龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

先日、文房具屋さんに立ち寄ったら

2012年03月29日 23時12分10秒 | ガジェット
色彩雫(iroshizuku)というインクの新色シリーズのキャンペーンをやっていた。
併せて、そのインクの色が見た目でも楽しめる、透明軸のカジュアルな万年筆もずらりと並んでいた。

もう、それだけで「そそられる」。

しかし現状、万年筆で多色の筆記をカバーするのはどう考えても無理があるので、その中から2色(冬柿という渋いオレンジ色と、松露という落ち着いた感じの緑)を、パイロットの透明軸とソネットに入れて使っている。

その他の色はスリッチ(Slicci)という極細ゲルインキボールペンでカバー。
ちなみにこのスリッチは、細いのにスムーズで、途中で途切れて(とくにHi-Tech C のように!)「ムキーッ」となることが皆無なのも気に入っている。でも、書き味はやっぱり柔らかくて腰のある、万年筆が最高だ。

ちょうどドイツ車のサスペンションがいいとか、レガシィの四駆のコーナリングのテイストが、とかいうのと、万年筆の書き味とって、どっかシンクロしているような気が(こうやって無理矢理重ねて書いていると)してきた(苦笑)。

色彩雫(iroshizuku)は現在21色。洒落たボトルデザインもグッド。

詳細はこちらへ。
http://www.pilot.co.jp/products/pen/fountain/iroshizuku/index.html

この機会に万年筆デビュー、いや、付けペンでもガラスペン(これが意外に書き味がいいのです)デビューでもいいので、インクを揃えてみたりするのはいかがでしょう?
そうなると次は原稿用紙とか便せんとかを選びたくなったりしてね(笑)。

趣味はそうやって増殖していくのが定め?





知人に万年筆を趣味にしている人がいる

2012年03月29日 22時44分46秒 | ガジェット
知人に万年筆を趣味にしている人がいる。

ただ書くだけなら105円のボールペンでこと足りる。

だから、実用品として考えれば彼のコレクションはほぼ「ムダ」だ。
中には未だにインクを装填したことがない(従って、インクをちょっとつけて試し書きをしただけ!)のものもあるという。

万年筆に趣味マインドを動かされたことのない私には理解できない領域だ。

まあ、私も万年筆なら何本か持っているが、高が知れている。
1番高いものが大橋堂(仙台)の6万円のもの。
これは趣味で原稿用紙を埋めるときとサインに使用。

2番目はもうパイロットの742(2万円のMF)。これをほぼ20年近く実用品として使っている。
その前は7500円ぐらいのパイロットカスタム(14KのF)を5年近く使っていた。

あとは普段使いにサファリのラミー(3500円)とか、ペリカンの普及版透明軸(1万円)、それにパーカーのソネット(安売りがあるのでオープン価格)も定番だ。それぞれ何本か入れ替えて使っている。

その中でも秀逸なのはパイロットの742。
手になじみ、何十年使ってもへこたれない。
実用品としては必要十分を満たしている。

大橋堂は筆圧の強い書き方に耐えられるボールペンのように丸いペン先のもので、これはクルマでいえば趣味のオフロード用とでもいった趣き。
実はあまりオフロードを走らないSUV、という面でも似ているかもしれない。
実用品としては、赤インクを入れて採点に使っても面白いのかもしれない。
実際そうやって使っている同業者もいる。ちょっと勿体なくて私はできずにいるけれど。
ともかく、趣味と言えるのはこの1本だけだ。

さて、件の知人はレベルが違う。
コレクションとして何十万円もするような限定版やら蒔絵ものなどを、何十本も並べて悦に入っている。
真正の万年筆ヲタクにちがいない。

ま、しかしながら、ことさら「文房四宝」を喩えに出すまでもなく、古来、モノを書く地位にあった士大夫は、文房具をこよなく愛し続けてきた。武門が「愛妾換馬」してきたごとくに。

考えてみれば、脳味噌からわき出てくる言葉を液体として紙に流出させ、インクの沁みとして痕跡を残す筆記具は、料理人の包丁のように、あるいはゴルファーの手袋やボールのように、野を駆ける武者の愛馬のように、「ゲームのルール」に則って世界と脳味噌を橋渡しするインターフェースの役割を果たしている。

万年筆に戻れば、モノの手触り、持った時の重量、バランス、インクの流量の微妙な制御、紙の吸い込み具合、接触する紙面との滑りぐあい、ひっかかりの度合い……

それらは、実は微細なものではあるけれど、「モノ」と接してその向こう側に「世界」を感じる重要な、あるときには決定的な手だてにもなる、そんな事件の現場、でもあるのかもしれない。

