龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

念の為書き添えると、原因は不明です。

2013年08月26日 21時48分05秒 | 大震災の中で

友人は原発から放射能がまだでているからだろう、と推測しています。
原因は分かりませんが、その推論は自然ではあります。
そういう場所があるのは事実。

線量のコントロールはできていない、と見る方が妥当です。
海の状況もそうだしね。


避難解除準備区域の中では線量の上がっている場所がある。

2013年08月26日 21時33分42秒 | 大震災の中で

避難解除準備区域に墓参りのため、一時帰宅した友人の言。
「まだ、原子炉から放射能は排出され続けているよ。以前は0.5?s/hだった墓の辺りも1.5?s/hになっていたし、家のところは3?s/hぐらいだったのが4?s/hを越えていたから」
海だけじゃないんですね。
ちなみに、彼の友人である町の職員は、「帰還に向けて20年30年スパンでの汚染の低減地図を作成しようとしているんだけど、値が「上がっている」ところがあって、確定できない」と認めている、とのこと。うむむ。

線量が上がっている場所があるのは間違いありません。彼は帰宅時にはいつも線量を測っていますから。
しかし、そういうことは伝えられて行かないのです。

また、市民の財産を没収するような形で帰還を断念させることは、法律的に自治体には出来ないのだ、とその職員の方は言っていたそうです。あくまで企業が起こした「汚染」ということでしかない、とも。

法律的なことは分からないけれど、「生殺し」「宙吊り」という声は避難者の中からも聞こえてきます。
特に線量の高い地域の、働き盛り30代から40代の方の声ですが。





伊坂幸太郎『死神の浮力』について書きました。

2013年08月26日 08時01分53秒 | 大震災の中で



伊坂幸太郎の新作長編『死神の浮力』をよみました。

メディア日記の下記に感想が。よろしかったら飛んでみてください。
『死神の浮力』を読んだ

柄の小さい小説である。
もちろん活劇もスリルもあるけれど、「人間」が主役ではない。
『オーデュポンの祈り』
以来、それは一貫している。
でも、また同時に、脇役の人間が愛しく見えてもくる。

オススメです。





20,000円する1600ページの本を裁断中。

2013年08月24日 07時31分11秒 | ガジェット
ScanSnap s1500を購入し、本の裁断と電子化を始めてから約1年になる。
購入本の裁断とiPadへの転送が日常的作業になって久しい。

当初は週末ごと、気合いを入れて既存蔵書を次々に

裁断→スキャン

していた。

が、1000冊弱ぐらいやったところで、全部の蔵書をやりきるのは

<かなりしんどい>

と気づきはじめた。

残りの人生を考えたとき、既に(再読も含めて)読み切れる量以上の書籍を抱えている。

だとすれば、優先順位をつけることが必要だ。

で、出た結論は、

<新刊書購入後直ちに裁断する>

だった。

これを律儀に続けていけば、

<もう蔵書スペースは一冊分たりとも増えない>

そして、直近の読みたい本についてはいつもiPadの中に入っている。

だがしかし、もちろん問題も多い。
昔買った読み物なんぞは、リセールバリューもないし、だいいち何を買ったかもおぼえていないわけで、これは裁断しようが捨てようが、電子化しようが正直、

<誤差の範囲内>

ともいえる。

だが新刊書となると、リセールバリューもあり、そして比較的高価な本となると裁断するにも勇気が要る。
そんなわけでなかなか裁断できない本もある。

今朝は、早起きしたついでに、1年間逡巡していた2万円1600ページ超の本をスキャンしはじめた。

『哲学原論 自然法および国家法の原理』トマス・ホッブズ

『国家・教会・自由-スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗』福岡安都子
の二冊。
文庫なら二冊買うという手もあるが(スピノザのテキストは複数買って1冊裁断にしてあります)、学術書は高いし、場所も取る。
そして、本フェティシズム的心情から、なんとなく裁断もためらわれる。

でも同時に、学術書は簡単には読み終わらないので、手元にほしくなるのも事実。

そして意外に

<テキスト検索ができるのはありがたい(笑)>

以前ここにも書いたが、『哲学原論~』は訳者注解(ホッブズ用語集のようなもの)が非常に便利。
ここだけ出版するぐらいでも実用性あり、と思う(売れないだろうけど)。

というわけで、ざっくりやっちゃいました。
なかなか裁断できなかった二冊をやっちまったので、後はスムーズに新刊書を裁断していけると思います。

バックアップは3重に取ってあるけれど、部屋に雷が落ちたら、と思うと、不安になる。

(一応容量無制限クラウドを契約して、そちらにも保存はしてあります。)


