龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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福島から発信するということ(15)

2011年07月12日 23時43分04秒 | 大震災の中で
なんだか舌足らずのような気がするので、もう一言付け加えてから寝ます。
(風邪が完治していないので、考えもいささか朦朧としてるんですが)

「福島に届く言葉で」

と書いた。
それは支援しろとか同情しろとか補償しろとかいうベクトルではない(当たり前ですが)。

そうじゃなくて、福島で起こっていることを踏まえて「思考」し「哲学」しなければ、3/11以後の言説は立てられないのではないか?と感じている、という意味だ。

福島の中にだって、「福島」に届かない言葉を喋る人は沢山いる。
私の言葉にしたところで、どこまで「福島」に届いているのか疑問といえば疑問だ。

だが、ここで「今」起こっている、収束しない原発事故の現状はあきらかに

「日本の今の経済的豊かさを守るために原発は必要だ」

という主張の偏りと限界を指し示し続けるだろう。

少なくても、他国の戦争や、地方の抑圧、有形無形の植民地化の動きによって、「経済的豊かさ」は再生産されてきたことは疑いない。私達日本人全てがそのシステムの中で相対的な「富」を手にしてきたわけだから。

この事故以後を福島で生きていると、軍事上の課題を背負った沖縄と、経済上の課題を背負った福島原発が、日本の安全と豊かさのために「機能」し続けていたのだ、ということがようやく身に沁みて理解できるようになってきた。

私達は、そういう支配-被支配の構造から脱却した方がよいのではないか?
その可能性がわずかでもあるなら、追求するべきなのではないか?

鳩山さんと菅さんが、沖縄問題と原発問題をぐちゃぐちゃにした、とマスコミは報じ続けてきた。

でもこれは日本が抱えていた国内における「植民地支配」の問題なんだよね。
宰相個人ごときが短期間で解決できる規模の問題じゃないんだと思う。

じゃあ誰が解決できるの?

あり得ないように思えるかもしれないけれど、国民一人一人の選択が変化を生むのだ、と思う。
少なくても、そこを行動の根っこに持つことが大切かと。

日本の軍事的防衛問題に、アメリカ軍と沖縄基地が深く関わっていることに気づいていなかった日本人なんているはずがないし、原発が危険だけれども首都圏に電気を供給しつづけるために地方にリスクを背負わせていた現実、を、全く知らなかった日本人なんてそんなに数が多いとは思わないよ。

つまりさ、私達は
「限定された世界が都合良く回り続ける」

ために、大きなリスクに目をつぶることがとても上手だった、ということが、政権交代であられもなく露呈してしまった、のではないだろうか。

最近喧しく言われる記者クラブの弊害についても、同じことが言える。

その場を上手く回すためには、記事が偏った挙げ句に均質になっても構わないという「心性」がそこに機能し続けてしまうんだよね、たぶん。

今必要なのは、偏っていても、不均質でも、開かれた耳と目を持ちつつきちんと自分の主張をし続ける「思考の強度」なんじゃないかな。

それは一つの政策について賛成か反対か、という立場よりもずっと重要な気がする。

「思考の強度」を鍛える道はこれはこれでいろいろあるのかもしれないけれど、やっぱり「哲学」していくことに尽きるんじゃないかしら。


福島から発信するということ(14)

2011年07月12日 23時15分29秒 | 大震災の中で
先ほど、TVのニュースで与謝野馨大臣が、
3/11以降、考え方が変わったか?との質問に答えて
「あまり変わっていない」
と答えたのが印象的だった。

この経済的な豊かさの水準を下げることはできない。この豊かさを子や孫の世代にも引き継いでいくためには、原発が必要だ。日本のような資源のない国がこの経済的な豊かさを維持していくためには。

という趣旨の話。おもわず「そうだよなあ」と深くうなずいてしまった。

私は「脱」だか「卒」だか「反」だかは別として、原子力発電所依存を脱却する方向でエネルギー政策を進めるべきだという考えを持っている。
その場合、この「今の経済的豊かさを維持するために原発の稼働が不可欠」という論理と、どう向き合うかが問われるのだと思う。

