龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」東洋経済新聞社刊 、のこと

2018年01月28日 08時50分30秒 | 大震災の中で


「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」東洋経済新聞社刊
新井紀子(ロボットは東大に入れるかプロジェクトディレクタ)

本の腰巻きにはこう書いてある。


AIが神になる?なりません!
AIが人類を滅ぼす?滅ぼしません!
シンギュラリティが到来する?到来しません!
(ブログ子の注:シンギュラリティとはここでは、人工知能が自らの能力を超えたAIを産出できるという、ある種の技術的な境界線を越えること、ぐらいの意味)

つまり、第三次AIブームと呼ばれる最近のAIに関する大騒ぎを「ちょっと冷静に」と諫めているわけだ。


同時に、
人工知能はすでにMARCH合格レベル
と、AIが人間に対して雇用のライバルには十分になり得ることに警鐘を鳴らす。
そういう本だ。

話しのポイントはいくつかあるが、ざっと理解した範囲で以下の通り。

1,現在の第三次AIブームの延長線上にはシンギュラリティはこない。決してAIは人間の能力を越えたりしない。

2,「ロボットは東京大学に入れるか」プロジェクトのねらいは入試による合格ではなく(だいいちそんなことはできない)、むしろ現在のAIの可能性と限界を正確に把握することだった(できないことを知るというのは投資のためにも重要な情報)。

3,そこで見えてきたのが,AIにはできない読解の力。つまりAIは数学的な方法、すなわち論理と確率と統計で動いていて、読解力などというものをAIは持ちおわせてはいないということ。

ここしばらくはそんなもの(私たちがSFのように期待するAI)はできっこない。

4,しかし同時に、本当に意味が分かっているわけではないのに、中堅以上の大学(MARCH)には「東ロボくん」が合格できてしまうということ。

とすれば、人間は(恐ろしいSFの世界のなんでもできちゃうAIとではなく)、意味は分からなくてもそこそこ仕事ができるAIと労働市場で仕事を奪い合うという現実に直面する。

4,現在の労働市場において、AIは人間の強力なライバルになる。具体的には今人間がやっている職種の半数はAIに代替される。とすれば、それだけでも全体未聞の大事件だ。


5, 今までのように「技術の進歩とともに新たな仕事も生み出されたから、AIによって仕事が奪われるなどと心配しなくてもよい」とだけ言っていればいいというものではない。中高生に「読解力」をきちんと身につけさせるのが焦眉の急だ。

だいたいこんな話として理解した。

細かい具体例の評価については異論もあるが、私も一人の国語教師としてこの危惧は共有する。技術的には「読解力」の養成が急務、という新井さんの心配もまあまあ納得だ。
過渡期にはエラい数の失業者が出てしまうかもしれない。
これはたしかに深刻な事態だ。一読しておく価値のある本だと思う。

ただ、ちょっと結論は  「まじめ」すぎるかな、とも思った。
「読解力」を身につけるにしたって、その物差しで測ればそれはそれで得意や不得意が出てくるだろう。

むしろ文末に出てくるベーシックインカムを私はもう少しポジティブに受け止めてみた。
「働かないでたらふく食べたい」
というところからはじめた方がいいんじゃないかな。

つまりどこが不満かというと、調査・分析ではなく解決策のところである。


彼女が始めた「教育のための科学研究所」によるRST調査のプロジェクトについては感服したし、生徒たちの読解力をはかり、それをのばしていく仕事が急務になるという指摘にも深く同意する。

一方、そのこれから向かうべきビジョンの一例が糸井重里の「ほぼ日」というのはちょっとどうかな、と思う。

もちろん新井先生に処方箋まで出してもらう必要はない。

数学者の意見は、専門から外れた瞬間にたんなる「私見」になる。


私たちはこの貴重な新井紀子さんの分析と提言を受けて、これからの教育について考えていかねばならない。

漠然とした話で恐縮だが、私は、もうすこし個別的表現的な地点が落としどころになるのではないか、と感じている。
新井先生のいう「読解力」の訓練は、実は「常識」だったり「道徳」だったり、「倫理」だったり、我々が集団の中で、あらかじめ言語によって共有している有形無形の「合意ならぬ合意」へのアクセスが必須になる。
しかし、当然のことながらそれは予め与えられた規範やデータではない。

