龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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ダイエットの踊り場

2010年09月25日 11時55分52秒 | インポート
体重が減らなくなった。

今回は主としてカロリーコントロールで減らしてきたのだが、いよいよ堅固な踊場にさしかかったらしい。
4月当初の75キロ→67.5キロへ。
7キロ強減ったことになる。ここまでは比較的無理のない感じで順調に推移してきた。

しかし、ここ一週間というもの、体重が一向に減らなくなった。こんなことはダイエット開始後初めてである。

平たくいうと、もうダイエットはしていないということか?

参ったなあ。

知らず知らずのうちにカロリー摂取が増えているのか、それとも、これ以上体重を落とすには更なる低カロリーの食事が必要なのか。

たぶん、ここから先は食べ物だけのコントロールではなく、運動が必須になるのだろう。
カロリー制限だけで全てをコントロールするのは無理なんだろうねえ。

さてしかし、運動とかする心の余裕は今のところありません。もう少しカロリー摂取をシビアにして(正直最近管理が甘かったかも)頑張ってみようと思う。

なんとか65キロ台に持って行きたいんですよねえ。

つまりは最近のピークから10キロ減。

ダイエットによってアイデンティティを保とうとする依存、にはまだ陥っていないと思いたいのだが……(苦笑)

来月あたりは踊り場を越せるのか、リバウンドが始まるのか、結果が明らかになるかも、です。




それでも教育から経済を考える(6)

2010年09月18日 10時17分21秒 | インポート
教員の給料が下がっても、むしろ理想が自由に追えたりケツをまくりやすくなるならいいじゃないか的なことをかいたら、メールがあった。
そういう上品なことだけいっては話の半分にしかならないという指摘だ。
以下引用開始--------

僕は教育と教員対生徒の関係は特殊な領域だし関係だと思います。
こんなこと一般社会じゃ通用しないよとどんなに毒づかれようが その通り(特殊)ですと答えたい。
アーレントが言うように私的領域から市民的領域に移行する際に学びが絶対に必要で、現代においていくら衰えたとはいえ学びの公共空間として残されているのは学校空間です。諏訪哲二や樹ちゃんじゃないが、そこは市場的消費空間にしてはいけない。
ブログでの(foxydogの)発言は教員として上品な発言だと思いますが、教員の身分と給料は保証されなければならないとおもいます。僕らは現代システムの中にさらされつつ学校空間において名誉ある?地位を占めなければ生徒の学びの質は保証できないから。つまり僕らがお金に困ることなく本を買い勉強し生徒が憧れるくらいに知的で素敵な人間であるために必要な投資はされるべきだ。

引用終了------------

ほぼ同意、です。

ただ応答しておきたいのは、アーレントに言及した部分と内田樹や諏訪哲二の名前に係わるところ。

「私的領域から市民的領域に移行」

するというのだけれど、今私の考える「教育で行いたいこと」っていうのは、公共的な場所に「だだ漏れ」私的なものがひたすらあふれている、それを本来的に「私的なもの」として扱うための、前提としての公共的空間の確保、みたいなことなんですね。彼らを「市民」に仕立て上げることには心底熱心になる、というわけにはいきません。
私的は私的でいいから、「接して漏らさず」行こうよということです。

メールの指摘は、敢えてする啓蒙の方向だとすれば、私がやりたいのは不可能な啓蒙の方向かもしれません。

いずれにせよ啓蒙せずには教育は語れない。

だからその限りにおいては、内田や諏訪は「正しい」と思う。

諏訪や内田の言うとおり、今の児童や生徒、学生は、徹底的に市民消費社会の主体として既に形成されてしまっている。
だから、「敢えてする啓蒙」という暴力的装置によってその「だだ漏れ」状態の消費主体を食い止め、個人=「市民」として振舞い得るよう、既に書き込まれてしまった背中の書き込み(市民消費社会の主体としての「聖痕」)をリライトしてやらなければ……。

そうなんだけどね。

ただ、アーレントの「複数性」についての身振りでもいいし、柄谷行人の「命がけの跳躍」でもいいし、小室直樹の「擬制的共同体としての学校」論でもいいのだけれど、これほどにうさんくさい教育だからこそ、敢えてする権威主義を「動物的」身体に還元して称揚してしまうのではなく、うさんくさいならもっとうさんくさい縦軸としての「宗教的」なところまでいって、乞食坊主の快楽主義的な提示を、個人的にはしたいのです。

つまり通じない身振りによってしか、啓蒙は正当化されないっていう……。
それって神様のいない「否定神学」ネイティブな50代前半んだけの病気かしら(苦笑)。
でもさ、「啓蒙」とか「共同体」とか「国家」とか、市民消費社会の=経済主体は、それだけで成立しているわけではなく、経済外的現実と繋がった「存在」としてもあるわけで、学校は明治の近代化開始から120年続いた(たかだかともいえるし、よくもともいえるが)シャドウワークの「装置」だかんねえ。

民営化すればそれでいいってわけにはいかないポイントの一つがここにもある。ような気がする。
「新自由主義」的な市場原理主義なんて、そういう意味では均質化というフィクションを無前提な前提としたナショナリズムと同様、「たちの悪い」半分だけの土俵にすぎないでしょう。
まあ、「リベラル」の閉じた「正しさ」もまた同様に薄気味悪いことが見えてきてしまっているけれど。


