龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

鎮魂歌(友人 白石昭二を送る)

2016年01月30日 10時30分03秒 | 大震災の中で
私は知っている
いつも一緒に酒を飲み、チャットをし、技術を、ネットを、そして政治を論じていたときのあなたの生き生きした表情とその声を

私は知らない
あなたが本当はどれほどすばらしい仕事をしていたのかを

私は知っている
酒を飲むとかならず「そうじゃないんですよ」と異論を唱え、いつも古い慣習や法律、全ての自由を縛るものに毛を逆立てて怒る小動物のようなあなたの瞳を

私は知らない
吾妻山に登ってはどんな花や草を愛で、どんな風景をその目に焼き付けていたのかを

私は知っている
仲間からどんなに止められてもお酒を飲み続け、酔って正体を失ってもまた復活すると飲み始めるその姿を


私は知らなかった
去年の夏、最後に飲んだとき、体がそんなに悪くなっていたことを
いつもの元気がないことは感じていたはずなのに

私は知っている
キャンプにいくと海や川の岸辺に陣どって、その風貌ゆえに「地獄博士」と囃されながら、ずっと子どもたちと遊んでいたときのあなたの微笑みを

私は知らない
いつもたった一人で務所でお酒を飲みがらどんなことを考えていたのかを

私は知っている
大手の難しい仕事を受けてはその腕一本で仕事を軽々とこなし、らっきょうのように秀でたおでこの奥に、私たちには想像もつかない宝石が詰まっていたことを

私は知らない
あなたが誰を愛し、誰を憎んだかを。

私は知っている
あなたがどんな愚かさを憎み、どんな純粋さを愛したかを

私は知らない
あなたは自分について何も語らなかったから

だから私たちは知らなかった
あなたがこんな風に病気で入院していることさえ

私は知っている
病室で一人、死と向き合いながらなおも、私が握った右手をそれ以上に強く握り返してきたその力強さを

私は知らない
あなたが孤独な病室でどんなことを思い、何を願っていたかを

私は知っている
納棺の時化粧をしてもらったその顔が、まるで全てを見通し、この世とあの世を繋ぐ場所に立つ能の翁面(おきなめん)のようだったことを

私たちは知っている
小さな奥まった瞳の奥にいつも輝いている、知性と皮肉と純粋がブレンドされたまるで哲学者のように世界を愛するその精神が、いまこの世界に愛されつづけていることを。

私は知っている
元気になったら、自宅に無線のアンテナを大きな竹で建てたいともくろんでいたことを

私は知っている
私はもしかすると、あなただったかもしれない

私は知っている
あなたはあるいは私たちだったかもしれない

私は知らない
どうしてあなたが真っ先に、神に愛されなければならなかったかを

私たちは知っている
最後の一人がこの世を去り、もう一度全員が向こう側で会うことになるまで、あなたは私たちの記憶の中に生き続けることを




ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』が読めるようになったこと(続き)

2016年01月16日 23時05分15秒 | 大震災の中で
ドゥルーズのスピノザ論は、平凡社の文庫で
『スピノザ 実践の哲学』を10年ぐらい前に読んでいた。
その後、國分功一郎氏の『スピノザの方法論』を読み、さらにスピノザ講座(朝日カルチャー新宿校 全12回)を受講して、おおよその 「当たり」はついてきたのだけれど、なかなか
『スピノザと表現の問題』
は読めなかった。
ある種のテキスト(特に哲学哲学の本)は、文字を追っていくことは出来るのに、小気味良いほど意味が分からないという経験を強いてくることがある。
私にとってはこの本もそうだった。とにかくなにがいいたいのか分からないのだからしょうがない。

だが、ようやくここでドゥルーズがいう 「スピノザの表現」の意味が少し分かってきた。たとえば次のような文章。

P88 「神の本質を構成するこれらの諸属性を内含する諸様態は神的な力を 『説明したり』あるいは 『表現する』といわれる。諸事物を唯一の実体の諸様態に還元することは、ライプニッツが信じ、あるいは信じるようなふりをしたように、これらを仮象あるいは幻影とする手段ではない。むしろ逆にスピノザによればそれらを能力あるいは力を与えられた 『自然的な』存在者とする唯一の手段である。」

