龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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新型レガシィツーリングワゴンを買った(3)

2012年02月29日 23時13分01秒 | ガジェット
 私はとりあえず「衝動」と「ムダ」と「浪費」と「消費」と「依存」と「病気」と「贅沢」の関係が知りたいのだ。

 クルマはかつて一家に一台だった。

そういえば「父親のクルマをどうやって借りるか」は、アメリカ映画の青春モノでは定番の課題でもあった。

遅ればせながら、私もそういうところをくぐり抜けて大人になった世代だ。

だから就職したときの最重要課題は、父親の車を借りずに済むよう一刻も早く自分のクルマを買うことだった。
クルマさえあれば自由が手に入る。クルマが良くなれば生活の質も上がる。いや、生活の質が上がれば自然といいクルマもそのシーンに合わせて買い換えるべきだ、そんな消費行動の表象として、クルマは機能し続けてきたような気がする。

それから30年、ライフスタイルというか、生活のシーンに合わせてクルマを買い換えてきた。
2BOXのFFを乗り継いで独身から結婚に到り、子供が出来てから大きな1BOXワゴンに乗り換え、二人の息子が大学にいってからダウンサイジングしてこんどは1.3リッターのクルマになった。

そこまでは、自分達の世代なら誰もが通る「流れ」だった。

しかし、どういうわけかしばらく前から、しだいにクルマがそんなライフサイクルから離れてきたという感じがする。

子供達の世代(今の20代)は、クルマにこだわらない。田舎暮らしだから、クルマはもちろん必要不可欠なのだが、必要最低限の軽自動車で十分だ、と口を揃える。

10年~13年ほどの低年式の(資産価値や趣味性は全くない)純粋な移動手段として見ている。

一方、その世代を育て上げた父親の私は、クルマについて言うなら、逆に、どんどん、実用性から離れていこうとしているかのようだ。

これは「私」の年齢の問題なのだろうか。それとも大きな「産業構造」とか、「時代性」とかの問題なのだろうか。

さて、クルマは一家に一台から一人一台になった。
そこでクルマの数は「飽和」すると思っていた。
ところがどうもそこでは終わらないようなのだ。

たとえば、眼鏡は嘗て壊れたら(あるいは眼に合わなくなったら)買うものだった。
ところが、いつのまにか(老眼が進んで買い換えのスパンが短くなったこともあるかもしれないけれど)、眼鏡を複数持つようになった。

あるいは、通信端末(電話、ですね)は一家に1台あれば良かった。ところか次第に一人一台になり、いつのまにかiPad2なんぞという端末を追加購入してしまった。

そして今回はクルマの2台持ち、である。我ながら、いい加減にしてほしい、と思う。

冷静に考えると、本だって、こんなに大量のテキストを身の回りに置いておく必要が果たしてあるのだろうか、という疑問を抱く。
今では、古典テキストが手元に何冊かあって、そのそれぞれに対して簡潔にして要を得た注釈書が数冊もあれば、あとはブックオフで流通する一冊100円の推理小説を渉猟しておけばそれで足りる。
第一、残された人生の時間で、さほど多量の本が読めるはずもない。

さて、ようやくクルマの話である。

最近は「趣味」とかいう便利な言葉で済ませてしまうけれど、ちょっと前までは「道楽」という言葉があった。

益体(やくたい)もないものに「入れあげ」て「身上を潰す」ようなものを「道楽」といい、そういう馬鹿を「道楽息子」などと落語では読んだりもしていただろう。

そういえば、人によっては庭や家を設計して作るのが「趣味」だ、なんて人もいるらしい。
人は時に、そういうなにかどうでもいい不要のものに「アディクション」(惑溺)してしまうことが不可避なのか。

さてでは、役に立つことと「楽しみ」とはどんな関係があるのか。役に立たないことと「快楽」との関係、といってもいいのかもしれないけれど。

工業製品としてのクルマを購入し、移動の道具としてではなく楽しむ「楽しみ」。
万年筆や高級腕時計を購入し、筆記用具や時間を知るという道具としてではなく楽しむ「楽しみ」。

ようやく、「ムダ」な楽しみを楽しむ「老人」の場所に立とうとしているということだろうか。

新型レガシィツーリングワゴンを買った(2)

2012年02月29日 22時24分58秒 | ガジェット
 今日、卒業式の予行があって、生徒達は午前中一杯、寒い体育館に缶詰になりながら、立ったり座ったり歌を歌ったり返事をしたりと、不思議な「日本的光景」(どこの国にも式典の練習とかあるのかしらん。あ、北朝鮮にはありそうだね。オリンピックとかもリハーサルはするか。でも、リハーサルをするのってたいてい「見世物」だよね?ショーとか。卒業式は「見世物」ジャンルとは違うような気もするのだが。そのあたりどうなんでしょう?)を目の当たりにしつつ、しかし降雪のせいで生徒の出入りが手間取ったり、予行が中断したりと、意外に暇があったので、