しかし、身体(論)を伴った処世術や、正義(論)を伴った共同体主義に身を委ねる愚かさを、それらを論じるものたちでさえ、本当には求めていないとするならば(それはヒトがよすぎますか?あるいは趣味が悪すぎますか?)、「保守的」に「近代」でありつづけることも「啓蒙」として必要なんだろうな、とも思う瞬間があります。

ともあれ、教育は、そろばん勘定には乗らない部分があって、そういう「ドブ」に金を捨てるような「無駄」をどう「コスト」に乗せるのか乗せないのか、ってところが典型的に現れてくるよねえ。

それは小さい視点では感情サービス労働全般の問題でもあり、「社会規範(共有すべき知識や身振り、ルールを叩き込むという意味ではしつけも知識も、ある種の想像力の形だって創造性のフレームだって<規範>です)」の内面化という「強制」的な他方近代化以来の「国家」としての社会システムの問題でもあるし、「啓蒙的」であるとはどういうことか、「教育とは何か」という経済的な営みがここまで拡大される以前から問われていた問い、でもある。

だからさあ、経済について考えることは、教育公務員である私にとって、同時に「経済的」でないこととは何か、と考えることでもあるのです。

それは「経済」と「教育」や「啓蒙」が切り分け可能だって話じゃあもちろんなくて、境界線を妄想することによってその近傍に立ち現れる幽霊に瞳を凝らすことによってしか、実は私たちは経済についてであれ教育についてであれ、多少なりと原理や本質について語ることができないのではないか、という表象をめぐる力と形のせめぎ合いの話だ。

収拾がさらにつかなくなりつつ、なおもこの項は続きます。


生きることのうちに潜むズレの感覚のこと

2010年09月11日 15時31分58秒 | インポート
若い頃は、体が動かなくなることなど想像もしなかった。いや、怪我をしたり病気になったりしたことはある。そうではなく、なんでもないのに動かなくなっていく、ということが想像できなかった。
つまりは「老い」に対する想像力が働かなかったのだ。

最近、病院にいっても年相応ですから、といわれて少々ムッとする経験が増えてきた。
50代前半だからまだ冗談半分で話題にしているが、次第にこれは冗談ごとでなくなっていくんだろうな、とこれは目の前のことの地続きとして想像できる。そして終いに命を終えるとき、「十分年相応の最後」だったと言われるのは、普通に考えれば満足な老後、ということになるのだろうか。
しかし、そのストーリーはやっぱりいささか他人事の匂いがする。本人にとっては「年相応のさいご」なんてそうそうその辺にころがっている「当たり前」じゃないだろう。
強欲にもっともっと長生きしたい、という我欲について書いているのではない。今日と違う明日があって、しかもその今日と明日をつなぐのはこの「私」の中の「連続性」をもった自意識以外にない以上、その連続を断ち切るような一見客観的な言説は、ちっとも「当たり前」ではない、ということがいいたいだけだ。
そんな「自意識」の装われた連続など、ふっとある日突然終ってしまうものだし、それを嫌がる積極的な理由があるわけではない。ヒトの精神的な死というものはきっとその「私」の連続性の終焉であるのだろう。わからないけど。
ただ、じゃあ、それを「私」自身がどこで見切りをつけるというのか、っていうことである。そんな見切りや諦めは早とちりして自分でお墓のじゅんびをするようにするものじゃあないだろう。
死ぬまで生きる。
いまを超えて明日までは生きる。この一瞬を超えて、その次もまたこの「私」は時を超えていく。
その決して当たり前ではない不連続の連続ジャンプを、私たちは物心ついたころから続けてきたはずだ。

たしかにそのズレだけにこだわるのもどうかとは思う。私たちが幸せを感じるのは、その今の自分と過去の自分とのズレ、今の自分と未来の自分ととのズレを意識の表面から押しやってしまうような「持続」の充実感なのだから。

映画に飽きて腕時計ばかり見るような人生はそりゃあたしかにつまらないものね(笑)。

とはいっても、夢中な持続ばかりを並べてすませようというのは、日常をお祭りの屋台で埋め尽くそうという無茶にも似ている。

コンビニエンスストアやレンタルストア、いやTVの高輝度画面の無意味な明るさだって、お祭りの光の成れの果ての一種なのかもしれない。

お墓のカビ臭い静けさに少しづつ慣れていくことも必要な身振りではあるのだろうか。

身体を伴って生きるココロが、この世界像の中ので開かれたものであり続けるためには、どんなことが必要なのだろうか。
とりあえずこの年になってなおも小説を読むことに意味があるとしたら、そういうことについて考えを巡らし、自分のココロと身体を泳がせてみる場所を探すことにおいて、なのかもしれない。

高橋源一郎の『「悪」と戦う』河出書房新社を読み始めて、そんなことを感じた。
高橋源一郎というのは、読むモノを上手に不安に陥れる名人みたいなヒトですねぇ。
今日中に読み終われるかしら……。なんだかぞわぞわする小説です。



それでも教育についてではなく経済について考える(5)

2010年09月11日 13時55分34秒 | インポート
いかん、自分のそれなりにわかっているフィールドだと、経済について考えるようことがついつい後回しになってしまう。

いいたいのは結局こういうことだ。
公務員、なかでも教育公務員なんてものは、シャドーワークが主であって、元々ソロバンに乗らないものが多い、と考えられがちだった。

平等性について考えていたら、効率がわるくなっても それは当然じゃないか、コスト意識が希薄になっても法律はやぶってないからねっ!

