龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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個人的感想だけれど

2010年02月22日 23時51分20秒 | 社会
 すぐれて個人的感想だけれど、トヨタ自動車のプリウスをはじめとするリコールの問題は、トヨタの高品質サービスのやり方自体にも関わっているのではないか、と感じる。
 言うまでもないことだが、工業製品は発売された段階ではまだ熟成していない。
 私の知っている大手の作り手は、納期や発売日程に追われている工業製品に関しては、絶対
「ファーストロットに手を出すな」
 と言う人が以前から多かった。

 そんなことは、ある意味で当たり前のことだと思う。
 イメージとして、トヨタはおもしろみのない80点主義の製品が多かったし、時折突出した異色のものも出したが、さりげなく消えていくことも多かった。その出し入れの巧みさには、個人的にはさすがだな、と思っていた。

 私は新車でトヨタの車を2台購入し、いずれも15万キロ乗って手放した。
 一台はエスティマエミーナのディーゼルターボ。
 もう一台はファンカーゴ。
 ファンカーゴは、衝突安全性が低かったが(ベース車となったヴィッツ以下)、いつのまにか車種自体が消えていた。
 エスティマエミー名のディーゼルターボは実によく油を食べたり漏れたりしたが、そのたびに
「ターボユニットごと交換しましたから」
 と言われた。もちろんずっと無料だった。

 私は、トヨタは上手な商売をするなあ、とそのときも思っていたものだった。
 クレームが大きくならないように、素早く黙って対応するのだ。
 他に乗ったのはホンダとマツダだったが、マツダのディーラーは30年前、自社の車さえ整備できない状態が田舎では存在したけれど、80点主義のトヨタは、田舎の工場でも十分だった。
 ホンダは、新型になって、デザインやコンセプトは魅力的になったが、仕様が落ちることもあった。これも20年も前のことだったが。

 トヨタ車は、そんな時も信頼感があった。
 ただし、その信頼感は、リコールを素早く行い、情報をいちはやく公開して消費者すべての安全と満足を共有する姿勢とはおよそ対極的な信頼感、だったと思う。

 「世界一」のメーカーになったトヨタの社長がアメリカに呼ばれて車の不具合の対応の問題を問いただされると聞く。

 たとえばプリウスのブレーキの電子制御切り替えの違和感なども、順次黙って直している最中だったとか。
 かつてのトヨタ車のオーナーとしては、ああ、やっぱりね、そういう対応が続いているんだ、と思う。

 どこのメーカーだってそうだ、とは言えるのかもしれない。トヨタだけが特別すごい悪い対応をしたわけではないだろう。
 むしろトヨタは上手にやりすぎる。

 そして現代の文脈においては、その「上手さ」を「悪質さ」と捉えることは、昔よりずっと「容易」になってきているのではないか。

アメリカにおいてだけ糾弾される文化ギャップ、という問題ではなく、「今」はそういう時代になっているのだ、ということでもあるだろう。

単純な話、もっと熟成してから出せば良かったのだ。

あるいは、80点時代なら、それでも技術的に十分カバーできたり、ばれない程度の性能で終わったのではないか。

あるいはさらに、かつては、今問題になっているようなことは、むしろ「高品質のサービス」であったのかもしれない。

もう二度とたぶんトヨタの新車には乗らないと思うけれど(というかこれからの経済状態を予想すれば、新車なんてほとんど購入機会がなくなると思うけれど)、トヨタにはぜひがんばってもらいたい。日本の自動車産業のトップなわけだし、世界有数のメーカーであることは間違いないし、日本の雇用もアメリカの雇用も守っている企業なわけだし。

冷泉彰彦という人が、村上龍のメールマガジンの中で、電子制御によるブレーキの切り替えに対する違和感に、文化ギャップ(ブレーキを電子制御にすることに対するアメリカの人たちの不信)を見ている内容の記述があった。
もしかするとそういうこともあるのだろうか。
アメリカ固有の問題は、私には分からない。

ただ、トヨタ車の一ユーザーだった人間にとっても、いろいろ考えさせられる今回のトヨタ社長のアメリカ議会の公聴会出席事件、だ。

聞けば、アメリカの公聴会って、すごく難しいとか。公共的なる言説を用いての「戦闘」であり、文化的なギャップを踏まえてのタフな「交渉」であり、しかもそれを「アウェー」でこなさなければならない、となれば、ある意味オリンピックよりもどきどきする。
どうか、いいパフォーマンスを見せてほしい、と思う。


