龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

富岡町に行ってきた(画像あり)その3

2015年08月23日 17時21分13秒 | 大震災の中で
富岡町の中の様子1

高速のICから街の中に向かう大きな道路はこのように封鎖されていた。



そのあたりの田畑と住宅が広がる部分には、



という看板があって、普通の住宅の前に汚染土が並んでいる。


とか、


どれだけの時間があれば、ここに住めるようになるのだろう、と自分が住むのではないけれど、途方に暮れてしまうような気持ちになった。

戻るといっても、昔と同じにはできないのだろう、と正直思う。
しかし、この町以外のどこに住もうというのか、と考えると、もしここに住めるようになるなら、住みたいと思う気持ちになるのも分かる。

正直、何も変わっていないものは変わっていないようにも見える。


一方では開沼さんが『はじめての福島学』で指摘するように、福島県のお米は、震災以後も全国7位の生産量で、その半分近くは首都圏で消費されつづけている。
個人的な感想をいっても、福島の桃は今年復活を遂げた、という印象がある。
どこに旅行にいっても、福島の桃は高級なものとして値付けされ、流通している。

他方、道路をクルマで走るだけで胸が締め付けられるような気持ちになる現実もここにある。
それは、決して子どもの頃に見たマンガや写真の問題ではない。
今ここにあるリアル。

まあしかし、通りすがりに撮っただけのクルマからの写真をこうしてブログにアップしたところで、新聞の専門家がいう「マンガ」や「写真」のように扱われてしまうのかもしれない。

どんな種類の「リアル」を生きるのか、そしてどんな信号を出していくのか、は私たち福島でこの震災と原発事故を経験したものの務めだと考えている。

ではどうすればいいのか。
また考えていかねば。

富岡町に行ってきた(画像あり)その2

2015年08月23日 17時14分15秒 | 大震災の中で


生活が突如停止し、他の場所に移動させられたまま、数年経っても戻れないということは、とてつもなく怖ろしい出来事だと思う。

大熊町は帰還困難区域に接していて、山ろく線(山沿いの県道)から町に入る道は基本的に全て封鎖されていた。

富岡町に入ると、クルマの数がぐっと増えて、降りて写真を撮ることもできるようになる。
下は廃墟になったローソンの看板だ。常磐道の富岡IC近くにある。



その向かい側にはこんな看板も。



走っている車のほとんどは、この看板のロゴが付いた工事・作業のクルマばかりである。



線量計は持って行かなかった。ちょっと走って、どこがどれだけの線量か、を言い立てても始まらない。

ただ、このあと富岡ICから常磐道に乗って南下したのだが、乗ってすぐの道路脇表示は2.1μs/h。かなりの線量であった。

富岡町に行ってきた(画像あり)その1

2015年08月23日 10時38分59秒 | 大震災の中で
2015年8月19日、読書会を終えて福島市からいわき市に戻るのに、途中船引を通ってみようと思い、高速道路を使わずに、一般道で三春まで走ったのだが、そのときふと

「あ、常磐道も国道6号線も通じているのだから、もしかしたら国道288号線を東に降りていったら富岡町までいけるかもしれない」

と思いついた。
コンビニに寄って確かめてみようかとも思ったが、行けるところまで行って、もし交通止めになっていたら戻ってこようと思って、国道288号線を常葉から東に向かった。

このあたりは34年前、初任者として船引高校に着任してからの5年間、よく走った道だ。
家庭訪問もしたし、当時は地域の中学校や公民館などに担任が出向き、出身中学の地元で三者面談をしていたから、地域の主な中学校の学区は知っている。

個人的には都路村(今は田村市の都路)の岩井沢小学校の前で自損事故を起こして死にそうになったことがあるので、このあたりは忘れられない風景になっている(苦笑)。

都路を過ぎると、道はしだいに下り坂になる。しばらくいくと、この看板が目に入った。

「この先帰還困難区域 四輪車のみ通行可」


最初何気なく見過ごしたのだが、3枚、4枚と立て続けにこの立て看板が並んでいて、思わずクルマを止め、Uターンしてシャッターを切った。

当たり前のことだが、未だに帰還困難区域がある。この道路は、そこに続いている。
ただ、その周辺の地域は立ち入りが可能になっている部分も出てきたため、ここでは封鎖されていない。クルマだけが通れる道、ということだ。