みたいなことを公務員は心の底で念仏のように唱えている(少なくてもそういう同僚はかつて多くいた)。与えられた仕事を、正確にこなす。自分で勝手に判断しない。集団のコンセンサスと斉一性、規範性が重要、みたいなね。

そういう意味で公務員の仕事自体は、確かに一般的な効率性収益性のソロバンには乗らないことも多い。
しかし、まだ俸給生活者がごく少数の「書生(=官僚予備軍)」階級のものであって、その「書生力」を近代化に生かしていた時代はもうとうの昔に終わってしまった。今日日、そんな程度のお役人ぐらいの事務的手さばきの多くは、誰でもいつでも情報化・機械化して済ませられてしまう。
戸籍の不整合が今喧しく言われているけれど、これだって世界に冠たる国民把握システムだったわけで。
ただ、これからあのシステムをこのまま続けていっていいのか、ってのはまた別の問題。
じゃあどうするか、となったときに、経済的な効率性流通性を無視してはいられない。

そもそも、「国民」が全員、おーんなじ法律のお約束においておーんなじ内容の知識や技術を、おーんなじマニュアルの範囲で、
専門職の教員だけがこうも圧倒的多数な公教育の文脈のなかで、内容の平等性にばかり気を遣って子供達に与えなければならない「今」の必然性は、どれだけあるのだろうか。

こどもの世話をするだけなら給料は低くていい。
生産性の高い、良質のサービスを提供する専門家には、それ相応のプラグマティックな尊敬と経済的評価があっていいだろう。

だが、いわゆる「経済界」の要求とかいったいまは「コンピュータ」だ、いまは「英語」だとかいった内容・情報の流動は、教育の根幹とはあまり関係のない、そのときどきに変化すればいいものだろう。
カリキュラムはそういうレベルとは別の理念を同時にもつ二重化されたものであっていい。

どんな人間を、誰が求めるのか。
コンセンサスを必要としているのは、繰り返すが内容ではなく人間観だ。どういう「力」をもった人間をを求めていくのか。
100年続くのか200年続くのかわからないけれど、すくなくても5年や10年程度のスパンではなく、教育の専門性を考えていく人間力の側面と、2、3年後、いや今必要な流通すべき「人材」の側面とを、きちんと教育の現場のシステムも多層化をすべきだろう。
ゲストティーチャーやプレゼンテーション、出前授業とかいった単発コラボの蓄積も大切だろうし、社会の中でもっと流動的に「教育」以外を知っている人がどんどん校長にでも教師にでもなって、子供達の教室も安易な均質化を拒むものであってほしい。

給料は低くていいから、好きなことができる、みたいな。
お役人は、今ほど「公共性」の専門家たるべきことを期待されている時はないと思う。
だって、公の専門家、のはずだもんね。
その「公共性」が問いなおされている時に、既存の仕組みにしがみついているような人たちには、引導を渡すベキ時きが近付いているのではないか。
繰り返すが、それはうまい汁を吸いやがってとかいうルサンチマンによって給料を減らす、ということではない。国としてある程度標準化しなければならない教育の宿命を踏まえた上で、どこまで自由を教育に導入できるか、が大事なのだ。

そのためには、高給にしがみつく高齢者ではなく、薄給でも安心して自由に動きたい、という若者を大量に導入できるか、どうか、が大切だと思う。
そのうえで、その新しさ、流動する情報群を、どうコーディネートしていくか、というプロデュースが可能な専門職を少数育てていけるかどうか。

教員全部の質を高める必要なんてないに決まっているではないか。高めるということを先に設定すると、均質性がすぐ全面に出てくる。
何をどこまで均質化するのか、ということを最低限お世話係として子育てするのは失業対策(ベビーシッター的)として必要なことだけれど、その延長線上に日本の教育とか、書生っぽうの人生観が成立していくとしたら、その貧弱さこそが恐怖ではないのか?

官僚=書生っぽうの使い方たを考える、ということは、頭を使って生きていく人間像を必要とする教育の理念と分離しては考えられないような気がするのだ。
古来、教育は官僚か神官のためのものだったんだし。

神様の話は一見経済についてかんがえる、とはまったく別のことのようにも見えるけれど、
経済=神様=権力=教育
って、見かけより近いのかもしれない、ということでもうすこしグダグダ書いて見ます。





経済について考える(4)

2010年09月11日 12時18分45秒 | インポート
経済について考える(4)

公務員の雇用について、もう少し考えてみる。なにせ自分の懐の話だから本気度が増すし、
同時に、末端の状況においてはよく分かっている面もあるから。

まあ結論は例によってまともな政策提案というより妄想に近い話になるのかもしらんが。

さて、前回は公務員給与三割減と、臨時雇い枠の一般化を論じた。

そこで問題なのは、後者だ。

たとえば、私の勤務する高校の講師枠の場合、3月31日が空白の一日になっていて、雇用の継続をせずに一旦退職し、また改めて次の一年の契約を結ぶ仕組みになっている。
これは明らかに、本来的には正規採用が基本 大勢で、講師枠は本当の臨時枠、という位置づけだ。
ところが現状は、県予算の減少などの理由から、恒常的連続的に同一人物を講師枠として雇用し続けている。
継続的に同一人物に業務を任せておいて、片方は正規雇用、もう一方は来年をも知れぬ臨時雇い、という状態が続いているのは、民間でさえ不合理だが、良くも悪くも「公正」で「平等」たるべき
公務員の現場で、国や自治体が雇用対象者に対すべき処遇としては「不平等」「不公平」と言わざるをえない。
しかし、分限として不適当な人員配置と認められる不適切教員も生首を切ることができず、年功序列賃金によって高くなった高齢の現役賃金を大幅カットすることもかなわず、結果として若い前途有為の青年たちを食い物にして組織改革を先延ばしにしているのが現状だろう。