たとえば、自分の趣味に置き換えてみると、40代まで、家族が乗れるワゴン車だったり、長距離を乗るならディーゼル、だったり、エコなリッターカーだったりと、クルマはライフサイクルの中で、あるいは時代の中で、自分は自身で選んだつもりでも、無意識にチョイスされてきた。

たとえその時どんなにそれが強く「欲しい」と欲望されたものであっても、適切に消費されていくべき商品にすぎなかった、とも言える。

あるいは、工業生産品を趣味として収集したり、実用品、機能的な道具の枠組みを超えた数や質を求める心性を「ヲタク」というとして、でもそれは縮減された世界像の「箱庭」の構成物であり、その限りにおいて収集者は世界と繋がっている、という印象を抱く。

「何を馬鹿なことをやっているんだ」

と。

オープンカーを購入したときも、誰に直接言われたわけでもないのだが、その「声」を意識した。

具体的に
「雨が降ったらどうするんですか」
などと聞かれたこともある。

「屋根をしめるに決まってるでしょ」
と答えたが(苦笑)。

あるいは、
「こんなクルマに乗るのはキチガイだよね」
と冗談めかして言われたこともある。

まあそれはまだ良かった。基本的にクルマは田舎に住んでいれば足として必要だし、長靴を履こうがサンダルだろうが、とにかく足に靴を履かねばならないように、クルマも生活の必需品だ。あとは何を履くかは趣味の問題。足は所詮2本しかないように、クルマは誰であろうが一度に1台しか乗れないのだから。


クルマって、高い買い物だから、それなりに相手の美点を見つけて惚れようとするし、そうでなければ長く付き合えない。
そしてたぶん初めて本当にクルマと出会って感応したのがロードスターだったのだとすれば、それはそれで自分の中で納得だった。

家族持ちはミニバン、とかいう宣伝に彩られた「生活」の物語とは全く違った「体験」だったし、誰に強制されたのでもない、「文化」との出会いだったわけだから。


さて問題は二台目の購入、である。

次に二台目のクルマを買うとなると、他人の規範じゃなくて、自分自身の中の「規範意識」が、解消しがたい罪悪感を醸し出すことになる。

趣味ってなんだろう、実用ってなんだろう。文化って、装いって、振る舞いって、表象って……
いろいろグルグルし始める。

言い訳としては、趣味と実用という二本立てを立てることもできる。

実用→4駆レガシィ VS 趣味→オープンロードスター

あるいは用途が違うのだ、と実用の旗を二本立てておくこともできる。

実用 ( 実用4駆レガシィ VS 趣味→オープンロードスター)

でも、どう考えても怪しい。我ながら道を踏み外しはじめているとしか思われない。

別の文脈で、震災後のアニバーサリーリアクションで、耐えていた緊張に耐えられず「蕩尽」による弛緩・解放を求めているのだ、とでも言っておくか(苦笑)。

そんな風にグルグルするのも、意外に面白くなくもないが。

さて、まさか3台目はないと思う。
思うが、もし万が一3台目を手にしたら、あとは無限に続く、のだろう。それが「やみつき」って奴だ。

いや、実際に庭にあるのは2台でも、それがお手玉のようにグルグル交換されはじめたら、それはもう既に「3台目」ということと同じ。

そういえば、別の知人(そういう知人が多いんです)にバスのミニチュアだけを集めている人がいて、

「思い返せば3つめを買った時から始まってましたね」

という「迷言」を述懐していたっけ。

趣味は「3」という数字からアディクション(溺れ)が始まるってことか。

この項、とりとめなく続きます(苦笑)。



ENGINE の2012年5月号は

2012年03月28日 20時04分52秒 | クルマ
「いざ、オープン・カー・ライフへ!」

「見上げてごらん、空がある」ふたたび。という副題がついたオープンカー特集である。

懐かしかった。

この雑誌、去年の5月号もオープンカー特集だったのを覚えている。

(編集長が変わったのかそれとも私の勘違いか分からないが、鈴木正文という人が書いていたはず)編集時点では当然予想だにしなかった大震災と原発事故の直後にオープンカー特集になってしまったことについて、エクスキューズをしていたように記憶している。

確かに、まだ原発由来の放射能が降り注いでいるのでは?という危惧の中、オープンカー特集号とは、場違いといえばこれほど場違いな話もなかった。

けれども、いわき在住のオープンカー乗りである私は間違いなくその特集で元気をもらった。

去年の特集では、50歳を超えて(わが愛車)マツダロードスターになんぞ乗ってちゃいかん、ボクスターかロータスエリーゼに乗りなさい、と教育された(笑)。

ロードスターで50歳オープンデビューしたての身としては釈然とせず、なんとなく悔しかったけれど、BMW のZ4じゃなくてね、というダメ出しに、シブシブながら納得した。