とすれば慌てて  「読解力」とかいった切り取り方をするよりも、意志とも衝動ともゆらぎともつかない自分の中のベクトルを、ある共同性・社会性、つまり大きな意味での  「環境」の中で、どう自己を現実にしていくか、つまり「より良く生きつづける」姿勢のようなものが重要なことになっていくのではなかろうか。

新井さんの言うのはそんな大げさな生き方ではなく、「読解力」の問題だ、ということなのだろうね。
うん、それはそれでそのとおり。
でも、そういう意味では、子どもたちの力に不安を抱くのがちょっとなあ、と思う。


いや、何か良い方法がある、というのではないのです。福島で立ち尽くした7年を振り返ると、新井先生の危惧を、もう少し別の文脈で生かせないかな、とぼんやり考えた、というだけのこと。


さて、ではどうする。





①身体……Café de Logos 「語れることから語れないことまでを語る会」のこと

2018年01月28日 07時36分11秒 | 大震災の中で

まず①語りにおける身体性の重要さ。

Café de Logosはカフェや飲み屋で飲み食べする緩やかな場所だ。誰でもワイワイしゃべればいい。
郡山対話の会は、ある意味でその対極だ。もちろん対極とは言っても、語りの場として互いを尊重し、かつ安心してしゃべれる場を目指すということでは共通してもいる。だからコラボ企画も実現したのだろう。

だが、いつも参加しているCafé de Logosの世話人の方は 「知的に柔軟」であるのに対し、郡山対話の会のファシリテーターの方は 「身体的に柔軟」で、Café de Logosの参加者からみると今回はとても 「身体を伴った柔らかさ」を味わった感じがした。

そのときはとても 「身体」的な場だなあ、と思って参加していただけだったが、帰ってきてブログの記述を見るとファシリテーターの方の師匠が竹内敏晴とアーノルド・ミンデル、とある。なるほど、と思った。
方法として特別なことがあるわけではないが、一つ挙げておくと、彼(ファシリテーター)は普通未知の人が出会うときに行う簡単な場になじむための行為(ストレッチや自己紹介、簡単なゲームなど)を ホテルに入るように「チェックイン」と呼んでいた、それが印象的だった。つまり、 レトリックとしてそこは「場所」なのだろう。

対話には人の考えと人の考えが出会うという側面もあれば、まず何よりも身体が表現するという側面もあり、また目の前にいる他者の視線を意識したときに自分の中の思いを理解してもらいたいとかうまくしゃべりたいとか、どう思われるのだろうとか、様々な 「思い」が渦巻く側面もある。

そういう様々な側面を持ちつつ人が集う場所に 「チェックイン」するということは、バックグラウンドの異なる人がひと時そこに偶々集う、というイメージを与えるだろう。
まずそれが興味深かった。

そして次に興味深かったのは、ファシリテーターが机と椅子をあまり歓迎していなかった点だ。
想像でしかないが、机と椅子は身体を支えつつ縛る。机はテキストを見たりメモを取ることを支援しつつ、方向性(こちらと向こう)を固定する。椅子は体重を支えるが、(ファシリテーターによれば)下半身を固めてしまう。

その点が 「対話の身体」にとっては相応しくないのだろうと思った。

こう書いてくると対話の方法(メソッド、やりかた)の話にこだわっているかのようだが、そうではない。そこに驚いて興味を引かれている 「私」の身体が、「身体」と 「観念」とともに一瞬で動かされた、ということが言いたかった。

対話はまことに身体的な側面があるのだ。

あとは 「声」かな。発声、つまりそれは口蓋の使い方、という人類の 「歴史性」(進化、というか使い方)の問題でもあり、それは「姿勢」の問題でもあり、それらは、一人一人がどうやって他者と向き合っているか、という問題でもある。
一対一と違って複数人数の対話の場合、他者の身体を限定して全面的に意識することはできない。というか1対1であっても時折相手の瞳をのぞき込むことはあるにせよ、相手をそんなには注視してなどいない。ただし、他者としてはかなり意識してはいる。
たくさんの人を前にしたときに必要なのは 「声」だ。表情や身振りももちろん大切なのだろうが、ここは営業の自己啓発講座じゃないから、相手に伝える内容が大事だ……ということになると、メディアとしての 「声」の重要性は高いということになる。


