龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

千葉雅也×國分のドゥルーズ対談が二本!

2013年10月25日 05時34分58秒 | インポート
2013年11/8(土)、11/9(日)と連続で、千葉雅也先生と國分功一郎先生のトークがあります。
聴いておきたいなあ。
池袋リブロ11/8
http://botanyfree.appspot.com/www.libro.jp/news/archive/003709.php

表象文化学会11/9
http://www.repre.org/conventions/8_1/

前者は千葉雅也『動きすぎてはいけない』の出版記念イベント、
後者は二人(國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』を含む)の書評イベント、という表題の違いはありますがいずれにしても「生成変化と原理」両方から光が当てられた「ドゥルーズの楽しみ」を、味わっておきたいものです。
震災後、朝日カルチャーセンターで行われたお二人の対談で、
「僕は二元論ですが、國分さんは一元論です」
と千葉さんが冗談めかして言っていたのを思い出しました。


青春小説のこと(続き)

2013年10月14日 01時43分13秒 | 評論
『横道世之介』の話の続きです。

さっき、庄司薫の唯一裁断してあった
『白鳥の歌なんか聞こえない』
を読み返した。

なるほど、青春小説って「性」は当然の悩みだとして「死」もまたテーマなんだよなあ、と納得してしまった。
「死」からは最も遠い場所にいるんだけどそこはそれを最も意識する場所でもある……。

『横道世之介』を読んでいて常に感じるのはその存在=「不在性」だ。
それは単純な人の「死」とはちょっと違っていて、時間の隙間みたいな、自分自身との関係における記憶の裂け目みたいな、そこを満たすものとしての「世之介」になっている。

「薫クン」については何もいうことはない。

自分のことについていえば、年齢的にはもう小説に出てくる小林秀雄的な凄いおじいさんの方に近くて、中身は「薫クン」のグルグルからやっと這い出したところだ
となると、どうすればいいのやら、分からないままだ。

ただ、「青春小説」ってのはただこっぱずかしいことをおそれもなく書いてしまった、というだけのものでもなく、年をとってからでも読めるというか、むしろ年をとってからなら書ける、というものでもあるのかもしれない、とも思った。
ということは、年をとってから読むこともまた、できるのかもしれない。





『イギリス近代史講義』川北稔、面白い!

2013年10月13日 09時04分24秒 | 大震災の中で
歴史って、やっぱりメチャメチャ面白いじゃないですか!
と感じさせてくれる一冊。
今ようやく植民地のところまで話が進んだところですが、霧が晴れてくる思いがします。

ヒュームとかターナーとかホッブズとか、この本もそうだけれど、イギリスづいてる。
先週飲んだ英語屋の友人も、
「100年後には間違いなく、この我々が生きている今のことを、後世の歴史家たちは、アングロ・サクソンの時代って呼ぶよ」
なんていってた。

そういうお勉強としてもいいし、もっと簡単な話、
日本の中の福島がなぜ「東京の植民地」だなんて言われるのか、そのロジックを手探りするにも役に立ってしまいそうだ(^_^;)。

別のイギリス系研究者の知り合いは
「アングロ・サクソンは、ファシズムに行かなかった。これは確かなんだよ」
という形で、別の意味の参照点を示している。

いうまでもなく、そこに「解答」があるわけではない。
そうではなくて、

「十分に問われ尽くしていない、しゃぶり尽くすべき問い」

がそこにある、ということだろう。
イギリス恐るべし。っていうか、それは国のことなのか?みたいな話から例によって始まるから「まったくもう」ってなるけどね(笑)

そう、「国」とかが自明じゃないからこそ、の参照点、ってことでもあるかも。

私の子供の頃は
「イギリスも日本も島国で」
とか言われていた。なんと素朴な「地政学」!

この本を読んでたら、「日英同盟」を一度じっくりイギリスの側から見ておきたくなった。
いろいろ興味深いです。
オススメ!