ジル・ドゥルーズ『ヒューム』(ちくま文庫)

をその合間にさっくり読了してしまった。あまりのリーダビリティの高さに、また自分の脳味噌のボケが進行して、「分かることだけを分かる」ようになってしまったか、と心配にもなるのだが、確認のため家に戻ってから同じくドゥルーズの

『スピノザと表現の問題』

を開いたら、ほとんど理解できなかったので、ちょっとほっとした。
『ヒューム』は本当に読みやすい。
というか短いしね。

早わかり的に言ってしまうと、ヒュームっていうのは『懐疑論』の親玉みたいに倫社の教科書では出てくるのだけれど、『懐疑論』がたどり着くのはむしろ「道徳」だって言ってるのね、ドゥルーズは。

それって常識なんですかね?哲学史的には。
なにせ体系的な勉強をしていない素人には、誰かが誰かのことを書いているときそれがその誰かのことなのかもう一人の誰かの思想のことなのかが区別できず、まあそういう書く誰かと書かれている誰かの区別をつけるには哲学史なんて実はあんまり役に立たないぐらいのことはもう良く分かっているはずなのに、誰かに早わかりの解説をしてみてほしくなるということは間違いなくあって、たいていの場合こういう文章は読み終えてもすっきりしないのだが、それにしてもこのドゥルーズの『ヒューム』はあまりにも分かりやすいのだ。

この「道徳」と「神様」の距離を考えながら、次はやっぱりライプニッツ早わかりの方にスライドしていかねばならない、という感じだ。
ただし、文庫で買って積んである次のドゥルーズ本は『ニーチェ』。
私はニーチェ関連本は恥ずかしながらただの一冊も手に取ったことがない。

たぶん一生ニーチェのテキストはもちろん、ニーチェについて論じた本も読むことはないだろうと勝手に思っていた。
しかし、ドゥルーズの「予習」をするために、節を曲げてこの『ニーチェ』は読んでみようと考えている。

考えてみれば、読書なんてたまたまの偶然の出会いによってしか開かれない扉のようなものだ。
分かっていることなら読まなくても良い。全く理解できないのなら、読みようもないだろう。
その「ズレ」と「同一性」の匙加減の絶妙さは、間違いなく読書の醍醐味の一つではある。

文化という基盤、共同体の前提や時代の空気といったものににアクセスしつつ、それらとの距離において固有の「様子」を示す表現の不思議さ、とでも言えばいいのか。


さて、話をしたいのは新型レガシィツーリングワゴンを買ったという話なのだが、なかなかそこにたどり着かない。
二週間前まではクルマを買おうなんてことはみじんも考えていなかったわけだから、典型的な「衝動買い」だ。
しかもお値段だって安くはない。

人間・貨物の運搬装置としての自動車なら既に手にして日常使っているわけだし、「贅沢」としてのオープンカーさえ持っている。
その上なぜ下取り交換するのではなく、新型車を買い増さねばならないのか。
給料も下がるというのに。

『ヒューム』とか読んでる場合じゃなくて、その衝動こそが問題なんじゃないのか?
いや、あるいはもう既に「問題外」じゃないのか?
そんな風にも思うのだ。

身近な年寄りの話を聞くにつけても、要りもしないものを買い出したらボケの始まり、という話である。

50台半ばでボケを怖れるのもできの悪い「自虐ネタ」めいているが、昨日の夜、本屋に行って目的の本が見つからず、その合間にふと手にした別の本を買って家に戻ってきたら、助手席に置いてある袋に入ったその本のタイトルはおろか、ジャンル・内容さえ全く思い出せない、となると、ことは冗談めかしていても実は深刻なのではないか、と思ってもみたくなろうというものではないか。

1000円足らずの衝動買いだったら、アマゾンで数十回クリックボタンを連打したところでたかが知れている。
まあ、考えてみれば、購入したクルマの金額と、書籍の総金額を比較してみると、にわかに優劣はつけがたいかもしれない。
毎月数万円単位で本を買い続けていれば、30年で軽く800万ぐらいは超えてしまうだろう。それ以外に全集本や大型の辞書だけでも100万単位にはなる。

クルマは下取りしつつだから単純には言えないが30年間に1000万超ぐらいは使っただろうか。

冷静に計算してみると、大した違いはないものだ。
いや、まて。
「書籍」から「情報」とジャンルを少し広げて、パソコンや携帯をこれに含めると、さらに数百万。
クルマを超える金額になりそうだ。

これは、豊かさなのだろうか、贅沢なのだろうか、終わりなき消費の依存なのだろうか。あるいは平凡きわまりない暇つぶしのコストなのか。
結局のところ、人生を書籍とPCとクルマとに費やす、なんていうのは、私の世代ではあまりに平凡なことなのかもしれないが。




