龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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第13回エチカ福島を開催します。

2019年10月27日 23時41分55秒 | 大震災の中で
第13回エチカ福島を開催します。


【テーマ】「〈電力〉から考えるもう一つの生き方」

【ゲスト講師】
      佐藤弥右衛門さん(会津電力)
      山内明美さん(宮城教育大学)

【日 時】11月23日(土)14:00〜17:00    
再生可能エネルギー体験学習施設(雄国大學
【会 場】(喜多方市熊倉町新合字休石地内) 

【申 込】 自由参加ですが、できればコメントなどで参加の旨お知らせいただければ幸いです。

【参加費】見学料は1,000円 
     (ただしエチカ福島が負担しますの寺実質無料です)
【開催趣旨】
 「エチカ福島」は、これまで震災・原発事故以降の私たちの倫理(エチカ)を問うてきたが、大きく二つの系列に分けられる。一つは、震災・原発事故の被害にあったフクシマに生きる者として、私たちはそれをどうとらえ、その状況の中でどう生きて行けばいいのかを問うという系列である。もう一つは、私たちのこれまでの生き方の選択こそが結果として原発事故を引き起こしたと考え、その生き方を問うという系列である。特に、奥只見は原発前史として電源開発が行われ、奇しくも原発事故の年の夏にダムの林立する只見川で洪水が発生し大きな被害を出した。その只見川流域の地域、特に過疎が深刻化する奥会津の現状を知りその未来を考えることで、私たちのこれからの生き方について考えようとするものである。
 奥会津は、水や森林震源をはじめとする自然資源はもちろんのこと、歴史的にも豊かで奥深い地域である。そこに巨大なダムが建設され、それが作り出す電気は日本の高度経済成長を支え続けた。奥只見は当初ダム建設とダム関連予算によって栄えたが、やがて電源開発はダム発電から原発にシフトすることでそれは終焉をむかえる。奥会津に林立するダムは今でも稼働を続けるが、豊かな自然と引きかえにして得た経済的恩恵は先細りし、人々は奥只見を離れ過疎化は深刻な局面をむかえている。このことは奥只見に限った話ではない。このまま市場主義を貫徹すれば、奥只見をはじめとする日本の多くの地方を根こそぎにしてしまうだろう。
 奥会津の過去を問うことは、実は私たちの今までの生き方を問うことである。奥会津の未来を問うことは私たちのこれからの生き方を問うことである。私たちはこれまで何を選び何を捨ててきたのか。私たちはこれから何をたいせつなものとして守らなければならないのだろうか。
 今回の「エチカ福島」は、佐藤弥右衛門氏と山内明美氏をお招きし、それぞれ「電力の自立と地方の自立」「地域自治と福島の発電史」と題したお話をうかがう。



C220dのワゴン(2019年型)に乗った。

2019年10月04日 10時03分17秒 | クルマ
C220dセダンの納車から一ヶ月で約2,800km乗った。
だんだん手に馴染んでたところ。
唯、一週間したころから、ダッシュボードが細かく振動する音が時々するようになり、見てもらうのに代車を待っていた。

昨日検査・修理のために工場に入れ、代車に乗っているのだが、それが同じC220dのワゴンである。
おもしろいことに、乗り味が少し違う。ワゴン車の方が少し重いのだろうに、むしろ軽快さを感じるのだ。
それがどう違うのか、自分のセダンが戻ったら改めて確かめてみたい。

もう一つ気になったのは、AMGラインだから同じエアサスだろうと思うのだが、地面から受ける感触が明らかにこのワゴンの方がはっきりしている。ゴツゴツした、というほどではないのたが、細かいところを伝えてくる。セダンの方が穏やかだ(ルーズといえばいいのかどうかは分からない)。素人の私でも分かるぐらい明らかに違う。エアサスじゃない、のなら分かるが……。
と思って降りてから確かめると、タイヤのメーカーが違っていた。

