龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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あなたは「サイレントマジョリティ」(欅坂46)のダンスを見たか?

2016年06月25日 22時59分27秒 | 観光
宇野常寛のメルマガを購読していたら、こんな記事があった。

『サイレントマジョリティー』ーーポンコツ少女たちが演じきった硬派な世界観と、秋元康詞の巧みさ(藤川大祐×宇野常寛)【月刊カルチャー時評 毎月第4水曜配信】☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.623 ☆
http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/ar1052523

全文は入会しないと読めないのだが、ここで「ポンコツ少女たちが演じきった硬派な世界観」ってのが気になった。

で、YOUTUBE行きました。

サイレントマジョリティ

https://www.youtube.com/watch?v=yOdTFoehTvw


すごい……。思わず握手券付き(要らないけど<笑>)の初回CD&DVD買っちゃいました。
何が凄いって、このダンスが凄い。この歌詞を、この衣装で、この振り付けでやらせちゃうのがちょっとあり得ないぐらい衝撃だったのです。

秋元康、おそるべし。
先日平田オリザのアンドロイド演劇がすばらしい、とこのブログに書いたばかりだが、欅坂46のこの「サイレントマジョリティ」もまた、どこか「アンドロイド」的、でもある。

意識と感情を( )で括ってもう一度それをどういうチャンネルで提示していくか、というのは実はとても重要かつ困難なテーマだと思う。

この振り付けは、踊りのことは全く分からない素人だけれど、
インド映画(エネルギー爆発)→マイケル・ジャクソンの「スリラー」(ゾンビ)→Perfume(テクノロボットっぽいけれど微妙なあのオフ感覚)
っていうような流れがあって、その上で敢えてなんだと思うんだけれど、

いわゆるアイドルグループなのに、軍服っぽい衣装&笑顔なし&サイレントマジョリティでいいのかというメッセージ性&切れのいい群舞ダンスで実現していくきわめて「隘路」ニックな構成になっている。

AKB48が部活動&生徒会的だとして、乃木坂46がいわゆるかわいいアイドルっぽさをなぞっているとしたら、欅坂46のこの「サイレントマジョリティ」は、ほとんど参議院選やアメリカ大統領選、あるいはイギリスの国民投票さえ風呂敷の中にさくっと入れつつ、そんな「政治的」なメッセージ性なんてものはもちろんまたぎ越してミリタリーっぽい(「鋼の錬金術師」を思い出してしまった)衣装でキレのいいダンスを楽しめばいい、というところに落としていくわけで、これはなんだろう、単なるアイドルヲタク向けではない部分にまで「誤配」しうる仕掛けが十二分に施されているとしかいいようがない。

実際に還暦間近のおじいさん予備軍がはまってしまったわけで。

ふたば未来学園高校は平田オリザを招聘したことによって誇られるべきだ、と先日書きましたが、秋元康もまた(当然ですが)凄かったです。

やられました。


しかし、これ、私の知り合いの誰に話をしても通じないんだよなあ……。

東プレのキーボードが2つになった(^_^)

2016年06月22日 20時20分29秒 | ガジェット
東プレのRealforce101

東プレのJustSystem版108

を揃えた(^_^)/
キーボードが二つあってもにばい打てるわけじゃないのだから意味はない。101が英数字のみで、108は日本語入りだという違いはある。

新しい108の方が、キーストロークの

初動時→押し下げ中→底

まで一定のストレスで応えてくれるから、明らかに打ちやすい。連続して仕事をしてみないと疲れ具合は分からないが、キーの押し下げだけで言えば新しい108の方がよさそうだ。
値段もいいので、よくて当然、ともいえるが。
何せ交換したエレコムのキーボード税抜きで880円ぐらいだったはず。
万年筆と百円ボールペンぐらいの差があるわけだ。

まあ逆にそれだけの違いがあれば、 「文房具」としては 「アリ」かもしれない。

道具にこだわりすぎたりして本来の志を失うことを 「玩物喪志」とかいうらしいが、まちがいなくその典型例だ(^_^;)。

さて、では何を書く=打つのかな。

アンドロイド演劇「さようなら」(平田オリザ作・演出)をふたば未来学園高校で観てきた。

2016年06月09日 12時21分37秒 | 大震災の中で
アンドロイド演劇「さようなら」を観てきた。
昨日、ふたば未来学園高等学校の体育館で演劇をやるというので観に行った。
演目は

アンドロイド演劇「さようなら」
平田オリザさんが昨年度からふたば未来学園高等学校で演劇の授業を担当しており、その一環として生徒に最新のジェミノイド(アンドロイド)が登場する演劇を授業で一年生全員に見せたのだという(2年生については放課後希望者を対象に)。