新型レガシィツーリングワゴンを買った(1)

2012年02月29日 21時47分45秒 | ガジェット

 この数年来マツダロードスターというクルマに乗っている。
FRライトゥエイトオープンツーシータ-スポーツカーというカテゴリのクルマだ。

出会いは一瞬だった。
新型デミオの評判がいいので、冷やかしにたまたまマツダのディーラーに行って試乗した。
戻ってきて車を置くと、その横にたロードスターがある。

「乗ってみますか?」
と営業マン。
「いや、マニュアルは20年も乗ってないから」
と私。
「いや、大丈夫です。ちょっとだけ乗ってみましょうよ。遅いですけど」
と妙なことを言う。スポーツカーなんだから遅いわけはないだろう。第一、私の人生にオープンカーなんて関係あるわけがない。
「じゃあちょっとだけ」
と興味本位で答える。

数分後、角を3回曲がったところでほぼ購入を決めてしまった。
それほどに運転するのが楽しかったのだ。

いや、正確に言えば、その時私はクルマの免許を取って30年間で初めて、車を運転すること自体の悦びを知った、というべきなのかもしれない。
とにかく、屋根が開いているっていうのはとてつもない衝撃だったし、車の重心が座席の近くにあると、これほどまでに車の動きと自分が一体化するというのも初めての経験だった。

クルマを運転することがこんなにも「贅沢」なことなのだと、初めて体験した瞬間だった。

それ以来4年弱、8万キロほどこの小さなオープンカーを駆って、北は下北の大間から南は阿蘇・高千穂まで思う存分走ってきた。

このロードスターは不思議なクルマである。
家に戻ってきてエンジンを切り、外に出てドアを閉めた瞬間に、またどこかに走りに行きたいと思い始める、そんな車なのだ。

私は、このロードスターと、「添い遂げる」つもりだ。
最後に道路の上でエンジンが止まり、走れなくなって、部品を取り寄せることができない、となるまでは一緒に走ろうと思っている。

クルマ好きではあるから、新型車が出れば試乗をしたりもし、何度か別の車を購入しようとしたこともあったが、この車を下取り車として手放すことを考えると、最終的にそれは「ありえない」選択だと身に沁みてくる。

もちろん、BMWが誇るオープン2シータ-プレミアムスポーツのZ4などで高速道路を走ると、車体道路に吸い付くように安定しているし、十分な馬力のエンジンを回しきると、風景がどんどん後ろに流れていき、異次元空間を滑走しているような「快感」が訪れる。

そういうときのZ4は、我がロードスターなんぞとは比較にもならない圧倒的な気持ちよさだ。

工業製品はより多くお金を出して購入・消費すれば、より快適なもの、より楽しいものを手にすることができる。
そう考えると「コストパフォーマンス」とは、貧乏人の言い訳、とも見える。

しかしお値段に応じた階段を上るような「比較」、相対的な金額に換算できるような「気持ちよさ」のリニアな増大には、正直なところ、あの初めてロードスターに乗ったときのような圧倒的「差異」の衝撃は存在しない。

私にとっての「異文化衝撃」は、マツダロードスターによって引き起こされたのであって、どんなに快適で、比較優位があろうが、Z4によってもたらされたのではない。
その「たまたま」性が、案外大切なのではないか。

歴史をさかのぼると、最初イギリスで安価なスポーツカーとして始まったライトウェイトスポーツというジャンルが、安全性重視の自動車業界に押されて消滅したあと、マツダの技術者が物好きにも、敢えてその消失したジャンルに挑んで開発し、世界中で大ヒットしたのがロードスターだったのだそうだ。
実は値段も倍以上するBMWのZ4は、マツダロードスターの追随者だったのだという。

貧乏人ゆえのロードスター、というのが、ムダで贅沢きわまりないオープンカーのジャンルの中では常識だ。
私が「いつか乗りたい」といって友人のひんしゅくを買った「ポルシェボクスター」だって、お金持ちの間では「プアマンズポルシェ」と言われていたこともある。

でも、「ポルシェボクスター」はポルシェの中では唯一無二とも言うべき超バーゲンセールの二人乗りオープンカーだ。


最初にZ4に乗っていたら?
初めてのオープンがボクスターだったら?

