龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

体の中の血が沸騰してくる感触。

2013年06月24日 22時37分51秒 | 大震災の中で

第38回全国公害被害者総行動デー [東京電力・政府合同交渉]
2013年6月6日
の原発事故被害の農家の方の声の文字起こしです。

http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-3038.html

厳しい。
生産農家の方の言葉を聞いているだけで、身体中の血が沸騰しそうになる。


『ドゥルーズの哲学原理』國分功一郎を(前半だけ)読む

2013年06月22日 02時31分52秒 | 大震災の中で
今日は「エチカ福島」のセミナー本番だというのに、夜中に本を読んでいる。
これが厄介なことにすこぶる面白いのだ。
そろそろ眠らないといけないのだが、遠足前にリュックの中のご馳走である「バナナ」に手をつけてしまった小学生のときの自分、のような心境で、なかなか途中でやめられない。

岩波の『思想』に連載中の時すでに読んだ部分を「読み返して」いるはずなのに、印象がだいぶちがう。
確かに漫画でも小説でも、連載時に細切れで読んだ時と単行本で一気読みした時とで印象が異なるのはよくあることだ。
だが、この本に関しては、単行本で読まれることによって初めて得られる、いわば
「テキストの持つドライブ感の本質」
のようなモノを感じるのだ。
何を大げさな、と言われるだろうか。

しかしたとえばドゥルーズ自身の言葉

「超越論的な探求の特徴は、ここでやめたいというところでやめるわけにはいかないというところにある」

國分氏によって繰り返し言及されるいわばドゥルーズ自身の思考のエンジンの鼓動のような言葉が、そのまま國分功一郎という書き手のドライブ感と重なってくるとしたらどうだろう?

それは、一見どこまでも発生の現場に遡ろうとする「意思」として読者自身に受け止められることになるだろうが、同時にそれは、一点を深く掘り下げたり、単に論理を遡行するような「思考の深度」を示すのではなく、持続するその「意思」が、部分部分で共鳴しつつ「全域化」してしまう取り返しのつかなさにまで、私たち読者を断固として連れ去っていくのである。

そのためには、単行本の形で読む方がいい。

個人的な感想をひとつ。
ドゥルーズについて徹底的に思考されている(だけの)この論文が、なぜこんなにも親しく、個人的な「私」の場所に語りかけてくるのだろう、と不思議に思わずにはいられない。
私がドゥルーズのよい読者であるなら分かるが、全くそんなことはない。
それなのに、あのカントを読んだときの異和のある感触、あのスピノザを読んだときの分からなさ、フロイトを読んだときの「分からなさ」、ハイデッガーを読んだときの共感と置いてかれ感、ラカンを読むときに感じる魅力ともどかしさ、そういうものの全てがここに詰まっているのだ。

もちろん、國分功一郎のテキストのあまりにも明晰な一本のタテ糸の強靭さ、その持続力には驚かされる。
それをたどって行くだけでその快感は「かなり」のものだろう。
それだけを読んでも、近代哲学の「系譜」をドゥルーズ読解によって示してくれている。

その膂力だけでも驚嘆に値する。

だが、惹かれる理由はそれだけではない。

今ここで起こっている微細なレベルの出来事に、テキスト自身が届いている。
そういうことなのだろうと思う。



ドゥルーズの「精神の運動の軌跡」を微分的に解析してもらっている細やかなところまでクリアになる明晰さと、にかかわらすその表現自身が「精神の運動の軌跡」それ自体であるような強靭さ、力感を同時に感じるのだ。

フーコー論についての論、の部分は連載時も未読なので、上のことは第2章までの部分に関する感想です。

さて、もう2時半。眠らなくちゃ……

本日、「エチカ福島」第2回セミナーを開催します。

2013年06月22日 01時03分25秒 | 大震災の中で

「エチカ福島」の第2回セミナーがいよいよ本日開催されます。
ぜひお越しくださいませ。

他者と出会うことが世界を、そして自分を創り出す。
そんな場所の出来事について、ゆっくりお話しませんか?


