龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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G-SHOCK GULFMASTERの短針が動く件(しつこい<笑>)

2015年01月24日 17時03分25秒 | 観光
定価6万円ほどの

G-SHOCK GULFMASTER

を買って、短針がプラプラ動くとかいって修理に出したら「この程度は歯車の仕様です」といわれてビックリしている場合ではない、というのは分かっている(笑)。


元々使い捨てに近い2万円以下の時計に対する

「覚悟?覚悟ならないこともない」(『こころ』のKのセリフ)

のだ。

ただ、5万~6万ぐらいの時計を買ったら、カシオは、私にとっての時計概念(長針と短針がきちんと目に見える程度には厳密に連動していて、長針が1回転するごとに、短針が1/12回転する)=常識の範囲に入っていなかった、ということに驚いただけである。

ちなみに、かつてシチズンのアテッサ(定価5万円)を買ったところ、自動で針のズレを直す装置がついておらず、修理に出して直しても、いつのまにか秒針があらぬ方向を指しているという現象に出会ったこともある。

電波時計でなければ秒針の場所などご愛敬なのだが、長針と短針が厳密に動いている分、秒針のズレをいちいち修理しなければならないそのシチズンの5万円の時計は、あり得ないものだった。

だから、カシオだけがおかしいわけではない。

カシオの6万円の時計は短針がいい加減だけれど、シチズンの5万円の時計は秒針がいい加減だったということだ(しつこいね<笑>)。

結局、その程度のことだ、というのが私にとっての教訓。

10万円ぐらいの価格帯だと、とりあえずこのような問題はいまのところ起こっていない。
20万円以上になると、10年無料保証(ザ・シチズン)といったサービスも出てくる。

値段相応に何をどう楽しむか、ということなのだろう。

ここでようやく、機械式の腕時計の魅力を改めて感じる。

電気的・電子的な動作を全く含まず、ゼンマイや、自動巻の分銅の動きという完全に物理的な力によって、機械の動きのみで時を刻み続ける機械式の腕時計は、電波・光・クオーツの「全く時間がずれない」(針はずれるけど<笑>)時計と違って、毎日時間を合わせなければならない。

だが、毎日合わせるというこちらの身体との呼応によって、何十年でも「物理的に」時を刻んでくれる機械式の時計は、「電波・光・クオーツ」の安価で正確な気持ちの良さとは全く質の異なる「快適さ」を運んでくれる。

当然だが、「電波・光・クオーツ」の腕時計のおもしろさは、機械式腕時計のおもしろさとは違う。

値段をつけると一般に機械式の方が高くなるのは、「高級品」としてのブランドで生き延びたという側面もあるのだろうけれど、ブランドが自分の人生よりも長く時計を看取ってくれるなら、そこに対価を払って日々機械式の時計に「水をやっていく」っていうことにはそれだけの価値がありそうだ。

こちらがお金持ちかどうか、その時計が貴金属として高級品かどうか、じゃなくてね。

というわけで、とりあえずは10万円のアテッサに戻ってきました。

機械式の、自分より長生きしそうなブランドのメンテナンスがうけられる腕時計を、これから探そうかな。

もちろんむやみに高くなくていいから(貴金属的ステイタスには興味がない)。


カシオG-SHOKガルフマスターの短針がプラプラしている件について

2015年01月24日 00時13分03秒 | 大震災の中で
短針の位置と後ろの「G」の文字の位置関係に注目してみてください。時間が進んでいるのに、短針が左にずれています。
ちょっと力を加えると、針が「遊んで」いるのが分かります。

まず一枚目


こちらはその二〇秒ぐらい後。



軽く振るたびに、短針が前に行ったり後ろにいったり。
これが「仕様」ってどうなんでしょう?