吉田修一『横道世之介』を読み始めた。

2013年10月13日 08時36分04秒 | 大震災の中で
吉田修一『横道世之介』について、メディア日記「龍の尾亭」に書きました。

http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980448

いわゆるバブル世代の青春小説です。
私の頃の青春小説といえば、
小学校→中学校では北杜夫。
中学校→高校では庄司薫。

『アルキメデスは手を汚さない』小峰元とかもあった。
大学に入ってから以後は
『風の歌を聴け』の村上春樹
『個人的な体験』の大江健三郎
『69』の村上龍
といったところ。
黒井千次『春の道標』なんてのもありましたね。

『横道世之介』吉田修一

は、その本棚に間違いなく置かれる一冊。

青春小説って、その本性上「こっぱずかしい」ところがあって、だから読んだからと言って誰かとその本について話をするなどという間抜けなことは出来なかった。そうこうしている間に、気がつくと「青春」自体がほぼ死語に近くなる。

でも同時に、「青春小説」は、そう簡単に息の根が止まることはないのだろう、とも思う。
なぜなら、「青春」はカテゴリーだけど、「青春小説」はなんだかんだいっても「表現」だから。

バブル世代ではなくても、とりあえず「男の子」にはオススメの一冊。
「青春小説」については女の子のジャンルなのかどうかさえ、わかりません。
私の中の女の子にとっての「青春小説」は、
「バナナブレッドのプディング」大島弓子
とかの、少女漫画に尽きているもので(リアルタイムとしては)


あ、ちなみに「私の中の女の子にとっての」とは、
私の中で想定する「女の子」概念
ではなく、
「私の中で生きられている『女の子』」にとっての
ということです。


<<拡散希望>>【第3回エチカ福島開催のご案内】

2013年10月11日 07時04分53秒 | 大震災の中で
<<拡散希望!!>>【エチカ福島第3回セミナー開催のご案内】

福島の仲間たちと企画して立ち上げた団体です。
活動目的は、3.11以後に福島からしか立ち上がらないエチカ=倫理を、各分野で活躍される知識人を招きながら、聴衆も巻き込んで討議を行うセミナーの開催です。
講師のお二人は研究の最先端をゆく哲学者です。
ぜひ、多くの方々にご参加いただければ幸いです。

【開催日時】 12月21日(土)13:00~17:00
【テーマ】「社会を変える/社会が変わることへの哲学的探究―原発事故は日本社会を変えたか?―」
【講師】 佐藤和夫先生(千葉大学名誉教授・哲学・アーレント研究・ジェンダー研究など)
      高橋哲哉先生(東京大学教授・哲学・デリダ研究・戦後責任論・記憶論など)
【タイムスケジュール】  
1.開会―エチカ福島とは― 13:00~13:05
2.第3回テーマの趣旨説明(渡部) ~13:15 
3.高橋哲哉 先生 70分 ~14:25
  10分休憩
4.佐藤和夫 先生 70分 ~15:45
  10分休憩
5.佐藤―高橋の対談30分 ~16:15
6.会場との討議 45分 ~17:00
7.閉会 17:00

(場所は決定し次第改めてながします)


裁断&PDF化した書籍が1300冊になった。

2013年10月07日 00時29分26秒 | ガジェット

去年から始めた書籍の裁断&電子化の作業が定着し、1300冊ほどになった。
500冊までは一気に(当たらし物好きの常で)作業したが、その後ペースが鈍っていった。

というより、蔵書全部を電子化するとかいう野望=妄想からは離れ、どこでもいつでも読みたい本が読める(特に読みたくない本まで、財産の総電子化をすることはない)というところにコンセプトが収斂した、というべきか。

本棚周りもあふれることがなくなり、新刊書は数十冊いつも手元に置けるし、じっくり読みたい重厚長大な本も、300グラムを切った端末で読める。

要は、読みやすければそれでいいわけで。

今は、読みたくて買った本から裁断し、あとは古い本棚から折に触れてデータ化しておいた方が便利な本をとりあえずぼちぼち加えるというペースができあがっている。

全部の本(旧版も含めて)アマゾンとか楽天で出してくれるなら、別だけれど、もう買ってしまったものはどうにもならない(アマゾンは書籍で買ったものはデータも読める、みたいなサービスも始めたみたいだけれど、しょせんそれは外つ国の話)。