心の中では
「バカいってんじゃねえよ、もう一つ別の原発飛んだらそれでしまいやろが~」
と叫びたい思いはある(笑)。
他方、
「今までさんざん経済発展の恩恵受けて、原発も知らんぷりして黙認してて、今更手のひらがえしすんのかいわれ~」
という自分を責める声も響いてはいる。

そんなこんなでぐるぐる回りつつ、しかしやっぱり、早めに止めておいた方がいいぞ、という結論に達したのだ。

これからずーっと守るべきものは「今の経済的な豊かさ」ではなく、この日本というか郷土というか、私達のずっと生きていくべき時空間というか、この「世界の生存可能性条件」だ、思うからだ。

与謝野氏の言うように、今の経済的な豊かさの水準を保つためには、そう簡単に原発を一気停止などするのは無茶かもしれない。

だが、与謝野氏の考え方は、中期的エネルギー政策としては「愚策」に通じる危険を持つ。
敢えて「正直」な発言を出すことによって、与謝野氏の立場からいえば「冷静な議論」を喚起する狙いがあるのかもしれないが、その「今」は、もう1基原発事故が起こったら、もはや手が着けられないことになる、それまでの期間限定の「豊かさ」でしかない。

っていうか、福島は、その「今」を既に失ってしまったのだ。

このぐらいなら大丈夫、と言い張る人はいるだろう。
なるほど、放射線被曝によって「即刻確実に」身体異常が発生する線量は、とてつもない数値だから、それは今のところ事故現場に限定されてはいる。

でも、その高線量の場所で冷却作業を続ける人がいなければ、「今の豊かさ」どころか「今の安全」さえ確保されないのだ。

そう考えると、与謝野大臣の「正直な実感」は、支配者の論理か傍観者の述懐に過ぎない、と分かってくる。

彼のいう「日本の豊かさ」は、サバルタンな作業員の被曝や、牛に自前の藁を食べさせたことが全国で大問題になるような酪農家の苦悩を「日本の豊かさ」の前提としていることになりはしないか。
それが極論だとすれば、そういうリスクが原発それ自体に現に存在し、その事故による被害が現在進行形で進んでいるこの「福島」の場所に、きちんと届く言葉にして信号を発するべきだろう。

「日本が豊かであり続けるためには、福島のような事故のリスクはやむを得ない」
って話になっちゃうよね。3/11以降考えが変わらないってことは、さ。やれやれ。

繰り返すが、私は
「日本の国土が豊かでかつ安全であり続けるためには、ある程度経済発展にブレーキがかかってもやむを得ない」
と考える。

なぜなら、今は「技術」が「生活の可能性条件」それ自体を根本から揺るがしているからだ。
私達の生活を根こそぎ奪い、汚染し、ないがしろにする危険領域まで技術が来てしまっているからだ。

しかも、原発で発生し続ける放射性廃棄物や使用済み燃料などの処理の技術はまだ手にしていない、ときている。

この点、環境汚染を顧慮しないという意味では、軍事用の原子爆弾と同じリスクを、自国民に背負わせているのだから、かなり笑える。
福島県民としてはブラックな笑いになってしまうけれどもね。
ま、他国人にリスクを背負わせる核保有国もどうかと思うけれど。

「今の豊かさ」がどれほど失われるのか、悲観的シナリオと楽観的シナリオをぜひ提示してもらいたいものだ。地元の海で水揚げされるサンマとイワシとカツオとメヒカリとを、刺身で食べるか酢漬けにするか、あるいは塩をかけて七輪で焼き、地元で採れた菜っ葉を味噌汁に入れてご飯が食えれば、それで私個人は大丈夫なんだけどなあ。

たぶん与謝野氏の「豊かさ」とは次元が違うのかもしれない。

原子力発電所の事故が再度起こったとき、「今の国土」や「今の人間の暮らし」がどれほど脅かされるのか、はもう、よく分かったわけで。
いったん事故が起こったら、海産物が全く採れなくなる日本の原発は、海沿いの住民的アイデンティティからしたら、絶対に稼働・存続は「無理」なんだけどなあ。

