龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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CX-8を試乗してきた。すてき!

2018年03月11日 22時39分18秒 | クルマ
日曜日の午後、時間が出来たのでクルマの試乗をしてきた。
いくつか乗ったのだが、印象深かったのはマツダのCX-8だった。

良かった点。
1,驚くべき静粛性

CX-3,CX-5でも言われてきたマツダディーゼルエンジンの 「静かさ」だが、CX-8のエンジンは異次元だ。本当に室内にいるとエンジンをかけた最初から最後まであのディーゼルのエンジン音を聴くことはできず、単純に、室内の高い静粛性に感動した。
外に出て、ボンネット部の近くに立って初めてそれと分かる程度だ。それも、かつてのようなうるささではなく、 「そういえばこれはディーゼルエンジンだったんだ」とようやく分かる程度の音だ。

試乗車の置いてある店舗までCX-3で連れて行ってもらったのだが、これもディーゼルエンジンの音は気にならなかった。これもまた走っている限りガソリンなのかディーゼルなのか正直言われなければ分からないレベルである。だが、CX-8はそれとは違う。繰り返すが、根本的に十分静かなのだ。 

2,トルクフルな中間加速

これもよく言われていることだが、実際メーターで40キロ付近から70キロ付近あたりまでのところでアクセルを踏むと、ストレスなくと言うよりむしろ背中を押すぐらいの力で前に出てくれる。
かつてありがちだったようなディーゼル特有のギクシャクしたトルク持て余し感は微塵もない、上質な加速だ。
CX-5でもアクセラでも、アテンザでもその良さは感じられていたが、本当に違和感なき加速が実現している。
私は2.5リッターNA+CVTのレガシィに普段乗っているのだが、他に比べると比較的躾の良いCVT+水平対向エンジンよりも、よほどリニアでかつ頼りになる加速感だった。
あるいは、ベンツCクラスの小排気量ターボ(ガソリン)と比較しても良い。

それらに比して、CX-8は余計なことを考えずに気持ちよく加速できるのだ。

3,自然な挙動

乗って数分で、手に馴染む感覚。
全てがやりすぎにならない手間、挙動が自然に手の内に納まるという感じがある。

この日他に乗ったのが、メルセデスのC180とスバルのレヴォーグ(いずれも小排気量ガソリンターボ)、そして自分のレガシィNA(CVT)と言うこともあるかもしれないけれど、このCX-8が最も自然な感じがする。

クルマの重さも感じないし、ディーゼルのネガも感じない。見えてくるのは、遠くまで運転したくなる、安心感であり自然に手に馴染む道具感である。
これに比べるとCX-5(これは発表当時の印象です)も何かモノ足りない。
レヴォーグもCクラスも、そしておそらくワーゲンのゴルフなども、少しやり過ぎな感じさえしてくる。

素人がなにを言うか、と言われそうだが、どのみち素人の独断なのだからいわせてもらえば、一番近いのは、アジリテイとか言い出す前のベンツに近いかもしれない。
もちろんマツダだから、スタンスはもっともっと運転手寄りだけれど。

4, ゆったりした上級シートと適切なアレンジ。

インテリアも上質だが、シートの質も良い。試乗したのがLパッケージという上級グレードだったのが(本革シート)、表皮の柔らかさと支えのしっかり感がいいバランスだった。このLパッケージは、2列目が二人乗りで、間にコンソールボックスがある。
三列目はあるので6人乗りということになるが、基本的には4人で乗るのが最適だと感じた。

三列目は倒せばフラットになる。むしろ将来5人乗りを出せばいいのになあ、とすら思った。

この下の中級グレードには、2列目二座と三座がある。もしワンボックスミニバン代わりに7人乗りでつかうなら(8人乗りはありません)!2列目三座のものを選べばよい。
ちなみに中級グレードでも2列目2座のキャプテンシートを選ぶことができます。