というのは、Z 4は1日借り切って試乗したことがある。

とても良い車だし、欲しくないわけがない。
くれるというなら貰っておこう。
いや、もちろん安けりゃ買っちゃいますよ(笑)

だけれども、自分が求めるのはそういう方向じゃないな、とは感じていた。

確かに高速を口にできないような速度で走ったときのスタビリティはすごい。比較すると直進性の悪い私のロードスター(とくにNC前期は悪かったらしい)では、高速を走っちゃいけない、とまで思うほどだった。

まだ6気筒だったエンジンフィールも上質。
インテリアの質感はまあ比較にもならない。

でも、運転する楽しさの直接性というか、ダイレクトに伝わってくるファン・トゥ・ドライブの感触は、こういう方向の上質さではなくてもいいかも知れない、とも、生意気ながら感じたのだ。

対効果費用っていうかね。

デートカーじゃないんだし。

「うち(BMW)のクルマメンテナンスフィーが高いですよ(お客様のロードスターとはちがって)」

みたいなことをいう失礼な(正直な?)BMディーラーもいたけれど、それは事実だし、そういうことを越えてなお、ぐっとくる感じまではいかなかった。

いいクルマなんどけどね。

でも、ポルシェは違う、というのだね、エンジンの話者たちは口を揃えて。そしてロータスは「生」だ、というのだ。

ムカツクけれど、そこまでいうなら一度乗ってみてやってもいい。

そう思って一年が過ぎた。

ボクスターを購入するどころか、そこから遠ざかったクルマを追加購入したのだが。

アウディクアトロ&ポルシェボクスター
ではなく、
レガシィAWD&ロードスター

かの地での理想を、貧乏人が和朝製にて実現しようとするといささか無理がくる、ということになろうか。

しかし、機能性からいえば不満は全くない。

一方はロングツーリングを楽しむグランドツアラー四駆ワゴンなわけだし、
他方は屋根があく楽しさ満載のライトウェイトスポーツ。

機能的・道具的には全きを得た、日本が世界に誇る、安価で独自の価値観を開拓した二台ではありませんか(笑)

さてでは生きているうちにあとは走ってなんぼ、そらを楽しめばいい……のだが、気になるのは燃費ではなく、これから50代60代と、気にしていくのはおそらくクルマの「スポーツ」であり、クルマの「文化」なのだろう。機能は十分だとしてもそれだけではないという……。ま、「贅沢」の話です。

とはいえ、ロータスエリーゼとかポルシェスパイダーとかは、いわゆるエンスーの行き着く果てであって、私のような素人が踏み込む場所じゃない。

でも、ボクスターは違う。

中古なら300万円台で十分なんとかなるという。
だったらいつか一度は乗ってみなけりゃ、という気にさせられた。

それが去年震災直後のENGINEのオープン カー特集だったのだ。

さて今年のオープン特集では、どんな車を唆されるのか。

今晩はじっくり楽しませてもらうとしよう。














出た!國分功一郎氏の「スピノザ入門」通年講座開講です。

2012年03月27日 22時55分45秒 | 評論
 朝日カルチャーセンター(新宿)で、國分功一郎氏が一年かけて「スピノザ入門」の講座を開講します。

まず1期は3回(4/7、5/19、6/2の各土曜日15:30~17:00)

私は早速申し込みました。よろしかったらご一緒にいかがでしょう。

詳細とお申し込みはこちらのサイトへ。
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=154084&userflg=0

以下パンフレットより

---引用開始---

「スピノザ入門」と題された本講座は一年をかけてスピノザの哲学の核心に迫ろうとするものです。最初の学期ではスピノザの人物像を紹介しながら、初期の著作である『知性改善論』(岩波文庫。但し入手困難)をじっくりと読んでいきます。この本は小著ながら、読解上の様々な困難を抱えています。「スピノザの方法」という観点からその困難に迫ります。テキストは適宜コピーを配布します。予習されたい方は講師の著書『スピノザの方法』(みすす書房)をご利用ください。

---引用終了----

以下はついで。

少なくても私は「テキストを読むことがこんなにも豊かな経験をもたらしてくれるんだ!」という実感を、この著者の『スピノザの方法』で手にすることができました。その著者自身にじっくり講義してもらえるなんて、あまりの多幸感で倒れるんじゃないか、と心配です。