高校では必ずしも普通ではないが、義務教育では一年契約の講師でも授業は当然として校務も分担し、担任もこなし、部活動の指導もしている。
現状年収300万以下でそれをこなしているわけだ。
他方、退職直前の正規雇用たる教諭は、運動部の顧問などはせず、それ以外は決定的な職務内容の違いもないのに、その約2.5倍の給与を得ている。
これは、正直な話、現状に問題がない、という方が無理というものだ。

むろん、学校の業務の中にも、管理的業務もあれば人事的業務もあるし、経営的な業務もあるし、専門業務も当然ある。

授業と部活動は子供の頃から馴染んだ世界だから、授業者や競技のコーチになってもやりながら育っていくことは可能だ。

他方、事務的な仕事や人材業務(人材登用・
配置・教育・評価)、経営などは年収300万円アンダーのぽっと出にはそりゃあ難しいだろう。

マネージャーと専門職をそろそろ分けて考えて育てる必要が出てきていると私は思うのだ。
早わかりてきにいうと、

1、素材・情報としての社会への窓口・サンプルとしての大人
2、専門職としての教師
3、学校内の管理・運営
4、理念、目標の創出と実現のためのマネージメント

学校というのは、その仕事があまりにどんぶり勘定すぎたのではないか。

国家とか企業とか学校が「擬制的共同体」として機能していた時代はとっくの昔に終わった

というのは、先日亡くなった小室直樹から教わったことだが。

単なる子供のお世話係なら300万円アンダーで十分なのだ。
だって、子供も失業者みたいなものだし、その世話をするだけなら失業対策事業みたいなものだから。

だいたい、日本の公的教育機関、とくに小中高校では、学校ごとの特色とかいっても、結局のところ受け入れた顧客をそこそこ「教育」して卒業させ、資格を与える以上のことができているとは思えない。
仕事をまだ与えられない子供たちに、社会人としてお金を稼ぐのを潔しとしない(もしくは社会的経済活動になじまないシャドウワークタイプの)大人たちがお世話係としてあてがわれているようなものではないか。

学校経営というのは、所属長の話を聞いていると、
1に問題を起こすな
2にその大波を立てない程度の範囲で成果をめざせ
3に管理職は法令遵守の徹底文書を出すのだから、結果の責任を自分たちは背負わない

というように聞こえてしまう。私の耳があまりよろしくない、ということは十分にかんがえられるのだけれども。


さて、教育に限らず公務員の仕事には、法令遵守と平等性公平性が優先され、社会的に評価のさだまったことをある種保守的に継続するであるという傾向が見られる。
前例主義というと、無責任体制の典型と見られるし、その批判は当たってもいるのだが、それは公務員のような「無謬性」を前提として誰も責任は取らない(責任を取る、ということは公務員の場合120%失敗したという意味だ)のが基本という土壌を改めない限り、改善が不可能なことだと、内部にいて思う。

驚くべきことかも知れないが、公務員は、基本的にどんなに偉い人であっても、誰一人「責任」なんてとってこなかった。
責任をとらされることはいくらでもあっただろう。あたかも不幸な交通事故ででもあるかのように。

つまり、公務員はじっとしていればいい。

「公務員は、仕事をしなければしないほど実質時給が上がる」
というセリフがある。
午後5時退勤の奴らがいなくなったあとで、無限地獄の中でサービス残業をする教師たちの自嘲めいたジョークだ。

無能である評価を恐れさえしなければ、公務員は天国である。だって、仕事をして責任をとらされることはあっても、自分で仕事の枠組を決めて、それ以外をやらなかったからといって、不作為の責任をとらされる、なんてことは、超例外の不運に属する出来事なのだから。

さて、他方、仕事をする公務員は、無能(あるいは無能のフリ)をして仕事をしないやからに比べればずっとマシだ。
だが、これも表立って法律に触れなければ止めるものがない。
えらくなるかどうかはまた別の話で、仕事の実権を握ってしまえば、面倒を嫌う公務員はそいつに仕事を任せて手を引く。

そうやってノンキャリアの「ドン」どこにでもはびこっていくだろう。

他方、そうやって仕事熱心で偏ったやり方をしている「ドン」たちに対して、無能or無能のフリをする同僚はとりあえず便利に頼り、上司もまた適当にあしらってつかっている。
そして言ったん問題が起こって都合がわるくなると、ハシゴをはずして顔をしかめてみせればよいのだ。

キャリアがステイタスになるほどのお役所は知らず知らず、別に給料が校長だってヒラの倍ももらわない中では、管理職になる意味もないし、好きでなければ仕事場の「ドン」なんぞにならなくてもいい。