P.S.
原発立地の地区近隣の漁業補償はかなり手厚くされて来た側面もある、と聞く。
それだけリスクが大であることを、双方認識していたからでもあろう。

でもさ、こんなことを今更書くのも口幅ったいけれど、海は電力会社のものでも漁民のものでもないんだよね。

そういうことさえ「今の経済的な豊かさ」で押し切ろうとする姿勢は、未来を生きる者の「哲学」ビタミンが不足しているなあ。

さてさて。与謝野氏の「正直さ」に退場願うための努力を、福島で続けていくにはどうすればいいのか。
宿題ばかりが増えていきます。


福島から発信するということ(13)

2011年07月12日 22時15分40秒 | 大震災の中で
風邪を引いて寝込んでいた。寝込みながらも仕事には行った。ふらふらした。
風邪の熱なのか、世の中の暑さゆえなのかも判然としないまま、倒れそうな1週間を過ごした。

その中で、夢うつつに考えたことは、もう、日本は原発に頼った経済から「足抜け」しようということだ。

声高に何かを語ることは、慣れていないし気恥ずかしいし有効かどうかも分からない。
正直どうすればいいのか分からない。

しかし、東京電力福島第一原子力発電所の事故を踏まえて福島から発信する時、私は原子力発電所の稼働を停止し、限りなく速やかに冷温停止状態に移行することを心の底から祈るよりほかに術がない。

日本のピーク時電力事情の問題は、みせかけの問題にすぎない。
日本の国土を、郷土を、生活の礎となる時空間を大切に思うなら、福島の事故のようなことがもう一回起こったら、おそらく日本は経済的にも文化的にも圧倒的なダメージを蒙るに違いない。

自らの手で、国土の放射能汚染と引き替えにいくばくかの経済的豊かさを求めるという方向から、引き返すべきだ。
給料が下がってもいい。食べるものが貧しくなっても構わない。食糧自給率なんて、原発事故が次に起こったら、本当に「絵に描いた餅」になってしまうだろう。

なるほど東京電力第一原子力発電所は、冷却平衡状態をいまのところ保ってはいる。
しかし、あんな瓦礫の中で、間に合わせの綱渡りの中で、危うい必死の作業が続いているのに、まだ「実際に起こってみないと分からない」のだろうか。

原発を止めても、燃料や廃棄物、廃炉になった発電所自体と、何十年何百年単位でその放射能の処理の課題は続いていくだろう。明日全てがクリーンになる、なんてことはとうてい考えられない。

しかし、私達はもう、明確に舵を切るべき時を迎えたのではないか。
福島の人間達は、県内の原発誘致と稼働とを黙認してきた自らの不明に思いを致すと同時に、他の地域の人たちに、この現状に生きることの意味を、伝えていかねばならない。

菅首相は、もう政治的指導力を失っていて、それでも総理大臣を辞めさせられないからみんなで切歯扼腕している、と連日報道されている。支持率もどんどん落ちているとも聞く。政治の文法としてはむちゃくちゃなのだろうと思う。せっかく政権交代が実現したのに、「成熟した政治」のありようなんて絵空事になってしまった。

なんだか凄いなあ、と私も思う。

でも、政治家として支持はしないが、原子力発電所のさらなる事故が起こる前に、これを出来る限り早い段階で稼働停止し、冷温状態にしていく施策を打ってくれるなら、どんなに不人気で地位に妄執している政治家であっても、その政策を支持したいと思う。
無論、それは何も今の首相でなくても構わない。ただ、原発推進派だった政党およびその政党の出身者(国会議員のかなりの割合がその中に入る)は、胡散臭いし。

シングルイシューでOK。

エネルギー政策における原発以後のグランドデザインを描く政策を望みたい。
どなたか既存の政党ではなく、立ち上がってくれませんかね?
(他力本願ではだめかな。どうやったら政治を動かせるのか、勉強すべきだろうか?)

即、停止が不可能だとしても、この事故を再度起こす前に、原発依存からの脱却を目指そう。
性急にゼロを望むのでもなく、「何か」と国土・国民の安全安心とを秤にかけるのでもなく。

だって、たとえば福島県沖のお魚を、私達は今口にできないんだもの。
経済的な豊かさと引き替えに失っていいものと良くないものがある。
こんなことが福島以外で起こらないようにと、きちんと声を上げていく義務を私は自分自身に感じている。