という疑問はもちろん残る。
でも、私が初めてであったオープン2シータ-ライトウェイトスポーツはロードスターだったし、今もこのロードスターに深い愛着を抱いている。それは技術力とか技術者魂とかも重要だけれど、「たまたまそこで出会った」ってことがけっこう大事な要素なのかもしれない、とも感じている。

とにかく、ちょっと街場の本屋さんまで買い物にいくのでも、極端な話、コンビニまで飲み物を買いに行くのに乗っただけでも楽しいのだ。


Z4でもボクスターでもそりゃ楽しかろう。
誰かがくれるなら貰ってあげよう。
そういう出会いがあるのならもちろんウェルカム、である(笑)。

私はこのロードスターと出会って、そして十分な贅沢を味わって、幸せだ。
それで十分。

ま、とにかく。

第一、屋根を開けて走れる開放感と爽快感。
第二、ハンドルを切ると自分を中心に軽々とコーナーを回ってくれる軽量FR車の「人馬一体」的感触。
   (バイクの方が無論Gも体感できワクワク度合いは大。オープンカーはむしろ「露天風呂」的なゆるくぬるい贅沢かも)

この二つを手放すことはもうできそうにない。

さて前置きが長くなった。
今日書きたいのはロードスターの話ではない。
それほどまでに気に入ったクルマがありながら、スバル(富士重工)のレガシィツーリングワゴンという車のことが書きたいのだ。


学年末の成績処理が終わった。

2012年02月25日 18時17分07秒 | 大震災の中で

8.7%ほど安くなるかもしれないとはいえ、それなりの給料をもらっているのだから「仕事が忙しい」なんて愚痴をブログで書くのもためらわれる。

が、それでも結構忙しかった。

入試の業務が2~3回入ってくる。
年度末の事務処理や引き継ぎもある。
今年度の反省もある。
来年度のイベントの計画も立てねばならない。
そうなると仕事量が増えて、なおかつ会議も増える。

ままならないのが世の中だ。

一つ一つ目の前の仕事をこなしているうちに幸せになれるのならば精勤する励み もある。

だが、被災のプレハブ校舎は根本的に落ち着かない。

「生存可能性条件が揺らぐ」とは、こういうことだったのだと日々身にしみて感じている。

自分たちの行動の前提になっていた共有基盤を失ってなおかつ「普通の」生活を続行するというのは、精神的&肉体的負担が思いの外に大きい。

本来は何でもないこと、震災がなかったなら普通だったことなのに、震災後その普通を保つために行動していくと、しだいに精神のエネルギーの供給が間に合わなくなっていく、そんな感じだ。

大きく言えば、東日本の復旧か復興か、なんて話になるのかも知れない。

でもそんな大きな話じゃなくて、日々の小さなことですら、いつものようにはできない。かといって昔と同じようにやればいい、というわけでもない。

震災を生きるとは、こういうことなのだ。

だから、被災地の人は、望んでもいないのに「哲学」を必要としてしまう。

永井均だったか、哲学は問いを共有するものであって、答えがでたときには当たり前の普通、でしかない、てなことを言っていた。

この一年間考えていたのはまさにそういう種類のこと。

様々に選択は出来るし、覚悟だってないこともない。

しかし、問いに対する「普通の答え」はまだ出てきそうにない。

さて、二年目はどうなるのだろうか。






書いたつもりだったのに見当たらないのでもう一度。

2012年02月14日 20時19分27秒 | 大震災の中で
1月30日付けの朝日新聞に
「スピノザが来た」
という記事が載っていました。
Twitterか本ブログか、メディア日記かで触れたつもりだったのに、記事が残っていなかったので、とりあえずこちらに記事の画像を上げさせてもらいます。






併せて、安冨歩さんのコメントがこのブログにあったので、こちらもリンクを張っときます。

マイケルジャクソンの思想2012/1/30
http://anmintei.blog.fc2.com/

at プラス11の巻頭対談國分功一郎+中沢新一の技術論、面白いです。

2012年02月14日 11時32分47秒 | 大震災の中で
ちなみに國分氏の訂正が。
表紙にある対談の題名「グリーンアクティブと新たなエコロジー運動」
は副題で、本来の対談名は

「〈原子力の時代〉から先史の哲学へ」

だそうです。訂正を。




個人的にはハイデッガーの技術論についての内容がツボでしした。

結論部の「休暇が大切」も大事。

もう一つ、ドゥルーズにおけるライプニッツとスピノザとに対するスタンスの違い(一致と不一致の問題)も興味深いですが、ライプニッツをちゃんと読んでないのでここはこれからのお勉強課題でした。


その3つを含めて、
私が大震災以来こだわっている
「人為の裂け目」
について考える上でとても大切な示唆をもらった対談でした。

國分功一郎という「考え手」(へんな定義ですかね)を横に配置することによって広がる思考の地平を楽しむのに格好の対談かと。

中沢新一という語り手はいつもアイディアで楽しませてくれるけれど、ステップに飛躍があって面白いけれど危うい。

國分功一郎効果を「教育的」ということが果たして妥当かどうか、はさておき、使い甲斐のある「考え手」であることは間違いないと思います。


ちなみに、本文中に紹介された参照図書一覧を下に書いてありますのでよろしかったら。

メディア日記龍の尾亭
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120214


根津美術館に行ってきた。

2012年02月12日 16時53分03秒 | 大震災の中で
IMG_9230.jpg
「百椿図 椿を巡る文雅の世界」
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/index.html

