龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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上野千鶴子の退官講義と小松左京の訃報

2011年07月29日 22時21分43秒 | 評論
上野千鶴子の退官講義の記事があった。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201107280425.html
インターネットの放送はこちら
http://wan.or.jp
実に感慨深い。大きな影響も受けたし、きわめて政治的な(言説権力を意識的に用いた)ことばの操り方に、呆れた思いを抱いたこともある。

「わかっててやってるんだけどさ」
という感覚は、今でいえば宮台真司の「言葉使い」に近いかもしれない。
「社会学者って胡散臭い」
ということを隠さないスタンス、とでも言えばいいだろうか。

それが「弱者」の場所に立って闘う、となれば、花田清輝(古いね<笑>)を引用するまでもなく、そして引用したって知ってるヒトはほぼいないだろうが、優れてレトリカルな側面を持つのは当然の帰結でもあった。

「にもかかわらず」、なのか「それゆえにこそ」、なのか「それとともに」なのかは意見の分かれるところだろう。

しかし上野千鶴子的言説が魅力的だったのは、にもかかわらず「論理」の力を徹底的にクリアに持ち続けていたからだ、という点は、それなりに同意を得られるのではないか。

退官したからといってそのファイトスタイルが変わるわけでもあるまいが、大きな時代の区切りを感じる。

時代の区切りといえば、小松左京の訃報(80歳と聞く)はもっと感慨深かった。
私にとっての小松左京は『エスパイ』であり『日本アパッチ族』であり『果てしなき流れの果てに』だ。

小学校の頃、小松左京の存在は、ほとんど奇跡のように思われたものだ。
もう一つの奇跡は平井和正の『犬神明』シリーズ×2の存在なんだけど。

SFのおもしろさは明らかに、当時エンタテインメントとして「色物」扱いだった。
そんなことさえ「歴史的事象」になってるんだろうね。
SF的なるものが「当たり前」のエンタテインメントとして認知されていく過程を知る者にとっては、小松左京の死は、これもまた大きな時代の区切りの一つと感じられるのではないか。

星新一のそれは、時代性を超えた「巨星、堕つ」って感じだったけれど。

私はSFから宗教をそして神を学んだ。それは
小松左京の『果てしなき流れの果てに』であり
光瀬龍『百億の昼と千億の夜』であり
ハインライン『異星の客』であり
山田正紀『神狩り』であり

それは「想像力」の問題であると同時に、「思考の臨界」における「現象」の問題であり、超越論的な「リアル」の問題でもあった。

大人になってから改めて「文学」とか「小説」とか「哲学」とかいう「ジャンル」を踏まえて再度思考を繰り返していくことになるわけだけれど、種は全て、子どもの頃のSFが撒いていてくれていた、と言う気がするのは、たぶん私達の世代の「ある集団」には共通した認識なのではないか。

「面白くて何がいけないんだろう?」

高校生の時、倫理の授業で担当になったハイデガーをレポートしながら、こんな面倒なことを分かりにくく書くより、SF1冊読めばいいのにな、と思っていたことをふと思い出した。

ようやく数十年の時を経て、ハイデガーが見ていたものをもう一度考え直す場所にようやく近づいているっていうのは、進歩がないって話なんだろうか。

上野千鶴子も小松左京も、現実という「大きな柄の絵図面」を、鋭い論理のドライブ感と繊細な「読みや分析」に支えられた想像力・構想力によって、まるで「思考の基盤それ自体」を大きな風呂敷か旗ででもあるかのように鮮やかにひっくり返してしまうその手品のような膂力にほれぼれするそんな読書体験を与えてくれた人だった。

ちゃんとどこかでそのバトンは受け継がれていくのだろうか?
私は息を潜め、ゆっくり老後を過ごしつつ、その兆しを待ちたい、と思っている。