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龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

コペンがやってきた(12)コペンはスポーツカーなのか問題(笑)

2025年02月05日 07時31分00秒 | 本を読む
軽自動車のスポーツカーといえば、なんといっても
HONDAのS660
だ。
これは普通に公道走ると免許が何枚か欲しくなる類いのクルマだ(オーナー談)。まちがいなくスポーツカーのカテゴリーに入れていい。
あとはこのジャンルの草分けとも言えるHONDAビート。
ミッドシップだからというだけではないが、軽スポーツカーを名乗ってよいのではないかな。

だいたい、排気量とか絶対的な速さはほぼほぼスポーツカーの定義とは関係ない、と、私は理解している。

要はマツダロードスターがスポーツカーだから、という程度の理解に過ぎないが。

ライトウェイトFRオープンツーシータースポーツ。

コペンで当てはまらないのはFFってところだろう。

非力とはいっても、850kg程度のものをの4気筒ターボのMTでワインディングロードをオープン走行走するのは、正直なことを言わせてもらえば、ロードスターより楽しい瞬間がある。

前輪頼みの引っ張られる感じではなく(それはそれでFFスポーツだと思えばよいのだが)、小さくて低重心ということもあって、ハンドルを切ればコーナーの内側にスッと入っていってくれる。


FRの車全体で曲がっていく感覚には乏しいが、前輪を駆使して駆け抜けるかんじもまた、悪くない。ハンドルの切れ味もよく、普通の軽のイメージとはかなり違う印象。

まちがいなくFun to driveです。

スポーツカーかどうかなんてあまりたいした話じゃないな、というのが個人的な結論。
カープを曲がる時に、コペンが楽しい瞬間がある。
時ににはロードスターよりも😁

なにより、家に戻った瞬間、これほど強くまた走りたくなる車って、マツダロードスターとコペンしか体験したことがないですもの。

もちろん新車を買えば夜通し走っていたい。でも、このドアを閉めた瞬間また開けたくなるのが、私にとっての「スポーツ」。

軽くて重心が低くて自分に近い。だから、自分が走ってる感じがする。
結局私にとっての「スポーツ」ってそーゆーことかな。

ベンツみたいに高級な執事が取り次ぎにはいってる感覚だったり、車高が高いSUVだったりするのは、いくら速くてもコーナリング性能が高くても、それ自体はそんなに欲しくない。
快適さに深く満足はするけど、渇望はしないんですよね。


問題は屋根が閉まらなくなること(笑)コペンがやってきた(11)

2025年02月05日 07時30分00秒 | 本を読む
最高の相棒と出会った至福を感じつつ毎日ドライブしてるが、やはり最大の問題点は
「屋根が閉まらないこと」
だ。
購入する前から薄々分かっていたし、ネットで検索すればすぐててくるのだが、コペンの屋根は、アクチュエーターが次第に力を失って、いくら懸命に唸っても、トランクに格納された屋根の部分が上がってくれなくなるのだ。
幸運にもその症状が出ていない個体を引き当てた人はラッキーだ。
私も買う時にはまちがいなく動いた。遅かったけれど。
でも、その後寒波が来たら、全くえ上がらなくなってしまった。

その後、日向ぼっこをさせてあげるとたまに動くこともあるが、まあ恒常的に動くことは期待できない。

第初のディーラーに問い合わせたら40万円オーバーかかるという。
むしろ冷静になってしまう金額だ🤣

幸い今は、手を添えてあげると屋根を閉めることが可能な「介護度2」ぐらいの状態なので、もうしばらくこの低空飛行をつづけることにする。

ちょっとした用事なら、オープンのまま駐車しても荷物をシートに置いて置かなければ大過ないだろうとの、目論見。
いずれ直すにしても、タイミングをみながらになりそうだ(笑)


コペンがやってきた(10)軽オープンであることの意味。

2025年02月04日 07時30分00秒 | 本を読む
最近(2024年後半〜2025年初頭)、軽オープンカーの歴史が変わろうとする記事が相次いでいる。

スズキのカプチーノとダイハツのコペンが新設計で蘇るというのだ。
素晴らしいことだ。
だが同時に残念なのは、いずれも軽オープンであることを止めて、普通車としてデビューになるのだとか。

1.3Lのライトウェイトオープン。
それってそのまんまNDロードスターのカテゴリーじゃん(笑)

ロードスターからようやく軽コペンに降りてきたばかりの自分にとっては、ちょっと梯子を外されたような気持ちになった。
いや、勝手な感想なんですけどね(笑)

そしてエンジンレイアウトはいずれもFR(あくまで予想記事です)。

ライトウェイトツーシーターオープンスポーツは、結局のところマツダのNA→現行NDロードスターに収斂していくということなのだろうか。
HONDAは独自路線を出してくるけど継続はしない(カプチーノもそうだったけど)。

まあ、もう軽オープンスポーツカーとかは終わったカテゴリーということなのだろう。

よし!
むしろ望むところである(笑)