という企画展最終日でもあり、実は改装されてから行ったことがなかったので、リニューアルした美術館それ自体も見がてら日帰りで。

2月の寒い日曜日はあまり車で動く人もいないらしく、早朝ということもあって、家を出てから2時間も経たないうちに都内に着いてしまった。

美術館が開くのは10時なので、築地の場外市場をひと回りして、卵焼きと鯨を食してから青山へ。

美術館入り口は竹林をイメージした「和」のテイストになっていて、すぐとなりは普通の道路なのに、歩いているとしだいに別世界感覚になっていく。

こういうアプローチはまるで「もてなしの宿」みたいだ(笑)

「百椿図」は、江戸初期の大名が椿の絵を沢山絵師(狩野山楽ともその弟子山雪とも)に書かせ、一枚一枚の絵に当時の有名人たちの讃を書いてもらうプ未完のロジェクトだったという。
林羅山、烏丸光広、西山宗因、松永貞徳、水戸光圀など、有名人がずらり。
皇族・大名・僧侶・連歌師・儒学者・歌学者ら錚々たるメンバー(たぶん、ね)が、様々な種類の椿の絵に和歌や漢詩、発句と落款(および落款印)を寄せている。
そしてそれが二巻モノの巻物にされた、というわけ。
モノホンの絵にそれぞれ有名人が自ら書き込むわけだから、手間も時間もかかったにちがいない。
図録の解説にもあったように、そこには文芸サロン的ネットワークの存在が想定されねばならないだろう。

絵のことは分からないが、西山宗因と松永貞徳の名前があったのが気になった。
明らかに次の世代は元禄の芭蕉と西鶴。

「百椿図」は、私たちが普段江戸前期の文化的な大潮流、元禄の直前、椿図をモチーフとして炙り出されたエスタブリッシュメントの文芸サロンの成果だったわけだ。

私は(いやたぶん私たちと言ってもいいだろうけれど)江戸前期の文化といえば元禄から始まってしまいがちだが、当然そんなはずはない。

学校で教わらない歴史を少し味わった気がした。

この根津美術館は庭も有名だ。
今日はゆっくり庭も散策して、カフェでお茶を飲んでから、刀剣骨董屋さんにも顔を出してみた。

ここでも、
「いわゆる江戸になってからは美術品としての刀になってしまうから、むしろその前の方が」
なんて話を聞いたりして、一本100万ちょっととかいう鎌倉末の刀を見せてもらった。
たしかに美しい。

江戸の超高い刀よりはずっとシンプルだが、「機能美」(刀の機能美というのもちともんだいかもしれないが)を感じる。

ナマの刀を生まれて初めて手にした。怖いのは怖いが、が、神経が集中していくのを感じる。

不思議なものだ。

教科書に載る歴史ではないのかもしれないけれど、モノのリアルを感じる1日だった。

風邪を引いてブログを一週間ほど更新しなかったこと

2012年02月11日 09時02分13秒 | 大震災の中で
風邪の熱と背中の痛みに捉えられ、ここ一週間は親鸞どころではなかった。

病気は、思考を肉体につなぎ止める(笑)

その前の週までは親鸞の『教行信証』で頭の中がいっぱいだったのに、風邪を引いたら、熱と痛みが「世界」の第一主題になってしまった。

病気はまた、日々の仕事(ルーチンワーク)に支障をきたすから、ますます神様や仏様のことなんぞ考えちゃいられなくなる。

まず生活。
朝起きて仕事にいけるかどうか、プレハブ(と言うことは鉄板で囲まれた断熱材が全くない囲いの中で1日暮らす、ということ)で体力が持つかどうか、病院に行く時間と体力があるか、飯は食えるか、体力を気遣った分、溜まっていく仕事をいつ処理するのか、だいいち授業4コマしゃべり抜くまで声がもつのか?

また、寝てたら寝ていたで、どんどん体力は落ちていくのが分かる。回復・復帰するためには、適切な負荷を体にかけなければならないのだが、それがまた難しい。取り敢えず食べないと持たないけれど、どうしても血糖値は上がり気味になる。