余計な縄張り変更さえしなければ、定型業務を何十年でもやっていればいいのだ……。


そんな現状は、私が見聞きしてきた30年の狭い世界だけだろうか。

そういう人たちが、初任給300万~最終1000万未満の狭い世界の中で、誰一人責任を取らないで40年近くいるのである。


おかしくならないほうがおかしい(笑)。

さてでは、やはり可能な限り民営化すべきなのだろうか。

私は上記の絶望的閉塞状況を少しでも動かすためには、「民営化」の方向を考慮すべきだと思う。
私立学校が公務員的問題と無縁だ、なんて思っているわけではない。
もちろん、日本人による日本における教育は、民営だろうか官営だろうが、上記のような問題を多かれ少なかれ抱えていると思う。
「民間」だって十分に「官僚的」だったりするもんね。

理念っとして大切なのは、自分を伸ばす機会に対して、生徒が十分に開かれていることだと思う。
意欲と可能性がある生徒には、高価で良質なチャンスが与えられるべきだし、それは死ぬまで生きるかぎり何度でも(自分で選びなおすコストは払う必要があるが)あっていい。

「機会平等性」の徹底には、実はそんなに教育コストはかからないとわたしは思う。
そして教師の給料なんてそんなに高くなくていい。

むしろある程度低賃金でいいから、1年更新の講師なんて不安定さを強いて就職試験の勉強ばかりさせるのではなく、

1、新しい提案や情報をどれだけ提供できるのか。
2、自分を育てる意欲と方法を血肉として身につけさせる
3、社会的要請と個人的なありように、どう折り合いをつけるか
4、公共的基盤に根ざした心とからだの居場所の確保法を提供すること

そういうことを実現するために、さまざまな大人が出入りして社会の風を今の20倍30倍も学校に入れる手立てを考えるようであってほしい。
つまり、すべてが専門家ではなく、教師たちの何割かは流通する商品それ自体、交通する生きた情報源それ自体であっていいのではないか、ということだ。

学校教育を民営化するということは、安くて効率の良い点数を上げる方法を導入することではまったくない。

定型的な「教育」という枠の範囲の必要性を考え直すこと。
そして、社会の「今」と普遍的「哲学」がせめぎ合う公共的空間の基盤を提供することそれが大事なんじゃないかな。

だって、知識はネットのまわりもの、になっちゃったんだから。

これからは生身の人間をどんどん教育の現場で風通しよく「交通」「流通」させて行くことが大切になるんじゃない?どう考えても。


重要なのは、日本全国「教師」という得体の知れない擬似専門家だけに委ねない、ということなんじゃないだろうか。

たぶん、近代国家の基本としての学校教育、という理念があり、ナショナリズムによって国を支えようとしているうちは、そういう形の「民営化」は難しいのかもしれない。

しかし、どこかの誰かが「正しい」といったことを「教える」ような教育はもう、ダメだろう。

答えだけではなく新たな問いを作り出すこと。

正解ばっかりではなく、切り口や方法、アイディアを試しながらその火種を育てていける力。

実は、その火種自体を育てること自体は教師の仕事ではなく、もともと可能な人間自身の能力だと気付き、
自分を育てる力を育てるのが本当の専門家の仕事だと教師自身が気付き、大人も子度も育っていくような現場で教育が進行すること。

そういうことをするためには、そんなにお金は要らないのじゃないかしら。

貧乏でも、そういう教育はできる。教師の給料はそんなに高くしなくてもそういうことはできる。
与えられるもの品質なんて揃えなくてもいいのだ。

シャドウワークの経済外的評価と、
経済内的評価を取り違えずに、きちんと二重化できること。

お給料の話をしていると、そういう妄想がはつどうしてくるのはなぜだろうか。

とりあえず民営化の話をもう少し続けつつ、
実は公務員・官僚・その末端現場作業員としての教育っていうのは、どんな共同体におけるどんな権力行使=状況定義力が
伴うのか、について考えていきたい。








経済について考える(3)

2010年09月06日 23時23分45秒 | 社会
経済について考える(3) 

ちょっと横道にそれて、公務員給与水準の引き下げについて妄想してみる。

たとえば、今は公務員バッシングが盛んだ。
これは公務員以外の人はほぼ全員賛成する話題で、その図式自体はルサンチマンのはけ口みたいな道具になっている側面もあって、そのフレーム自体はいただけない、と思う。

私も末端の現場作業員とはいえ公務員の端くれだから、公務員の給与水準は民間より平均年ベースで200万円高い、という報道などを見ると、ああ明日から公務員の給与を200万円下げればいいのに、って、公務員以外のほとんどの人は思うんだろうなあ、とちょっと想像し、正直げんなりする。

資格のある専門職として30年やってきた経験からいって、とりあえず平均が違うんだから給与を200万円下げておけ、と言われて黙って引き下がるわけにも行かないしね。

しかし、そう突きつけられなければ、仕事をしてもしなくてもその平均水準の差はそのまま維持されていくこともまた、確かだ。

以前なら、人事院勧告は労働権の制限があったから、ほぼ「聖域」に近かった。しかし、今は労働組合が正規雇用の既得権益を守る硬直した団体、という文脈で捉えられているとするなら、その権利制限などという裏書きは、あってないも同然である。