日時:6/22(土)13:00~
場所:福島県立美術館講堂
内容:「アートでつながるってなんだろう」
問題提起:
深瀬幸一(橘高校)
丹治嘉彦先生(新潟大学)

☆問題提起の後、90分、ゆっくりお互いに話をするがあります。
☆資料代500円ですが、美術館の常設展チケット付きです。




「廃炉の雇用40年」続き

2013年06月19日 22時20分30秒 | 大震災の中で

人は大袈裟だ、と言うだろうか?

しかし、年間1ミリシーベルト以下に基準を決めると福島市や郡山市など中通りの人々の避難が必要になり、100万人規模の影響が出るから年間被曝限度を20ミリシーベルト以下にしよう、とか政府内で相談があった、と先日報道されていたが、ことが大きければ大きいほど人を「人口」で統計的に捉えてしまう「生権力」的な言説との連続性を、その雇用についての挨拶にも感じてしまった、ということです。



「廃炉の雇用40年」のこと

2013年06月19日 22時11分49秒 | 大震災の中で
今日、とある会議があった。
高校の進路(就職関係)の集まりです。
そこでお役人の方から仰天のご挨拶が。

「福島はこれから40年間廃炉の雇用が生まれましたから」

えっ?!

「福島県は求人倍率が全国四位なんですが、これは不本意でして。なぜなら福島には特殊な事情がありますから。そう、除染です」

はぁっ?

いやね、そりゃ就職関係の会合で、ここだけの話で、まあ、そうなんだろうな、あなたの頭の中の優先順位は、とは思うよ。けっこう嬉しそうな感じを私は受けました。それは主観的な印象だけどね。


でもさ。
私は彼でなくて良かった。
普通そう言う感想は持たないんだけどなあ。
初めてかも知れない、あんな風にしゃべってしまう人を目の当たりにしたのは。

そういうことじゃないだろう。

確かに雇用確保は廃炉工程のためには大事だ。
除染も、私は全体のやり方としてはかなり疑問を抱いてもいて、効果については懐疑的だが、でも必要でかつ効果が上がる側面もあるだろうと思うよ。

しかしなあ。

かなり繊細に語られるべき内容じゃないかと思う訳よ、私は。

数字に還元される「生権力」そのものの言説、「原因」を全く無視した結果の歓迎ぶり。

倫理とかデリカシーとか口幅ったいこと言いたくはないが、呆れて帰ってきました。






戦慄系トーク、森田真生×鈴木健のこと

2013年06月16日 23時54分30秒 | 大震災の中で
週末遊び倒してようやく帰着。
明日から仕事になるんだろうか……。
いろいろ考えるべきことも仕入れてきたから楽しまなくちゃ。
数学者森田真生氏のトークは面白かった。でも、佳境にはいる前に終わった印象がある。
後半『なめらかな社会とその敵』の筆者鈴木健とのトークセッションは、隔靴掻痒の感あり。
二人のいいところが出尽くさないうちに時間切れしちゃったかな。コーディネートが弱い印象。二人とも飛び切りの素材なだけに、いささかもったいない感じ。
しかし、それでも十分面白かった。

前半数学の歴史を語りながら、自立した体系として数学は存在するのではなく、人間という存在が見る風景として数学はあるんだってところが、私にとってはいわゆる一つの肝だった。
むしろ人間を含んだ生態系のような、というか、数に対する脳の質感(クオリア)が前提となっているというか。

数を直観することと、数を記録することと、数えることが違う(人間は3~4までしか直観できない、一対一の対応、カウントすること)、ピタゴラスから、外側をアクセスするんではなく、数学の中で数学に自己言及する形が始まったとか、そういう歴史の話もおもしろかったです。

数学を数式抜きで語るのはかなり限界があるだろうに、それは正直凄いと思いました。
時間が短く感じられましたから。

数学は離散的記号によってそれ自身に自己言及的にかかわるが、哲学は自然言語によって哲学的表現に言及して外部をやはり参照しない、という比較は面白かったです。

数学の記号は離散的。分けられていく。
哲学は自然言語だから、そうならない。

その辺りもう少し話を聞きたかったです。
もう少し整理して見なくちゃ。




「福島芸術計画」平田オリザと和合亮一(2013.06.15於:福島県立美術館)

2013年06月16日 13時46分57秒 | 大震災の中で
友人(「エチカ福島」の共同代表)がブログで、昨日福島市で行われた「東北芸術計画」というイベントにおける平田オリザと和合亮一のコメントと、それについての感想を書いてくれています。