<あとはiPadminiの新型発売を待つのみ>

同じ環境で読めるのがいいもんねえ。
できれば128G。それだと裁断済み書籍1000冊単位が楽勝で全部取り込めるので。

そうしたら、もうあとはその中で隠居=老後が暮らせそうです(笑)。





東電広瀬社長の対談について(再掲)

2013年08月24日 06時12分05秒 | 大震災の中で
大前研一と東電広瀬社長の対談。


について書いたが、何の反応もない。
ちょっと不思議だ。
普段私のTweetやFacebookの投稿、このブログを読んでくださる方からは、大抵なんらかの反応がある。
スカイツリーの写真でも、『はだしのゲン』問題でも、汚染水流出でも。

哲学もどきの感想文は元々すぐに返事のあるベキモノでもない。

でもね、この大前研一と広瀬社長の一時間に及ぶ対談は、たとえくだらないとしても、あるいは重要すぎるとしても、何もリアクションがないのは端的に不思議なんです。

大前研一氏の声を聞いていられないのか?
広瀬社長のモゴモゴした謝罪を観ていられないのか?
観なくても分かり切っている、と感じるのか?
今更東電社長の言い訳YouTubeを1時間もかけて見るほどひまじゃない、のか?

あるいはあまりにも納得できるので同意すら必要じゃないのか?

これはどういうことなんだろう?
だってね、この腹話術的な二人=一人の擬似会話は、日本の謝罪表現史上特筆すべきへんてこりんさ、だと私は思うのです。

もう一度、オススメさせてください。

まさかリンクが切れてるとかいうオチはないよね?
20130824 06:09現在、飛べています(^_^;)




これを読んでいたら泣けてきた。

2013年08月23日 20時30分19秒 | 大震災の中で
夕食前でおなかがすいていたし、来週から仕事が本格的に始まるし、年もとったし、いろいろナイーブになっていたのかもしれない。

でもさ、松江市の『はだしのゲン』閉架問題に対する漫画家たちの発言をずっと重ねて読んでいたら、涙が流れてきた。

何度も言うけれど、『はだしのゲン』は絵柄が強すぎて個人的には苦手の部類に属する。
でも、これは読まれた上で議論される価値のある作品だと信じている。

表現の自由のみが「万能」だとは思わないが、読まれなければ批判さえできなくなってしまう。
しかも、多くの人(日本人だけでなく世界中の読者たち)に読み継がれてきた戦争表現の「古典」に近いものとして、これは子どもたちが自由に手にとって読めるものであるべきだ。

公共財でしょう、既に。


作品の価値がどうのこうのいう以前の論点を挙げれば、昨日まで数十年も読めていたものが読めなくなる、というのは、よほど強い理由が必要なんじゃないかな?
表現に対する制限は基本、最小限でいい、とするならば。



松江市の『はだしのゲン』閉架問題に関する漫画家のツィートまとめ。


http://matome.naver.jp/odai/2137665978160565901?&page=1

大前研一と東京電力の広瀬社長との対談。不思議なモノを観た。

2013年08月23日 03時05分21秒 | 大震災の中で
書きたいことは山ほどあるのだが、時間が足りない、と言い訳したくなる。
忙しいというより、つまらないことが多過ぎる。
もちろんその幾分かは自分の怠惰や、瑣末なしがらみ、不適切な好奇心などによって招き寄せた、いわば自業自得の状況、でもある。
さて、しかし、これだけは書いておきたい。

大前研一と東電広瀬社長の対談。

ぜひ閲覧されたし。
この「腹話術」みたいな取り合わせは一体なんだ?
誰か私に教えてほしい。
ぜひ感想プリーズ。ちと長いけどね。

http://r34.smp.ne.jp/u/No/322326/CJWs0gH7ci0D_138014/1308210010.html

でもね、本当に腹話術みたいなんだよ。
もちろんまずは広瀬社長が人形で、大前研一の話に全部(全部ですよ!)うなずくという、気持ち悪い展開。

住民?国民が反発するのは「当然だ」と、全ての反発を一旦肯定しつつ、それを「住民心理」に還元し、原発事故の原因を電源喪失に絞り込む。

そして福島の被害に頭を下げる姿勢と、原発再稼働の説得の姿勢を切り分ける。

相対的にはクリアな分析がそこにある。

東電がいかにダメか、を言い募りながら、社長の立場を忖度する(その結果として共感をジワジワ高める)言説も、よく考えてはある。

でも、説得はされないなあ。

大前研一のいう再稼働の条件をきちんと満たす政策は、今の政権や官僚からは出てこない。

また東京電力は権力の中心にあったのに、そのシステムの周縁部にいたかのような矮小化が時間をかけてレトリカルに進行するのにも違和感がある。むしろテクニックがある(説得力がある)ぶんだけ「警戒感」が出てくる。