ようやく自分のライブラリーという感じになってきた。

迷っている人は、

新刊+読みたい手持ち本

の裁断に限定して始めるといいですよ。
くれぐれも蔵書全体の電子化とかは、誰か業者に頼んだ方がいい……ってそれはもう違法、って判決が出たのか。じゃあしょうがない。自前でできる範囲は限界がありますから(普通の生活をしてると、1年1000冊ぐらいがいいところかと。精魂を傾ければ3000冊ぐらい可能だろうけど)。

まあ、読むときは1日3~4冊ぐらい読んじゃうし、調べ物などしはじめたら何十冊ならべればいいのか分からないこともあるけれど、とりあえず、実用に耐えられるストックにはなってきました。

隠居準備も整いつつありますね(笑)。


9/20に「結婚」がテーマの哲カフェふくしまに参加した。

2013年10月06日 23時11分57秒 | 大震災の中で

「結婚」についてなんて最近考えたことがなかったから、いい思考の運動になった。
ただ、制度としての「結婚」はさておき、個人的には男女を問わず継続的に「つがい」として(セクシャルな)関係を保とうとする場合のパターンは、それこそ無数にある。

だから、そのパターンを挙げていくだけでも大変、というか。これはとてもじゃないけど1回の哲カフェじゃ収まらないと思う。哲カフェふくしま史上最大の参加人数だったのもうなずける。

個人的にはそんなに興味を引く主題ではなかったが。

あとはその「制度」に乗る(婚姻届を出す)、ことの意義、かなあ。
これは現行制度が日本だと一種類だから、話としてはわかりやすい。

お話の中で、それが結婚なのかどうか、異性なのか同性なのか、は別として

「パートナーがほしい」

という意見が出て、私としてはそれが一番納得だった。
ただし、ファシリテーターもあとでつぶやいていたけれど、結婚は「性的」な意味もあるから、友達が一つ屋根の下(じゃなくてもいいんだけど)に住むこととは違う。

いや、夫婦は日本の場合よく言われることとして、どんどん「性的」な意味合いが希薄化していったりもするんですがね。

「パートナー」

ってなんだろう?
「対(つい)、番い(つがい)、相手、ライバル、仲間、友人、共同体(三人以上も可?)……」

一対一、一対多、多対一、多対多

組み合わせはいろいろある。
でも、漠然とながら、気の合った相手、というのと結婚相手とは違うような気が(私は)している。

全く他者や社会の存在しない中で、二人で過ごすならいざしらず、社会の中に生きる他者と「生活」なり「人生」なりを共にする以上、職場でも親でも近所でも、相手の友人でもいいけれど、さまざまな関係性の網の目をある安定性というか継続性というか固定性を前提として「共に生きる」ことを選択するってのが、一般的に「結婚」には含意されているといえようか。

好きだから一緒にいるんだったら、好きじゃなくなったら別れればいい。
それだけのことだ。
あえて、制度としての結婚にコミットするからには、それ以外の動機が必要だし、また必ずある。

子どもを産み育てる、というのは、男女の好悪に基づくセックスの延長線上にあるが、好きか嫌いか、とは別次元のことになる。だって、子どもは「天与」のものだからね。人間が「天与」として二人に授かるっていう生物システムは、動物でありながら同時にいろいろ複雑な社会を営む人間でもある私たちにとって、勝手にそのへんで「雑婚」したりするってわけにも行きにくくなるのも事実。

そんなこんなで、一夫一婦制は経済的・制度的にも便利なので、単なる性的関係に止まらず、それが個人の側から求められていたりもするのだろう。

今の婚姻制度はいろいろ変わっていくのだろうし。

だから、個人が互いにパートナーを選ぶというのは、ことの半面に過ぎない。
自分の気持ちを越えて、それよりも大事なものがある、と共に社会に向けて宣言し、イノセントな子どもであることを放棄して、社会的網の目に「つがい」として参加していくことが、とりあえずは「結婚」なのだろう、と思っている。