人が歩けない道とはどういうことだろう。私たちの住んでいるところと、この帰還困難区域とは、歩いてはたどり着けない道でだけ繋がっている……看板一つで動悸がし始める。胸が苦しくなる。

今朝(8/23日曜)の民友新聞一面に、(素人は)原発事故以前に見た画像の種類によって、原発事故の受け止め方が違う。(そんな<愚かな>素人)を無理矢理専門家は説得するのではなく、データを正確に提供して、市民で議論してもらうことが必要だ、という記事が載っていた。


放射性物質を連想 原発事故前の視覚体験が影響 (2015.8.23民友新聞) 


http://www.minyu-net.com/news/news/0823/news7.html

子どもの頃の印象が残っていて、それを原発事故と結びつけ、結果として理解が不十分で、風評被害の原因の一つになっているみたいな記事だ。
なるほど、遠くにいる人にとっては、この語り方は理があると思う。きちんと線量を測って出荷している安全な作物を、根拠なく拒否されてしまうのは福島県民として悲しく、切ない。

それと同時に、ざっくりとした「危険」の印象でフクシマを受け入れたり拒否したりするのではなく、リアルな現場の感覚もまた、どこかで共有できたら、と思う。

私はたまたま現場を通り過ぎただけの人間だけれども、この看板一つとって見ても、福島の事故は深刻であり続けている、ということを、見ていない人と共有しておきたい。

それは、風評被害を払拭するということと無関係のことではない。福島は当然のことだが一つではないからだ。一つの印象でまとめようとするのは、思考の怠惰だし貧しさだ。

福島は、間違いなく「危機」の中にありつづけている。だから、一つのざっくりしたイメージだけでは掬い取れないたくさんの「課題」なり「局面」がある。
降りていくと、熊川海水浴場の看板が見えた。



その脇の細い道は、入ることができないように封鎖されている。大きい道は、作業のクルマだけを通すため、こんな看板が立っている道路もあった。


禁断の『艦これ』を始めてしまった。

2015年08月16日 15時04分54秒 | ガジェット
絶対にやっては行けないのに、またゲームを始めてしまった。
明らかなアディクション(逃避=依存)である。

何年ぶりだろう。本格的に毎日ゲームをやっていたのはもう10年以上前のことだ。

その頃はまったのは『リネージュ2』とかだったが(知らない人も多いでしょう……)、今回は『艦これ』。第二次大戦時の日本の戦艦を萌えキャラにした育成型海戦シミュレーションゲーム(っていうのでいいんだろうか?)です。

夏休みを取って、しかしお盆だからどこにも行かず家で来訪者をもてなす側の営みが終わり、まだ仕事までには少し間があるという最悪の状況で、緩いシミュレーション系のゲームを探していたところ、今頃になって『艦これ』を始めてしまった。

本当は昔むかしやっていたフロントミッションシリーズ(スーファミ版)ぐらいがちょうどいいんだけれど、ゲームは所詮時代の中でチョイスしていくしかないわけで。

そして、ゲームは当然ながら一所懸命やる人が多く、ちょうど良い「ゆるさ」を与えてくれるゲームというのはなかなか見つからないものなのだ。

自分にとっての「ゆるさ」が全く普遍的妥当性を持たないんですよね。

つまり「ゆるさ」は今読んでいる國分功一郎先生の「暇と退屈の倫理学」的にいえば、個人が記憶の中で培ってきた経験=運命に関わることであり、どれだけの「ゆるさ」の程度が自分にとっての「退屈しのぎ」にふさわしいのかは、出会ってみないと分からない(苦笑)。本性ではなく運命に関わることだから……

っていうか、明後日報告するレポートを完成させろっていう話なんだけれど、そういう目の前の仕事から逃避して背中をじりじり焼かれる思いをしながら、暇など一寸たりとも存在しないのに暇つぶしをしてしまうわけです。

さて、『艦これ』、はまりました。対戦がざっくりしていて、戦闘中は基本何もやることがなく、主として艦隊の編成と、船や装備の育成をしこしこやるだけなので、そしてそのための資材や弾薬はお金をかけるか時間をかけるか、というわかりやすい構成。

ぼちぼち一日一回、家でPCを立ち上げ、30分~1時間ぐらいやるのにいい環境です。

締め切りがあるから、なんだろうなあ(苦笑)。
まずい。かなりまずい。こんばんはお酒のみも入っているというのに。
明日からは出勤だというのに。



ドキュメントスキャナ DR-C225wの使用感(続き)