知性はこういう風に使うものじゃないと思うよ。
再稼働ありき、なんだもん。二人とも結局ね。

ただし、これは少し手強い感じもする。
説得になってるもんね、単なる嘘じゃなくて。絶対安全だという神話を解体しなければならない、という主張は、半分は原発反対派と共通してたりするからね。

そのレベルで住民心理と技術論の両面から攻めていって神話解体後になおも際稼働を目指す、とは。

今必要なのは、住民心理への手当てじゃないだろう。

哲学、なかんづく倫理が今ほど求められている時はない、と改めて実感。

根本まで遡って原理的に考えたいのです。

私は
「悪いことは言わないから原発は止めておけ」
といいます。



「田人の森に遊ぶ ARTMEETING」再論

2013年08月13日 10時45分22秒 | 大震災の中で

一昨日(8/11)「田人の森に遊ぶ ARTMEETING」に行ってきたことは既に書いた。
このブログにも作品の写真(これ、アップしてもいいんですかね?白昼堂々公共の場に置いてあるものだから、まあいいかな、ということで載せてありますけど、まずかったらすぐ削除します!)を載せてある。


基本的にはとっても素敵で、楽しんで観させてもらった。
と同時に、何か批評も加えるべきか、とも思って、
facebookのコメントに、こんな印象を書いた。

「山の中に放置されているビニールゴミって感じ」
になっているものもあるから、そこはお金とか企画とかもう少し充実させていくといい。

ところが、二日経って少し印象が変わってきたので、そのことを改めて書き留めておきたい。

確かにその前日(8/10)に観た越後妻有「大地の芸術祭」のオブジェたちは、質量ともに豊富で、素材もしっかりしていて、その地域全域に広がっている。展示される場所や美術館も継続的なものになっていて、さすが2000年から続いている積み重ねを感じる。
しかし、妻有と今回の田人のアートミーティングと、自分の中でどちらが「記憶」の中でイメージを強く醸成してくれるか、というと、簡単には
決められない。

山の斜面に下草を刈っただけでポツネンと置かれているオブジェは正直寂しかったりもして、もうちょっと強いテーマとか補助線があったら映えるのにと思ったし、学校の校庭の雑草の中に置かれた作品も、もう少し目立つように置いたらいいのに、と思ったりもしたのだが、記憶の中でそれをもう一度今なぞり直すと、「田人の自然の中で遊ぶ」という響き合いは、むしろこの田人の作品群の方が、フラジャイルなというか、まさにサリエントな形で自分と繰り返し出会っているのかもしれない。

局所的に散在するサリエントな刺激たち、という意味では、放射能汚染を底に抱えた豊かな自然という田人の「今」と、作品たちのある種の「弱さ」とは、欠如ではなくむしろその「帯域」にチューニングされている、と見立てることもできそうだ。

むろん、イベントとして公開されるのであれば、もう少しシステムというか構造としての強度がほしいという印象はある。
せっかく地元の田人から発信するのだから、継続もしてほしいし、たくさんの人の「交通」する結節点にもなってほしい。

行政・政治とお金の問題、生活空間、仕事の空間をアート化するという或る意味素っ頓狂な振る舞いに対する説得と理解、イベントに伴う困難を考えると、本当に頭が下がる想いがする。

どうか、この「ARTMEETING」を続けていってほしい。
応援できることはしたいと思う。
そういうチャンネルもどんどん開いてほしい。
相互に「大切な」イベント同士の回路を開いていくことは、実践的な「政治」の力を持つことにもなるだろう。それを「政治」とか「権力」と手垢の付いた言葉で呼ぶのは、最初は躊躇われるかもしれないけれど、そういうことが大切なのかもしれない。

とりとめなく、でも、メモしておきます。




サリエンシーについて

2013年08月12日 21時40分15秒 | 大震災の中で
國分功一郎先生が
「サリエンシー、反復、習慣、そしてドゥルーズ」
という題で講演をしています。
(2012年11月11日一橋大学佐野書院にて実施されたシンポジウム「発達障害とサリエントな世界秩序」におけ塁基調講演。
中身は二分割で下記へ。

マトグロッソというサイトの、
熊谷晋一郎さんの、連続講演&シンポジウムの記録、第11回12回です。
http://matogrosso.jp/yuragu/yuragu-11.html

http://matogrosso.jp/yuragu/yuragu-12.html

これがすこぶるおもしろいのです。

熊谷晋一郎さんが発達障害と依存症について連続講演とシンポジウムを行っていて、そのゲストとして國分功一郎先生がドゥルーズをベースにしつつ精神分析と自閉症について論じています。