小さくて、柔らかい丸めのフォルムを見に纏ったFF軽オープンはこれから唯一無二になってゆく。

ゆっくりこのコペンと年を取っていくことにしよう。
そういう時、デザインは重要になる。
機能的にはダイハツもスズキも、普通車であるマツダロードスターのフォーマットに寄せていくことになるとするなら、初代L880Kコペンはむしろここに残って走る意味がある。
それは機能ではなく、存在として、だ(大げさ😁)。

カテゴリーとしても他にない。

考えてみれば、スポーツカーという概念に「乗る」のは若者ではなく中高年だろう。

事故ったらひとたまりもない軽オープンではなく、それなりに快適で機能性や質感も高い普通車で相対的にライトウェイトオープンを味わう人が多いのはのはおそらく当たり前だ。

でも、オラはコペンに出会っちまった。だってかわいいもんな🥳

それはどこかちっちゃな旧車のイタリア車に入れ込んだりする感じにも他人の空似程度には似ているのかもしれない。

だってかわいいじゃないか(笑)




クルマのデザインに大きな意味がある-コペンがやってきた(9)

2025年02月03日 00時14分07秒 | 本を読む

L880K、つまり初代コペンのデザインがかわいい。
それが中古のコペンを買おうと思った動機だった。
今までそんなことを考えたことなんて一度もなかった。
基本、可愛いとか、別にって感じ。

ところが、
CX-8が4WD ディーゼルターボで、
用途が長距離高速クルーズ&車中泊&グループキャンプ
ということになると、その用途としてCX-8はほぼ理想的なチョイスには違いない。
だが、サッカー応援を始めてみると、スタジアムの駐車場の幅がとても狭くてツラいのである。
街乗りに軽があれば、と思ったとき、必然的に屋根の開く軽自動車にたどり着いた。
かつて二台持ちでNCロードスターも保持していたが、普通車2台はやはりキツい。
その点中古の軽なら出費もそれほどでもなく、維持費も安いと考えたわけだ。
中古でタマが豊富なのはコペンだろう、とネットを散策するようになったのが半年前。

そんな風に眺めているうちに、コペンのデザインが気に入ってしまった。
パールホワイトや赤、黄などの色がいいな、などと漠然と思っているうちに、昔ダイハツのディーラーにいって、乗っていたヴィッツを下取りに出して旧型コペンの新車を見積もりしてもらったことを思い出した。

そうやってだんだん盛り上がってきてみると、新型現行コペンにも旧型に似た丸目のセロというものがあると知った。
なかなかこれも悪くない。
しかし、改めて見比べるとやはり初代のL880Kコペンが可愛いのである。

そんなこんなしているうちに、どうしても初代コペンが欲しくなっていった。こんなことは今までにはなかったことだ。

クルマが可愛いとか、正直どうでも良い思っていた。
しかし、どうでも良くはなかったのですね。
ただ、中古のタマが多いとはいっても発売完了から最も新しくても12年物、古いと20年物である。
オークションで探してもらっても、100万以下ではなかなかいろいろ我慢しTがり手を加えたりする必要があるものが多かったり、安ければそのまま乗るのは躊躇われるようなやれたものになるという現実にも向き合わされていく。

そんなとき、新しくペイントしてサビの程度も良く、エンジンも調整済みの個体がネットで見つかった。色は黄色だという。

実は、初めてレンタルしてデートドライブ(死語ですが)したのが、二代目FRスターレット1.3Lで(KP61)、これが丸目で明るいイエローだった。
本当に軽やかに走って、運転品すく手に馴染む感じだったのを覚えている。

今調べてみると当時の車重がなんと720kg。排ガス規制への対応が一段落して、軽いボディに1.3Lのエンジンを積んで、キビキビ走るいいクルマになっていたらしい。当時はそんなことなど何も知らなかったが。

当時免許取り立てで彼女とドライブするために初めて借りたレンタカーが、軽快な黄色のスターレットで、最後に遊びで乗ろうとするのが黄色のコペンというのは、ちょっと自分としては「ふむふむ」と腑に落ちるストーリーだったりする。

結局、そういう動きが、そういう軽さが身に馴染むものだったということだろうか。

結局可愛い、というのは理屈抜きだ。
道が悪いとクルマが二つに分かれるのではないか、というほどガタピシいうのだが、それでも楽しいのだから我ながらあきれたものである。

それでもお高いクルマをなでさすっているのと比べれば、より少なく悪いとは言えるかもしれない。マニュアル車が運転できる程度のリタイア組には、最適の一台、といっていいかも?