そんなことばかりの一週間だった。

さて、ふと思い出すと、被災してからこのかた、目の前のことをこなすのが精一杯の一年だったような気もしてくる。

もちろん、あまりにも大きな事件だったから、思わず「神様」について考えたりもしたけれど、生活レベルでは目の前のことに追われた日々だった。

むしろ、目の前の現実についての思考と世界について考えさせられる根源的思考とが極分化しつつ、複眼的にモノを見、コトを考える習慣がついたということかもしれない。

それも「習慣」か。

一週間ブログを書かないでいると、その複眼バランスが崩れた感じがして、誰に頼まれたわけでもないのになにか落ち着かなくなっていた。

習慣には依存性があるということでもあるのかしらん。

まあでも、習慣って大切だとも思う。

繰り返しが私たちの生活の自明性を支えるのだからね。

だからこそ何を繰り返すのかは、注意深くフィードバックして考えねばなりません。

どの依存症を選択するか。人生は悩ましい。

日常だけでも物足りないし、物語をDVD一気借りで満喫しただけでも不十分。

私にとっては読むにしても書くにしても、テキストと向き合うことが一番飽きのこない習慣になった。

肉体的な目の衰えが気になるところだけれど、そして風邪ひとつでリズムは崩れてしまうけれど、とりあえず
「読む快楽と書く困難」
を与えてくれた神様に感謝しておきたい。

日常を生きることがテキストと向き合うことだ、というのは、いささか病気というか、いくぶんかは「習慣」からズレたこと、になるのかもしれない。

「習慣」って前意識、みたいなものだから。

印刷のズレたテキストを読むこと。もしくはそういうメガネをかけて多重な像として見つめ続けること。

なにを定位して何をズラすか。習慣とはいえ、一筋縄では行かないようだ。


加速度と遅速度の問題

2012年02月11日 08時18分02秒 | 大震災の中で

今、授業で『サッカーと資本主義』という大澤真幸の文章を読んでいる。

社会学者の文章は一般に(特に、厳密な論文ではなくエッセイとなるとその傾向が顕著なのだが)、己の「匙加減」で、社会の表層にある現象と社会の深層を流れる無意識的な論理とを結びつけ、それで「世界」を説明するものになりがちだ。

少なくても、読者が「説明」を求めるその欲望に答えるべく生産される、いわば「擬似的啓蒙」の形態を取らざるを得ない。

そして、視点の提供、キャッチフレーズの提示、アイディアの共有、切り口の聡明さ……どう表現してもよいが、私たちが彼らの文章を読むときは、この世界に対して感じている違和感や不安をそのキャッチフレーズで明示的に示し、同時にそれを世界内に再配置してくれることを望むわけだ。

さてしかし、授業でこれを扱うとなると、ちょっと難しい。

これはあの子供の頃の感触の問題でもある。

教科書には面白い文章がぎっしり詰まっているのに、授業でこれを国語教師が取り上げた途端につまらなくなる、あの有名な

「国語教科書のテキスト自体はおもしろいのに、授業になると退屈問題」

のことだ。

いっちゃあなんだが、大澤真幸という社会学者が牽強附会的にサッカーと資本主義を結びつけて論じているのは筆者の「匙加減」としてまあいいんだけれど、教科書で読むほどの話なのか?という疑問は湧く。

近代化=資本主義化によって投資→回収の速度と回数が増加したのと、マスフットボール→近代サッカーの変化は、シンクロしてるってか、対応しているって話
(1ゴールでゲーム終了となる前近代的祭りとしてのマスフットボールと、ゴールを複数化して得点を重ねることになったゲームとしての近代サッカーの違い、ですね)。

面白くなくはない。いや、大澤真幸の新刊ほとんどを惰性で購入している私にとっては面白い。

でも教科書で部分を切り取って読んでしまえば、どう考えても「資本主義」とか「近代」とかがマジックワード化してしまう。

学校の国語の授業っていうのは、別に誰かの「さじ加減」に基づく世界解釈を「教える」ことではなく、もちろん生徒に適当な「匙加減」の仕方を教えるものでもなく、テキストとの「適切な」距離の取り方を「教える」ものだろうと私は個人的に考えている。

単なる「匙加減」なんぞは教えるものではない。勝手に考えればよろしいことだ。妄想特急は暴走さておけばいい。世界の果てまでいってよし、である。
その同伴者が大澤真幸だろうが見田宗介だろうが上野千鶴子だろうがお好きにどうぞ。

だが、テキストとのつきあい方は教えねばなるまい。「国語教科書問題」はだから、教室空間=教師の権力の振るい方、の問題にもなるわけだ。

そしてそれを読む主体としての自分(生徒)も、実はその「織物」として編み出された存在であり、と同時にそのテキストを読む欲望主体でもあるということをふまえた上で、「匙加減」の仕方、つまりはテキストの中で立ち上がってしまった自分と世界の関係を編み直す前提にある場所、「そこ」と収斂しないけれどそこにある場所の感触をちゃんと味わえるようにすることが、必要になるだろう。いらないんだけどね、授業なんかもともと。少なくても私は国語の授業でなにか本について教わったことはひとつもないし。

