龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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福島から発信するということ(20)

2011年07月21日 23時38分57秒 | 大震災の中で
こんな環境の中で、こんな状況の中で、こんな国の状態の中で、それでもその中で生きていくことを考えるとき、いくつかの水準というか次元を考えることが可能でもあり必要でもあろう。

一つは、「逃げろ!」と「教えてくれる」処世術の水準だ。ライフスタイルの問題、といってもいいだろうか。

二つ目は垂直統合型の現行日本社会システムの限界を論じる社会システムの水準。

三つ目は、存在論的水準、哲学の問題だ。

一つ目は、瀬戸内寂聴とか、内田樹とかの話を聞いているときに感じるレベルのことである。なるほどね、とは思うが、その身体論や自然論、宗教論の「わかりやすさ」はちょっとどうだろうと眉唾になる。
分かりやすくないことに吸い寄せられるのは病気かもしれないけどね。
でも、別に病気を治したいわけじゃないし(苦笑)。どう生きるか、なんて大した問題じゃないとも思うし。年を取ったら解決しちゃうレベルじゃないかな、処世術なんて、と思う。むしろ、こういう「解脱系」とは距離をとっておきたいです。

二つ目は宮台真司などに代表される「社会学」的視点ですね。サンデル的政治哲学もここらあたりにプロットされそうである。これは話を聞いていると「ふむふむ」と説得させられてしまう。まあ、説得したがる自分と、説得させられたがる自分の擬似対話があるから、そこに魅せられるし、「政治」とかを「立場」で論じてくれるから、自分にない「世界」を解説してもらう心地よさもある。
でも、これは「立場」が複雑多岐にわたってくると、説明のための説明になったり、説明の上に説明を重ねたり、留保がたくさんあったり、手数を無数に打たなくちゃいけなくなりそうで、お付き合いしきれないのが実情かと。

三つ目は國分-萱野対談に代表されるスピノザ論みたいな世界。今はここがホームグラウンドのにおいを感じています。たとえばフーコーでもドゥルーズでもいいのだけれど、なんとか「今」「ここ」と「世界」を繋げようと歩みを続けて行くその思考の膂力というか、粘り強いパフォーマンスがお気に入り。

「今」が、おおもとから考えなおさねばならない時だと感じているってことなんだろうねえ。

でも、哲学イメージというか、いわゆる空中戦というか地底大戦争みたいにそこだけしているわけにもいかないご時世。
哲学が地面に降り立って対話を始めたらどうなる?ってところがあって、それは少なからず対話的というかポリフォニックな演劇性も宿してくるのだろうなあ、とも。

一つの声の中にも、実はいくつも声が響いている。

哲学ってそういうところが色っぽいし、現代的、でもあると思うんだなあ。
意味不明ですかねぇ。



大震災の後で(18)

2011年07月21日 22時53分09秒 | 大震災の中で
オーギュスタン・ベルクの講演を聴いていて、印象的なフレーズがいくつかあった。
同時通訳のレジュメなしだから、勘違いも多いかも知れないけれど、和辻哲郎の『風土』は環境決定論ではない、という指摘した上でドイツ哲学の影響に触れつつ、ハイデガーが死から「生」を逆照射して存在論を考えたことを、ハイデガーの誤りだとさらっと言ってのけたところに今は注目してみたい。

和辻は決して環境決定論を述べたわけではなく、「人間存在の構造契機」として、主体と環境の相互的な関係を追求したのだ、とベルグ氏は言う。
このとき、主体というのはむしろ外に出て行く働きとして捉え得る。
生態的な環境に向かって外に出て行く主体。
自分が自分でなくなる「間」を生きること、といってもいいのかもしれない。

この環境と主体の関わりにおいては、動物的・生物的次元と、文化的・言語的・象徴的次元とを区別しつつ論じていくんですけどね。
そちらについてはメディア日記を参照のこと。

存在/存在者、死/生という絶対的な「差異」に根ざして存在を突き詰めていく行為は、むしろ縮減した「郷土」や「共同体論」に統合・還元されてしまうのではないか。
主体から「外へ」出て環境との間に「生」を見いだすエコロジカルな相互横断性を見失ってしまうのではないか、というベルク氏の視点は、じっくり検討するに値するものだと感じる。

