龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

小手川正二郎『蘇るレヴィナス』(水声社刊)を読み始めた。

2022年03月22日 10時43分31秒 | メディア日記

小手川正二郎の『蘇るレヴィナス』を読み始めた。

レヴィナスに先行する現象学(フッサール、ハイデガー)を今読み直すのは難しいが、デリダの『暴力と形而上学』ぐらいは読んでおきたいと思いつつ、レヴィナスの主著『全体性と無限』だけを脇に置きつつ、この本(『蘇るレヴィナス』)を読んでいる。

疑いなく良書である、と感じる。

本も何十年か読んでいると、内容が十全に理解できるかできないかは別のこととして、少しは

①この本は読むべきなのか?

②それとも次いでにしておくのがよいのか?

③読んでいる暇はない、類いなのか?

④暇があれば参照しておこう、なのか?

の匂いを嗅ぎ分けることができるようになる。

本というのは、読まなければ分からない、という意味ではエンタメ体験に近い。知識を得るために読む読書、だけが読書ではないのは当然として、読んでみなければ分からないに違いはないのだけれど、その文体、その姿勢、そのテキストが向き合っているもの、そういうものを感じて、その匂いが自分と出会おうとしているかどうか、が割と重要になったりもする。

哲学を専門としているわけではない一読者としては、いわきFCのホームゲームも、哲学書もエンタメとしては変わらないのだと思う。

ただし、そのエンタメには「生きること」の賭け金が少量ながらかかっている。

なんでもいいというわけにはいかない所以だ。

あ、『蘇るレヴィナス』に戻る。この本がステキなのは(まだ読み始めたところですが)、

①妻子以外の親族をホロコーストで失ったユダヤ思想家

②西洋哲学の伝統に対する批判

③他者論が中心

といったイメージ(これらは図書館にいってレヴィナスの入門・解説書を借りてくると漏れなくついてくる)に対して、レヴィナスの論理をもっと丁寧にかつ具体的によもうぜ!と提案してくれていることだ。

それでもやっぱりデリダの『暴力と形而上学ーエマニュエル・レヴィナスの思想試論』は読んどかなくちゃならないのかあ、とも思うが。

 

単にレヴィナスの言うことを同語反復するのでもなく、外側から上のようにカテゴリーで理解するのでもなく、レヴィナスを徹底的に読むぞ!という冒頭の問題提起に惹かれる。

専門書とはいえ論文ではなく一般の素人(私たち)に向けられた本は、こういうところが重要だと思う。

いきなり専門的な前提を飛ばして書かれても、勉強する学生ならいざしらず、私たちはそのルールを漠然と理解することに読書のエネルギーを割かれ、対象とする哲学者について考察する手前で尽き果ててしまうことが多々ある。早わかり程度の大枠は理解しておくとしても、トリヴィアルな(というか学者にとっては厳密なということになるのだろうが)前提に躓かないよう、大きな目的、目標を提示してくれるのがありがたい。

 

「読解なき批判は空虚であるが、批判なき読解は盲目」

という小手川さんの、序の末尾の表現を頼りにして、これから本編、行きます。

でも、なんかレビナスの『全体性と無限』って、用語の使い方が独特で油断すると読者の理解の範囲で理解してしまいかねない面って、確かにあるんじゃないかと思う。叙述の仕方も思いのほか「普通」で、こういってよければ「官能的」ですらある。分からないんだけど、納得できる、みたいな部分がレヴィナスの本文にはあるような気がする。そういう語り方の姿勢がある、ということね。書いてあることが分かるということとはまた別の次元で。

それを文学的というなら、デリダの超絶技巧的なレトリックとは別の仕方で文学的、かもしれないとも思う。アレントなんかにも共通する「叙述の姿勢」の特異性みたいな。分かんないけど。
とりあえず、よみます!

 

 


いわきFCの2022年度ホーム開幕戦の応援に行ってきた。

2022年03月20日 21時01分45秒 | いわきFC

いわきFCがJ3昇格して、シーズン最初のホームゲーム応援にいってきた。






試合結果は

いわきFC 1 ー 0 SC相模原

でいわきFCの勝利。

前節引き分けだったのでこれで

1勝1分けの勝ち点4。(2022年3月20日現在)

まだ選手の顔も名前も背番号も一致しない初心者ですが、これからファン道を進んでいきます(笑)

今シーズンは、ホームゲームで観戦できた試合は、感想をここにメモ代わりに書いておきたい。なるべく早く「自分の」チームを理解したいですね。

そうはいっても、大人のサッカーをスタジアムで観るのはこれが2回目。

頑張って学習します!