BenzのA-CLASSやC-CLASSも乗ったけれど、間に「執事」がいるみたいで「かっとび」感に乏しい。SUBARUのFFベースのレガシー4WDも乗ったが、ロングツーリングにはいいけれど、これも5台目で大きくなりすぎて、キビキビ走る感じではなかった。
ロードスターもNC2.0リッターとちょっと大きめだったし。

結論として、コペンはキュートで軽くて唯一無二でした。

HONDAのS660とかは本気すぎて免許が何枚あっても間に合わなそうだし(苦笑)。
HONDAビートやスズキのカプチーノはタマがちょっと古くて、そこまで頑張れるか自信がないし。

軽オープンスポーツのCOPEN、お勧めです。


コペンのスポーツ性ーコペンがやってきた(8)

2025年02月02日 23時53分39秒 | 本を読む

もちろん、以前乗っていたロードスターは、ブレーキ、アクセル、ハンドルを流れるように扱いながらカーブを走り抜ける楽しみがあったといえばあった。
ただ、乗っていたのがNCのRHT VSのオートマだから、コンフォートな2.0リッターという感じもあって、本当にライトウェイトというよりは「本格的」なオープンクルーズカーといった感触だった。

それが、今回コペンのMTに乗ってカーブのある道を右に左にと走ってみると、以前NCオーナーだったときには、これでも十分ライトウェイトじゃね?
と思っていたのだが、気持ちが次第にああ、NAやNB乗りの人たちが
「NCはロードスターとはいえない面があるよ」
といっていたことの意味が分かってきたような気がする。
軽いって凄い。そう思った。
スポーツ性って、やっぱり軽いことなんだよね。
重量は830kg。
これでターボ付きのMTだから、基本的には本当に軽くカーブが曲がれる。
運転が別に上手じゃない自分でも、カーブが楽しいのだ。

でも、軽だから、道路の幅を一杯につかえる。
基本は前輪のグリップを頼りにしつつ駆動&ハンドル角をそれに乗っけて回頭していくわけだが、これが自分にとってはかなりノスタルジックでもあり、びっくりするほど洗練されている(20年前のクルマなのに<笑>。40年前のノンパワステFF初代ファミリアとの比較ですけど)。
旋回の絶対的スピードが早いわけじゃないのだろうと思うが、体感としては、本当にスムーズに曲がれるのである。今まで乗ってきたどんなクルマよりも気持ちよく「簡単に」曲がれるのだ。

当然、ハンドルを切り遅れれて後から急に切れば、膨らんだ上に後輪が外に振れる。それはただ下手なだけだろう(苦笑)。

ぶるぶるガタガタしながら段差も収まらないオンボロ感触満載なのだが、それなのに今まで乗ったどんなクルマよりも気持ちよく、楽しい。

FRが運転の基本だし、それで走ることを学ぶのが当然なのだろうけど、このままで、曲がっていくのが楽しいのです!

もちろんFFは前輪のグリップが全てみたいなところがあるから、無茶する人はどうぞ腕次第で。
私はのんびりと、気持ちよくワインディングが走れればそれで至福。

低速でもスポーツ。
分かっていたつもりだけれど、コペンはさらに200kgも軽いとなると、ロードスター(NC)とは違った「軽さ」に目覚めてしまった、というお話でした。


宮坂道夫『弱さの倫理学』お読む。

2025年02月01日 07時30分00秒 | 本を読む
どちらかと言えば学術的な論文。

もちろん本人はあとがきで、文献精査に頼らず、むしろ問題を中心に据えて論じた、と書いている。

それでもずっと読んでお付き合いするのは大変。
次のことだけ拾って終わりにしました。

「もっと視野を広げれば、特別に弱い人たちの利益を保護する責任を、誰が負うべきかという議論を根拠づけることができる。責任の範囲は、他人の状況や利益に対するコントロール、および他人の利益が危機にひんしている程度に比例するように、脆弱性の程度に応じて評価され、その責任は、弱者が弱者となった原因とは無関係に規定される。誰がその状況を引き起こしたかではなく、誰がその状況を改善する立場にあるかによる。日本風に言い換えれば、自己責任論は否定され、誰が悪いのかという犯人探しも不要である」

この結論が何の留保もなく適用できるわけではないが、ここで論じられたこの本の筋道をたどって得られた結論として、価値がある。

「人に忍びざるの心」(孟子)
を、内面的な徳に還元するかどうかではなくて、ね。


藤高和輝『バトラー入門』に入門する

2025年01月31日 07時31分00秒 | 本を読む
メモ的に引用しておく。
「『偏見はなくならない』という事実はむしろ、自己や他者に対して可能な限り倫理的に生きるよう私たちを駆り立てるものなんじゃないだろうか」
「『偏見がなくならないこと』『私たちの認識がたとえ意図していなかったとしてもかたよってしまうことがあること』を前提にして偏見やそれにもとづく差別、そしてそれを生む社会の構造に自他ともに注意深く批判的であるほうが建設的なんじゃないかな」
「私は以上の考えをバトラー主義としてもっている」

これはいずれも本書の第4章
「ジェンダーをなくすんじゃなくて増やそうって話」
からの引用。

そうなんだよね。
偏見はなくならない。
でも、絶望するには及ばないし、かといって逆上して慌ててにわか正義の味方になる必要もない。

「ジェンダーを増やそう」、というレトリックがまだ個人的にはしっくりきてないけど、藤高和輝の言おうとしてる方向性の向こうにあるあるいは手前にある「倫理」についてはちゃんと考える必要がある、と思う。

アイデンティティ抜きに人はそう簡単に生きられない。
だから、簡単に平等を吹聴する輩は信用できない。
その感覚は大事。これを学ぶだけでも読む意味はある。
もちろん、ジュディス・バトラー入門として必読かと。