ではいったい、公務員の正当な労働の評価は、どんな形でなされるべきなのだろうか。

池波正太郎は、「公務員なんてものは給料をたくさんもらったらダメなんだよ」と鬼平がらみのことでコメントしていた。

私も、自分の給与水準が下がるのは本当に困るけれど、公務員の給与を一斉に今の7割ぐらいにしてみるのは意外に面白いと思う。

そうなったら、仕事が好きじゃない奴はあきらかにあぶりだされてくるはずだ。
やっていられない、となって、有為な人材の半分は転職していくかもしれない。

残りは、圧倒的に力のない公務員のカスと、圧倒的に仕事が好きな公務員ヲタクが共存する、戦後すぐのデモシカ時代が擬似的に再現されるかもしれない。そしてそれは、必ずしも悪いことだけじゃない。
もしかすると、「給料も安いし、文句があるならいつでも辞めるよ」、っていうノリが、教育の「自由」の確保のためには大切かもしれない。
むしろ中途半端に安定した給料を取り払って、低いペイと高い志の方が、仕事は面白くなるのじゃないか。

その代わり、余計な仕事は一切なしで、勉強を教えることとか、生徒と遊ぶことに集中させてほしい。中途半端な100万200万を失う代わりに、好きな教育だけができるんだったら、安いものじゃないか……。

そんなことは、脳天気な無責任発言だろうか。

でもじゃあ、公務員たちは、自分の仕事がその給与水準で妥当だと、どうやったら証明できるだろう?
おそらく、それは無理な相談の部分が大きい。
公務員の仕事は、民間企業のようにはお金は稼げない。公共的な仕事はそろばんに乗らないことも多いからだ。

たぶんそれは現場の私たちによってではなく、きちんとした学問的裏付けのある公共事業学のシミュレーションによって判定されるべきことかもしれない。

だが、民間の企業とは違って、公務員は最初から「全体の奉仕者」という立場を職業として選んでいる。
公務員こそが、新しい「公共的なるもの」に対する敏感な精神を養って積極的に社会に向けて提案していくべきなのではないか?
たとえば教育にしても福祉にしても、手厚い市民サービスというのは、単なる一律のお仕着せでは本当に価値あるサービスにはならない。

といって、コストを上げては元も子もない。
アタマを使ってぎりぎり絞り出すように、他者が必要とするボールを投げることが公務員にどれだけできるか。

世迷い言も休み休み言え、と言われるだろうか。

ではだが、貧乏人の嫉妬を利用し、溜飲を下げるためだけの道具に公務員改革を利用するのでないならば、誰もが納得のいく公務員改革(霞ヶ関とかはどうでもいい。現場作業員の先端部分における公務員の硬直化をどうするのか)は、どんな形で行えばいいのか。


「シャドウワーク」(今時はそういう言い方ははやらないのかな?)を担うモノたちは、そんな「宗教的」ともいえる「公共的なるもの」を志向する他者への姿勢を持つべきだし、ポケットに入るお金の金額ではなく知恵を出していくことが快楽であっていいのだと思う。

公務員というのは本来、そういう「生き物」であっっていいのではないか?

それをやったら公務員も開き直れるし、市民もサービスの精選・厳選に納得がいくと思うなあ。

実は教育の現場なんかでは、超非正規雇用化(正採用の減少と講師採用の一般化)が進行していて、早晩それが現実になるんだけどね。
30人学級の実現ってことは、正規採用を止めて多くを非正規雇用にするってことだから。

スーパーは店長以外はパートかバイト、だけれど、学校も主任以外は基本講師っていう風になっていくのだろうね。
それでいい、とは言わないけれど、そういう形で時代の変化においついていく以外にないのだろうと思う。

地方の予算も今までのように教師の正採用ですべての学校をカバーするようなことは不可能だし。
仕事に希望が持てるなら、ペイの額なんて多少低くてもデフレ時代、しょうがないよ。

そう考えていくと、公務員なんて仕事をしている者は、民間の好景気なんかとは無縁な、書生っぽの貧乏暮らしがいいのかもしれない。金儲けがしたければ、企業に行くなり起業するなりすればいいわけで。


いやそんなものじゃあまだ甘い。
公務員なんて概念そのものをもっと小さく見積もって、ほぼ民間でやっていけばいい、という考え方もあるだろう。次回はそこをさらに妄想してみますか……。


経済について考える(2)

2010年09月06日 22時24分48秒 | 社会
経済について考える(2)
まず深く共感したことから。
小田嶋隆という人が「ア・ピース・オブ・警句」の8月27日号でこんなことを書いている。
深く納得してしまった。
引用開始-----------------------------------------------------------------------
 ところが、なぜなのか、経済の世界では、全員が表面的な議論をしているように見える。でなくても、それぞれの論客が、前提からしてまったく異なった基盤の上に立って論争を展開している。
 当然、議論は噛み合わず、各々の主張は、話せば話すほど乖離して行く。
 しかも、前回予測を外した学者が、まったく悪びれることなく次の予想を述べ立てているかと思えば、隣の席で別立ての提言を開陳している評論家は、先月とはまったく逆のことを言っていたりする。いったい彼らの眉の下の目は何を見ているんだ? 節穴なのか?