スピノザの話を聴いて幸せで倒れそうになるかも、っていうのはおかしいですかね(笑)。


ところで、今日読み始めた『最後の親鸞』の吉本隆明は、親鸞の『教行信証』には彼の肉声が響いていない、と断定しています。むしろ『歎異抄』や書簡でしょう、と吉本は言う。

一見すると國分功一郎氏がテキストを徹底的に読み解くことで『エチカ』の思想に向かって歩いて行こうとするやり方とは、全く正反対の方法を吉本隆明は親鸞に対して用いようとしているかのようにも見えます。

でも、意外にそうでもないかもしれない。
『知性改善論』といういわばぎくしゃくした歩みの中にこそ、本人が完成形だと見なした『エチカ』への道が隠されている、というスタンスは、吉本のスタンスに近いのかもしれない。

また、『教行信証』の「注釈」に徹した書きぶりに対する吉本隆明の「拒否感」は、私(foxydog)にとっての、スピノザの『エチカ』の読めなさと、実は無関係ではないのかもしれない、とも思うのです。

向こう側にいってから還ってくること。

宗教にはその困難さがつきまといます。その困難さを徹底した思考によって跡付けること。その「現場」は哲学がぐぐっと面白くなる場所でもあるような気がして、仕方がないのです。

もう1冊平行して読み始めたD・ヘンリッヒ『神の存在論的証明』(叢書ウニベルシタス)にも通じるかもしれない、容易には触れ得ないものと向き合おうとする「姿勢」を、いずれのホンにも感じています。

ともあれ、






レガシイ2012のビッグマイナーチェンジ。新型エンジン2種搭載?!

2012年03月27日 22時43分14秒 | クルマ
レガシィは「年改」といって、毎年5月頃毎年マイナーチェンジを行う。そして今年はビッグマイナーチェンジらしい。

今日、スバルの人とちらっと話をする機会があって、2点話を聞いた。

1,あのBRZに乗った直噴2リッターFA型新エンジンがターボ化され、300馬力オーバーになってCVTと一緒にレガシィに搭載される。燃費もEJ型2.5Lターボ+5速ATより良くなるとか。

2,2.5LのNA(自然吸気=ノンターボ)版に、インプレッサに搭載されていたFB型新エンジンの2.5Lタイプが搭載され、かつアイドリングストップ機能が付く。そして、燃費がカタログ値で2km/Lぐらい上がる(ここ、ホントだったらちょっと悔しい)。

まああくまで噂ですが(笑)。

今検索したらこちら(クリッカー)にもそんな話題が出ていましたね。
http://clicccar.com/2012/03/18/124379


ビビビびっくり。
1についてはなぜCVT?
スバルファンはそれでいいの?
300馬力もあったら、いろいろ遊ぶには、MTとか多段ATとか欲しいでしょうにねえ。
それはSTiとかいうスーパースポーツバージョンにお任せ?
うーむ。

さてしかし、私が気になるのは2の方。
スタンダードなNAエンジンが20年ぶりにEJ型から新型FB型に換装されるというのですから。

私が注文したのはもちろん旧型EJエンジンの方です。
3月末の納車を控えて、自分の購入したタイプが5月に大きく進化する、てな話が聞こえてくると、正直心穏やかではない。

が(笑)、同時に興味津々、でもあったりして。

エンジンフィールが大きく変わらなければ、多少の燃費差はそれほど気にしなくてもいいかな、とは思っています。
税金の差や値引きのことを考えれば、現実的にはさほどのコスト高にはならない(負け惜しみ<苦笑>)。

むしろ問題というか課題は実際のコスト面のデメリットよりも、心理的な「待てば良かった」感、かもしれません。

ま、技術革新を含む工業製品は、時間の差=進歩ということになりますから、基本待てば待つほど良くなるのは道理。

むしろ、「新型」を追って消費を続けるばかりではなく、「今」のモノときちんとつきあって満足できるかどうか、が向き合い方のポイントだったりもします。

このレガシィと出会った。そしてこれを選んだ。私は深く満足している。

そういうのって、実は「偶有性」の問題でもあるし、「贅沢」の問題でもある。

それを、私はマツダロードスターというオープンカーとの出会いで知りました。
工業製品とだって「出会う」ことがあり得るのだと。

「だって、他のクルマは屋根が開かないんだもの」

それがいいとか悪いとかではなく、出会うか、出会わないか。
そして、出会ったら、どれだけの時を共に生きるか。
贅沢ってそういう側面があるんじゃないかな。


『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』講座メモ(3)

2012年03月21日 00時37分03秒 | インポート
メディア日記「龍の尾亭」に『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』のメモ(3)をアップしました。
http://blog.foxydog.pepper.jp/?PHPSESSID=36e22760a1ff6e155f2c60275273e1df

いよいよ千葉雅也氏の博士論文のさわりのところに入ります。

繋がっていくドゥルーズ

離れていくドゥルーズ

その二つは、「しすぎてはいけない」という「間」の感覚で連関しているっていうお話。
面白いです!