それを夕方、地元の人に一般公開した(3回目の)公演を観にいったのだが、これがとても面白かった。

アンドロイドが人間の振りをする演劇、ではない。アンドロイドは「アンドロイドの役」として劇中に登場する。
それは小道具(もしくは大道具、あるいは舞台セット)じゃないか、と思う人もいるかもしれないが、そうではない。これを舞台装置ということはできない。なぜなら、私たちは観ているうちに、そこはかとなくこのアンドロイドに感情移入をしていくことになるからだ。

もちろん、照明がばっちり当たっている、芝居の後の「カーテンコール」のアンドロイドは、ちょっとよくできたマネキン程度の「リアリティ」(人間らしさ)しか持たない。まあ人間に似せた人形である。
だが、演出家の平田オリザがそのアンドロイドに演出を施し、作品という物語の時間の中に配置してその演技をする、それを私たちが人間の俳優の演技と同時に観劇していくと、アンドロイドにも心が動く瞬間があるのだ。

いや、そんなことはない、という人もいるだろう。
だが、平田オリザがいみじくも言うように、演出をつけていって人間の心を動かすのに、役者もアンドロイドもCGも「原理的には」違いがないのだ。それを実感し、あるいは実感しないまでも(実感しない人はむしろアンドロイドに人間を発見しようとしすぎる人なのかもしれない、とすら思えてくる)、そのことについてさまざまに考えさせられる芝居だった。

話の筋は簡単だ。病気であまり動けない女性のために、アンドロイドが購入される。彼女(アンドロイド)は女性の求めに応じて詩を暗唱したり、話し相手になったりする。しかしアンドロイドだからできることとできないこと、分かることと分からないことがある。「すみません」というアンドロイドに「いいのよ、あやまらなくて」という女性は、自分の死を自覚しつつ、アンドロイドに「今の自分」にふさわしい詩を読んでほしい、と頼むのだ。
その詩はランボーだったり谷川俊太郎だったり、石川啄木だったりする。そのアンドロイドのチョイスは女性の気持ちに寄り添ったものなのだろうか、そうではないのだろうか。それはアンドロイドの意識の反映なのだろうか、そうではないのだろうか、そんなこともちょっと考えさせられる。

それがこのお芝居の前半。後半は双葉郡で上演されるということで新たに台本を付け加えた部分になる。先の女性が亡くなり、アンドロイドだけが残される。運送会社の男が部屋に入ってくるが、アンドロイドはずっと詩を暗唱しつづけている。男が入っていっても反応せず、止めようとしない。
会社と連絡を取りながら男は、アンドロイドにリセットをかける。すると会話が成立するようになる。
「なぜずっと詩を暗唱しつづけていたの?」と男がアンドロイドの「故障」を想定しながら尋ねると、アンドロイドは「長い間一人でいたからかもしれません」と答える。
その後アンドロイドは、人が原発事故のために入ることのできない双葉郡の海岸に据え付けられ、誰もいない浜辺で鎮魂のために詩を朗読しつづける為に運ばれていく……

そんな30分足らずの芝居である。

私たちの視線はその間アンドロイドに釘付けになっていた(と思う)。少なくても私はそうだった。

アンドロイドは思いの外人間に似てもいるが、人間そのものの動きができているわけでもない。アンドロイドそのもの、である。
だが、その人間とアンドロイドのかみ合うようなかみ合わないような会話のやりとり、ぎこちない、しかし或る種の表情を思わせる動き、そういうものが幾重にか重なって、そこはかとない感情移入が起こっていったように感じる。

終演後の平田オリザさんのトークは、かなり先端的なお話だった。


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ハリウッドや商業演劇では、今後アンドロイドの利用が急激に進むかもしれない。
なぜなら、CGの普及によって大量のスタントマンが失業したように、アンドロイドは危険に強い。もし映画制作の保険料と比べてペイするようになれば、アンドロイドが舞台やスクリーンで急激に採用されるだろう。
また、富裕層にとって、ジェミロイドの値段は十分に支払えるものだとすれば、亡くなられた家族のアンドロイドがほしいという需要は必ずある、数年以内には、アンドロイドを単なるモノとして扱うのではない法律の制定が必要になるだろう。少なくてもペットよりは大事な存在になっていくにちがいない。

ロボット工学の研究者の多くは、無駄のない動きを目指してしまう。しかし産業用ロボットのような迅速に正確な無駄のない動きは不自然なのであり、人間はかならず無駄な動きをする。それは統計的な平均化もできないし、かといって単なるランダムだと挙動不審になる。だからロボット工学だけでは自然な動きは作れない。2500年の歴史を持つ演劇の芸術的蓄積が必要だ(いまはまだ)。ではロボットに無駄な動きをさせるのはなぜか?ほぼ人間の動きは機械に比べてネガティブなところが特徴だ。
だから、そこを考えていくと芸術とか、人間的な振る舞いを求めるシーンがそれを求めるということになる(上記のような映画とか、亡くなった方を忍ぶとか)。