私のセダンは
ブリジストンのポテンザ、
このワゴンは
continentalのエココンタクト6
である。

タイヤの性能や特性がよく分からないから何ともいえないが、乗り心地に与えるタイヤの影響はかなり大きいのかもしれないと改めて思った。

ちなみに、買い手は新車のタイヤのメーカーを選ぶことができないらしい。
それもどうかと思うが。

以前、友人のgolfの乗り味に感嘆したことがあった。ところが、その後いつの間にか「ふつうのクルマ」になっていてびっくりしたところ、パンクしたため、田舎でとりあえずあるものを間に合わせで買ったらしい。

それ以来タイヤを気にするようになったのだが、この違いは車体からくるのか、タイヤなのか、ちょっと興味深いところだ。 

ちなみにこの代車のワゴン、サンルーフ仕様でもある。軽快な感じ、という印象には、車体剛性の影響もあるのかな?

メーカー同じ種類の、別の仕様のクルマを乗るというのは意外におもしろいものだと思った。
個体差であるとしたら、それも興味深い(^_^)
自分の車が戻ってきたらまた確かめてみようと思う。

追記。
自分のクルマ(C220dセダン)と改めて比較すると、コールドスタート時のアイドリングの時、新しいワゴンは明らかに小さいと感じる。私のセダンは明らかにカラカラ音が室内でも聞こえます。

これは改良されているのかなあ。

暖まると、そんなに大きな違いは感じないのですが。

また、エンジンのふけ上がりについても、新しいワゴンの方が軽快に回る印象です。それが「軽さ」の印象と繋がっているのかも。
基本的に同じクルマなだけに。比較するのはおもしろいけれど、何が決定的に違うのか、となると、素人には分からないことも多いですね。



ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引書』がスゴい。

2019年10月04日 08時44分22秒 | 今日の日記
今朝から
ルシア・ベルリンのアンソロジー
『掃除婦のための手引書』
を読み始めた。
まだ2編しか読んでいないが、既にその世界に引き込まれている。
乏しい経験しかないのだが、アメリカの短編は、なんだかよむのが難しいということがある。
かかれている立場や状況や時代が分からないからなのか、描き方に慣れていないからなのか、何かもどかしい感じが残ったりする。アメリカじゃなくてもそれは同じなのだろうが、しかし、短編についてはアメリカのものが要警戒、、そんな印象があった。

しかし、ルシア・ベルリンの小説は違う。
分かる分からないではなく、刺さってくる。
リディア・デイヴィスの序文では「むき出しの電線のように」と表現されている。
そう、それは分かるのではなく、皮膚の表面が痛む、のだ。
「痛い小説」というのとは少し違う。もっと表面的だ。つまり表現的だ。むしろだからこそ、その向こう側の「深さ」を味わいたくなる。

そして、
『物語こそがすべて』
というこのアンソロジーの元の本の題名から、ルシア・ベルリンの「物語」の意味について考えてみたくなる。

「トニーは目を開けなかった。他人の苦しみがよくわかるなどと言う人間はみんな阿呆だからだ」P13

そう言うことだ。

おすすめです。その「痛み」、その「帯電」を知るすべての「大人」に強くお勧めします。

『オープンダイアローグがひらく精神医療』が面白い

2019年10月02日 08時10分45秒 | 評論
斎藤環の『オープンダイアローグがひらく精神医療』を読み始めた。
自分にとって重要な本になる、という感触がある。
つまり、全く「終わコン」として扱われている印象すらある?ポストモダン的なスタンスを、開かれた対話として拾い直せる可能性を感じる、ということでもある。
一体何を言っているのか、という話だが、「あの」斎藤環がオープンダイアローグ(OD)に入れ込んでいるというだけでも興味深い(偉そうですいません。そうじゃなくてね)。

自由は余白にある、のだとしたら、枠組みと同時に余白が確保されねばならない、、しかし、余白は予め固定化され用意されているものではなく、そこに見いだされるものだろう。そしてしかるべきプロセスを経て消えて行くものでもあるかもしれない。
べてるの家の「当事者研究」の時もびっくりだったし、『中動態の世界』も衝撃だったが、この本も刺激的だ。

いろいろと楽しみな本だ。