2015年08月14日 23時50分09秒 | メディア日記
『ロードスターのすべて』という、中が針金状のホチキス2本綴じになっている、中央見開き一枚の雑誌を、金具を取って真ん中から裁断してDR-C225Wに通したところ、

重送の嵐

になりました(苦笑)。

たぶん、このような綴じ方の場合、紙の中央側がどうしても真ん中に向かって丸みを帯びるため、そこが重なったまま重送されてしまったのだと思います。
多少写真が切れるのに目をつぶって、とじしろをいつもと同じように一冊上から丸ごと裁断すれば重送は防げたのかもしれません。

雑誌と厚めの文庫本(用紙が薄くなる)の場合、S1500でも末期のころには重送がしょっちゅうでしたから、そういうものなのでしょう。

新型だから万能ということは(当たり前ですが)ありませんね。

それから、気づいたのは、DR-C225Wは意外に動作音が大きいということ。早い分そうなる、という面もあるのでしょうかね。S1500より速度が早く、その分ちょいと音も大きい感じがします。

しかし、とにかく一度にセットできる紙の枚数が10枚から20枚少なくなること以外は、新品ということもあってか問題なくスキャンできています。索引作成が早いのもとてもいい点です。



シュガー・ベイブ『ソングス』40ht Anniversary Ultimate Editionを聴いている。

2015年08月14日 22時33分43秒 | メディア日記

シュガー・ベイブ『ソングス』40ht Anniversary Ultimate Editionを聴いている。

ハイデッガーを途中にして、ジュバンチッチ『リアルの倫理』(ジジェク派のラカン屋さんが書いたカント論?)を放置して、シュガー・ベイブの聞き比べをしている。

シュガー・ベイブの『ソングス』は、山下達郎や大貫妙子が在籍し、あの大滝詠一がプロデュースした名盤中の名盤。解説不要だと思う(世代的に限定かもしれないけれど)。

今回リマスター版とリミックス版が2枚入っている。
聞き比べをしても、流してきいていると正直あまり違いが分からない。

しかし、私の鈍い耳でも、

リマスター版とリミックス版とでは、『蜃気楼の街』の大貫妙子のボーカルの音が違うというのは分かった。リマスター版では、楽曲の中の平面上で声が鳴っている感じなのだが、リミックス版ではあきらかに大貫妙子のボーカルらしい息づかいが前の方に出てきている。
微妙な、だがたしかな違いがある。

『いつも通り』もその感じは多少あるかな。
さりげなく、しかし大貫妙子のこの時のボーカルを大切に残そうという「愛」があるような気がしました。

単なる気のせい?

ちょっとメモ的に書いておきたかった。逃避ですな……。




國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の読書会をすることになった。

2015年08月14日 10時35分46秒 | 大震災の中で
 仲間内でやっている読書会のレポーターが順番で回ってきたので、
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を取り上げることにした。
本当は『スピノザの方法』をやりたかったが、細部を自分で読み切ることはできないので断念。

『暇と退屈の倫理学』はとりあえず著者が歩む道筋をついていくことはできる。

そう思って読み直し始めてみると、第5章のハイデッガーの退屈論がどうしても飲み込めないところが残る。これは本文(もちろん訳です<笑>)に当たるしかないだろうという、ちょっとだけお勉強の意欲を持ち、ハイデッガー全集29/30巻をネットで購入した。

福島県立図書館にあるのは検索で分かったが、福島まで往復するのにコストが1万円ちかく(高速代+ガソリン代)かかるので、中古で7000円弱で買えるなら、その方がよかったので。

で、今読み始めたら、なんということだろう、ハイデッガーの講義は怖ろしく面白いのだ。

単に話が分かる、とか分からないとかいうのではない。

講義にはいろいろ迂回路や大げさな表現があってそれに引きずり回されるという面もないではないのだが、一つには國分氏の「導き」によって、大きなハイデッガーがもつ「思考の流れる方向」というか「性向」を指し示してもらっているから「安心して読み進められる」ということもあるだろう。そういう予めの方向の指し示し、があると、難解なテキストを部分的な表現で「怯えずに済む」、ということは間違いなくある。