 こんなふうに経済に関する議論があやふやになるのは、そもそもそれが人間の活動を扱う研究分野だからだ。
 天体の運行やDNAの配列と違って、人間の欲望は法則に縛られない。むしろ、裏をかこうとする。でなくても、研究対象が自分のアタマで考える主体である以上、予測はほとんど不可能になる。当然だ。
引用終了-------------------------------------------------------------------------

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100826/215976/

「自分のアタマで考える主体」について考える、ということは、そのことによって考えられた「考え」もまた、対象たるべき「経済主体」によって「織り込み済み」のデータとして、当初の「自分のアタマで考える主体」にフィードバックされて影響を与えるということになるだろう。

つまり、「再帰的」な現象の内部的言説としてしか、経済政策の話は成立していない、ということだ。

私たちが経済についての学者や評論家の話の中に「真実」を探そうとするとなんだかとんでもない迷路に放り出されたような気がしてしまうのは、実は彼らは客観的分析者ではなく、大きな意味では言説プレイヤーの一人だからなのかもしれない、わけだ。

まあ、そうでなければ「借金するな」という主張と「借金してでも金を使え」という主張が同時に専門家の間でぬけぬけと語られるはずもないよね。

前提となっている「世界」についての理解も違えば、それぞれの学説や立場も違い、それぞれがそれぞれの「社会観」や「人間観」、「経済活動」の本質理解も違っていて、ほとんど別世界の話をしているようなものなのだろう。

私たち経済の素人はだから、たぶん、どの人の言うのが「正しい」のか、というナイーブな発想で彼らの「御説」を拝聴してはいけないのだ。
むろん、専門家の見識に一定の敬意を払うべきだ、ということに異論はない。
しかし、自然科学や、ことによったら文学に比べてさえ、現状打開についての「経済学的言説」は、何か一つの偏った説だけを「真実」として受け止めたりしては危うい、という感じがしだいにしてくる。

まあこれは経済学的理解、というよりは社会学的言説理解、に過ぎないのだけれどね。
どこの分野でも、起こったことの分析はできても、学者に未来を語らせるのが、考えてみれば無理ってものだろう。しかもたった一人の未来じゃない。何十億人の人類たちが営んでいる経済活動の未来である。

そのごく一部のプレーヤーである日本の、そのまたごくごく一部の経済活動や政治活動に限定された場所で、「こうすれば万能だ」なんて方策があるはずがないことは、経済学の素人でもちょっと考えれば分かることだった。

しかし、素人であれば素人であるほど、「万能じゃあない」ことに不安を抱き、何か「声高」だったり「恫喝」や「甘言」が入っていると、ついついそちらの味方をしたくなってしまうような気がする。

自分の経済的あるいは政治的立場が明確で、その利害に従って行動する(だけの)存在なら、まだ話は簡単だ。

しかし、いったん「自分の利害だけを追いかけていては、実は自分の利害を最大化できないのではないか」と考え始め、「再帰的存在」としての「現代人」を自覚的に生きようとすると、どこに単純な自己の利害を超えた基盤を見いだせるか、という課題もそこに生じてきて、さらにややこしくなってくる……ような気もする。




経済について考える(1)

2010年09月06日 14時46分15秒 | インポート
経済について考える(1)
円高・株安である。
そして日本の政府は未曾有の借金を重ね、かつデフレ状態で、雇用も振るわず、大変なことになっている(らしい)。

もちろん、経済について素人の私には問題の核心の所在がよく分からない。

とりあえずはもう少し円安になって日本人の輸出関連企業が元気を出し、雇用を広げてくれればいいのかなあ、と漠然と思うばかりである。
円高だったら、その間になにか日本人は買っておけばいいんじゃないの?お金はだぶついてるってはなしじゃなかったけ?そんな疑問は脳裏をよぎるが、それとて泡のようなものにすぎない。

こんなときに民主党の代表選。
当然のことがなら次の首相を決めるイベントだから、私も人並みには関心を持っている。ところが、この二人の経済政策について、国民の一人である素人の私には、ほとんど判断がつかないのだ。

当然といえば当然だろうか。素人のなんだからね。
しかし、自分たちの国の将来、しかも大きな岐路に立っているその時に、その首相候補の経済政策が今ひとつはっきりせず、他方、いちおう国民の端くれである私はそれが全く判断できない、というのは、ちょっとどうだろう……と思う。

第一なにもわからない自分が少々情けなくもある。

なんとか少し理解したいじゃないか、経済!

というわけで、ここからしばらく経済のお話をばしていきたいと思います。誰もそんなことは期待しないと思いますが、何か明確な答えにたどり着く可能性はほぼ皆無です。しかし、いまうろうろしておかないでいつうろうろするのだ、ということで、それでは開始!




小学校のときの恩師が亡くなった。

2010年09月05日 15時22分19秒 | インポート
享年82歳。
私は今52歳で、教師30年目だ。小学三年生、10歳で出会ったとき、恩師は40歳になったところだった計算になる。

40歳と言えば、仕事人としては「旬」の時期だろう。

私はかれに出会って人生が変わったと思っている。彼がいなかったら、間違いなく私は教師にならなかった。
彼のような教師に、私は今までたった一人も会ったことがない。それほどに彼はユニークな存在だった。

何せ、授業をやらないのだ。

時間割通りにやらないのはもちろんのことだが、半日つぶして数学ばかりやったり、ずーっと自分が旅行してきた土地の話をしたり。

あるいは、男の子に女の子を選ばせて隣同士で座らせて授業をしたり、問題が出来た順から校庭で自由に遊ばせたり。
宿題を忘れると、宿題のノートに押すはずの真っ赤で大きな検印を額や頬にペタリと押したりもする。もうどちらがいたずらっ子か分からないではないか。