国語の授業なんて、実に余計なお世話、みたいなもの。自転車の補助輪だ。

乗れる奴には邪魔で、乗れない奴には役に立たない。

転びながら練習した方が早く乗れるようになるという事実は、補助輪を使ったことがある人、あるいは子供に使わせたことがある人なら誰でも知っているだろう。

初めて自転車が乗れるようになったとき、気がつくと後ろで支えていたはずの父親=母親の手が、いつの間にか離れていた……本当はそういう瞬間をたくさん組織できることが必要なんだよね。。

話が逸れた。

いいたかったのは「加速度と遅速度の問題」の話です。
そう、『アマルフィ』という映画には「加速度」が足りないのだ。それさえあればいわゆる「娯楽度」は数段アップするはずなのに。

それはストーリーライン上での加速度(必ずしもハリウッド的ご丁寧なアクション乱発でなくていいですよね)ばかりではなく、むしろ画面から観客に向かって出し入れされる速度の変化が重要だ、ということだ。

何をどれだけ見せ、何をかんじさせ、何をどれだけの間隠すのか。

授業=教室空間を組織する、というのも、そういう「演出」をちゃんとする、ということだろう。

ただし、個人的にはつまらない授業より、そういう権力をうまく使った授業の方がもっと嫌いだけどね。

ひそかにしめされた教師の意図をどうやってさらに密かにくじくか。授業を表層的に妨害するのではなく、その意図それ自体をくじいてやりたくなる(笑)

せめて教室空間は、そういう暗闘の場であってほしいし、映画の画面だって、同じことなんじゃないかな。

「本来性」に回帰しない「疎外」や「差異」を豊かに生きること。

というわけで、
「国語教科書が授業だと面白くなくなる」問題

は、いまだ私の中では中心課題の一つであります。もうすぐ定年なのにさあ……。

あくまで、あらかじめ与えられたもの(テキスト)を挫く形でしかひとは反応できないとするなら、の話なんですがね。



天海祐希・織田裕二『アマルフィ』を観た。

2012年02月10日 00時55分11秒 | 大震災の中で
 天海祐希が好きだ。織田裕二も嫌いじゃない。佐藤浩市は無論いい役者だ。

 でも、この3人を並べて映画を撮るのは結構難しいんじゃないか?

 そう思った。加えてイタリアの風景も主役にしなきゃならない。

 脚本をもう少し練り上げて、さらにストーリーを3回ぐらいひねっても良かったのじゃないか。

 天海祐希は確かに美しいけれど、「絵」として撮ったら動きが消える。勿体ない。
 佐藤浩市の動機を誰か他の役者に調べさせ、セリフで喋らせるのも勿体ない。
 スケジュールが押さえられなかったのか?とか呟いてしまいそうだ。

 映画にかけられたはずの「時間」の濃密さが希薄なのだ。
 織田裕二の映画はこれが4本目だろうか。『ホワイトアウト』の時にも感じた傑作になり損ねる無念さを、ここでもまた彼の映画は繰り返している。織田とか天海とかは、彼らの持っている濃度の良さは、もっと速度を上げたり、もっと遅くしたりして具体的に画面を前後に揺すらなくていけない、と思うんだけど、どうなんでしょうね。
 そういう無茶には耐えられる素材だよねえ。

 ま、観てしまった私の側の問題、なのかもしれないのだが。
 でも、天海祐希を観たいから(笑)、しょうがないのです。
 

『鋼の錬金術師』DVDを一気に鑑賞した。かなり面白かった。

2012年02月10日 00時41分12秒 | 大震災の中で
先週半ばからずっと、風邪で半分寝込みながら過ごしていました。
特に土日はずっと寝ずっぱり。
しかし、背中が痛くて眠られず、体力消耗の週末。

でも、そのおかげで『鋼の錬金術師』(最近の方)を一気に第1巻~第15巻まで(60話ぐらい?)一気に見通すことができました。

最初は1話~10話がGyaO!で無料配信されていたので、寝床でiPhone視聴をしていたのですが、すっかりハマッてしまい、翌日朝イチ微熱を押してTSUTAYAへ。前半12巻を借りてだいたい一日で見終わりました。
ざっと1200分超の勘定になるかな。

『鋼の錬金術師』はかつて大ヒットした荒川弘という人の漫画が原作。

今の荒川弘の代表作は北海道の農業高校の青春ドラマを描いた『銀の匙』だそうで(雑誌「ダ・ヴィンチ」情報です)。

亡くなった母親を取り戻すため、錬金術を学んでいた幼い兄弟が禁断の「人体錬成」を行ってしまう。
その結果兄は片腕と片足、弟は身体全部を「向こう側」に持って行かれてしまう。