この著者には他に以文社から出ている博論改稿?の
『ジュディス・バトラー』もあって、お勉強するにはそっちがいいのかもしれないけど、肌感覚を磨くにはむしろこの
『バトラー入門』
が必須。
知り合いの研究者が彼女にこそ
ジュディス・バトラーの、主著の一つ『ジェンダートラブル』を訳してほしい、、とつぶやいてたけど、同感。
圧倒的にオススメです。
最後にもう一つ引用を。
「トラブルを生きているのはあなただけではないのだ、と。そしてそのトラブルは他の誰かのトラブルと共鳴しながらこのし社会的世界を動かす力を持つのだ、と。」

マッカラーズ短編集を読んだ。

2023年10月26日 12時45分51秒 | 本を読む
『マッカラーズ短編集』を読んだ。
カーソン・マッカラーズは20世紀前半のアメリカ南部のジョージア州で、20才代で小説において圧倒的な才能を開花させた女性だった。
書かれたものは、一見すると互いに理解し合えないまま閉じた生を生きるしかない登場人物たちで満ちあふれていて、当時の時代を考えると非常に奇妙な感じの小説だ。
今で言えばそれはqueer(クィア)な、ということになるのだろう。
今回読んでみて、こんな小説を書いてみたい、という欲望が内側からせり上がってくるのを止めることができなかった。
無論、マッカラーズのような小説が書けるはずもない。
言いたいのは、これは「私のものだ」というその感触だ。
自分の中でその奇妙な(queer)感じを抱かせる、孤独で他者とすれ違い閉じていくしかない登場人物たちが、にもかかわらずこちら側に寄り添ってくるようにすら感じられる感触がある。
読書会のメンバーの一人は、これは「境界線上を描いているんだ」と言っていた。
たしかに、「天才少女」などはまちがいなく、少女から大人へと移ろっていかずにはいられないその境界線の上に立つ極めて微妙で不安定な場所、まるで天使が針の上に立ち得るのかどうかを試しているような危うい描写が、短い作品の中に凝縮している。
もちろんその境界線は、先生と生徒だけではない。子どもと大人、アル中の妻と「正常」な夫、男と男、男と女、女と女、主人公の別れた妻が今の夫との間に倦んだ子と今の恋人が以前に生まれた子どもとの関係(短編だが実に面倒くさい)、境界線はこの作品の至る所に引かれている。
その無数の境界線を描く描写は徹底的に繊細で細部に渡っていて、それが世界の今の閉塞性とその先崩壊を予感させる……。
控え目にいっても、めちゃくちゃ惹かれた短編群だった。
巷では、村上春樹が訳した『心は孤独な狩人』と『結婚式のメンバー』が有名なのだろう。
どれであってもよい、21世紀の空気を吸う私たちは、一度マッカラーズの不自由な描写の中に身を浸してみてよいのではないか。
それは境界線を巡る苦悩の描写であると同時に、境界線が崩壊していく予感や事実の描写でもある。
間違っても、ここにあるのは、村上春樹が描くような物語ではない。物語だけ読めば、不可解な話になる。
村上春樹の本当の才能は、カーバーやティム・オブライエン、マッカラーズを目利きした事実と訳業(誤訳はあるにしても)にあんじゃない?という話も読書会のメンバーから出ていた。なるほどね、という感じ。

(かつて村上春樹の「物語」をむさぼるように読んだ80年代の記憶を持つ自分にとっては、その村上春樹以前を発見する「旅」でもあったのかもしれない……が、それはまあどうでもいい話だ)
文句なく、お勧めです(極めて乏しい外国文学体験の中で、の話ですけど)。

いわきFC頑張れ!(2)

2023年10月26日 10時31分32秒 | 本を読む

BEHIND THE SCENES】いわきFC vs 清水エスパルス|明治安田生命J2リーグ第39節

で試合終了後、田村監督が闘いを終えた選手たちに語っていた言葉が印象的だった。
(実際の動画は上記を参照)

「本当にこんだけ来てくれたお客さんがどう思ったか分かんないけど、

(そして)今おれがそういう風に言ってその言葉(みんなの心に)入んないかも知れないけれども(オレは、全然)誇らしく思う。

最後までファイティングポーズを取ってやったということ。それは監督のオレがそういう風に(舵を)切ったから、それをやってくれたということに感謝している。」

この言葉に深く共感した。そして、ファンの中の多くの人はこの監督の言葉と共にあって、応援を続けてきたし、これからも応援をしていくと思う(
少なくても私はそうだ)。

思えば、田村監督は「勝ちいく」「点を取りに行く」と、今節だけでなくずっとそう言い続けてきた。

90分走り続け、諦めない、倒れない。
「魂の息吹くサッカー」

①選手の平均年齢も23才ちょっとの若さにふさわしい言葉だし、

②できたてのいわきという地域に根ざして成長しようとするチームだし、

③私たちいわき市民にとって一緒に成長していく身近な地元のJチームだ。

④加えて、年配の方(パートナーとご一緒だったり)でスタジアムに足を運ぶ方の多くは、子どもや孫のような気持ちで、選手たちの成長を応援しているという雰囲気があるのではないか?友人のサポーターが言っていた。