あるいは、案内板を見て場所を探している人に声をかけるときに、どうやったら自然に驚かれずに声をかけるロボットができるか(これはすでに実用化に向けて進んでいる)などといったことも考えられる……。

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そんなお話を伺うことができた。アンドロイドの「人間的」な研究においては、日本が「今」世界で独走しているのだそうだ。さすが「アニメ」の国だと思うが、だから『鉄腕アトム』でも描かれていたようなロボット法(単なる器物破損の器物、所有物ではない価値を認める法律)は日本で作らなければならない、という指摘も面白かった。

平田オリザ氏はさりげなく、きわめてさりげなくだが
「今双葉郡では、亡くなった人の鎮魂も満足にできないといった状況が続いている。その価値は今のところ全く補償されていない。避難の補償はある。壊れた、あるいは使えなくなったモノや土地、できなくなった事業の補償はある。しかし、魂についてはなにもない。これからその魂の価値について声を上げていかなければならない」
というようなことをいい、そのこととこのアンドロイド演劇という芸術における意義とは繋がっていると指摘していた。

いろいろ頭が爆発しそうなおもしろさだった。こういう授業を「ふつうに」受けられるふたば未来学園高等学校の生徒はすごいチョイスをしているなあ、と思うと同時に、60歳近い演劇好きの国語教師が「すごいすごい」と思うように彼らはスゴいとは思わないのかもしれないとも予想してみる。

それが当たり前のことが、スゴい。そしてそれは大人達が彼ら双葉郡で学ぶ高校生の将来に向けての確実な「投資」でもあり「支援」でもある。今、このすごさを分かる必要はない。いずれどこかで響いてくるだろう。

いや、もちろんすてきなことをやっているな、とは分かるだろう。感覚的にはすでにすべてを知っている。直感的には。

だが、その価値の全貌は、高校生にはまだ直観はできまい。
学ぶことによって全体像が見えたとき、彼らはそれを改めて「直観」するだろう。

60歳を前にした初老の引退直前の高校教師の直観は、おそらく高校生には通じない。それでいいのだ、とも思いつつ、じいさんがすげぇすげぇと言っていた、ということぐらいは伝えて死にたいものだ、とも思う昨日の夜だった。

これから世界中で公演をしていくとのこと。機会があったらぜひ一度観劇を。

ちなみにマツコロイドも漱石ロイドも同型機とのこと。

ただし、見せ物として性能や似ていることを見るのではなく、物語の中でアンドロイドの演技を見てほしい、というのが平田オリザさんのスタンスのようだが。

つまり、人は物語の中でこそ人間になる、そういう意味ではアンドロイドも俳優も、その物語において「人間的」たりえるのだ、という平田オリザらしい、そしてそれは現代にふさわしい視点がある、ということだろう。

それを感じたことが、昨晩最大の収穫だった。




Logicool G300s は左右同型(左利きも使える)多機能マウス

2016年06月05日 13時06分21秒 | ガジェット
いざとなると、左利きの人間にとってけっこう深刻な問題がある。
それはハサミとマウスだ。

それでもハサミは仕事が単純だから慣れれば右利き用(一般的なもの)でもなんとかなる。
(ハサミが左利きにとって面倒なのは「片刃の刃物」だからなのだが、右利きの人にそれを言ってもあまりピンとこないだろう)


問題はパソコン用のマウスである。タブレットも大きなものになると、デスクに置いて使うことも増えてくる。となると、やっぱりポインティングデバイスとしてはマウスが便利だったりする。

ところが、量販店で売っている高機能のマウスの多くは、右利き専用だ。
つまり、右手の人差し指や中指で、マウスの左側上面や角の面に並んでいる追加ボタンを押すことで、何かと便利な操作が可能になる。ボタンを押し下げたときの命令はプログラムで設定できるから、ゲーム用にマウスを使うときなどかなり重宝する。
そして、これに左利き用が少ないのだ。

キーボードのように決まった場所を打鍵するだけなら、左利きでも右利きでも、両手を使っても大した不便は感じない。実際、ブラインドタッチをしている人の多くは、両手を使ってスムーズにキーボードを使っている。

だが、「非定型の作業」をやるときになると、利き腕の微妙なコントロールが必要になってくる。マウスの多ボタン化、がその典型なのだ。

というわけで、家電量販店のゲーミングマウスのところはいつも恨めしく眺めるのが常だった。

ところが、今回発見したのが Logicool製の G300s というマウスである。


左右同型で、しかもプログラム可能なボタンが6個(普通のマウスボタン2つに加えてスクロールホイールも押し下げが可能だからそれを含めると全部で9個)ある。

これは左利きにはうれしい。売り場をみたことがある人ならわかるとおもうけれれど、左右同型のマウスはほとんど基本的な機能の2(もしくは真ん中にスクロールホイールのある3つ)ボタンのものばかりだ。
早速購入して利用開始。やったー!