小説の面白さとは何だろう

2010年02月22日 23時05分55秒 | 評論
小説の面白さとは何だろう。

 日曜日、比較的高齢の方と一緒に本を読む機会があった。
 本は
 伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』
 森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』
 の二冊。まあ、当代を代表するエンタテインメントの書き手二人の作品だ。
 わざわざ読んでその「面白さ」をしゃべると、むしろ「面白さ」が逃げるってことはよくある話で、今回もそうなった(にが笑)。

 私にとっては、そして年若い友人たちにとっては間違いなく面白いのだが、50歳から70歳の人には概ね不評だった。

 どこが面白いのか?

 と素朴に問われると、こちらもだんだん不安になってくる。
 むしろ『フィッシュストーリー』や『アヒルと鴨のコインロッカー』の映画が面白かった、という50代の人は一人いたけれど、小説は二度と読む気がしない、とも。

 そんな話を聞いていて、「いや、でも面白かったんですよ」と繰り返し説明していったのだが、「面白さ」を説明するのは、これはもうかなりの難題なのだ、と改めてじわじわ感じずにはいられなかった。

伊坂幸太郎の面白さは、異なったレイヤーに生活していて、どうやっても互いに出会わないまますれちがいつつ、それでもなお、どこかで接点がかすかにあり得るのではないか、というフラットな「諦念」と「絶望」の中のまれな「ポイント」を探していく小さな書き手の、そして登場人物の、さらにはまた読者たちの身振りをそれぞれに(響き合わせて)楽しむことにある……と思うのだが、どうも、その「姿勢」に貫かれた努力の持続は、ほとんどそこに集まった読者にとって(そしてまた当然想定された作者にとっても)徒労に近く見えていたようだ。

こんなにも読みやすい文章なのに、「読みにくい」というのだから、どうにも不思議だ。
スカスカで読む価値がない、という感想ならば、まだ分かるのだが(苦笑)。

森見登美彦の作品はコアな妄想系小説だから、年配の人にもそのあたりはヒットするらしく(好みは別にして)、また、京都の街が持つさまざまな文化的地層の厚みを利用したエンタテインメントになっていることは年配の方にも感じられたようだった。
様式美だしね。

言葉の格子を縦横に張り巡らし、かつ、実体的な疑似的存在を作品中からほとんど排除した希薄な相貌を見せつつ、それでもなおそれが人間によって読まれ得るとしたら、というエンタテイメント的チャレンジの興奮は、「主体」を過剰に求める年配読者の姿勢とは、なかなか相容れないものなのかもしれない。

難しいなあ。
別に好きだと思わない人に、単なるエンタテインメント小説を啓蒙してまで読ませたいと思っているわけではないのだけれど。偉いエンタテインメントだ、といいたいわけでもないしねぇ。でも、非常に「倫理的」な小説でもあると思うんです。だから敢えて奨めてみたいのだが(いろんな意味で間違ってるか)。






国公立二次試験対策をやっていて思うこと

2010年02月15日 02時54分45秒 | 教育
国公立二次試験対策をやっていて思うこと

 東大・東北大・福島大・千葉大・筑波大・新潟大・埼玉大の現代文の二次記述問題を毎日生徒と一緒に解いている。
 私は確実に受験問題に詳しくなって、解答の実力も身に付いてきていると思う。
 私が力をつけてもしょうがないんだが。

 東大の解答字数はだいたい60字~70字。と決まっている(約13センチ×2行が基本)。
 東北大は30字~80字。
 筑波大は一般に字数制限なし(解答欄の広さによるのだろう)。
 新潟大・埼玉大は100字以上の比較的長いものが出る。

 まあそんなことはどうでもいいのだが、受験生たちの記述答案作成を見ていると、どうしても要素詰め込み型になりがちだ。
 こちらの教え方もよろしくないのかもしれない。記述は15字~20字で1内容ぐらいの目安で書け、とか口を酸っぱくして言うので、受験生もそうしなければ、と解答すべき要素を一所懸命探すことになる。
 次のその要素を組み立てて、なんとか解答に仕立て上げようとするのだ。