⑤また、横浜FC主催の親善マッチでは、いつもの応援団がいない代わりに、子どもたちの声のリードでスタジアムが応援チャントを唱和する一幕もあった。キッズたちもその親の世代と一緒にスタジアムに来る習慣ができはじめている。

いわきFCは、本当の意味で私たちいわき市、浜通りのチームになりつつある。

そんな風に感じた。

 


『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』熊野純彦

2023年04月25日 12時40分40秒 | 本を読む
熊野純彦の『レヴィナス -移ろいゆくものへの視線』(岩波現代文庫)

を読み始めた。

なんだか、長年の疑問が「溶けて」きそうな気がしている。

『レヴィナス・コレクション』
の文庫を手にしてから、折に触れて何度もページを開いて読もうとはするのだが、とにかく読めなかった。

もちろん、難しい哲学者の、とくに主著と呼ばれるようなものは素人には全く歯が立たないことの方が多い。

解説書を読んで、本人がさほど力を入れていない小著を読んで、書簡を参照して、(自分が幾分か理解でき始めたと思われる)別の哲学者の言葉をヒントにして、ジワジワと理解していくしかない。

お気に入りのはずのスピノザの『エチカ』でさえ、いろいろな先生の講座を受講し、論文を読み、解説本を並べ、たくさんのスピノザ批判を後追いしながら、ようやく面白さを感じてきたのだ。

だが、数あるスピノザ批判の多くは(当然ながら)近代以降の文脈からのもので、腑に落ちるにせよ、突っ込みどころはそこじゃねえだろうと思うにせよ、あるいはそうだね、そこはスピノザの弱いところかもね(17世紀だし)みたいなこともあるにせよ、まあ理解しやすい。

一つのものの見方をある程度体得して、自分のものの見方が「変換」される体験をくぐると、三つ目以降のものの見方についての理解のしやすさが「変化」する。そういうことを学んだような気がする。

たとえていえば、全く別のOSについて勉強することによって、自分が今まで思考してきたその思考を走らせている自分のOSについても認識できるようになるというようなことだろうか。

ところが、レヴィナスについてはそれがうまく行かなかった。

たとえばフーコーはあの大著が読めない、デリダの考え方の大枠は理解できても、テキストが本当に読めない、ということはある。カントの3批判、解説を読んで分かった気になっているとか、ホッブズのリバイアサン、途中で挫折したままだ、とか、そういうことは素人の自分にとっては当たり前のことだ(残念!)。

文学作品なら、ある程度商売だから無理にでも読み切るということはある。
大江のだらだらながい小説でも、100ページまで乗りきれば面白くなる、と思って読めたし、その経験は(順序はぎゃくなのだろうが)ガルシア・マルケスの読破にも役に立った。苦手なドストエフスキーでも、大人になってから(遅い!)修行だと思って読んだりもしている。そして、文学作品はどんなに読むのが難しくても、読んでみればそれはそれで面白い。

ところが、レヴィナスは全く違う。
根本的に、何がなんだか分からないままなのだ。

「顔」とか「他者」とか、何かに取り憑かれたようなこだわりが尋常でないものを感じさせられるキーワードがそこにあるのに、何か今ひとつつかめない、もどかしさを覚える。

スピノザと「OS」が違う、というのは分かる。

そして、よく分からないけれどスピノザ批判の論調はきわめて厳しい。
ここを理解できるようになりたい、と思いつつ何年もそのままにしてきた。

この熊野純彦さんのレヴィナス論は、それ(読めなさあ・分からなさ)を「手触り」から説き起こしてくれるような気がしている。

レヴィナスは、弟子に対して

「問題はこうです。<自分が存在していることで、ひとはだれかを抑圧しているのではないか>このようにして、まさにそのとき、じぶん自身のうえに安らい、<私>は存在するという同一性のもとにとどまりつづけていた、自己同一的な存在者が、じぶんには存在する理由があるのだろうか、と自問することになるのです。」

と語っているという。

なんと受動的というか強迫的というか、とにかく自己と他者の関係を極限まで突き詰めようとする身振りが見えてくる。
熊野純彦さんは、それを丁寧に丁寧に解きほぐしながら説明していく姿勢を止めない。
ありがたいことだ。

ホッブズが発明した「コナトゥス(自己保存の傾向性)」という概念を根本的に問い直すのがレヴィナスだという説明も、腑に落ちる。
そうか、そりゃホッブズを継承しつつある面で書き換えながら思考していったスピノザにもこの「コナトゥス」を称揚する姿勢は間違いなく顕著に存在する。
合わないわけだ。

スピノザは、世界=自然=神を唯一の実体と捉え、その外部を断固拒否する。神=自然、以上、である。
レヴィナスは、徹底的に世界と自己の隔たりにこだわり続ける。
もちろん、意識以前の欲求の享受レベルでは、そんな隔たりを動物と同様生まれたての子供は感じてはいない。
しかし、動物ならぬ人間が「生きる」ということは、その世界と自己の隔たりおよびその結節点となる身体の関係について、向き合い直し、捉えなおしてこそ、初めて成立することに違いない。

自分として納得のいく結論はまだまださきだが、いろいろ考えるきっかけにはなりそうだ。




スピノザの『エチカ』仏語対訳本が届く!