10年春新卒者、半数以上就職できず、の記事

2012年03月21日 00時27分17秒 | インポート
NHKでも昨日から報道していたが、毎日JPに下記の記事が。

雇用:10年春新卒者、半数以上就職できずまたは早期離職(毎日新聞3/19。【宮島寛】)


http://mainichi.jp/select/seiji/news/m20120320k0000m010058000c.html

ここ数年の実感にきわめてちかいです。
本当に深刻に考える必要があるなあ。

たぶん、「正規雇用」=「雇用」っていう考え方じゃもう対応できないんでしょうね。
企業が擬似的な共同体として「国民」を支えてきたシステムはもう、存在しえないわけだし。

だからといって、年金も福祉も雇用も全て今の「国家」が賄えるはずもない。

そのジレンマが「消費税」あたりに吹き寄せられてくる、のかもしれません。

年金にしても、医療保険にしても、その他の社会保障にしても、私達自身が社会の中で労働することが前提になっているはずなのに、その働きたいという入り口で社会が門戸を閉ざしていたら、どうにもならない。

とにかく、基本私達が安心して生きられる=働ける状況じゃないとダメだよねえ。

それにしても日本人は「大変」病にかかっていてかつ「動けない」病にもかかってるからやっかい、ってかんじがします。
日本人、なんて偉そうなことを言わずに、自分が、というべきかな。
なんか「大変」そうで、「身動き採れない」感じに縛られている。
この「閉塞感」の方が、実際の危機よりも危機かもね。

っていうか、そういう「閉塞感」みたいなことが経済的・政治的危機の結果じゃなくて原因になっていたりして……。

んー、難しい。



『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』のメモ(1)

2012年03月20日 00時39分58秒 | インポート
メディア日記「龍の尾亭」に『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』のメモ(1)をアップしました。
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120319
ドゥルーズの息づかいがぐっと身近に感じられる素敵な対談(3/17朝日カルチャーセンター新宿)でした。
かつての80年代ポスト構造主義流行という枠組みにとどまらない、21世紀におけるドゥルーズ読解の現場の匂いをかがせてもらったみたいな楽しさです。

よろしかったらごらんください。
雰囲気が少しでも伝われば。



吉本隆明の訃報を友人のメールで知った。

2012年03月17日 07時07分17秒 | 大震災の中で

吉本隆明の文章は、読んでもさっぱりわからない。その話からなさはいっそ清々しいほどだ。だが、その分からなさは小林秀雄や石川淳や花田清輝、蓮實重彦を読んだときの分からなさとは全く異なっていたし、江藤淳に至っては、知らないことや納得できないことは多々あっても、何一つ「分からなさ」は感じなかった。
哲学書を読むときのもどかしさともまた違うような気がする。

友人からメールで教えてもらったときも、その「分からなさ」の手触りがすぐに蘇った。
以下はその友人に送った返事です。メモ代わりに書いておきます。

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大きなヒトを失いましたね。

そうはいっても正直なところ吉本隆明の文章は私には何を言っているのか皆目見当がつかないものばかりでした。

ただ、だからこそあらゆる関心事について吉本がどう語るか、はいつも気になっていました。

何かについて語ってはいても、それ自体が新たな問いを生み出す
「ズレ」や「齟齬」
の手触りが確かで硬い、そんな印象もありました。

石川淳とか小林秀雄だったら、わかる分からないじゃなくてどこかスカッとした、というかスカしたというかところがあって、それは分かる。

でも吉本隆明のことばは私にとってはいちいち腑に落ちない。ここまで分からないのは、異常なものを感じた。何か発話されているおおもとの場所が違うという印象があった。

そういう意味では、私自身の読書がある読解可能(あるいは読解可能というより追随可能)な「スタイル」を追っているにすぎないということの限界を、異質なテキストの力で示し続けてくれたという点で、たったその一点においてだけ、もっとも「他者」の言説であったことは間違いない……そんな思いを大人になってからは抱いていました。