 しかし、適切な解答にするためには、本文全体の論理展開を把握し、その部分にふさわしい抽象レベルで、適切な「対比」を踏まえて、答案の範囲内の論理と、本文の展開論理とが矛盾しないようにフィットした形に仕上げることが必要だ。

 この、本文の論理展開を把握した上で、適切な「対比」を踏まえて、答案内の論理と、本文の「論理展開」が矛盾しないように仕上げる、ってのが結構難しい。

テキストに対するバランスよい目配りも必要だし、明示されていない「対比」もきちんと押さえる必要があるし、加えて傍線部は同じ言葉を使わずに一段階一般化して「説明」することも忘れてはならない。
初見の、しかもそう短くない評論文を読んだ上で、せいぜい40分以内にそんな記述答案を4つか5つ書き上げなければならないのだから、まあ大変なことである。

結局のところ、評論は「類同性」・「変化」・「対比」が幾層かになっている、その「関係」を読めればなんとかなる、と駿台の二戸先生という講師の方に教わったことがあるけれど、それに付け加えるとすれば、福島大の澤先生が小論文の指導の講座のときに強調していた「筆者は何をいいたいのか、何のためにそう表現しているのか」ということだろうか。

一度は二戸さんの指摘のように前から「共通性」と「対比」を踏まえて「変化」を読み解き、二度目は後ろにあることの多い「結論」から、よく見えなかったその3つをもう一度逆に読み解いてあぶり出す。

私が今年二次問題の数をこなしているうちに感じているのは、この「二度読み」の感覚の重要性だ

そしてそれは現代文の評論に限らず小説・古文・漢文においても、、二次記述のような、短時間で正確に記述解答を作るときに有効な方法であるように思われる。

初読の時にすべてすらすらと理解できるぐらいなら、それは勉強せずとも合格答案を書くことは可能だ。しかし、普通はそうはいかない。文章の方向性ぐらいはざっと読んだだけで分かることもある。しかし、考え方や思考の展開方法が自分と違っている評論の場合、前からリニアに読んだだけではしっかりと把握できないこともある。
そのときに、結論(筆者の主張)から逆に全体を再配置するつもりで、後ろから読むと良い。

小説だったら、最後に主人公がたどり着いた「心情」から読み戻すことになるし、古文だったら、最後の教訓や和歌にたどり着くまでの道筋を最後から逆に類推することになる。
漢文に至っては、最後の登場人物の言葉や、筆者の主張・コメントから、たとえや比喩を再配置していけば、読解速度もだいぶ上がるはずだ。


ただし、そこで一番重要なのは、一回目のまだよく分かっていない読みのうちに、
「自分が読解できた範囲で文章全体の世界像を把握してしまいたいという欲望」
に逆らって
でも、ぼんやりと見えていないところ、自分の読みで文法や単語、あるいは論理の流れからいって「つまづいているかもしれないところ」の手応えを感じて、一度目の読みのときはそこを敢えて「明確化しすぎないで読み終える」勇気だ、と最近強く思う。

人は、理解できた範囲で「分かったつもり」になりたがる。分からないと不安だし、受験で時間も限られていると、最初に読めたつもりの感覚で押し切ってしまいたくなる。
もちろん、最初から読めるように訓練はしたい。しかし、東大受験者だって60%とか65%とかしか解けない問題を、最初から解答の最後まで見通すように読解できる人が果たしてどれだけいるだろうか。

問題解決のためには、問題点を洗い出すことが必要だ。
そして問題点とは「分からないところ」「ぼんやりしていてはっきりしないところ」「矛盾があって困っているところ」だろう。
受験生には、その「分からなさ」を1回目の読みで排除せずに「うるかした」まま保持することを強く奨めたい。

中には最初からすべてがクリアに見える人もいるだろう。しかし、たぶんそういう全体の要素をすべてありうべき場所に最初から配置できるよう矛盾なく処理できるだけの能力があれば、受験なんて勉強せずにも済む。

たしかにそういうレベルの人もたまにいます(笑)。

しかし私たち凡人は、1度目ではよく分からないことや勘違いしやすい場所を洗い出し、二度目の読みで修正しつつ、全体構造の中で要素を適切に再配置し、論理展開に矛盾が生じないように比喩や例示の意味や意義を画定していくことが大切なのではないか

二次指導の前半を終えて、そんなことを強く感じた。
後半、その構造の中での要素の適切な再配置、が受験生に「きれいに提示」できて、納得してもらえれば、仕事は成功、と言えるかもしれない。
それが足りないと、お給料分の仕事にはならないかな……。
厳しいけれど、そこ、もう少し粘ってみたい点です。