和辻哲郎の『風土』が本当に、ベルク氏のいうメディエンスという中間的存在を明確に指し示しているのかどうか、はもう一度『風土』を読み直さないとなんとも言えませんが。

それはそれとして、ベルグ氏の言いたいことは腑に落ちます。

だって、この庭は、どこを掬おうにも、どこをとってもセシウム137で一杯なのだ、から。

そういう「環境」の中で「生」を考えていくと、人間の営みは実にベルク氏のいうメディエンスという概念で考えなければ十全に捉えられないことが見えてくる。

セシウム137は、ある意味では福島県の環境における「負」の絶対性を指し示している。

それはぎりぎりまで人為を無理に推し進めていった結果、自然がその人為の裂け目に顔を出した、その事象の直接的結果だ。そういう意味で、セシウム137は人為が破けた裂け目としての「自然」=絶対=「神の痕跡」ということもできるかもしれない。

まさか放射能を神様とあがめるわけにもいかないけどさ(苦笑)。

それでも、私達は目に見えない、触れないその「人為=自然」の結果と、これから少なくても30年以上付き合っていかねばならないのだ。技術的には除染とか、部分的に対応はできるにしても、私達は単なる科学的主体としてそのセシウム137の影響を完全に排除しきるわけにはいかない。

かといって、それをなかったことにして3/11以前の生活をすることもできないだろう。

私達は、宿命的にメディエンスという中間性=関係性、つまり「構造契機」を生きる存在だ、ということか。



大震災以後を生きる(17)

2011年07月21日 20時50分40秒 | 大震災の中で
先ほどのNHKクローズアップ現代で
「市民ファンドによる復興支援」
が取り上げられていた。

http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3076

こういう「共同性」への取り組みは、是非ともどんどん立ち上げてほしい、と思った。

国の支援とか、義援金の配分とか、銀行の貸し付けとか、この国の「平時」のシステムに頼っていては、より少なくより遅くより劣悪な情報や環境しか手にすることができない。しょせん後追いに止まるだろう。

当然、細かいファンドが林立してくれば、その審査が甘くなったりもし、壊滅企業を無理矢理立ち上げて再度潰すなんてヤクザなヒトが裏で糸を引く場合だって考えられる。
ファンド自体の信頼性だって素人にはなかなか分からないから、あやしい「市民ファンド」もどきも跳梁跋扈しはじめたりもするのかもしれない。
そういう市民ファンド自体の「信用」を目利きしなきゃらない事態だってたやすく想定できる。

でもね。

たとえば大手の某村証券が500億の災害支援ファンド(証券会社の手数料半分を寄付、とか)の計画を打ち上げた、なんて話に乗るよりは、ずっと市民ファンドの方がいいと思う。

なにしろ「顔が見える」のがいい。

現物配給、とか、工場見学とか、地方合コンなんて出資者還元も楽しい。
ブログで出資した会社の社長の頑張りが見られたら、それだけで出資の半分ぐらいの「価値」はあるってものだ。

福島県民としては、原発事故で移転を余儀なくされるかもしれない企業に対する支援ファンドが立ち上がったら、真っ先に投資したいと思う。
あるいは、風評被害に苦しむ企業の「移転」や「退避」支援もいい。
福島の桃や梨やリンゴ農家をなんとか支援できる手だてがないものか、とも思う。
自分でやればいいのかしら。そういう動きがどんどん広がっていくことを切に願う。
それは半分は苦しんでいる小さい規模の銀行融資さえ厳しい企業家にとってばかりではなく、小口の個人投資家にとっても大きなプラスになるからだ。
助けを求める企業だからこそ、こちらも小口の投資であっても、気持ちが通じるのではないか、と思える。

企業成長による利潤追求が目的ではではなく、お金を介在させるからこそ持続的な支援と復興の「共同体」がそこに立ち上がり、継続的な関係を構築していける、そういう可能性が感じられるのだ。

義援金や援助も大事だが、それよりも「可能性」を感じるお話だった。
善意の素人出資が増えてくれば、それを狙うブラックファンドも出てくるのではないか、というのは心配だ。
だが、そんなことは予想できないことでもないし、ブラックばかりがはびこらないようにしていく仕組みだって、ネットならけっこう可能なんじゃないか。

市民ファンドの信用度だって、透明性の高く素早い情報が流通可能だろう。
そんなことも含めて、期待したいなあ。
とにかく投資したくなるもん。
お金を出したくなるもん。
賢い人たち、熱意のある人たち、どうかこういう動きを育てていってください。
応援するよ。なにせ福島は30年ぐらい廃炉まで震災後を生きて行かなくちゃならないんだから、継続的に支援するシステムを、国の税金以外で回す可能性を探る必要が絶対あるものね。
「共同体」を構築する可能性、としても期待したいです。

新しい可能性があるってことは、問題点とかもきっとあるのだろうから、この件は継続ウォッチ、ですね。