なんだか釈然としない気分。まあ、カシオ仕様ってことですかね。間違いなく修理センターでお墨付きをいただいたのだから、カシオクオリティの証明ってことで。


G-SHOCK GULFMASTERの短針が動く件。

2015年01月14日 16時04分29秒 | ガジェット
あまりにびっくりしたので、取りあえず書いておきます。
クレーマーみたいになるのは本位ではありません。念の為。でもまあ、ちょっと釈然としないんですよね。

ほかでもない、2ヶ月前に購入した

G-SHOCK GULFMASTER

という時計の針が、ふと見ると変な位置を指しているのに気づいたのです。

軽く振る(自動巻きの錘を動かす程度)と、そのたびに短針が動くのですね。
例えば午後9時10分前だと、ふつう短針は水平より1メモリ程度下を指している感じになります。
ところが、水平より少し上、つまり午後9時をすぎたぐらいのところを指すのです。
もう一度軽く振ると、今度は短針が下に下がり、正しい位置になります。

つまり、時計の短針にかなりの「遊び」があるのです。長針用の分単位の目盛りで言うと、一つ半ぐらい動く印象。
子供のおもちゃじゃあるまいし、これはきっとなにか本来のメカニズムからいうと、、どこかが緩んでいるのだろうと考え、保証期間中でしたからカシオの修理センターに送りました。

ところが、その後電話が来て

「異常がありません。この程度は仕様です」との解答。修理せずに返送します、だって。

「ふうん、じゃあしょうがないね」

というしかない。
しかし、残念。それ以外はすてきな時計なのになあ。


あとは時計の針っていうのがどの程度固定的に正確である必要があるのか、という「時計概念」の問題になりますね。

でもさ、時計の針って、軽く振って動く「遊び」があっていいものだろうかねえ。子どもの頃のおもちゃの時計以来、そんな腕時計は身につけたことがなかったなあ。


まあとにかく、このG-SHOCK GULFMASTERの場合、「メカニズム上」短針はその程度は動くもの、らしい。

「それはバグではなく仕様です」っていうのは冗談としてよく耳にするけれど、自分が言われたのは初めてだったので、けっこう新鮮でした(笑)。

まあ、時計の針がグラグラしているのは精神衛生上よろしくないので、私は二度とカシオの時計は買わないことにしました。将来カシオが針のプラプラしない時計を販売しても、ある種の批評として私は購入しないでおきます。
メーカーとしては痛くも痒くもないだろうけれど。

浅野俊哉『スピノザ共同性のポリティクス』を読む。

2015年01月08日 14時15分22秒 | メディア日記
浅野俊哉『スピノザ共同性のポリティクス』洛北出版を読んだ。

スピノザの現代的な解釈の方向性を押さえたい人には好適の一冊かと。
ただし、私はスピノザを読みたいのであって現代的なスピノザの読み方(たとえばネグリ)を読みたいのではないので、そんなにピンと来る本ではありませんでした。

でも、今「スピノザ」って、そういう風に「使われているんだ」ということは、分かる。
 そういう意味で勉強本にはなりました。

まあ、たとえ分からなくても(っていうかもちろんまだまだよく分からないのですが)スピノザ本文を読んだ方がずっとおもしろいと思うけどね。

別な人の本をよむならば、ドゥルーズのスピノザ論はちょっと読めない感じが半端じゃなくて興味深い(『スピノザと表現の問題』ウニベルシタス叢書)。
 
ちなみに、平凡社新書の『スピノザ』は単純に早わかりにはオススメです。

改めて、柏崎刈羽原発再稼動に反対する。

2015年01月04日 11時44分56秒 | 大震災の中で
毎日新聞(ヤフーニュースより)に、こんなニュースがあった。

<柏崎刈羽原発>再稼働・管理強化へ原電技術者受け入れ検討

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150104-00000002-mai-bus_all
再稼働は、本当にやめた方がいい。

私は福島の住民として反対しなければならない義務を背負った。

決してNIMBY(not in my backyard:必要なのは分かるけど、自分の家の近くじゃないところでやってね、という迷惑施設のこと)問題としてではなく。

私は福島に住む住民として、原発施設はいわゆる私たちが付き合ってきた世界(自然、とも呼ばれたりするけど)との関係、人と人との関係、自分自身との関係を、お金との関係を、メチャメチャにしちゃうものだということを知ったから。

