日仏会館で、オーギュスタン・ベルグ氏の講演を聴いてきた。
平日仕事を早めに切り上げて高速に乗る。
首都高が渋滞していなかったため、2時間半ぐらいで恵比寿に到着。
ダメもとで尋ねてみたら日仏会館の守衛さんは親切で、駐車スペースを提供してくれました。
高速駐車料も無料。ガソリン代約4000円のみで首都圏の講演会やシンポジウムに参加できるのは非常に嬉しい。
この一年は、最大限に利用しよう。
まだ時間があったので、近くの喫茶店でちくま文庫から出ている『空間の日本文化』を再読する。しかし、ぎっしり中身が詰まっているので(単に参照・引用が多いと言うことではない。一つ一つ批評的ち吟味されている)、飛ばし読みができない。
若い頃はとにかくアイディアがほしくて本を読んでいたから、初読の時にはこの本の魅力は十分に理解できなかったのだろうな、と思った。
今日の講演だって、私が10年若かったなら、「いまさら和辻とか今西かい」ぐらいの生意気な感想を抱き、聴きにも来なかったかもしれない。
年を取るのは、悪いことじゃないのだ、とつくづく思う。
例えば、中世哲学に寄り道してみたからこそ、アリストテレスやプラトンの話もぼんやりながら筋を見失わずに話を聞けるようになったし、現象学のまわりをうろうろしてみたからこそ、さりげないベルク氏のハイデガー批判もぐっと身近に感じられる。
近代批判の文脈におけるフォーディズム批判のスタンスは、萱野稔人さんのフーコー論から響き合ってくる。
また、主語と述語の関係のアナロジーで自然と人間の環境における象徴的な相互関係を読み解くのは、ラカン的な精神分析の匂いもするし。
ま、要するにこの思想=哲学的なる空間の芳醇な香りを満喫したってことですかね(笑)
知的な対話が、一番の悦びなんだと改めて思う。そして、ここが面白いところなんだけれど、年を取ってくると、対話できる対象が豊かになってくる。
古典についてもいささか親しむようになるし、現代的な課題とそれに対する「今」の哲学や思想、技術たちの取り得るスタンスも見えてくる。
見えてきた上でモノを考えるのは、ほとんど至上の喜びなのではないか。
人文科学系の学問の面白さが、ようやくわかりはじめてきた。
若いうちにがっちり古今東西のテキストを読み込んでおくのは、意義深いことなんだね。もういくら読んでも覚えられなくなった頃に分かるのが凡人たるゆえん、なのだけれど。
それでも、テキストと解釈がある程度自分の中にあると、講演を聞きながら、ある瞬間には講演者と対話し、ある瞬間には講演者が引用テキストと対話するのに耳を澄まし、あるいはさらに、その対話に自分で割り込んでいってさらにポリフォニックな対話空間を作っていったり、ということができる。
もちろん、たった一つの正しい道を探すような焦燥感あふれるスリリングな若い読みはもうできない。
でも、対話の中で、「あれ、これってもしかすると」という発見をすることはできる。てことかなあ。
そういえば、フーコーがカントの啓蒙を引用して「大人」の時代みたいなことをいってたような気がする。ちがうか?
さて講演の中身はとりあえず以下で。
自分なりのメモは後刻メディア日記に書きます。
日仏会館ホームページより。
http://www.mfj.gr.jp/agenda/2011/07/04/index_ja.php#1138
______________________
自然と文化の通態:和辻風土論と今西進化論を出発点に
講演者:
オギュスタン・ベルク
(フランス国立社会科学高等研究院)
講演要旨:
和辻哲郎の人間界についての説とヤーコプ・ヨハン・フォン・ユクスキュルの動物界についての説には驚くべき相似性がある。和辻が「風土」と「自然環境」を区別しなくてはならないことを示しているように、ユクスキュルは生物の一つの種にとって存在する周囲の世界である「環世界」(Umwelt)と、科学が把握するような環境的与件である「環境」(Umgebung)とを区別しなければならないとする。「風土」あるいは「環世界」は「環境」のように普遍的ではなく、一般的に生物であろうと、あるいは特に人間であろうと、一つの主体がいかに個別的に環境を解釈するかの結果である。この解釈は偶然的で、人類の諸文化の時間の広がり(いわゆる歴史)または生物の時間の広がり(進化)から見ても、その歴史は常に特異なものである。そこにおいては、主体(文化、生物の種)とそれを取り巻く周囲とが互いに作用し合う。すなわち特異なロジックの相互関係、「通態性」(trajectivit )が存在するのである。それは進化に関する諸理論において支配的な機械論的思考におけるように単なる因果関係に還元できるものではない。