しかしそれも10年以上前のこと。

私が「大人」になるまえのことです。今だったら私は吉本隆明をどう読むのだろう?その興味はここ最近ずっと抱いてはいました。

彼が親鸞について書いていた、というおぼろげな記憶をたよりに(ネットではまだ検索していないのです)、そのうちじっくり読んで見たい、と思いつつ。

……今検索したらありました。

『最後の親鸞』

何せ全く読めていないのだから、学問の恩義というほどの関わりはなかったと思う。

しかし、その「読めなさ」を付き合わせる魅力があったこともまた確か。

追悼の意を込めて読んでみます。



國分功一郎のデモ論

2012年03月14日 12時38分01秒 | 大震災の中で

ジブリのPR誌『熱風』二月号に載った國分功一郎氏の文章が、彼のブログに再掲載されました。

興味深い内容なので、よろしかったら。

個人的には今週末の朝日カルチャー対談講座

『様々なドゥルーズ 千葉雅也×國分功一郎』

の予習にもなったような感じがします。

詳細は

國分氏のブログ
http://ameblo.jp/philosophysells/

を参照いただくとして、

パーソンズの
インストゥルメンタル
(ある物事をツールとして用いて、何らかの目的を目指す状態)
と、
コンサマトリー
(ある物事それ自体を楽しむこと)

という概念を対比させつつ、デモの目的は実はスローガン的なものの主張だけじゃなくて、デモそれ自体が秩序の外側に触れていることをしめしています。

(引用開始)
もちろん、デモにはテーマがあるから当然メッセージをもっている(戦争反対、脱原発…)。しかし、デモの本質はむしろ、その存在がメッセージになるという事実、いわば、そのメタ・メッセージ(「いつまでも従っていると思うなよ」)にこそある。このメタ・メッセージを突きつけることこそが重要なのだ。
(引用終了)

そして面白いのは、そのコンサマトリーな側面の重要性を指摘し

(引用開始)
古市は、こうしたコンサマトリーな生き方はそれはそれでいいではないかと言う。私もそう思う。人に、「今」を手段として生きることを強いるなどというのは恐ろしい傲慢である。実際、経済発展という目的に向かいながら、人が自分の生にインストルメンタルにしか関われないような社会を、日本はある時から反省してきたのではなかっただろうか。今の若者のコンサマトリーな生き方にはむしろ、見るべき点が多いとすら言うべきではないか。
(引用終了)

た上でさらに、コンサマトリーな行為は「親密圏」での自足に止まる危険があるとするなら、それと「公共圏」の問題をどう繋げるのか、というところまで触れているのが私としては読みどころでした。

よろしかったらぜひとも飛んでお読みくださいませ。



クルマにおけるスポーツということ(4)

2012年03月11日 13時29分12秒 | ガジェット

円盤投げの選手に一度きいたことがある。

「一番難しいのは投擲前の回転中に重心をどこに置くか、なんです。」

身体の中に回転の軸があることは間違いないが、力を円盤に最も効率よく伝えるためには、ただ身体の中心に重心を置いてクルクルまわしていればいいというものでもないらしい。
いかに手の中の円盤に、身体の回転によって生じた力をより強く、より遠くに飛ぶように制御しつつ伝達するか。
同じ回転系投擲でも、砲丸とはまたちがった制御が必要なのだ。
「身体の真ん中じゃなくて、ちょっとずれたところ。それが練習しないとすぐぶれる」
とも。

重心をどこに置くか。
なぜ私自身がロードスターに惹かれたのか、その理由の一つがわかったような気がしてきた。
およそスポーツ音痴な自分がスキーだけは楽しめたのか、という理由も。


体が発生する力を技術で制御し、外的ルールに従って状況判断を瞬時に行い、ゴールするなり相手を倒すなり、敵のいないところにボールを打つなりする、という考え。

きわめて素朴にスポーツを考えれば、そんな感じになるだろう。

しかし、力の発生源を漠然と「身体」とだけ捉えていればたぶんここから先には行けない。たとえそれが当のスポーツ選手であったとしても。

水泳の国体選手にきいた

「アニマルスイマー」

がそれにあたる。

小学生の頃には、何も考えずにひたすら速く泳ぐ奴がいる。でも、それはそこで終わりだ、というのだ。そういう選手は必ず壁に当たる。
そのとき、自分の泳ぎの現状を的確に把握し(ここにはコーチングが大きなウェイトを占めるのだろう)、課題を発見し、それ踏まえて身体にフィードバックした上で微細な制御が出来るようでなければ、国体レベル、国際大会レベル、オリンピックレベルへと自分を成長させていくことができないのだ、と。

アニマルスイマーは、身体能力に恵まれてはいても、意識は身体で速く泳ぐというレベルだから、努力も何となくのレベルで止ってしまうのかもしれない。

とするなら。

(人称に限定されない)力を、ルールに基づき定められた目標に向かって、与えられた環境の状況を常にフィードバックしつつ、その力を瞬時にかつ微細に制御して、
「世界と身体の動的輪郭を明示する」
行為こそが、スポーツなのかもしれない、と考えることが可能だ。