5,結論

マツダで今乗るなら、これが断然ベストだと感じた。これ以外なら、ロードスター。マツダ車はこの二択ですね。

マツダだけでなく、ゆったりと3,4人で長距離をやるなら、現段階ではこのクルマがベストだと思う(500万円アンダー)。

ディーゼルターボの方が振る舞いが上品で燃費的にも長距離に優しい。
そしてCX-5のものよりも性能が上がっている。
ゆとりがある、ということは、力があって、かついざという時に無茶をせずにサラリとその力がだせることだと私は思っている。
そういう意味で小排気量ガソリンターボは、300万円以下のクルマ(例えばゴルフ)なら最適解なのだろうけれど、このセグメントでは厳しい。
ガソリンなら2.0ターボ以上がほしくなる。

上級グレードで乗り出し総額はざっくりと450~460万円というところか?(購入をきめてはいないので、価格交渉はしていません)。



森一郎『世代問題の再燃』が面白い。

2018年03月02日 21時48分41秒 | 大震災の中で
森一郎『世代問題の再燃』を読み始めた。
一読、巻を措く能わざるがごとき魅力がある。

よく考えてみると、去年この感触に捉えられた本が二冊ある。

一冊は
佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』
もう一冊は
國分功一郎『中動態の世界』
だった。

私は特にアーレントを正面から読んでいたわけではなかった。友人にアーレント読みが一人いた、だけのことである。

だが、特に選んだわけでもないのに、まるでエンタテイメントの物語か小説ででもあるかのようにぐんぐん引き込まれていった三冊が全て哲学者の文章であり、かつ、いずれもがハンナ・アーレントについて書かれた文章であった、というのは、私にとって実に驚くべきことだった。

森先生のこの一冊は、明らかにハイデガーの側からアーレントに足を踏み出してゆくという方向性を持つ。

國分先生の本は、もちろんスピノザ(=ドゥルーズ)の側からのアプローチだ。

佐藤和夫先生のそれは、当然のことながら、マルクスの側からそれを超える形で読まれている。


これは一体どういうことか?

こうなると、私の目下の最大の関心はアーレント、ということにならざるを得ない。

だが、私の読書の関心は、哲学にもなければアーレントのテキストにもない。
私の関心は、この5年間、一貫して3.11以後の福島をどう考えていけばいいのかの一点に尽きている。

その私が、哲学書をエンタメのように貪り読み、その全てがアーレントに言及している。しかもさらっと触れているのではなく、がっつりと向き合っているのだ。

友人のアーレント読みに紹介されてしぶしぶ読んだというのではないところが、これはかなり 「 深刻 」という感じである。

やむを得ず、というか、不可避的に『精神の生活』(下巻)を読み始めたら、これがまた面白すぎて困る。アリストテレスもプラトンもかじっただけで通読したことがなく、ギリシャの話なんてチンプンカンプンだし、スコトゥスとか 「??」なのに、これもまた読まずにいられない。

ここ(アーレントのテキスト)には、明らかに 「物語」が蠢いている。一見矛盾するような、何か私たちがスルリと飲み込むことを拒むようなお話の進み方があって、論理の筋を追っていくといつもどこかで分からなくなる。アーレントを読んだことのある(素人の)人なら、 「何がいいたいの?」と戸惑ったことがおそらくあるのではないか。
それは、単線的な論理を展開するしか 「能力」として認められない 「世界」では受け入れにくい 「お話」だし、その困難はアーレントのテキストに魅力を感じるものたちでさえ、つじつまをあわせにくい難しさとして立ち現れることがあるようにおもう。

だが、おそらく、アーレントのテキストは何かよく分からないけれど 「物語」の発生地点により近いところにある。私にはそう感じられてならない。

それは文学的な感想に過ぎないだろうか。

そうかもしれない。

だが、私が信頼する現代の哲学者、しかも元々の専門を異にする三人ともがアーレントに向きあって語り出す 「今」を生きているということは、ちょっとかなり面白い。

無論それはこの 「世界」(人為の世界)が深刻な 「危機」と直面しているということでもあるのかもしれない。

そうだとすれば単に面白がっているのはよろしくない、ということになろうか。

本の内容についてはまた後日。

しさとりあえずアーレントの『精神の生活(下巻)』の意志論は、今すぐにでも読み進めねばなるまい。

それはそのまま、福島で3.11以後と向き合うために必要不可欠な営みでもある、という感じがある、ということでもある。

(この項続く)