もちろん地元の高校教師として、東電に教え子が合格•入社した時、工業高校の進路係として、また担任としておめでとうをいったし、嬉しかった。彼女の人生にとっては疑いなくプラスだと感じたから。そして彼女が大震災の時どうしているかに心を痛めもした。安否がわかって元気にいわき市で子育てをしていると知った時、深く安堵した。
そんなこと一つをとっても感情は単純ではない。

そのことを含めて(つまりは感情を捨象した計算可能性の理性ではなく)、私の直観は原発再稼働を認めてはいけない、と答えを出す。

立場や権力は、人間の自然権を最終的に奪えはしない。

安倍晋三が「解釈改憲」の非常時を宣言して「この道しかない」というのは、そうだろうな、と思う。のんびりはしていられない、という「計算可能性」の限界がそこにきているからだ。

それでもなお、その計算を止めるわけにはいかない、という者達は、どこかで理性を自分の計算の範囲だけで停止してはいないか?

スピノザが偏見や感情(第1種認識)をほぼ間違っている、と嘆きつつもそれもまた人間の認識だと言い、だから理性(第2種認識)が必要だ、と主張しつつもそれが最も高いところに位置しているわけではないとして、なお第3種認識としての直観を手放さないのは、まさしくそこに係る。

みんな、もう少しスピノザを読もうよ。『神学政治論』(光文社文庫から新訳が出てます)は実用書(訳者の吉田量彦による)ですよ(笑)

『理不尽な進化』吉川裕満(朝日出版社)を読み始める。

2015年01月02日 15時32分01秒 | メディア日記
第一章は、進化論を、99.9%の絶滅種側から見たらどうなるか。
ちょっと前フりが長い嫌いはあるけれど、時代の気分にに寄り添った「比喩」として今は「進化論」より「絶滅」でしょう、という方向性(そう明示的には書いてないけど)には納得。

第二章以降は、素人の思い込みだけではなく、専門家の議論が紛糾する理由についても触れた上で、歴史と自己認識を巡る問題を論じる……のだそうです。

とりあえずヒッチコックの映画かなにかに用いられていた「トーナメント理論」をふと思い出す。


上橋菜穂子『鹿の王(下)』読了。

2015年01月02日 14時09分07秒 | メディア日記
物語的にグイグイ引っ張る謎と、それ巡って展開される活劇、そして医学の丁寧な描写と政治の権謀術数、さらには文化人類学的というか様々な人々の風習や環境、習俗、自然、文化、宗教などの多様性etc.魅力満載。とくに前半は世紀の傑作に近い。

後半、お店をたたむのがいささか足早になってしまったのではないか、と感じるのは、この作者に「物語」だけを求めてしまう「過ち」を犯しているから、だろうか。
しかし、それほどに魅力的な「世界観」なのだ。後半どうすれば良かったのか、というと難しいが、説明が先に立った感じが微妙にある。もっと長編になるべき内容かと。

物語派としては、もう少し展開の中で滅びゆく者たち、それを観るもの、政治の中での位置付けを読みたかった。それにしてもまあ、必読の一冊でしょう。

2014年に読んだファンタジーでは、
ガース・ニクスの傑作ダークファンタジー
『アブホーセン』『サブリエル』『ライラエル』3部作と並んで推奨すべき作品です。

上橋菜穂子の別の文庫本が未読なら、そっちを先に読みつつ、こちらの文庫化を待つ手もありますかね。




明けましておめでとうございます。

2015年01月02日 13時55分27秒 | 大震災の中で
ブログを始めてから10年ぐらい経ちました(たぶん)。その間サーバーも4回ほど引っ越ししました。それでもデータを引き継ぎつつ、メモ代わりにアップし続けている理由は、ほぼ一つ。

(最近はFacebookに書くネタの中で、メディア日記に残しておいた方がいいものをこちらに書く使い方になっていますが)