今日はとりあえずの備忘録ということで。

(素人ですから、とうていプレーの批評とかはできませんのであしからず)

印象に残った選手からぼちぼちと。



まず最初は、

☆MFの嵯峨理久(2)


この選手は前節で得点を挙げているとのこと。

上背の小さい選手だが、動きが素晴らしい感じがします。

今日の試合でも、右側でドリブルしつつ上がっていくシーンがいくつかありました。

試合最後ではペナルティエリアまでボールを持ち込むのを相手が止められず、PKをゲットするという働きを見せてくれました。ファンになっちゃいそうです。次の試合も注目してみていきたい選手です。

次にすごいなと思ったのは、対照的に背の高い守備の要となっている


☆DFの星キョーワァン(4)


守備ラインを高めに取って、高い球を圧倒的な上背を使って競り合いに勝ち、あるいはいち早くクリアをしてくれるのが頼もしかった。時にゴールまで上がっていたが、ヘディングのシュートなども今後期待したい感じ。

次に挙げなければならないのは、なんといっても得点をしてくれた

☆FWの鈴木翔太(9)

後半75分、左サイドから日高(8)がボールを中に入れ、有馬(10)がゴール前後ろ向きで受け、落とした球を鈴木(9)がシュートして得点した。

ステキです!

☆MF山下(24

は、コーナーキックの時にステキな球を蹴ってくれていました。スペシャリストって感じがしました。

☆MF日高(8)

も守備に加えて上に上がる攻撃への参加も目に入ってきました。

運動量の多いポジションなんでしょうが、凄いなあ、と思いました。嵯峨(2)と日高)8)はともに、守備と攻撃両方で素人の目にも入ってくるのですから。

それから、攻撃と守備の間で素人としてはまだよく分からないのですが、

☆MF宮本(6)

という選手からボールが出てくるというのがフィールドの中では多かったように思います。

きっと攻守の要の真ん中なんでしょうね。宮本さんのことは今度丁寧にウォッチして勉強します。

たぶん、攻撃と守備の瞬間だけ興奮していては分からないプレーがたくさんあるのだと思います。

☆MF岩淵(19)

という選手は、ユナイテッド福島との決勝戦で東邦スタジアムの試合を観戦したときのゴールが印象的でした。今日はちゃんとウォッチしていなかったので(覚えていない選手のことを追うのに必死!)、こんどまたぜひ得点にからんでほしいです。

☆DF家泉(15)

体格の良さではもっとも印象深かった選手です。星(4)と家泉(15)が真ん中にいると、安心できる感じがします。

☆古川(34)

☆有馬(10)

このお二人は、前線でがっつり仕事をしてくれていたと思います。

あとは点が入ってくれるのを待つばかりです。

とくに有馬さんのPKは残念でした。今度は期待してます。

古川(34)のことは今度じっくり目を皿にして観察します!

☆GK鹿野さん、ゼロに抑えてくれてありがとうございます!!

最後の時間帯、相模原の連続コーナーキックの嵐の中で、みんなでゴールを死守して勝ちきってくれたことを、なりたてのファンとして、感謝します。

最後に。

今度のホームゲームは

4/3(日)13:00いわきグリーンスタジアムの予定かと思います。

また応援にいかなくちゃ!

ではまた、その時に。


岩田靖夫『神なき時代の神』を読む

2022年03月16日 22時09分58秒 | 大震災の中で

岩田靖夫『神なき時代の神』を読む

を読んだ。

レヴィナスは、近年ケアのシーンで参照されることの多い哲学者、との印象がある。
他方、スピノザを批判しているということでも名前は出てきている。
もう一つは「他者論」というか絶対的な他者についての論(そこにユダヤ教の思想が加わる)、というイメージもある。
今回、ケアにおけるレヴィナスという理解の目標は一つありつつ、また遠回りしてスピノザのコナトゥスとレヴィナスの関係の論文(河村厚氏)を読んだところからの興味もあり、ちょっと手に取ってみた。