スポーツにおけるエンジンとしての力は、必ずしもマッチョな身体の筋肉のみによるものではなくてもよい。

いやむしろ、「獣欲業を制す」ではないが、身体内部に発生した力による一方的なねじ伏せだけが重要なのではなくて、身体外部に存在する「力」のありようを踏まえた制御もまた、内部に発生する力と同様に重要だ、ということになろう。

クルマの世界では、ひたすら速く加速し、また最高速にのみ秀でたクルマを
「直線番長」
と揶揄的に呼ぶ。
制御系なき力の顕現=マッチョ(厳密にいえば、過大なパワーをどう地面に効率よく伝えるか、っていうテクニックは必要だが、それはいかに困難ではあっても単純な領域にすぎない)。

無論それも痺れるような快感だ。

遅い車(人)に感動はしない。
速い車(人)に感動し、憧れる。

当たり前のことだ。

でも、人はそれだけでは満足しない。
むしろ、複雑な要素がさまざま絡み合った中で、超絶的な制御によって速度と力の軌跡が表現されることにこそ、スポーツの深い感動が潜んでいる。
だから、それを実現するには力だけでは足りない。

クルマで「走る・曲がる・止まる」+「スムーズに」ということになろうか。

それら制御しようとすれば、神が与えた物理法則に対する深い理解の上に、その可能性条件を踏まえた互いに矛盾する課題を乗り越える努力が必要になる。

そう、モータースポーツは、その場所に発生する。

だから、だれもがサーキットで腕を振るうことなど出来ない以上、モータースポーツは、あろうことかチューニング「命」の様相を呈してくるわけだ。

たぶんそれは、神が与えた必然性に基づくことなのかもしれない(笑)

速さだけが目的なら新幹線かジェット機に乗ればよいだろう。
だがその速さには身体が関与していないから、数字でわくわくするしかない(鉄道ヲタクの「乗り鉄」における「身体を伴った移動」の意味はまたそれはそれで面白いが、いまは措く)。

さてでは、「走る・曲がる・止まる」を高い次元でバランスするためには何をすればいいのか。

答えは簡単だ。

自動車は工業製品だから、基本的には高いお金を出せばよい。
200万弱の軽自動車のスポーツタイプと、2000万円のスポーツカーで、どちらが力=Gの制御において乗車した人間の官能を刺激するか、なんて比較するのもバカバカしい。

全ての車好きは「バカ」だ、という見解が説得力を持つ所以でもあろう。どんな車体だろうが、部品だろうが、チューニングだろうが、大抵のことはお金で解決がなつくのではないか?

クルマは決定的にモノだものね。

クルマは所詮道楽であって、スポーツじゃないっしょ、という「正しい結論」が出てきそうだ。
まあ、そういってしまえばその通り、でもある。

しかし実は、その道楽は、弄っているだけでは意味がない。フィギュア収集やゲーム機のレースとは違い、スポーツカーは、自分の身体によってその制御が実感されなければならない。
だから、スーパスポーツカーを所有している人が直ちにスポーツをしている、とは限らない。

金に飽かせてクルマは持っていても、その身体における歓喜を味わわなければなんの意味もないのだ。どんなに速くても、どんなに体感Gが強烈でも、自分の手の内にそれらの制御系があるのでなければ、そのお金持ちにとってスーパーカーは、あてがい扶持の遊園地のジェットコースターに過ぎない。

ハンドルが付いていて、自分でコンビニに行くってだけなら自転車でも足りるわけだしね。

どんなに貧乏であっても、自分の工夫やなけなしの貯めたお金でサスペンションを弄って、それがダイレクトに自分の身体における「乗り味」にフィードバックされたら、そこには「力」の制御における事件の現場が立ち上がっている、というべきなのだ。

ふぅ。

もう誰もこの迷走は止めた方がいいのかもしれないけれど、この項、行きがかり上もう少し続きます。




クルマにおけるスポーツ、ということ(3)

2012年03月10日 16時05分05秒 | ガジェット
スポーツというのは、

「汗をかいて身体を動かし、その能力のパフォーマンスの大きさを競う」

ものだという狭い考え方がしだいに広がっていく。
そうはいっても、身体能力の高さを純粋に競う人のことをアスリートというのは昔も今も変わらない。
一部のプロゴルファーは別として、いくらゴルフが上手いからといっても、なんかその人がアスリートって感じはしないのも確か。