ああ。
この身体性についてのぐるぐるは、 「まず竹内敏晴の本でも読め」ってことになりそうだからなめておく。
ただCafé de Logosでは無自覚だった意識(語りに対する甘え、といっても良い)が払拭された、それの身体観の変更が、ある種の 「場」をつくる「姿勢」によってなされたことに感動した、ということである。

この 「身体」と 「身体についての観念」についてはまた別に。
(この話、続く)

Café de Logos 「語れることから語れないことまでを語る会」

2018年01月28日 06時48分15秒 | 大震災の中で
昨日開かれた
Café de Logos×郡山対話の会
のコラボ企画に行ってきた。
内容は以下の通り。
ブログはこちら

【テーマ】〈語れること〉から〈語れないこと〉までを語る会
      ―「ワタナベさん」と出会う
【参考テキスト】『ろうそくの炎がささやく言葉』(菅啓次郎‣野崎歓編,勁草書房)

超絶に面白かった。興味深かったことがたくさんありすぎて書ききれないのだが、とりあえず忘れないように書いておきたいのは以下の8つ。
①語りにおける身体性の重要さ。
②語りにおける歴史性の重要さ。
③語りにおける出会いの重要さ。
④語りにおける教育の重要さ。
⑤幾分か 「妖怪」になること。
⑥幾分か 「知的」になること。
⑦幾分か 「動物」になること。
⑧そして幾分か 「人間」になること。

(以下分割して書く)
 



谷川俊太郎展(東京オペラシティ)に行ってきた。

2018年01月26日 21時32分06秒 | メディア日記
谷川俊太郎展を観てきた。
詩人の 「個展」ってどんな風にするのかにも興味があったし、なにしろ 「鉄腕アトム」の主題歌以来の 「お付き合い」だから、とにかく観ておこうと思ったのだ。

とても懐かしかった。

なんだろう、自分の人生のシーンの折々に、こんなにもこの詩人の 「詩」が置かれてあったんだ、と始めて気づかされた。
中也を読んだ時期もあるし、朔太郎を読んだ時期もある。富岡多恵子や入沢康夫の詩をタノシンダこともあるし、田村隆一に痺れたことだってある。
しかし、人生の様々なところでこんなにも出会っていた詩人は他にいない。
だいたい 「詩人の本」としては一番買ってる。
谷川俊太郎詩集と谷川俊太郎詩集・続
の二冊は厚かったし、高かったけれど、コストパフォーマンスは良かった。
大学の時ゼミで読んだ詩、彼女と一緒に声に出して読んだ詩、授業で扱った詩、カジュアルで、別に 「詩とは何か」なんて肩肘張って考えなくても読めて、しかも間違いなく社会公認の 職業「詩人」。
りんごでもアノニムでもことばあそびうたでも、peanutsでも、ふとしたときに口ずさむフレーズ(たとえば 「どんなにあいしてもたりなかった」とか、 「さばんなにすむしかだったらよかったのに」とか 「かっぱかっはばらった」)でもいい。

時折ふと傍らに立ってくれ、あるいはさりげなくすれ違う、そういうことばたちだったことを再確認。

谷川俊太郎ってなんだろう。

「海ゆかば」(信時潔)がすきだったってのにはいたく共感した(笑)

基本的に 「詩」って分からない。いつも分かろうとしてしまうしかない自分は、その場所に入れない。
でも、谷川俊太郎の詩はそういう心配をしなくていい。だからちょっと近づいてみたりできる。

あと、年譜が長かった!

nemonicの使い勝手

2018年01月25日 16時49分00秒 | ガジェット
付箋紙プリンタのnemonicを使い始めて、いろいろ気づいたこと。

まず○から。
①印刷が速い。
②複数(20台?)端末で利用可能
 (Bluetooth接続)
③手書きも写真も打ち込みもok.
④Dropboxとの連携も可能。
⑤結構デザインが可愛い。
⑥別のソフトからも印刷できるプラグインが、用意されており、写真など、自在に(クオリティはそれなりのイラスト風です、念のため)