なんにしてもおよそ教育とか授業とは思えないことばかりだった。先生のめちゃめちゃ面白い言動をおもしろがりつつ、そのついでに授業を受ける、という印象だった。

加えて、今ならADHDかつLD児と言われるに違いない「多動児」の私を、彼は
「速度」
の才能として認めてくれたのだ。
担任が彼でなかったら、私はおそらく問題児として排除されていたに違いない。事実、一年生と二年生のときは、授業中着席することの意味が全くわからない私を、先生方は壊れた製品を見るようにみていたのではなかったか。
優しい先生方もおられたし、厳しいせんせいもいたが、彼らは皆、私を動かさないことが、教室のためでもあり、私自身のためでもあり、当然教師自身の価値でもある、と信じていたようだった。
ばかでも、そのぐらいは分かる。
ただ、自分にはじっとしていることの意義がわからず、授業中に出歩いたり、友達にちょっかいをかけたりしつづけていたのだ。

ところが新しく小3で出会ったその恩師は違っていた。

「君には速度がある」

と、
彼は繰り返し私にそういってくれた。彼が私の考えやきもちを理解してくれたのではない。
ここは強調しておきたいのだが、彼は私の考えや心情を理解したから、私が影響を受けたのではない。
彼は、私が集団の中で明らかに異質であることを承知しつつ、それを排除するのではなく、上手に認めたのだ。

まあ、それはベテラン教師が問題児を軽く「転がした」ということであったのかもしれない。
だが私はそのやり方、姿勢に感銘を受けたのだ。

いろいろいた方が面白い、彼の中には、仕事を面白がる姿勢が伝わってきた。なにより、へんてこりんな私を面白がってくれている、そのことが、私を勇気づけ、調子をこかせてくれた。

「その速度を緩めることはない、どこまでも進んで行けよ」

という、信号は、もしかすると彼自身に向けた思いでもあったのかもしれない、と今にして思う。

残念ながらどこまでも進んで行く、なんて素敵なことにはならず、ただの平穏な退職を祈るばかりの初老の教師になっただけだ。
でも、10年ぐらい前に彼の家を訪ねた時のことを、私は今でも懐かしく、ある意味では誇らしく思い出す。

そのとき、恩師はなんで教師なんかになったのさ、と私に問うた。
私は
「だって、先生がいたから、先生に出会ったからですよ。そうでなくちゃ教師にこれほど向いてないオレが先生稼業なんてやるはずないじゃないですか」
と答えた。
そのときの恩師の表情は全く覚えていない。
彼とは、気持ちが通じていたともおもわない。

たぶん、彼にとっても私にとっても、気持ちよりも大事なものがあって、それが、メチャクチャな彼を教育の現場にとどめていたのだと思うし、私もそこに感応して彼の弟子になったのだとおもう。

その大事なものは、言葉にしてしまえば簡単なのだが、だからといってそれは簡単には伝わらないことでもあるのだろうとも思う。

異質なもの、自分の理解を超えたものへの好奇心の速度を称揚する態度。
どこまでも人間を面白がれる懐の深さ。

型にはめることが教育だとおもっていたり、本当は違うとつぶやきつつ、仕事だからと定型化を生徒に求める輩には最後までつうじないはなしだ。
教師ヅラをしたヤツは、そんなことはわかっている、って顔をすぐするのだろうけれど。

小3から小6まで四年間担任だった彼は、卒業式直前に病気で倒れ、代わりの先生は彼のあまりの授業進度のおそさにめまいをしながら毎日ノルマをこなしていた。私は真面目な普通の授業を受けながら(その頃は私も椅子にすわっていられるようになっていたらしい)、彼のことを慕って相変わらず夢想にふけっていたのを覚えている。
卒業後、彼が退院してから、中学生になった私たちをもう一度小学校の教室に呼んで、彼は二度目の卒業式を行った。まあ、今にして思えばそれもやりたい放題の話だよねえ。
でも、多分全員近く集まったんじゃなかったかな。

そこでかれは、自分がクリスチャンであることを始めて告白する。

そのときはただへんなの、としか思わなかった。だって、
「この世界を誰が作ったか、と考えたら、神様しかいないだろう?」
と言われても、当時のただうすら生意気な中学生になったばかりのぼくらは、ぽかんとするだけだった。
だが、今なら、彼の言いたいことが分かるような気がする。
それはおそらく、やはり単なる共感、というのではない。
彼はあの時、この世界を支える根本的な公的基盤の話をしたのだ、と今の私は理解している。

だからこそ、教師としてたったひとりだけ、秩序から逸脱した子供をおもしろがってくれたのではないか。
自分では全く宗教を持たないにもかかわらず、宗教的な基盤を欠いた教育について疑問を持ち続けていたことも、今日、恩師のことをふりかえってみて納得がいく。

もう一度彼と話が出来たら、
教育と神様についてゆっくり話し合いたかった。

今はただ、佐藤典夫先生のご冥福を祈る。






入院体験記(17)終わりに。

2010年09月05日 00時43分32秒 | インポート
退院して、無事毎日仕事をしている。

まだ小さな声で、かつちょうじかんの会話を避ける、ように、と医師から制限の
指示があった、というこたもあり、無茶な大声は、ださなくなった。

声は、意外に小さくても話は届くモノなのだ、と初めて知った。
もしかすると、今まで大声で喋っていたのは全く余計なことだったのではないか、という疑問が湧いてくる。
小声でも、十分話はつうじるのだ。
あるいは私が以前から大声だったのは、自分自身を鼓舞するためにすぎなかったのかも、といささか愕然。


どれだけの量をどれだけのおおきさでしゃべるのか。
必要もないのに喋らずにはいられない自分の中の「語りへの欲望」は、何を求めて蠢くのか?

しゃべることの意味・意義について、改めて考えさせられます。