
それぞれが原点を持って、しかし同時にどこで政権を止めるのか。
止められないかもしれないが、落胆しないでいきながくやっていくことが必要。

佐藤優

立場が違うと、官僚は言えない。
心にぐっと来ても自分の意見を言えない、それが完了。
沖縄の仲井真知事はなぜ追い込まれていったのか、を考えることが重要。
柳澤さんには、折り合いをつけていく強さがある。

質問に答えて
1,自衛隊が29人自殺している。民間人殺傷の危険もある。憲法違反では?「リスクがあるようなことはしない」という答弁があったが、それは考えられないのではないか?

2,目ティアと政府の関係は?

3,容認派には、アメリカに役に立つと思われなければいられないということがあるのではないか?



1,について、
どこまで民間かも分からない、そういうことが常識的に危険としてそこにある、というならまだ分かるが、それすらないのが問題。

3,アメリカの国益についていえば、米軍基地が日本にあるだけで十分。
日本独自の道で外交をすることが尊敬される道だろう。

佐藤
今は内閣法制局=公明党



外務省=(官邸?)

のタッグマッチ。
ミクロの権力維持については、官邸は細心の注意を払っている。人事でそれを押さえてもいる。

マスコミはたんなるメディア。

私の場合も、マスコミに腹も立たないわけではないが、基本は外務省と検察が情報を流した。

そこでスピンコントロールしている。
ただし、マスコミには危機感がある。インターネットも意識している。

信頼が重要だ。人は、多少裏切られてもプライドがあるから、簡単には不信に陥らない。なぜなら、いったん信じてしまった自分が惨めになるから。
だから、ちょっと裏切られたぐらいなら信頼し続ける。

これが壊れたときは本当に大変なことになる。

会場質問(つづき) 

(自衛隊は)いつ出て行くのか?何を考えていけばいいのか?

柳澤
西太平洋・東シナ海・東シナ海・南沙諸島は既に緊張している。
米中もルールを作る努力をしている。
漁民とかはべつとして、中国海軍自体は動いていない。アメリかもストレートには動けない。どこまでいったら本気なのかがわかっていない。

動く理由はシーレーン、資源などいろいろあるだろうが、米中は戦争の敷居を上げようとしている。
そこで日本がアメリカの後方支援をする意味がどこにあるのか?

中国のミサイルはアメリカにはとどかない。日本には届く。誰が最初に殴られるのかは明白。

佐藤

日本の弱点を考えようよ。
異相を変えることが大切。
尖閣で何が起きるか。
尖閣は明らかに日本以前に沖縄だった。現在地、中国では尖閣は台湾省の区域。

だから、ローカル名問題として台湾と沖縄の問題にすれば位相が変わる。
地方レベルでやれることはある。
石原慎太郎のときは言ってるだけだった。
猪瀬は金を集めた。これはまずい。お金が動くと位相が変わる。そういうことが重要。
沖縄が(部分的な)外交権を持つ、ということはありえる。

会場質問(つづき)山梨大の宮川さん

・公明党ばかりここ数年普通の政党になってしまったのでは?
・米軍再編と安保法制のかんけいは?
・翁長知事と菅官房長官の会見はどうなる?
・そして最後に一言。


柳澤
・米軍再編と安保法制は別のものだ。アメリカの財政の問題。集団的自衛権とは全く別のものだ。

最後に、本質的なことは、出てくる法律は納得できるのか?、だ。
納得出来なければ声を一つにしていく必要がある。

佐藤優
今も普通ではなく学会と党はつながっているとおもう。

翁長知事と菅官房長官の会見は、お互いの違いを確認することになるだろう。
ただ、県の代表と会うのだから、県庁で会ってしい。沖縄の記者も、冒頭取材とかブリーフィング方式とかでやろう、と言った方がいい。

国家レベルだけではなく、中間領域(団体戦)のところで考えていくのが大切。

(つるし上げにならないように、ということか?)

 以上、こんな感じでした。
話者が違ってたりするかもです。あくまで個人メモですぅ。