とにかく書き続けているのは 自分のハードディスクやクラウドだと結局いつの間にか散逸してしまったり、参照しないまま埋もれてしまうから、です。

お読みいただくのも申し訳ないぐらいですが、言葉はそれでも読まれることを期待して書かれるので、ありがたく「読ませ」させていただいております。

今年もよろしくおねがいします。


G-SHOCK GULFMASTERを買ってしまった件。

2015年01月02日 13時38分11秒 | ガジェット


G-SHOCK GULFMASTERを購入。
30%引きが安いか高いかは措くとしても、必要か必要でないかを考えれば間違いなく要らないに決まっている。
まあ、「オモチャ」とはそういうものです……。

高度、潮の干満、気圧、温度が計測でき、しかも時間まで解る。
しかし、温度とか、体温計と気温計の間を指してるから、気温をはかるときには30分ぐらいはずしておかねばなりません。
もちろん山に出掛けるとか、本当に必要な人にとっては便利なのでしょうが、私には猫に小判。

い つの間にか釦が押し下げられていて、肝心なときに何が表示されているのからずパニックということがすでに3回もあり、重くてかさばるし、何がいいんだか、という話。

でもなんか楽しいんですよねぇ(^_^;)



千葉雅也×岡嶋隆佑の対談 「思弁的実在論と新しい唯物論」 を読む。

2015年01月02日 12時24分28秒 | メディア日記
雑誌「現代思想」2015年1月号の中の

千葉雅也×岡嶋隆佑の対談
「思弁的実在論(Speculative Realism)

新しい唯物論New Materialism)」

を読む。
細かいところが全然分からない(笑)
メイヤスーもマラブーもハーマンも読んでいないから、まあ当然。

極めて大雑把に流し読みして、
「SRやNMは、突き放して見るならば、文学的なもののポスト・デリダ的なアップデートであると言えそうです」

「SRの方には、ニヒリスティックに人間のいない世界を考えてみたいという徹底的な人間疎外への欲望があるようにみえる」
「NMの方では人間と間が『共に』どうこうする、という『共』の求心力が強い」

とかをフムフムと読んでおしまい。

個人的には、いきなり世界が根底からズドンと変わり、神の不在から神の到来に次元が移ってしまうメイヤスーの「あられもない」設定にとりあえず魅力を感じる。

それはあるいは千葉雅也氏が指摘するように、現代における「不安バブル」的な心性が、身も蓋もない「神の到来」を求めてしまうのかもしれない。

もちろんその神さまの到来は、この世界内の「変化」の話しの次元ではない。世界それ自体が変わる話だ。

「メイヤスーが面白いのは、突然の理由なき変化という、まあ身も蓋もない話を、宗教的・神秘的にではなく言っているところです。その身も蓋もなさを手早く批判するのではなく、何らかの角度から積極的に『味わう』のでなければ、現代文化におけるメイヤスーの位置付けを考えることはできないねしょう」(千葉)


ってことなんだけど、普通の日常的なレベルで言うと、
「何をバカなことを考えてんだ、哲学者たちは」
ってことになるんだろうね。

でも、面白い。

NMが、人間から動物へ、動物からモノへ、と配慮の対象を広げるのは、
カルスタ→ポスコロ→クィア
の延長線上で、「ものごとを一つ一つ大切にしましょう」という「やさしさの人文学」的態度だから、しばらく続くだろう、といういささか皮肉な見通しもとりあえず納得(笑)

「永遠の相の下」で見れば、なんて言っちゃうスピノザもかなりなものだが、哲学者たちの考えることは、いつだって「あられもない」ものであったり、「身も蓋もない」ものであったりする。

この世界とこの世界を認識するその根底について思考するってことは、そうゆうことなのだろう。
子供みたいな感想だが、哲学のテキストを読むときはいつも子供みたいになることができるのが、いいわけで。

政治とか社会とかを考えたり語ったりするときには、そうはいかないもんなあ。