次に×を。

①ロール紙が、付箋よりはちょっと高めか?楽しいのでついたくさん使いたくなる。
②写真×イラスト×活字の混在は苦手。
③文字間や行間の調節ができない。
④一枚の付箋に文字列オブジェクトが一つのみ。凝った遊びをするには手間がかかる(出来ないわけではないが簡単でもない)。
⑤印刷に失敗しましたというエラーがしょっちゅう出る(実際には滞りなく出来ているのに)。

結論。
とにかく付箋にメモするのが楽しくなる。色々な付箋の枠を自分でこしらえ、保存しておける楽しみは 「かなり」幸福度が高い。不満な点もあるが、 「買って良かったガジェット」になりそうな予感である。

國分功一郎 「How to read Deleuze」

2018年01月25日 07時40分09秒 | 大震災の中で
國分功一郎さんがソウル大学のドゥルーズワークショップで発表した論文「How to read Deleuze」

を読んだ。まず驚いたのはGoogle翻訳の読みやすさ。翻訳ソフトが進化してることを実感した。
しかし一方、これはもしかすると 「國分功一郎的なことば」
が持つ圧倒的な読みやすさの効果なのかもしれない。Google翻訳にとっても國分さんの文章は読みやすい、のだとしたら、これはスゴいことですね(^_^)

http://www.academia.edu/35744293/How_to_read_Deleuze_neurosis_schizophrenia_and_autismhttp://www.academia.edu/35744293/How_to_read_Deleuze_neurosis_schizophrenia_and_autism

内容は、19世紀を象徴する 「病い」が神経症(フロイトによる)であり、20世紀を象徴するそれが統合失調症(ラカン←ドゥルーズ=ガタリが前景化した)であったとするなら、21世紀を象徴する「障害」は自閉症(ドゥルーズによる)である、という枠組みが作業仮説として成立するのでは?というお話。
(フロイトはいいとして)もちろんラカンの 「原抑圧」とかドゥルーズの 「無人島」とか理解しなければならない概念はあるけれど、とても興味深い。


ちなみに、もう少し正確に言えば

神経症→フロイト
統合失調症→ガタリ(ラカンから別れての)
自閉スペクトラム症→ドゥルーズ

という感じになる(読み返してみたら)。

フロイトからラカン、
ラカンからガタリ、
ガタリとドゥルーズ
という流れはもちろん切断されつつもつながっているから、そのあたりの丁寧な表現の機微は直接本文を当たってほしい。

ガタリとドゥルーズの分離は國分さんがいつもちょっと触れていた話だが、ここではよりはっきりと示されている印象を持った。

千葉雅也『動きすぎてはいけない』
國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』
村上靖夫『自閉症の現象学』を
復習読みしたくなった。

ネモニック(nemonic)というメモプリンターが楽しい。

2018年01月22日 21時25分13秒 | ガジェット
一度百円ショップのブロックになっている付箋紙を買ったことがある。ところが、紙はまあ悪くないのだが、糊が残念だった。粘着力が強すぎてブロックから剥がすときに裂けてしまう場合があるのだ。
たから、ブロック付箋紙については結局定番のポストイット(3M)になっていた。

ところが。

先週ネモニック(nemonic)という付箋プリンターがあるのを知ってしまったのである。


詳細は例えばこちらへ

おもしろい!
ただ、今日びプリンターなんぞは3,000円~5,000円も出せば取り買えてしまう。

そしてブロック付箋紙もせいぜい数百円。

いくらおもしろいからと言って、一万数千円もする付箋紙プリンターを誰が買うのだろう。

で、買ってしまいました。



我ながらいかにもガジェット好きの人柱っぽい消費行動……と思ったが、これ、意外に楽しいです。

メモって、書いたけど読めないってこと、ないですか?
スマホで書いておけばそんなことはない。人に伝言するにもキレイに渡せる。
そして、写真も手書きも活字も、自由自在に付箋化できてしまう。
さらに、単なるミニプリンターとしてももちろん使用可能だし、結局のところ、沢山あるテンプレート一つををプリンタに保存しておくと、スマホなしでもそのテンプレートをボタン一つでグイーンと繰り出してカットしたくれる。つまり、電動付箋供給機にもなるのだ。
スマホ内にはテンプレートが60以上あるから、好きなテンプレートも選んで登録できる(登録後はスマホ不要)。
また、スマホを起動しておけば、手書きに活字を加えたオリジナルな付箋が、自由自在に作り放題。