ここには、具体的に生命を持って生きている生物たちのリアルを、 「環境世界=自然」の中に生きる 「十全な存在」として受け止めるという、 「存在が力を持って変化し続ける様相」を、スピノザの哲学が肯定しているのだ、という 「具体的な」ジル・ドゥルーズの主張が明確に示されている。

それをようや受け止められるようになってきた。

スピノザ→ドゥルーズ→國分功一郎

という 「連鎖」の中で、適切にスピノザの哲学における 「真理に触れている」と感じられるようになった。

理解する、というのはある面ではこういうことなのだろう。

もちろんそれは幾分かは 私自身における、スピノザの 「スピノザ的=私的」理解なのであって、その内観的な理解は、
「しょせん 『私』の内面のさじ加減に過ぎない」
という批判をとりあえずば免れない。だが、おそらくもはや私はその懐疑にたじろぐことはないだろう。

きっと、スピノザ的世界像について論じきるためにドゥルーズは(ここではライプニッツと比較しつつ) 「表現」という言葉を立てたわけだし、國分功一郎は 「方法」という切り口を示したのだろう、と腑に落ちてきた(『スピノザの方法』ではデカルトと比較して論じている)、ということでもあるのかな。

結局その哲学は、その叙述においてはじめて示される、という 「当たり前」のことになるのだが。

私は60歳を目前にしてなお、哲学テキストを さえ「文学」として読むことしかできなかった、ということになるのだろうか。そうなのかもしれない。そうではないのかもしれない。

その答えを出すためには、おそらくこうやってブログやSNSに書いているだけでは足りない。
今の私と今の世界とに同時に響き合うテキスト=運動が、どうしても必要だ。

無論極めて私的な話だが、かなり面倒な、つまりはおもしろいことになってきたということか。



ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』がようやく読める

2016年01月11日 20時38分14秒 | 大震災の中で
スピノザと出会って10年。
上野修のスピノザ本を読み、ドゥルーズの『スピノザ 実践の哲学』に触れ、スピノザのテキストを通読してから5年。
この『スピノザと表現の問題』という本を開く度に、皆目分からないまま討ち死にしてきた。
國分功一郎『スピノザの方法』を読み、一年間の講座を受講してようやく『エチカ』の下巻は身近になってきたけれど、それでも『スピノザと表現の問題』は読めなかった。

それが、昨秋リリースされた日本語版『アベセデール』(ジル・ドゥルーズインタビュー)を一通り観てからお正月にもう一度この本を開いてみたところ、これがなんと読める感じがしてきたのだから正直びっくりした。

当然のことながら私にこのテキストの哲学的読解ができるはずはない。
そういうことではない。

だが、

実体(神)→属性(思惟と延長)→様態(事物、たとえば人間とか?)

という哲学的な基本さっぱり分からない概念がなぜこのようにもちいられているのか、が、國分さんの講義とドゥルーズのインタビューを脇に置きながら考えていくと、ぼんやりながらスピノザの「世界」と捉え方というか、

國分→ドゥルーズ→スピノザ

という道筋がおぼろげながら見えてきた感じがする。何が分かったというわけではなく、全くたどれなかったものが、こっちの方かもしれない、と道の端緒が見え始めたぐらい。でも幸せな夜だ。

この第一部で述べられている「無限」についての議論をもう少しきちんと理解できればもうちょっとクリアに理解できるのではないかという感触。

原稿の締切から逃避すると、本気で本が読める、といういつものことではあるけれど。


國分功一郎 「無人島をどう生きるか」

2016年01月01日 10時16分10秒 | 大震災の中で
幻冬舎のサイトに國分功一郎氏が寄稿している文章。
「無人島をどう生きるか」

http://www.gentosha.jp/articles/-/4729

いわゆる 「想像力」について考えるために必読。
また、ジル・ドゥルーズの対談 「アベセデール」の補助線というか実践編としても読める。
同時に私にとって、今のこの政治状況について考える橋頭堡の一つにもなる一文です。