平日仕事を早めに切り上げて高速に乗る。
首都高が渋滞していなかったため、2時間半ぐらいで恵比寿に到着。
ダメもとで尋ねてみたら日仏会館の守衛さんは親切で、駐車スペースを提供してくれました。
高速駐車料も無料。ガソリン代約4000円のみで首都圏の講演会やシンポジウムに参加できるのは非常に嬉しい。
この一年は、最大限に利用しよう。
まだ時間があったので、近くの喫茶店でちくま文庫から出ている『空間の日本文化』を再読する。しかし、ぎっしり中身が詰まっているので(単に参照・引用が多いと言うことではない。一つ一つ批評的ち吟味されている)、飛ばし読みができない。
若い頃はとにかくアイディアがほしくて本を読んでいたから、初読の時にはこの本の魅力は十分に理解できなかったのだろうな、と思った。
今日の講演だって、私が10年若かったなら、「いまさら和辻とか今西かい」ぐらいの生意気な感想を抱き、聴きにも来なかったかもしれない。
年を取るのは、悪いことじゃないのだ、とつくづく思う。
例えば、中世哲学に寄り道してみたからこそ、アリストテレスやプラトンの話もぼんやりながら筋を見失わずに話を聞けるようになったし、現象学のまわりをうろうろしてみたからこそ、さりげないベルク氏のハイデガー批判もぐっと身近に感じられる。
近代批判の文脈におけるフォーディズム批判のスタンスは、萱野稔人さんのフーコー論から響き合ってくる。
また、主語と述語の関係のアナロジーで自然と人間の環境における象徴的な相互関係を読み解くのは、ラカン的な精神分析の匂いもするし。
ま、要するにこの思想=哲学的なる空間の芳醇な香りを満喫したってことですかね(笑)
知的な対話が、一番の悦びなんだと改めて思う。そして、ここが面白いところなんだけれど、年を取ってくると、対話できる対象が豊かになってくる。
古典についてもいささか親しむようになるし、現代的な課題とそれに対する「今」の哲学や思想、技術たちの取り得るスタンスも見えてくる。
見えてきた上でモノを考えるのは、ほとんど至上の喜びなのではないか。
人文科学系の学問の面白さが、ようやくわかりはじめてきた。
若いうちにがっちり古今東西のテキストを読み込んでおくのは、意義深いことなんだね。もういくら読んでも覚えられなくなった頃に分かるのが凡人たるゆえん、なのだけれど。
それでも、テキストと解釈がある程度自分の中にあると、講演を聞きながら、ある瞬間には講演者と対話し、ある瞬間には講演者が引用テキストと対話するのに耳を澄まし、あるいはさらに、その対話に自分で割り込んでいってさらにポリフォニックな対話空間を作っていったり、ということができる。
もちろん、たった一つの正しい道を探すような焦燥感あふれるスリリングな若い読みはもうできない。
でも、対話の中で、「あれ、これってもしかすると」という発見をすることはできる。てことかなあ。
そういえば、フーコーがカントの啓蒙を引用して「大人」の時代みたいなことをいってたような気がする。ちがうか?
さて講演の中身はとりあえず以下で。
自分なりのメモは後刻メディア日記に書きます。
日仏会館ホームページより。
http://www.mfj.gr.jp/agenda/2011/07/04/index_ja.php#1138
______________________
自然と文化の通態:和辻風土論と今西進化論を出発点に
講演者:
オギュスタン・ベルク
(フランス国立社会科学高等研究院)
講演要旨:
和辻哲郎の人間界についての説とヤーコプ・ヨハン・フォン・ユクスキュルの動物界についての説には驚くべき相似性がある。和辻が「風土」と「自然環境」を区別しなくてはならないことを示しているように、ユクスキュルは生物の一つの種にとって存在する周囲の世界である「環世界」(Umwelt)と、科学が把握するような環境的与件である「環境」(Umgebung)とを区別しなければならないとする。「風土」あるいは「環世界」は「環境」のように普遍的ではなく、一般的に生物であろうと、あるいは特に人間であろうと、一つの主体がいかに個別的に環境を解釈するかの結果である。この解釈は偶然的で、人類の諸文化の時間の広がり(いわゆる歴史)または生物の時間の広がり(進化)から見ても、その歴史は常に特異なものである。そこにおいては、主体(文化、生物の種)とそれを取り巻く周囲とが互いに作用し合う。すなわち特異なロジックの相互関係、「通態性」(trajectivit )が存在するのである。それは進化に関する諸理論において支配的な機械論的思考におけるように単なる因果関係に還元できるものではない。