付箋好きなら一台あっていいんじゃなかろうか。
加えてBluetoothでスマホ20台まで接続可能だから、いろんな使い方ができそう。

あとは実売15,000円という金額を、この付箋紙遊びに出せるかどうか、が問題ですね(笑)

カートリッジは200枚で1000円ほどとリーズナブル。
100円ショップ付箋紙ブロックで十分という方は不要でしょうが、メモや付箋紙に興味のある方にはなかなか楽しめる一品です。




蒼井優・生瀬勝久『アンチゴーヌ』を観てきた。

2018年01月21日 19時06分54秒 | メディア日記
昨日(20180120)、新国立劇場で上演中の『アンチゴーヌ』(ギリシャ悲劇アンチゴネーのフランス劇作家アヌイによる翻案。有名な戯曲らしいです)を観てきた。

単なる素人の印象にすぎないが、この芝居はギリシャ悲劇的な 「人間(というより、神様と向き合う人間)」の悲劇を、現代課題として捉え直そうとしているように見える。

そういう意味で言えば、見巧者のための芝居だったと思う。

知らないくせにギリシャ悲劇とか実存主義とか考えなくてはならなくなりそう(subjectは支配か服従か、みたいな話も含めて)だ。
だから素人には戯曲の批評は難しい。しかしとにかく、重層化されたつまり 「予め解釈された悲劇」を受け止める、という楽しみは間違いなくある。


だからこそ、というべきだろう、生瀬勝久と蒼井優という2人の役者にとっては、間違いなく一つのチャレンジとなった芝居なんじゃないか。

神と人間、コスモスとノモスを巡って展開する古代ギリシャの悲劇を、実存的なフレームを持ったフランス劇作家が、その二重性を意識した台本を書き、それを世界中の演出家が描き出す。役者たちはその幾重にも重ねられた 「謎と矛盾」を身体の上に宿らせようとしていく。
蒼井優・生瀬勝久を観るために足を運ぶ価値あり、と感じる所以である。

たぶん専門家はそんなことをおもわないのかもしれないが、私には 「神様」を逆説的に求める芝居のように見えた。それが、どんな神様かってのが問題でもあるのかもしれないけれど、神なき時代であることが自明になった上での神。
読み解き切れない構造を持った作品はいつも、どこかで神様を求めているような風情をみせる。
そういう意味でそれを身体の上に示すお芝居を演じることができ、またそれを観ることができる、という意味では 「幸福なお芝居」だったのかもしれない。

役者二人を観客がぐるりと取り囲んでその背中をも含めて演じる身体を見せ切ろうとする十字架を模したともとれる舞台も良かった。

蒼井優の 「背骨」に、やせっぽちでチビの 美人ではないアンチゴーヌが象徴的に示されているようでもあった。背中が見えるこの舞台の効用でもあろうか。
生瀬勝久は声がステキ。セリフを幾つか噛んでいたのはご愛嬌か。いや、失敗を誉めつつあげつらうつもりはない。しかしこの芝居は、うまく演じればいいというものではなく、そういう意味でチャレンジなんだろうと思う、ということでもある。

誰にでも、ではなく、それでも誰かに薦めてみたい作品だった。

第10回エチカ福島、共同代表のコメント(1)