キーワードは「サリエンシー」。

慣れない刺激とか、不法侵入とかいう意味なんだそうです。
一方ではフロイト→ラカン→ドゥルーズという流れで精神分析における「自己」の発生を追い、他方では「サリエンシー」という現代医学のトピックについて丁寧に論じつつ、自閉症スペクトラムの診断がが10年で10倍になっている「現状」も踏まえつつポストフォーディズムの現代における課題にも触れ、原抑圧を想定しない人間の生き方の把握をを提案していく。
もう本当に楽しい限りです。
『ドゥルーズの哲学原理』の読解補助線としても参照の価値あり、でしょう。

ちょっと簡単に要約できないぐらい盛り沢山に面白い。
ぜひお読み下さいませ。
オススメです。


ARTMEETING2013 -田人の森に遊ぶ-に行ってきた。

2013年08月11日 23時38分27秒 | 大震災の中で
今日、
ARTMEETING2013 -田人の森に遊ぶ-
に行ってきました。

こういうイベントがなければ、田人の自然の中に足を運ぶことはありませんでした。
アートはそういう「異化作用」もあるということですねぇ。
他方、アートが田人の自然からエネルギーを貰って輝くということもあるのでしょう。
前者の効果は十分。後者については期待十分、というところでしょうか。

昨日、新潟の十日町の地域を中心に継続している芸術祭の「妻有地区」に行ってきました。こんなことが地元にもあったらいいな、と思って帰ってきたら、あるじゃないですか!
「妻有」もあそこまでくるのに13年かかっています。
いわき市民の一人として、この田人のARTMEETINGを応援していきたいです。







ASD親子のエッセイ。リアルに思い当たることがありすぎて笑い泣きします。

2013年08月05日 21時19分02秒 | 教育
涙と笑い、そして震えなしには読めない、ASD(自閉症スペクトラム障害)親子のエッセイ。
もちろん、「私」の話でもあるけれど、幾分かはあなたの家の話かもしれません。

ちなみに、ヴィトゲンシュタインは100%ASDだったと思います。

「息子と僕のアスペルガー物語」奥村隆
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846
奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第1回】時間に細かすぎる親子
僕と息子がその病院を初めて訪れたのは、8月下旬の、とにかく暑い夏の日だった。 僕たちが病院の最寄り駅で電車から降りたのは、午後3時ちょうど。一日で一番気温が高くなる時間だった。文字通り、うだるよう…

本日の体験授業、お疲れ様でした。

2013年08月01日 19時39分16秒 | 教育
今日、勤務校で中学3年生を対象に体験授業をしました。
時間がなくて要約文の解答例を示せなかったので、こちらに書いておきます。

タイプ1
佐渡市で放鳥されたトキから初のヒナがかえった。日本のトキは乱獲などで03年に一度絶滅し、中国からの個体による人工繁殖で今回に至る。せめてトキをもう一度自然に帰すことが、環境と人を守ることにもなる。

タイプ2
日本のトキは乱獲などで03年に絶滅したが、中国からの個体で人工繁殖に成功し、今回佐渡市で包丁されたトキから初のヒナがかえった。せめてトキをもう一度自然に帰すことが、環境と人を守ることにもなる。

タイプ1は本文の順序通り。そうすると繋ぎが難しい。
タイプ2は事実の順序通り。文章は書きやすいが、本文と順番が変わる。

要約は基本的には本文の論理展開の順序を踏襲(とうしゅう)するべきだが、この場合はタイプ2のほうが自然だろう。

要約は20字1内容が基本。
100字なら4~5つの内容を盛り込むべき。
ここではまず、新聞として

①佐渡市でトキのヒナが初めて誕生。

が最優先。これを外してはダメ。
次に、
②トキをもう一度自然に帰すこと=③環境と人間を守ること

という結論は外せないだろう。
ここは②と③二つの内容が合わさっている。
文章の終わりにある結論は重視しよう。

あとの二つどこを選ぶかが難しいが、、
ここは「初めて」が実は一度絶滅した後再び、という意味だというところをおさえたい。
となれば
④乱獲や乱開発という人間の不自然な営みで03年に日本のトキは一度絶滅。
⑤中国から個体を届けてもらって人工繁殖に成功。

という内容を加えるべきである。

最初の段落は、話題の提示ではあるが、要約としては不要。
無人カメラやテンやカラスのような具体例もカットすべき。

一番迷うのは
「あらゆる生物には、したたかに種をつなぐ知恵が備わる」
あたりだろう。
しかしこれはにもかかわらず人間が不自然な力によってそれを絶滅させてしまった、ということを導くための否定されるべき部分にすぎない。
人間の「不自然な力」という表現も重要なのだが、鍵カッコつきの表現は論理展開の説明としては不適当。
同様の理由で俳句も要約にはいれてはいけない。

あくまで要約は論理展開の筋道をなぞることが大切です。

また機会があったら一緒に勉強しましょう。