龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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大震災以後を生きる(21)

2011年07月31日 20時30分28秒 | 大震災の中で
いわき市の渡辺市長は、いちはやく「いわき市は安全だ」と宣言し、4月6日に始業式を全市内の小中学校で実施する、と決めた。
結果、いわき市内の平均的な線量は比較的低く、一部のホットスポットを除けば年間外部被曝線量は1ミリシーベルトを超えない場所が多いようだ。

市長はたまたま「賭け」に勝った、といえるかもしれない。
(実情は商工業者の意向と市の存続の必要性から、「安全」に賭け金を張っただけかもしれない。賭け金はもちろん、市民の<生命の安全>なんだけどね)

安全だ、といって本当に安全なら、これに越したことはない。賠償責任も問われないし、人口の流出も防げる。

だが、たかだかそれだけのことだ。

いわき市内にも一部、北側にホットスポットが存在することが明らかになった後の対応が、市民全体に見えてこない。

「安全/危険」

という二項対立のその「/スラッシュ」が入っているポイントをどこに定めるか、はたかだか一地方首長が背負うには本来重すぎる荷物だろう。
本当は、「安全宣言」など口にするのは反則技だったのではないか。

そしてこれはいわき市の問題に止まらない。
福島県内で何かと話題になっている年間20ミリシーベルト以下、という基準は、中通りの中核都市が避難しなくても良いように定められた「基準」なのだろう、と私達県民は「分かっている」。
それは(たとえ決定プロセスが全て明らかになったわけではなくても)、私達が現実の中で日々生活をし、さまざまな情報を受け取りながら、私達の「初期衝動」を受け止めて条件を詰めて考えていけば、自ずと結論にたどり着く種類の「知」だ。

グレーゾーンは放置かい?!と言ってみたくもなる。

他方、1ミリシーベルト/年以上の被曝が考えられる地区のヒトは一刻も早い全員避難を!と叫ぶ人たちもいる。
健康が第一、ということだろう。それも分かる。

だが、福島県内に今なお住み、仕事や生活を営んでいるヒトは、避難後の生活や仕事に大きな不安を抱えると同時に、自分が今ここに住んでいることの意味を、誰もが考えつつ、見えない決断をしてそこに生きている。

「市長が安全宣言をしたから」とか「山下なんたら」というヒトが大丈夫といったから、といっていわき市に、あるいは福島県内に思考停止して止まっているわけではない。当たり前のことですが。

ヒトは、土地を離れては生きられないのだ。

無論、「人間至る所に青山あり」も半面の真実だろう。
死ぬのはどこであってもいい。だが、今ここに生きる営みを原子力発電所の事故によって鋭利な刃物で切り裂かれて、おまえの生活はもはや「ゾンビ」だ、実際には「おまえはもう死んでいる」と言われたって、「はいそうですか」と荷物をまとめて動くわけにはいかない。

ここに生きているということは、そこに生きてきた、ということでもあり、これからも生きていくであろうという一貫性の上に、それを大きな拠り所・基盤として私達の生活は成立しているからだ。

だとすれば、強制的に移住を要求する水準が、健康被害を最大限に考慮した、1ミリシーベルト以下というわけにはいかないのではないか。

第一、「政府も残った県民も等しく愚かだと」いうのは簡単だが、200万県民の避難なんて、だれがいつどこでどこまでそれを補償・保証・保障してくれるというのか。

むしろ、県民の選択に応じたサービスがほしい。

年間20ミリシーベルト以下の被曝線量を超えるヒトには補償も含めた生活の保障が急務だ。
だが、それだけが対応の全てであってはなるまい。

たとえばの話、5ミリ~19シーベルト/年以上の被曝線量が予想される生活を営んでいるヒトについては、避難選択可能者として避難支援を積極的に行うなどの施策があるべきだろう。

地域や地点を簡易な計測で決定して、その場所を「お上」が認め、避難を突然強制する、というやり方は、決定的に現状から乖離した「古い」やり方だ。
お上は幅を持った基準を提示し、市民の選択を支援していけばいい。そのときに、リスクの高低はあっていいのだ。

たとえば20ミリシーベルト/年以上の線量を受ける生活をしているヒトは、無条件で補償をすればいい。
被曝線量5ミリシーベルト/年の程度でも逃げたいヒトは、非認定とするのではなく、補償程度を考慮しつつ、お金だけではない就労とか、期間限定避難の雇用や住宅の斡旋促進など、やれることはあるだろう。

全部丸抱えで東電や国が補償する、というのは、理想的だが非現実的だ。

むしろ、国が全部コントロールするような法律ではなくすべきではないか。

垂直統合型の法律も社会制度も行政政策も、もはや通用しない。

水平分散型の人間の営みの選択、自分自身がその可能性条件を知り、選択し、生きていくための支援を、私達は「国」としても「行政」としても「地方自治体」としても、そして市民同士としても、行いはじめる時期にきていると私は考えている。

そのためには、私達自身が、「どうすればいいのか?」ではなく、現況を踏まえて「どうするか」を自ら「よりよい生」のために選択する「人生の手間」=「コスト」を払う必要が生じてくる。

だからこそ情報の公開、共有の重要性は、これからどんどん増していく。
そして、その速度の方が行政の施策や政治家の決断よりも必ず「速い」。
政治は市民の行動を法律で縛るのではなく、生きる多様な選択を支援する必要がある。

お金は無限ではない。人的資源も限りがあるだろう。
その上で、「初期衝動」(原発事故はこりゃかなりやばいぜ、という)の方向性を踏まえた上で、分散的な社会包摂性を保障するような、その方向性を踏まえた「支援」を行っていくべきだ。

そのとき、私達は「人格に収斂しない」厳しい他者批判と、「処世術」に還元されない「自分が生きる姿勢」とを同時に必要としていくのではないか?

どんなに厳しい批判に見えても、枝野官房長官や菅首相の「悪口」をいくらいってもらちはあかない。
だって、どう考えてももともとそんな個人に「影響力」のある社会システムじゃないわけだし。

与党自民党&官僚&財界&行動経済成長=垂直統合型システムの優位性
が崩れたのですから。

ちなみに、菅首相の本日のコメント「保安院の行為は薬害エイズの時の厚生省の対応と同じだ」
は、当たってると思うけれど、あまりに視野が小さすぎて切なくなる。
大きな視点と同時に、細部の方向性を示唆する(制御ではない)政治的言説を持たない首相だなあ、としみじみ思う。

それでも、彼を下ろそうとするだけの政治家よりは、「脱原発」の方向性を示そうとする努力においては、私達の「初期衝動」に合致している。

たぶん私達は、この大きな「事件」において感じている「初期衝動」と政治システムのあまりに大きな乖離にいらだっている。それは政治家も行政も財界も同じなんじゃないかな。
「初期衝動」に対し、瞳を凝らし続けていくこと。

それは、「理念的に反原発」を信仰することとは違うし
「原発推進/原発反対」
の二項のうちどちらかを選ぶ短絡・縮減とも違うんだけどね、きっと。


公共性について、共同体について、国家について、そして存在論について、考え直すべきことはたくさんあるなあ。
(この項も継続して考えます)



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