失われた肉体を取り戻すため、兄弟は最年少で国家錬金術師の資格を取り、「賢者の石」を探しはじめるのだが……

ってかんじで始まります。

まずは少年の教養小説っていうか「成長物語」でもあり

強大な力が込められているといる賢者の石を求める「聖杯探求」の物語

でもあります。そしてまた

その賢者の石の力を利用して人造人間をつくり、国家を自分の目的のために操ろうとする「お父様」なるモノと対峙する「王殺し」の物語

でもあるわけで、それらが密接に結びついていく半ばまでの展開は、本じゃないけど「巻措く能わざる」の感がありました。

後半、悪による国家破壊を阻止する話になると、「悪」の柄の大きさに主人公たちの動きも見合ったものになっていってしまい、それはちょっと「おじいさん予備軍」としては「もうちょっとお願いしたい」というところも出てくるのだけれど、飽きさせることなく適切な長さで終わってくれたのは、「少年雑誌人気連載」が抱える宿命的「正しい終わり方の喪失」を免れていて、好感は持てました。

物語って、後半が難しいんだよねぇ。
主人公の子供性が、敵の「老年」に転移・転写していくっていうのは、どうなんだろうなあ。
村上龍の『歌うクジラ』
もそういうところはあるよね。

快楽目標達成的エンジンは、どうしても「成長」を続けて「大人」から遠ざかる宿命なのかしらん。
でも、誰かがそれを背負わないと物語は動いていかないんだよね、きっと。

そこは難しいなあ。
そしてその話は、『鋼の錬金術師』のおもしろさの問題ではなくなってしまいますね。

まだ最終巻がレンタル中なので、最後の3or4話はまだ見ていません。
終了したらまた感想を。

考えてみれば、稀代のB級SF傑作アクション『ゼイラム』1・2も風邪で高熱を出したときに呼び寄せた作品だったし、『攻殻機動隊』シリーズ数十本を一気鑑賞したのも、風邪で寝込んだときだったのを思い出した。
風邪で発熱したときには、そーゆーものが身体に合っているということなのだろう。

適度に荒唐無稽で、適度に面白くて、適度にストーリー上のサスペンスもある。

でも、それが作品全体を通してその適度感が貫かれるのは結構難しい。

一緒にかりたチャンバラアニメの『ストレンヂア』は、馬にのった「追っかけシーン」の構図と動きなんて鳥肌ものだったけれど、全体としては謎は「明」の国のストレンジャーに「おんぶにだっこ」。
『鋼の錬金術師』はその点、最初は父親の失踪、次は母親の死、次は自分達の肉体の欠損、身近な人の謀殺、「国家」の戦争がもたらす喪失、と数話ごとに「死」=欠落のイメージをスライドさせながら丁寧に積み重ねていってくれるので、主人公の「賢者の石」を求める欲望もしだいに彼らの中心からずれていくことになる。
そこは買える。

問題は、物語を収斂させていく都合上、敵が「聖杯」と「王の権力」を二つながらに掌握し、その結果世界を死に至らしめようとするときに、柄が「国家」と大きいのに、それが「悪」=王に収斂していってしまうのは、どうにも話の据わりがよろしくなくなっていってしまうという点だ。

子供がないものねだりをするのは分かる。

大人がそれをやったら、「擬似子供」になってしまう。その辺りの処理は、『大人帝国の逆襲』とか『童夢』とかの方がやっぱりすごい。『天空の城ラピュタ』のムスカを考えてもいい。
「夢」を見る大人の処理っていうのは、「子供」が成長する子供の物語においては、けっこう課題だなあ、と個人的に思う。森絵都の『つきのふね』の青年の狂気と音楽家の少年の対比などを参照してもよい。

そこがきちんと描けるとすごい「作品」になる。というか、そこに凄さがほしい。

大人をどう描くのか。みんな「子供」になっていくのか。錬金術がそこにどうかかわっていくのか。
いろいろ考えながら、楽しく『鋼の~』をみた週末でした。




断然お薦め!『わが抒情詩』(草野心平・千原英喜)演奏を発見しました。

2012年02月09日 23時50分41秒 | 大震災の中で
ニコニコ動画にアップされていた以下のファイルを発見!
演奏として、淀川混声合唱団よりずっとクオリティが高い。
これを発売(頒布)してほしいです。

『わが抒情詩』一箕中学校

第65回福島県合唱コンクール
混声合唱のための「コスミック・エレジー」より Ⅲ.わが抒情詩 作詩:草野心平 作曲:千原英喜
会津若松市立一箕中学校(指揮:小向恵子)金賞(第6位)

その後全国大会でも金賞を受賞したとか。

抽出したMP3ファイルはこちらへ。
ニコサウンド『わが抒情詩』一箕中
http://nicosound.anyap.info/sound/sm16050643

淀川混声合唱団バージョンを毎日通勤時に聴いていましたが、明日からはこちらを聴きます!
泣けるなあ。
楽譜も買っちゃいました。身近な合唱団で、歌ってくれるところありませんかねえ。