今回のレヴィナスの本丸は主著の一つ『全体性と無限』を小手川正二郎さんの『蘇るレヴィナス』をガイドに読んでみるということ。

そしてそこからさらに『個と普遍 レヴィナス哲学の新たな広がり』の第二部「レヴィナスとケアの倫理」を理解しようというもくろみもある。

その上で、自分はなぜスピノザが読みたいのか、って話になればいいのだけれど、どんどん遠回りしていく気も、する。


岩田靖夫氏のレヴィナス論は、二つの軸に拠っている。

一つはキルケゴールの神様のいる方の実存主義からの切り口。
もう一つはユダヤ教における苦難というか、シビアな神様の絶対他者との関係。

私にとってはとても興味深かった。
ただ、キルケゴールの話はいちおう実存主義の早わかり的には理解できるけれども、ユダヤ教の記述についてはへーそうなんだー、と読むしかないので、ちょっとこのエッセイ風の岩田氏の文章では、レヴィナスの勘所というより、岩田氏の読解というか積み重ねられた深い理解の様子、が見えてくるということになりそうだ。

 

勝手な理解の範囲で言えば、第二次世界大戦の全体主義によるユダヤ人虐殺を辛くも生き延びた著者にとって、他者、そして他者の顔と向き合うという主題は、存在とか自己とか認識とかいった西欧哲学の形而上学を切り崩して戦いながら思考する必然があったのだろう……と推測する。
その厳しさ、激しさは簡単には想像できない。

ただ、『全体性と無限』を読み始めてみると、佐藤義之氏『レヴィナスの倫理』や岩田氏のこの本は、私にはまだ早い、という感じもしてくる。レヴィナスはキレイに説明されるだけじゃ足りない、って熱い感じが本文の中に渦巻いている感じがする。自分でレヴィナスを読んでみるってことも必要だなあと。

ちなみに、先達から勧められている熊野純彦『レヴィナス』岩波現代文庫

は、一度通読したはずなのに、ほぼ覚えていない(苦笑)。
もう一度おさらいもしておこうかな。そしてこの作業が終わったら、「倫理」についてもなんか勉強しないといけないかなあ。
読む本は無限に湧いてきますね。

でも、とりあえず主著の一つに挑戦したいという思いと、当面の主目的の一つである『個と普遍 レヴィナス哲学の新たな広がり』を早く読みたいので、頑張って勉強してみようと思う。

 

 


読むべし!秋保亘『スピノザ 力の存在論と生の哲学』読了

2022年03月07日 04時07分54秒 | メディア日記

秋保亘氏の『スピノザ 力の存在論と生の哲学』を今読み終えた。

大きな満足感に包まれた読後感だ。

大げさな、と人は言うだろうか。でも、あのスピノザのテキストを巡る何がなんだか分からない諸説乱立する状況の中で、それぞれの研究者や哲学者たちがそれぞれの立場から自分の読みの角度でスピノザのテキストの意味を拾っていく感じに付き合った挙げ句、なんだかよく分からないところに置き去りにされるような、あの感覚……それがこの本にはほとんど感じられなかった。

他の先生方も、専門的には理の通ったあり得べき解釈をしてるんだろうと推測はするのだが、第一スピノザのテキストに出てくる用語が全く馴染みのない言葉が多く、しかもスピノザが定義するその言葉の定義の解釈がまたさまざまに分かれているものだから、「スピノザを読む」って行為がしたいのに、難解な研究のすれ違いの間で途方にくれてしまうというのが正直なところだった。まあ、スピノザは異質だ、なんて脅されたりもし、だからこそ好奇心もそそられたりするので、そういうもやもやしたよく分からない「沼」に入っていくのもまたスピノザを読むスリル、なのかもしれないけれど。

ところが、秋保亘氏のこの本は、延々トリヴィアルな(と素人には思われる)テキスト解釈や諸説の提示の迷路に読者を誘うのではなく、大きな構想を明示し、その骨太な骨子を読者と共有しつつ、私たち素人の読者を見捨てることなく、最後まで連れていってくれるのだ。
これはなかなかすごいことだと思う。
前半でいえば、何故「定義」が重要なのか。あの『エチカ』の幾何学的な記述の意味は?という誰もが抱く疑問について、研究者の「主観」や「感想」ではなく、『知性改善論』の丁寧なテキスト読解を踏まえて、その疑問を一つ一つ丁寧に解きほぐし、結論にたどり着かせてくれるのだ。

ここでこの本の魅力をわかりやすく説明する力が自分にないのは本当に残念だが、スピノザについて考えたい人には間違いなくお勧めの一冊だ。あくまでテキストの読みに即しながら、しかも大きなスピノザの全体像の把握にまで、読者を誘ってくれる。章や節ごとに、課題を確認し、論の終わりにはそれを、章の目的に即して整理してくれる。そういう配慮のある専門家の一般書は、なかなか得がたいものだと思うのだが、いかが?