2018年01月08日 11時19分53秒 | 大震災の中で

2011年の8月には全国高校総合文化祭が福島県でいよいよ開催されるという時に震災、原発事故は起こりました。私はこのイベントの実行委員の一人として長い時間をかけて準備をして来たので、このイベントを中止することはとても残念に思いましたが、それは避けられないのではないかとも思いました。実行委員会では様々な意見が出ました。ある校長が学校が再開して校舎内に合唱や合奏の音が聞こえると本当に良かったなと思う、やはりこのイベントはやるべきではないのか、高校生の元気な姿が福島県を元気にするのではないかと発言しました。今考えれば、その方の正直な感想だったのでしょう。でも僕はその時に噛みつくように言いました。そういう情緒的な問題ではないのだから、本当によかったとか高校生の元気な姿とか言うのはやめて欲しい。高校生が本当に元気だと思いますか?私たちが疲弊しているように彼らは疲弊しきっているのがわからないのですか?彼らに福島にとどまるべきかどうかの迷いがないと思いますか?私たちが迷いの中にあるように彼らも迷っていると思う。そもそも、今私たちが考えなければならないのは、やるべきかどうかではなく、やることができるかどうかだと思う。来なければ余計な被曝をしなくて済む全国の高校生をここ福島県に呼びあつめることができるのかどうかです。などと発言しました。
結局は知事に判断を委ねることとなり決行されました。

高速が開通しました。多くの地域で避難解除が行われた。福島県以外では事故がなかったかのように原発が再稼働され、それどころか日本製の原発を首相が外国にトップセールスをしに行き、事故の実態すらも明らかではないのに、事故炉の放射能は完璧にコントロールできているという首相の明言のもとにオリンピックの誘致に成功した。

何も終わっていない。事故直後から状況はほとんど何も変わっていない。終わってないから終わってないと言い、変わっていないから変わってないと言う。必ず地震は起こり津波も起こる。明日かも知れないし20年後かも知れない。今事故炉はプラントによって水冷されているが、融けた燃料を全て取り除くのに何十年かかるかわからないがその間にプラントそのものも経年劣化するだろうし、それが破壊される地震が起こる可能性は大きい。これはシンプルな事だけど、そんなことも言えなくなっているのではあるまいか。そうやって事故は繰り返され、悲しみは繰り返される。

7年も経ったから風化したのではない思う。事故直後から風化は起こっていた。いやそれは風化とは言わない。虚偽がまかりとおっているだけだ。(共同代表N)

秋沢陽吉の吉本隆明論、面白い。

2018年01月07日 10時55分09秒 | メディア日記
雑誌 「労働者文学」82号に掲載された秋沢陽吉氏の吉本隆明論が面白かった。

「吉本隆明は空っぽ、または吉本隆明的なるもの」

 普通の 「左翼雑誌」なので店頭で購入するのはかなり困難だと思うが、福島に住む人間としては避けて通れない 「吉本隆明問題」を丁寧に書いてくれていて、有り難かった。

ご案内の方も多いと思うが、吉本隆明は一貫して原発肯定派であり、原子力の科学的平和利用と核兵器の危険とを混同して反対するような 「輩」は断固許さない、というスタンスを保ってきた。そしてそれは福島の原発事故もぶれることがなかった。 「科学」と 「科学技術」を区別せよ、というのだ。

その吉本隆明の 姿勢を福島から批判する。
誰かがやらなければならなかった仕事を秋沢氏がようやくやってくれた。

吉本隆明の空虚さは原発政策についての無知をさらす一方で、糸井重里のような新たな 「空所」を招き寄せ続けている。

私には、日本において吉本隆明や糸井重里のような 「空所」を抱えたパフォーマーが繰り返し出現する理由が3.11以後、ようやく少しずつ分かってきたような気がする。

天皇の身体やキリストの身体、そして中産階級的なる身体、さらには我々 「庶民」の身体をどう受け止めるか?

身体を伴った哲学は今、吉本隆明の中には宿っていないのだろう。

私がアーレントのテクストに、そして國分功一郎のテクストに繰り返し惹かれ続ける理由もまた、分かってくる。

するでもされるでもない場所、ある種の者たちには 「空所」として受け止められ流通してしまう場所、その場所を生身の身体と結びつけたとき、身体もまたその 「空所」において消費されていくことに耐えねばならないのだろうか。吉本隆明藻糸井重里も、そうだという。開沼博もまたうなずいてみせるのだろう。

だが私たちは、もう少しその受肉された 「空所」に降りて行きたい。

そういうことだ。