たとえば、冒頭ノヴァーリスの引用解釈でもそうだ。
ノヴァーリスは哲学について

「哲学はほんらい郷愁であり、随所に、家に居るように居たいと欲(ねが)う一衝動である」

と書いていて、ハイデッガーはそこから「郷愁」を取り出し、さらに「世界内存在」における「有限性」という「われわれの有の根本様式」を導き出す。

國分先生は、後半の「随所に、家に居るように居たい」のハイデッガー解釈に疑問を呈した上で、前半の「郷愁」がハイデッガーの基本的なテキストの「欲望」だったのではないか、とさりげなく触れた上で「退屈」論を展開していく。

このあたり、師匠の導きが楽しいということはある。


だが同時に、師匠が指し示してくれる方向とは別に、ハイデッガーのテキスト自身が持つ力、繰り返し巻き返し寄せては返す波のように「波動」を発して、こちらがテキストを読む(講義を聴く)場所を巻き込んでいく力、の存在を感じるのも読書の現場の「事実」なのだ。

ぐいぐいと「あらぬ方向」へ引き寄せられるような力。読むという「解釈」にとどまらず、否応なく「問答」に巻き込まれつつ、引き寄せられていくのを感じる。そして10ページほど経つうちには

「われわれは見た、人間というこの謎めいたものの中で哲学が生起する、ということを」P16(ハイデッガー全集29/30巻『形而上学の根本諸概念』)

あるいは

「結局ノヴァーリスが郷愁と名づけているものは哲学することの根本気分である。」P18(同上)

ってなところに打ち寄せられることになるのだ。

ハイデッガーによれば「郷愁」をキーワードとして、「世界」と「有限性」と「単独化」がノヴァーリスのこの一句から導き出されるらしい。

へぇー、である。全然納得はいかない。

しかし、ハイデッガーが向かっていこうとしているその方向性はおぼろげながら見えてこないでもない。國分先生が指し示す大きな見取り図の中で、しかしハイデッガーのテキストが張り巡らそうとする磁場は、その見取り図の中で振動し、踊り出し、どこかへ連れて行ってもくれそうなのだ。

その分かる感じと話からなさを同時に受け止めるとき、テキストはどんな種類のものであれ、至福を私たちにもたらすことになるだろう。それは長年、乏しいながら読書を趣味としてきた私自身の実感だ。


そういう意味でいうと、カントでもスピノザでもハイデッガーでもそうなのだけれど、主著と呼ばれるものは、あまりに構築性が高くて、読んでも頭の中に入ってこないことがむしろ自然だ。

カントでいえば『純粋理性批判』よりは宗教論の方が、あるいは啓蒙とか世界平和について書かれたものの方が、スピノザでいえば『エチカ』よりは『知性改善論』の方が、圧倒的に読みやすいし、その世界に入って行きやすい。

ハイデッガーもそうだ。この講義は、「読める」。そう、『天空の城ラピュタ』の登場人物ムスカが「読める、読めるぞ~!」といったあの「感激」がここにはある。

それは書かれていることが理解できる、とかいうことでは必ずしもない。読めたからといって分かると思うなよな、ということはある。

全く「読めないテキスト」は、魅力的ではあっても現実にはどうにもならない暗号のようなものだ。それに対して、どこか分かるような部分もありつつ、どんな振る舞いをするのか予断を許さないというテキストは、もしかすると「手に負えない」かもしれないけれど、「なんとか読めるかも知れない」という微妙なドライブのラインが想像でき、非常に強く惹かれる。

というわけで、読書会のレポートをそっちのけでハイデッガーの『形而上学の根本諸概念』を読みたくなってしまった。

最近6,7年ぐらい哲学のテキストを読む快楽を漁っているのだが、おおよそ、歴史的ビッグネームを読む時には、ちょっと周辺のテキストから読むと遊んでもらえることが多い、ということに気づいてきたのだが、これもその典型の一つ。

ハイデッガーの『放下』を読んだときもそうだった。これも國分先生がちょっと触れていた(ということはさりげなく紹介していた)テキストを全集でちら、っと見たら、これがメチャメチャ面白くてびっくりしたことがある。学問じゃなくていいんだけど、勉強する楽しみってこういうところにもある、と実感。

特にハイデッガーについていえば、言葉の巻き起こす磁場(単純にレトリック過多、といってもいいけれど、そうなると不要の文飾ってことになっちまう。

カントの宗教論(全集第9巻)を読んでいても感じたことだけれど、哲学者が繰り返し巻き返しぐだぐだと(失礼<笑>)こだわっている表現の中には、彼らの言説に渦巻く「欲望」がやっぱり感じられるわけで、それを味わわないなら、早わかりの解説本だけで読むのを止めておけばいいのだと思う。
本文に向き合う以上、それはあたかも読まれつつあるテキストとともに構築されていく「小説世界」のように哲学もまた読まれていく側面がありそうだな、あと……。元小説読みとしては感じたりもするのです。

とりあえず今日は、『暇と退屈の倫理学』をガイドブックにして、『形而上学の根本諸概念』を読んでいきます。日帰りのピクニックには少々歯ごたえがありすぎるかな?