2023年03月27日 11時52分22秒 | 本を読む

本当は英語の対訳本だともう少しわかりやすいんたが(苦笑)。
それでも、ラテン語のテキストが一冊の本になっているのはありがたい(ネットにはラテン語のテキストも転がってますがね)。

物質的にこれがあると、挫折続きのラテン語学習のモチベーションもあがるのでは、という淡い期待を抱いて。
せめて辞書が引ければ!
今度はそこまでがんばるぞー。
(なにせラテン語は文法的など語形変化野「あたり」がつかないと辞書引くのにも手間ですし、それをやってくれるサイトもあるにはあるけど、自分の頭の中にある程度入ってないと効率悪すきて)。
 退職後の一番の遊びはこれ、になりそうです。
10年かかるか、20年かかるか……。


町田健『チョムスキー入門~生成文法の謎を解く~』光文社新書

2023年03月22日 15時11分39秒 | 本を読む
チョムスキー入門の本を今更に読んだ。
今更ながら何がツボなのか理解できない。
句構造規則の話はなんとなく分かる。
表層と深層の構造もなにやらやりたそうなことは分かる。
しかし、そもそもの出発点がどこなのかが分からないため、いくら説明されてもぴんとこない。
とうしても、
「で?」
となってしまう。
脳みそに普遍的な仕組みがあるのは分かるんだけどね。
「前言語的な何か」があるんだろうなあ、ということも分かるんだけどねえ。言語習得というプロセスとかなら興味が湧くんだけどなあ。
だれか生成文法?このチョムスキーの成果を分かりやすく教えてほしい。


スピノザについて書かれた講談社新書の3冊について

2023年03月22日 03時06分08秒 | 本を読む

YouTubeのCAUTE(哲学語学チャンネル)で、

スピノザ関連文献26冊【スピノザ語り】

というコンテンツがアップされていて、とても勉強になった。

https://youtu.be/aVE1hsfbGy8

スピノザに関心のある方はぜひご覧になることをお勧めしたい。

ただ、その中で気になった点、というか、自分でちょっと立ち止まって考えてみたいところがあったので、メモ代わりに書いておく。

反論とかつっこみとかいうほどのことではない(このCAUTEさんの動画は他にもラテン語で読むエチカなどありがたいコンテンツがあって、ありがたいと感じています)。

書いておきたいことの一つは、講談社現代新書から出されているスピノザ本3冊についてのコメントだ。

上述の動画子は、三冊を比較してこう評価する。

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吉田量彦『スピノザ』

 分量も一番充実しており、伝記的側面に強い。もう一つの特徴としては(光文社の新訳を出しているだけあって)『神学政治論』についての記述が充実している。その分主著『エチカ』の言及部分が他の2冊に比して少ない恨みがある。

上野修『スピノザの世界』

 ほぼ全編『エチカ』について論じてあり、あくまでテキストに則した上で、それでもなお上野の解釈ワールドが展開されている。『エチカ』について、あたかもテキストがテキストを論証していくという、きわめて奇異なスピノザテキストの本質に迫っている。

(テキストがテキストを論証していくというのは動画子が推薦していた上野修の別の本『哲学者たちのワンダーランド』から読みとったことをここに重ねてみた表現です、念のため)

國分功一郎『はじめてのスピノザ』

 分かりやすい。しかしこれはドゥルージアンのスピノザ。國分さんはドゥルーズで(によって?において?をとおして?)スピノザを読んでいるのではないか。それならばドゥルーズで良くない?と思ってしまう。

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ざっくりの印象で書いているので、詳しくは動画を直接参照してほしいが、この違い、興味深い。指摘の限りでは、その通りだなあと思う(國分スピノザについては後で少し書くが)。

 私もこの3冊の比較はぜひしておきたいところだったので、この機会に蛇足ながら付け加えておきたいと思ったことを以下に書く。

 所詮素人の感想になるが、新書はまあ非専門家だが興味を持っている大人に向けられたものだろうから、重ねて批評してもバチは当たるまい。

(ここからはCAUTE(哲学語学チャンネル)さんの話ではなく、自分が読んだ感想です)

まず一点目。

吉田スピノザで、納得できない部分がある。

それは、P326の、この部分だ。

(引用開始)

「理性には本来的に、ものごとを何らかの永遠の観点の下に置いてとらえるという性質が備わっている。(第二部定理四四系二)

これは逆に言えば、その時その場で出くわすものごとをその一回性のまま丸ごと理解することは、そもそも理性の働きの埒外、想定外にあるということでもあります。人間の理性とは本質的にそういうものであり、まただからこそ、あまりにも一回性の高い出来事に直面した時には意外なもろさを露呈してしまうのです。二〇一一年に起きた東日本大震災とそれに続く原発事故の際、財界関係者が口々に「想定外」という言葉を連発して責任逃れを試みていましたが、あれはある意味では、理性に内在するこうした構造的限界を素直に露呈した発言とも考えられます。(P326)

(引用終了)