友人二人が泊まりに来た。

2010年02月11日 19時25分10秒 | インポート
普段一人暮らしをしている部屋にたまさか来客があるとちょっとそわそわ&わくわくしてしまう。
むろん、部屋の片付けなど本格的なことはウィークデーなのでできない。
が、さりげなくちょっと掃除をしてしまったり、せっかくだからどんな飲み屋に行こうかとか、食事はどうしようかとか、地元の名物・名所アクセスは行程に含めるべきか否か、あるいは食事一つにしても、自分で摂る朝食とはちょっと違ったものを用意しようか、とか、いろいろグルグル考える。

今回は友人が二人1泊していった。
なんとなく忙しげに日々を過ごしている中、ゆっくり丸一日を、相手方のペースに合わせて過ごすのは、とても気持ちがよいことだ。
ま、当然相手にもよるんだけどね(笑)。

今回は、専門が同じの年若い(20代)のお二人だったので、生き血を啜る吸血鬼さながら、私にとっては刺激になることがたくさんあって、楽しい限りだった。

用事はそのうちの一人がこちらに就職するというので、その部屋探しついでに暇な友人も一人ついてきた、のだが、その部屋探しがまた面白かったのだ。

デフレ(スパイラル?)の影響かどうかしらないが、不動産の賃貸物件相場が、軒並み下がっている。
結局選ばなかったけれど、山の裏手、駅からクルマで4~5キロの幹線国道沿い、スーパーおよびローカル線駅至近、職場まで自転車で20分強ぐらいの場所、築10年以内の風呂追い炊き付きブロードバンド付きの2LDKで42,000円。私の借りているところはたしかに駅徒歩圏内だけれど2DKで58000円。
不動産賃貸の値段なんて、物件ごとにいろいろさまざま、なのは知っているけれど、それにしても衝撃の価格だった。だってすごくきれいな部屋なんですもの。
友人は、クルマを持っていないのでそこにはしなかったけれど。
空き物件を抱えるよりは、サービスしても入居率を高める必要があってね、と営業の人はいっていた。決算期の「株主総会対策」って面もあるとも。

その若い友人の一人は講師の臨時採用、もう一人の若者は、まだ就職が未定。
部屋が安価なのは大歓迎だけれど、若者にもっと安定した仕事がほしいと思う。

臨時的にでもいいから正採用の最高賃金とかを定めて、若い者の長期本格雇用を促進する法案、とか作れないのかなあ。
社会主義じゃあるまいし、とよくいわれるけれど、冷戦が合ったときの方が、ずっと資本主義も雇用には優しかったよねえ……。
グローバリゼーションだから仕方がない、なんてこの国の人のしたり顔はしょせん「仕方がないから大政翼賛」的したり顔だから、私は全然信用しない。
けれども同時に、その経済の動きを全く無視して個人の「生」を社会が支えられる時代でもないだろう。

その面倒なところを、考えていかなければ、と思う。難しすぎて無理、と思うけれど、その無理を持続する強度がほしいね、私個人に。









大雪の中での移動

2010年02月08日 22時23分03秒 | インポート
 週末、休日出勤(国公立二次の課外です)を終えて、福島からいわきまでクルマで行こうとしたら、雪で高速道路が封鎖。

しょうがないから国道4号線を南下したら、これが超ノロノロ運転。49号線も長蛇の渋滞。

思い切って須賀川から石川を通っていわきに出る道を選択しました。

その選択自体は間違っておらず、山越えの道は渋滞なしでしたが、郡山→須賀川がまた渋滞。
結局、福島→いわき(平)まで6時間半ちかくかかっちゃいました。途中救急車を3台、事故現場を3カ所ぐらい見かけました。

結局のところ、大雪の日は、家でお風呂に入って、温かいご飯を食べて、こたつで本を読むのがいちばん、ですね(^^;)。

次の日は打って変わって晴天で、オープンクルーズを楽しんで戻ってこれましたが。

ちなみに今は、高速通行止めが解除になると自動で携帯にメールを送ってくれるうサービスもあるんですね。

そういえば、家の近くのコインランドリーの洗濯機も、完了したら携帯へメールします、なんて書いてありました。
世の中、すごいなあ。