 


秋保亘『スピノザ 力の存在論と生の哲学』を読む。けっこう感動。

2022年03月04日 12時23分28秒 | メディア日記
著者の、博論ベースのスピノザ研究本てある。2019年の刊行。割と最近ですね。

まだ『知性改善論』についてが終わって、その読解を踏まえた『エチカ』論に入ったところまでしか読んでいないが、これはおもしろい。
 秋保亘氏の「私たち」には、一緒に誘われる感がある。つまり、「難解」と言われ、諸説入り乱れてスピノザが用いる用語の意味すらスタンダードの解釈が確立していないような状況において、スピノザの「私」がもっともよく現れている(モノの一つであると感じられる)テキスト『知性改善論』をまっとうに正面から読み抜いて、それを主著『エチカ』読解に向けての基盤として押さえようという書き方が、まず納得行くし、同時に『エチカ』のスタイル、幾何学的叙述様式について(私にとっては)初めて納得のいく説明を受けたような気がしている。

ここまでスピノザがどうして「定義」に拘るのか、彼ほど丁寧かつクリアに説を立ててくれている本はなかったように思う。
もちろんそれが(わたしにとって)納得がいくというのは、上野修、國分功一郎、木島泰三、河村厚、江川隆男各氏の本を読み進め、自分なりに書簡集を含む著作の間をうろうろして、訳が分からない10年を過ごしたから、なわけだが、それにしてもスピノザは、テキストに即した分かりやすい説明を誰もしてくれないのに、多くの人が魅了され、あるいは批判する対象となる、不思議さを持っている。

分からないだけならまだよい。
分からないのに、それでも個と普遍性を掴もうとする、、いや掴もうとするならこれでしょう?と誘われる感じがあって、その誘惑に乗ろうとすると、誰かの解釈の道筋になってしまう、という「わかりやすさ」になってしまう。

もちろん学者さんのそういう著作の説明はありがたい限りなのだが、秋保亘氏が本文中でも何度か触れるように一緒に読み進めていこう、という姿勢こそがスピノザに惹かれた理由なのだったなあ、と、ここまで読んできてようやく思うようになった。
自分の中の勉強の歩みとしては

ドゥルーズ→スピノザ→上野修→江川隆男→國分功一郎

が一つの段階だったとすると、

レヴィナス→朝倉友海→木島泰三→河村厚→秋保亘
が第二段階ということになろうか。

ようやく自分でテキストに向き合っても面白くなってきた。それでも、テキストの細かい部分になると、いろんな説があって、到底素人ではその妥当性を判断などできない(ラテン語を勉強したくなる所以なのだが、生きているうちには間に合うまい)。

それでも哲学者の主著なんぞというモノ直接触れる意義があるとしたなら、決して文学と同列に扱うつもりはないけれど、(古典)文学を読むことの意義と他人の空似程度には似ているような気もしてくる。

つまり、様々な異説、諸説の概ねの方向性というか重なりとズレがありそうな場所を意識しながら、自分で歩いてみたい道を歩いて見、迷ったら少し戻ってまたちょっと違う道を歩きなおしてみる……

そういうことがそれなりに(自分なりの水準で)出来るようになると、人文系の読書はメッチャ愉しくなる。
ゲームと違って攻略書もバグだらけということもあるし、それは実はバグではなく、それはもしかすると別の果実へ至る道かもしれず、攻略書の異同を含めて本編を改めて楽しむ糧になっていく、みたいな。

一つだけ感動点を書けば、徹底的に具体的個別的なモノと向き合おうとするからこそのスピノザの「定義」なのだ、あの幾何学的叙述なのだ、という本書の主張に痺れた。

水平因果と垂直因果というスピノザ読解の「技術的用語」を木島先生から教わったばかりだが、そして朝倉友海氏の『概念と個別性』においてはその垂直的な「概念」がいかにして個にたどり着くのかの思考の道筋をもらったが、秋保亘氏は真っ直ぐににテキストを読みながら読者を誘ってくれるという点で、感動させられた。

スピノザ読解のスタンダードになるかどうか、とかそういうことは分からない。
しかし、ここにこういう形でスピノザを読んでいる人がいる、ということだけで勇気が出てくる。

そんなことを思った。

木島泰三先生の近著二冊、河村厚氏のこれから出る一冊を含めて、こほ秋保亘の『スピノザ 生の存在論と生の哲学』、個人的にはオススメです。
もちろん入門書なら、國分功一郎さんの『はじめてのスピノザ』イチ押しですが。國分さんにも、『スピノザの方法』以降の、本格的な『エチカ』本を書いてほしいな。