でも、テキストはたとえどんなにひねくれたものであっても、いつも読まれることを待っている(読者は選ぶんだろうけどね)、そう思って出かけてきます(笑)。


川内の原発が再稼働してしまいました。

2015年08月12日 01時00分15秒 | 大震災の中で

2015年8月11日、川内の原発が再稼働してしまいました。

福島で原発事故をまのあたりにした者としては、復興まだ半ばであり、10万人以上の避難者がいる現状、そして汚染された自然を回復していくために必要な長い長い時間を考えると、正直どうして再稼働するのかが飲み込めないままです。

ちょっと皮肉っぽく考えれば、確かに原発の施設は稼働停止していても大量の燃料や廃棄物を抱えており、それらの最終的な処分は決まっていない状態なのだから、どうせどうにもならないわけで、だったら

「今の(稼働できる)うちに動かした方が経済的にはおいしいんじゃないか」

と考える人がいるだろうことは想像できる。

でもね。その議論は次の事故が起こる可能性から目をそらしているし、それ以前に、今起こってしまっている大事故の状況を直視していないという印象を持たざるを得ない。

村上春樹も指摘しているように、何十万人の生活が影響を受ける原発事故を体験したものが、なおもその再稼働を主張するのは、計算可能性の範囲の中で経済的効率を優先させている「無思考」の結果だとしか思えないです。

今日も政府の要人が「事故については責任を持って対応」するとTVニュースで語っていたけれど、東京電力福島第一原子力発電所の事故の責任は誰も取っていないわけだしね。

福島の事故の総括もできないうちに再稼働っていうのは、正直どうかと思う。

今は、もしかすると世界的にいろいろ煮詰まってきている状況なのかもしれない、とも思う。
でも、だからこそ、落ち着いて「無思考」の罠がそこにあることを冷静に見つめつつ、これからのことを考えていった方がいいんじゃないかな。

原発事故を心配して川内原発の再稼働を反対するのは「感情論」に過ぎない、みたいなことをいう人もいて、「へー、そう考えるんだ」と感心してしまう。
「感情的」に反対だっていう側面もあると思うけれど、それは再稼働推進派の人たちの中にも幾分か「感情的な再稼働反対」にいらだつ「感情」みたいなものがあるんだろうな、とも思うし、そういう反応はあるよね、っていうことを踏まえていかないといけないんだろうと思う。

「感情的」であることが悪いっていうのもよく分からない。
だって、こんな福島みたいなことがあったら、そりゃ「感情的」にもなるよ。

それだけじゃ伝わらないから、言葉を選びつつ尽くして行かねばならない、とも思うわけだけれども。

私は
「悪いことはいわないから原発は止めておけ」
と言い続けます。
自分は避難せずに残ったけれど、子どもたちを避難させた体験もあるし、避難してきた人たちと共に過ごしてその実情を聴いたりもし、復興の現状を見ているわけで、これは経済の問題として語って済ませられる性質の事柄ではない、という確信があります。

「悪いことはいわないから、原発は止めておいた方がいい」

Canon imageFOMULA DR-225W、なかなかいいですね。

2015年08月12日 00時32分19秒 | 大震災の中で
キャノンのドキュメントスキャナ DR-C225wの使用感を少し書いておきます。

今まで
 
FUJITSU ScanSnapS1500

というスキャナ(自炊目的の標準機種FUJITSU ScanSnap iX500の旧型)
を使って1500冊ほどPDF形式での書籍取り込みをやってきたが、重送(一度に紙を二枚送ってしまうエラー)が多くなったのに耐えられずに今度はキャノンの

imageFOMULA DR-225W

という機種を購入しました。自炊といえば富士通のs1500からix500の事実上1択だったのだが、去年発売されたキャノンのこの機種の評判がなかなかよく、今年になって発売になった富士通のiX500が、同梱ソフトの「改悪」(考え方によりますが)が中心だったことにいささか失望したこともあって、思い切ってチャレンジしてみたのです。