「東日本大震災とそれに続く原発事故」というものが、吉田にとって大した深い意図はなく、一回限りの予想外の出来事のセンセーショナルな例として挙げられたに過ぎないのかもしれないが、これはちょっとどうだろうと首をかしげざるをえなかった。

 当時の財界関係者が、理性の知における「想定外」を素直に口にしていた、というのは相当程度ナイーヴな認識ではないか。単に自己の立場を正当化しようとする「感情」や「偏見」の知、つまり第一種認識のレベルの言説として捉える方が妥当じゃないかなあ。スピノザ好きの一人として、彼らに感情を乗り越えて共通認識に至ろうとする「理性の知」を当てはめるのはどうかと思うよ。

 また吉田はさらにここに続いて、スピノザの言う理性の知(第二種認識)は、

「要するに、一発食らってからでないと作動しないのが理性なのです」(P327)

とも言っている。あれ、スピノザはそんなこと言ってたっけ?という疑問が湧いてきた。

上野修の『スピノザの世界』國分功一郎の『はじめてのスピノザ』を読んでいて、こんな風にえ、それってスピノザの言ってることだっけ?というところには全く出会わなかったので、ちょっと気になった。

果たして東日本大震災と原発事故を並べ、その上にひとしなみに「理性に内在するこうした構造的限界」という枠組みをかぶせるのが果たして妥当なのかどうか。

 福島に住む者として不快であることはおくとしても(苦笑)、ちょっとスピノザの第二種認識の説明として微妙なところではないか。

まあ、専門家が哲学をもて遊んでいる分には目くじらを立てる必要もない。

だが、本気で一回性の現実には受け身になるしかない、と考えているというのなら、もうちょっと謙虚に、もっとつまらない例でも挙げてお茶を濁しておくべきだった、とあえて言っておく。

 CAUTE(哲学語学チャンネル)でも吉田スピノザは『エチカ』が弱いと指摘しているし、吉田自身もその旨述べているので、むしろ吉田エチカは、充実した伝記的な記述と『神学・政治論』および『政治論』(岩波文庫では『国家論』)中心に読むのが妥当ということだろう。

 吉田量彦氏の光文社文庫刊の『神学・政治論』の新訳は、労作であり、ありがたく勉強させてもらっているということも付け加えておく。



次に、上野修の『スピノザの世界』について。

これは『エチカ』の持つ、あられもない「異様さ」を素人にも分かるように平易にかつやばさが伝わる記述になっていて、改めて久しぶりに今回読み返して上野スピノザの魅力を再認識した。

『デカルト、ホップズ、スピノザ』でも、『哲学者たちのワンダーランド』でもそうだが、上野修スピノザを読むと、スピノザの発想というか、國分氏が指摘するOSの違いというか、その特殊性がぐっとこちらに迫ってくる。

YouTubeには他に、上野修の最終講義が3本に分けられてアップされている『大いなる逆説スピノザ』も参考になる。

徹底した合理主義の究極ともいうべきスピノザの提示する哲学が、内在神というかこの世界そのもの、現実そのもの、自然そのものが神であってその外部はないというある種狂気にも似た「正気」をこともなげに語る異様さを、上野スピノザは私たちに共有させてくれる。

あられもない「正気」としての「真理」が、人びとに怖れられる機微がよく分かる。

『エチカ』を読むならまちがいなく必読の入門書、だろう。



 さて、三番目に挙げられている國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』は、CAUTE(哲学語学チャンネル)においては、「ちょっとなあ」というスタンスで紹介されている。

國分功一郎がドゥルージアンであることを指摘しつつ、だったらドゥルーズを読めばいいじゃん、となってしまう、という微妙な評価だ。

ここにはちょっと異論がある。

友人に貸してしまったので今手元に本文がなく、増補前のNHK100分de名著のテキスト『エチカ スピノザ』の最後から引用するが、そこにはこんなことが書かれてある。

「哲学を学ぶ際に一番重要なのは、哲学者が創り出した概念を体得し、それをうまく使いこなせるようになることです。たとえば、組み合わせとしての善悪の概念を使って物事を判断できるようになる。必然性としての自由の概念から教育について考えてみる、そんな風にして概念を使いこなせるようになることこそ、哲学を学び、哲学を身につけることなのです。

(中略)

 哲学が研究の場に閉じ込められるようなことは断じてあってはなりません。哲学を専門家が独占するようなことも断じてあってはなりません。哲学は万人のためのものです。」

つまり、『はじめてのエチカ』(100分de名著が元になっている)は、そういうスタンスで書かれている。万人のための入門書、だろう。

であるならば、「哲学を専門家が独占するような」ことからこの本がどれだけ距離を取れているのかいないのか、がまず問題にされてしかるべきだし、ドゥルーズ云々を言うのであれば、國分功一郎の書いた『ドゥルーズの哲学原理』と、この後に書かれた岩波新書の『スピノザ 読む人の肖像』との関係を踏まえた上で、はたして「ドゥルーズを読めばよい」のかどうかを判断するのが妥当なのではないか、と思われる。入門書として、國分スピノザが果たした役割は大きいと思うなあ。

