小手川正二郎の『蘇るレヴィナス』を読み始めた。
レヴィナスに先行する現象学(フッサール、ハイデガー)を今読み直すのは難しいが、デリダの『暴力と形而上学』ぐらいは読んでおきたいと思いつつ、レヴィナスの主著『全体性と無限』だけを脇に置きつつ、この本(『蘇るレヴィナス』)を読んでいる。
疑いなく良書である、と感じる。
本も何十年か読んでいると、内容が十全に理解できるかできないかは別のこととして、少しは
①この本は読むべきなのか?
②それとも次いでにしておくのがよいのか?
③読んでいる暇はない、類いなのか?
④暇があれば参照しておこう、なのか?
の匂いを嗅ぎ分けることができるようになる。
本というのは、読まなければ分からない、という意味ではエンタメ体験に近い。知識を得るために読む読書、だけが読書ではないのは当然として、読んでみなければ分からないに違いはないのだけれど、その文体、その姿勢、そのテキストが向き合っているもの、そういうものを感じて、その匂いが自分と出会おうとしているかどうか、が割と重要になったりもする。
哲学を専門としているわけではない一読者としては、いわきFCのホームゲームも、哲学書もエンタメとしては変わらないのだと思う。
ただし、そのエンタメには「生きること」の賭け金が少量ながらかかっている。
なんでもいいというわけにはいかない所以だ。
あ、『蘇るレヴィナス』に戻る。この本がステキなのは(まだ読み始めたところですが)、
①妻子以外の親族をホロコーストで失ったユダヤ思想家
②西洋哲学の伝統に対する批判
③他者論が中心
といったイメージ(これらは図書館にいってレヴィナスの入門・解説書を借りてくると漏れなくついてくる)に対して、レヴィナスの論理をもっと丁寧にかつ具体的によもうぜ!と提案してくれていることだ。
それでもやっぱりデリダの『暴力と形而上学ーエマニュエル・レヴィナスの思想試論』は読んどかなくちゃならないのかあ、とも思うが。
単にレヴィナスの言うことを同語反復するのでもなく、外側から上のようにカテゴリーで理解するのでもなく、レヴィナスを徹底的に読むぞ!という冒頭の問題提起に惹かれる。
専門書とはいえ論文ではなく一般の素人(私たち)に向けられた本は、こういうところが重要だと思う。
いきなり専門的な前提を飛ばして書かれても、勉強する学生ならいざしらず、私たちはそのルールを漠然と理解することに読書のエネルギーを割かれ、対象とする哲学者について考察する手前で尽き果ててしまうことが多々ある。早わかり程度の大枠は理解しておくとしても、トリヴィアルな(というか学者にとっては厳密なということになるのだろうが)前提に躓かないよう、大きな目的、目標を提示してくれるのがありがたい。
「読解なき批判は空虚であるが、批判なき読解は盲目」
という小手川さんの、序の末尾の表現を頼りにして、これから本編、行きます。
でも、なんかレビナスの『全体性と無限』って、用語の使い方が独特で油断すると読者の理解の範囲で理解してしまいかねない面って、確かにあるんじゃないかと思う。叙述の仕方も思いのほか「普通」で、こういってよければ「官能的」ですらある。分からないんだけど、納得できる、みたいな部分がレヴィナスの本文にはあるような気がする。そういう語り方の姿勢がある、ということね。書いてあることが分かるということとはまた別の次元で。
それを文学的というなら、デリダの超絶技巧的なレトリックとは別の仕方で文学的、かもしれないとも思う。アレントなんかにも共通する「叙述の姿勢」の特異性みたいな。分かんないけど。
とりあえず、よみます!