結果は、大正解。唯一自動でスキャンしたときの岩波新書の赤がくすんでいたのが気になる程度で、いわゆる自炊用ドキュメントスキャナとしては抜群の使いやすさと安定性を手に入れることができました。
消耗品の交換用ローラーも半額以下ですし。

S1500と比較して

良い点

1,読み取り速度が速い(S1500よりは確実に早いです)。
2,重送が少ない(というか10冊4000ページ程度試用した限りでは皆無。)
3,索引作成に時間がかからない(S1500の添付ソフトではかなりの時間を要した)
4,ラウンドスキャン(手前にスキャン済みの紙を保持する場所がある)なので場所を取らない。
5,スキャンモードをボタンとして作成できるので、直感的にモノクロ、グレースケール、カラー、高解像度、低解像度、送付先(クラウドを含む)を素材ごとに選択できる。
6,紙の厚みを選ばない(s1500では、厚めの文庫本などの薄い紙は重送しやすかった)。


ちょっと?な点

1,色が時々良くないことがある(24bitカラーを最初から指定すれば起こらない)。
2,長尺モードと通常モードを、スキャンソフト内で選べない(別途ユーティリティ立ち上げが必要)
3,一度にセットできる紙の枚数が文庫で50枚から60枚程度がギリギリ。S1500だと70枚ぐらいギリギリセットできた。
4,ラウンドスキャンだと端に不要な影が少し出ることがある(S1500同様の前に排出するモードではその現象は観られない)。まあ、読むのに支障は全くありませんが。

5,添付の編集ソフト(eCopy PDF Pro Office)は読み込みに時間がかかったり、読み取りソフトと連携がうまくいかないことがあったので今は使っていない。
慣れればいいのかもしれないが、現状はJUST PDFで処理。
編集はS1500についてきたScanSnap Oganizerの方が手に慣れていたせいか、使いやすかった。

いろいろ書きましたが、文字中心の本を自炊するなら、キャノンのDR-C225Wがおすすめです。

国立国会図書館を見学してきた。

2015年08月05日 14時21分45秒 | 今日の日記
昨日、国立国会図書館を見学してきた。収蔵点数4000万に上る蔵書数はもちろん凄いのひとことなのだが、その現場を(バックヤードまで含めて)つぶさにまのあたりにすることができ、深い感動を覚えた。
写真は私が生まれた月の少女雑誌リボン


マンガは背表紙も資料的価値が高いのだが、厚みがあるだけに傷みも早く、製本し直したり箱に入れて保管したりする必要があるとのこと。
また、マンガは初出と単行本で異同藻多く、その違いを見るために研究者はこれを見にくることが多いとか。

東京のこの建物は
サッカー場大の書庫が8面分ある新館と、45m×45mが17層ある本館があり、それで1200万冊ほど、と聞いた。
他に京都府にある関西館と上野公園にある子ども館あわせて4000万冊。

東京都内の大学で論文を書いた人の多くは一度ぐらい利用したことがあるかもしれない(特に人文社会系)ですね。
私は文献がほとんどない卒論だったから、神田をうろうろして終わりでしたが。

こんなローカル紙も保存されてました。


第5回エチカ福島、終了。

2015年08月02日 10時48分11秒 | メディア日記
昨日の第5回エチカ福島に参加されたみなさん、お疲れさまでした。

特に発表者の伊東さん、島貫さんにはお世話になりました。

お二人の魅力的な話を聞けたというだけでも、第5回を設定した意義がありました。

他と比較不能な「実践力」の提示は、それだけで興味深いものですが、これからその 「力」について、じっくり考えていかねばならないと感じています。



お二人の発表は、私たちが教育について考えていく上で避けて通れない 「事物」を示してくれました。

果たしてどんな学問がこの 「事物」を分析してくれるのかどうか。


「学び」とは?
「宗教」とは?
「政治」とは?

その 現場における 「言説」の様態は?

それらの問いが複雑に絡み合いつつ 「学校」という場所で展開される教育の本質については、この一回だけで見取り図が得られるはずもありません。

「市民(シティズンシップ)教育」

についても考えていかねばなりませんし。

ともあれ、今回のお二人の発表は、ゆっくり反芻しつつ、次の回につなげていきたいです。