むろん、そんなことを自覚的にやる必要もない。だから、「子どもができたから結婚しようか」となるのも当たり前だ。

さてだが、別に子育ての問題だけなら、シングルマザーやシングルファザーが雇用とか住居とか養育費とかの経済的手当ができていれば、今の結婚形態を取らなくても別にかまわない、ともいえる。
だいたい、そんなに継続的に相手を好きでいるとは限らないし、自分の好悪の選択を越えて相手と継続的にパートナーシップを結ぶ契約が結婚ではあるとしても、合意破棄もまた、本人の選択である以上、イヤになったらやめればいい、ともいえる。
だが、それでも、ハードルを設定しておくことは、無意味ではない。それは社会の側からの要請、ととりあえずは言っておいてもかまわないのかもしれないが、結婚の「門」はやっぱりそこにあったりして、それは私たちがお正月を祝わずには居られないこととも無関係ではないかもしれない。

文節化と共=身体(個人でもなく集団でもなく)の関係は、やはり自明であるように見えて謎だね。







ヘイトスピーチについての判決が明日言い渡し。

2013年10月06日 22時48分52秒 | 大震災の中で

ヤフーニュースによれば、
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131005-00000019-mai-soci

---引用開始---
2009年12月に京都朝鮮第一初級学校(京都市南区)の校門前で街頭宣伝をした「在日特権を許さない市民の会(在特会)」の元メンバーらを相手取り、学校を運営する京都朝鮮学園(京都市右京区)が、学校の半径200メートル以内での街宣禁止と計3000万円の損害賠償を求めた民事裁判の判決が7日、京都地裁(橋詰均裁判長)で言い渡される。
---引用終了---

もちろん判決は具体的な個別の事情によるが、ヘイトスピーチは、「顔が見えない」ことばである限りにおいて、よろしくないと個人的には思う。

この件については、今日読んだ

『「自分の子どもが殺されても同じことがいえるのか」と叫ぶ人に訊きたい』森達也

の本に全面的に同意したい。

エチカは、この表題のカギ括弧の中に語られるような抽象的・記号的・仮言的なところから立ち上がりはしない。
こんなところから立ち上がるのはせいぜい「正義」という幻想どまりだ。

そして、幻想エンジンを積んだ止めどなき「正義」ほど、恐ろしいものはない。

エチカ(倫理)は、想像力によって支えられてはならない。
私はきわめて個人的にそう、考えている。

「私だったら?」

と考える訓練は必要だし、そのことによって脳にシステムをインプットしていくことはむしろ強制してでもなされるべき局面はあると思う。

だが、そんなことで他者を糾弾したり、共同体を糾合しようとするのは、沙汰の限りだ。

では、エチカ(倫理)は、どのようにして「共有」され得るというのか?
決定的な答えを私はまだ得ていないし、生きている間にそれを手にすることができるのかどうかも正直覚束ない。

でも、あえて話をしておくなら、想定された「人間」像によって他者を縛るのではなく、私たちがよりよく生きる力に基づいて生きることから始まる必要がある。

ヘイトスピーチは、単純に世界を縮減する「相貌(顔つき)」しか持たない言葉だ。

だから、それはよりよく生きる力に基づかない。何かを守ろうとしているのは分かる。
そして、その何かを守るためなら、積極的「排除」をも厭わない、という姿勢が見える。

だが、それは自分自身を潜在的に「排除」するロジックさえも、孕んでいくのではないか?そういう危惧を持つ。
つまりは、その程度「想像力」はむしろ共同体を縮減させるキケンを孕み、その結果、原理的には中にいる人をも潜在的に排除する志向を持つ。

それは、中にいる人をも「よりよく生きる力」に結びつかない。

私はそう、考える。
だから、ヘイトスピーチには反対。

おためごかしをいって、甘言を弄しながらその実、人をおとしめる言葉の方がましだ、とは思わない。
ヘイトスピーチだけに悪意を感じるのは、それもまた自分の姿勢を「縮減する」きけんがある、とも思うけどね。