その辺りはあまりすっきりしているわけではない。

でも、

身体運動の能力の高さ→スポーツ0レベル
身体制御=報酬系→スポーツ1レベル
速さ=力→スポーツ2レベル

って感じはする。

モータースポーツは、そのパワーや制御能力の高さや、速さの源泉が人間の身体ではなくバイクだったりクルマだったりするんだよね。ゴルフの「飛ぶボール」も、ちょっと何言ってんだいって感じがする。スポーツだったら「飛ぶ腕力」いわんかい、みたいなね。
人が走ってるんじゃない、バイクやクルマが走ってるんだっていってもいい。

さて、スキーとなると、エンジンは微妙に重力だったりする。もちろん純粋にタイムを競うのは何度もいうように、身体を鍛えないといけない。
しかし、基本的にスキーの滑降エンジンは、重力だ。
だからスキーはその重力を受ける身体それ自体の制御がメインになる。

なんであんなに苦労して寒い山の上に行くのかと言えばひとえに、自分の身体に掛かる重力「G」を制御する、という「スポーツ2レベル」
の「可能性条件」を整えるためだ。

さて、そんな風に考えていくと、モータースポーツがなぜ「スポーツ」なのかがようやく自分の中で腑に落ちるようになっていく。

「G」と戯れること、その重力と身体の戯れを上手に用いて、ルール(限界)の中でそれを制御すること。

それがむしろスポーツの本質なのだ。
ボール投げをしたり、力を溜めて垂直跳びをしたりして、どちらが遠いか誰が高いかっていうのは、運動能力テストではあっても、それだけではスポーツにはならないのだ。

「遊戯性」とか「制御性」となると、文弱の徒にも「スポーツ」は無縁とばかりいっていられなくなる。

50歳の春、新型デミオを冷やかしで観に行って、帰りにロードスターを買ってかえったあの4月から、私のなんちゃって「スポーツ」生活が始まった。






クルマにおけるスポーツ、ということ(2)

2012年03月10日 12時34分31秒 | ガジェット
だから、モータースポーツとかいうのは、サーキットで命知らずがやるものだと最初から考えていた。

したがって、公道でスポーツカーとかを乗るのは、自己顕示欲か欲求不満(だって60km/h制限ですよ!公道って)の塊だろうと思っていた。

その人たちが語る、DOHCだの280馬力だの車高調だの空力だの、というのは、ある種の記号(スポーツというイメージ)だろうと見当をつけてもいた。

今でもそれは半分ぐらい当たっていると思う。

しかし、汗をかくことだけが「スポーツ」概念の全てではないのだ、と初めて知ったのは、スキーを楽しむようになってからだった。

競技としてのスキーは全く別物であり、それはクルマでいえばサーキットの世界のようなものなのだろう。
でも、スキーは、たとえ素人がやっても、身体をさほど動かして否ににもかかわらずなんだかとっても楽しいのである。

最初はこの楽しさの理由がよく分からなかったが、なるほど身体のバランスがコントロールできると楽しい。

重心が身体の外に出ると制御が効かずに転んでしまう。
これがスポーツなのか、そう思った。

そういう意味では「けん玉」でも「独楽回し」でも、夕方の校庭で帽子を投げ上げてコウモリを捕るのだって、ある種の身体制御の結果としての爽快感がある、という意味ではこのスポーツの範疇に入る。フリスビーとか射撃とかもそうですね。ゴルフだって、もちろんどれだけ飛ばすかっていうのは競技の世界で当然必要だけれど、何歳になってもできるのは、身体制御と結果の充実という労働制御-報酬系が働いているという意味では、このスポーツと共通している。

額に汗して脳味噌筋肉、という偏見に満ちたスポーツ観が少し変化したのは、30歳を過ぎたころのことだったろうか。

さて、そういう意味では楽器を弾いたり歌を歌ったりする時間芸術もスポーツと共通している。

違うのは、速さと力の制御それ自体の表現性だ。
身体スポーツは基本的にそのバランスや力が拡大されて結果となるのに対し、芸術は、拡大される、という量的なものだけではなく、質的な変換の側面が大きい。歌は少々両義的だけれど。

汗をかくいわゆる身体運動 →スポーツ0
身体バランス制御=報酬系→スポーツ1
速度=速さへの欲求→スポーツ2

そんな風に考えて行くと、モータースポーツは0レベルからいえば特殊な場合を除いてはシートに座ったままだからほとんど汗をかいたりはしないので、該当しにくい。

しかし、身体バランス制御と速度=速さという1レベルと2レベルの概念を当てはめれば、クルマを運転することも立派にスポーツの範疇に入ってくるのかもしれない。

そんなことを考えるようになったのは、ファンカーゴを9年乗って、そろそろ別のクルマに買い換えよう、さらにダウンサイジングして新型(現行MC前)デミオにしようと思った4年前の春のことだった。