國分功一郎氏自身、岩波新書版の後書きでも、自身の読みがドゥルーズから一歩前に出られたのかどうか、という点について触れていた。「読む人の肖像」という言葉自体、モノグラフィーをよく書いたドゥルーズと、デカルトの読み手でありかつ聖書の読解者でもあったスピノザを重ねた視点の提示という意味も当然含んでいるはずだ。


「読むこと」によってテキストを脱構築していくスピノザ。その上で出会い得るスピノザの姿、については、『スピノザ 読む人の肖像』を改めて読みつつ論じなければならないだろう。

 こんなことを私が言うのも口幅ったいが、國分功一郎氏の著述は、いわゆる専門家には割と受けが悪いという印象がある。まあ、専門家集団からしたら、いろいろ言いたいことがあるのだろうということも想像に難はくない。

 でも、たとえばネグリのマルティチュードとか、もはや(確信犯的)誤読に近いともいえないこともないだろうし、さまざまな読まれ方が展開されるのが「難解なスピノザ」の真骨頂でもあろう。

 國分功一郎さんの「熱い」、ときには暑苦しいかもしれないまでの「侠気(おとこぎ)」を、そのテキストにはいつも感じてきた。

『はじめてのスピノザ』だけではない。『中動態の世界』では学問領域を超え、「概念をつかって物事を判断する道具」として、つまりは医療や福祉の現場で評価される重要なテキストとし、て広くうけいれられてきたし、『畠中尚志全文集』では畠中尚志に対する敬意の深さ、また学問上の恩義について、ぐっと迫ってくるものがあった。

スピノザを専門とする学問がわのヒトは、スピノザの圏域から離れようとしない。テキストクリティークとしてまあ当然といえば当然ともいえる。

だが、スピノザはスピノザの語る圏域のみを世界と呼んだのではなかったはず。この世界、この現実こそが唯一の実体であるとするなら、スピノザ的理性は、狂気の淵に沈む必要もなければ、原発事故にことさら「予想外」といって驚いて見せる必要もない。その理性が「異端」と呼ばれることは理解できるが、上野修のいうクリアな異端さ、國分功一郎のいう「必然性としての自由」、それを単なる逆説として扱う必要はないのでは、とも思う。

結論は、スピノザに興味がある人は3冊とも座右に置こうという話に落ち着くわけだが、その先にいくとすれば、

CAUTE(哲学語学チャンネル)

が紹介している、26冊のスピノザ関連書に駒を進めるのが吉、だろう。

https://youtu.be/aVE1hsfbGy8

アナーキズムのところ、とくに楽しかった。

アナーキズムにも規範はある。でも上からじゃだめ。

って栗原康に言及した話ね。

アナーキズムの指標としてのスピノザ、とりあえず共感!

CAUTE(哲学語学チャンネル)のYouTube氏には、機会があればぜひ『スピノザ 読む人の肖像』のコメントもしてほしい。

最後に木島泰三さんの『自由意志の向こう側』と『スピノザの自然主義プログラム』の二冊は、セットでスピノザ研究の学問領域の側から、こちら素人の側にきちんとボールを投げてくれているのが分かる。今は、その営為に直ちに応答するだけの力がないのが残念だが、それはまた別の機会に。







ミュージカル映画『イン ザ ハイツ』を観た。

2023年03月02日 00時34分01秒 | 本を読む

ミュージカル映画『イン ザ ハイツ』を観た。

大ヒットしたミュージカルの映画化なのだという。
中米からの移民たちが住むニューヨークの街区で、そのコミュニティで展開する様々な喜怒哀楽が適切に過不足無く組み合わされてよく練られたミュージカル映画になっていると感じた。

何より、この音楽が素晴らしい。ミュージカル映画は、やっぱり常に音楽が凄い。そうじゃないとミュージカル映画にはならないんだろうなあ。ブロードウェイのなんたるかも知らない素人がいうのもなんだけど、アメリカの映画のいいところはこーゆーところなんだろうと思う。
差別の問題の扱い方とかは、ネットを見ると不満が渦巻いてもいるみたいで、そうかあ、(様々な出自の人たちの構成比が現実を反映していないとか)物語を作るにも、リアルに作るにはいろいろハードルが高くなってるんだなあ、とは思った。

その批判は批判として、そして、さしたる盛り上がるストーリー展開もないといえばない、として、それでも私にとってこれはとってもステキなミュージカル映画の1本だった。

主演の男の子がどうしても長友に見えてしまうという点を除けば、ね(笑)。

仲間内で話題になったのは、あのおばあちゃんの人生を、たった1曲で済ませてしまうのは勿体なさ過ぎじゃないか、って点。
もし可能なら、彼女の人生にもう少し焦点を当てても良かったんじゃないかな。
ミュージカルの群像劇だから、あんまり難しいことを言わずに楽しむのが吉かと。
いろいろな人生がこの街区には詰まってるっていうだけでも、観るに値する一作。
これはDVDならずとも、CDを買いたくなる映画でした。
いまなら、Netflix、あるいはAmazonPrimeなら300円ぐらいで観られますね。
よろしかったらぜひ。