ぜひ一読を。

考えるネコ、走るイヌ
http://plaza.rakuten.co.jp/gato814/diary/201306160001/

都会はいろいろあるねえ。

2013年06月16日 13時17分35秒 | 大震災の中で
昨日の午後、有楽町をうろうろしていたら、八戸復興祭的イベントを駅前でやっていた。
そこで聴こえてきたのが素敵なボーカル。
あとでチェックしたら
安藤佳子さん
http://s.ameblo.jp/yollips2461/entry-11553187197.html

でした。

通りすがりに有名ではない映画も観られるし、このあと映画の帰りにはガード下でサックスのストリートミュージシャンに聞き惚れてしまったし、今から数学者のトークショーにいく予定だし、都会は本当に街を歩いているだけでも面白いイベントがたくさんある。
それだけたくさんの人が自分を磨きつつ生活してるんだろうし、その傍に立ってその営みを応援したりその成果を享受したりもできる。

福島からつかのま逃げ出してくる意味もあるというものか。

さて。
点と点を結んで情報を繋ぎ、提示された「経験」を潜り抜けていく都会の営みはとても楽しい。
けれど、それは被災地の「被災」にばかりアイデンティファイしてもいられないのと同様、楽しんでいる自分という環境の「次」というか「以前」というか、はみ出す「余り」に横目で注意しておかないといかん、かったりもする。

その瞬間に出合う表現

に対する自分のリアクションを、自分だけで繋いでいってもしょうがない。

そこを収斂すちゃうつまらなさからどう動いていくか。
お前も歌えってことですかね?
いやいやまさか。

ただ、どんな「歌ならぬ歌」を歌うかは、考えるべきかもしれない。








「ドゥルーズの哲学原理」を受講する前に (1)「真理への欲望」(フーコー)のこと

2013年06月16日 11時49分00秒 | インポート
「ドゥルーズの哲学原理」を受講する前に
(1)「真理への欲望」(フーコー)のこと

國分功一郎「ドゥルーズの哲学原理」を受講する前に

國分功一郎先生は、昨年度朝日カルチャーセンターでスピノザの通年講座(12回)を実施しました。
今年は年4回、ドゥルーズについての講義。

その講義メモを今からまとめようとしているのだけれど、今回はその前に、個人的な話をちょっとだけ。

講座内容はすでに岩波書店の雑誌『思想』に連載されているし、6月19日には『ドゥルーズの哲学原理』として出版もされる。

わたしがここでいそいで細かく書く必要はない。

スピノザ講座の場合は、後半のエチカ論についてはまだ本が書かれていない先生自身の思考の前線のライヴだったから、たとえメモが不備でも、急いで書いておく意義が多少はあったけれど。


むしろ私個人としては、ドゥルーズにたどり着くまでの道筋をまとめておくことも必要かなと。

もしお暇でしたらしばらくお付き合いを願っておきます。


スピノザを集中的に読み始めたのは、2006年の10月からだ。

その頃私は、フーコーのコレージュ・ド・フランス講義と文庫のフーコーコレクションも読んでいる。
萱野稔人の『国家とは何か』を読んだのがその2005年。彼はフーコー研究者だから、そのあたりからもう一度哲学を読むことが習慣になり始めてきたのかもしれない。

年齢的には40歳代半ば。

文学からもう一度哲学へ、という自分の中での嗜好の変化を改めて自覚するのはもう少し後のことだが。

しかしそれにしても、アマゾンの履歴は、ほとんど「致命的」と呼べるほど決定的な情報だ。

今日検索してみて初めて実感した。
私自身が全く覚えていない「読書歴」を、ほぼ完全な形で時系列(月毎)で教えてくれるのだから。

これをみただけで、私と面識がない人でも、

「そうか、きみはそんな奴だったんだな」

と私の無意識の「系譜」を分かってしまうだろう。
まあ、一銭の得にもならないからこれで犯罪は構成しにくいだろうけれど、かなり決定的な情報であることは間違いない。

さて、フーコーは、大学の頃から断続的に触れてはいた。
そのなかでも、たしかコレージュ・ド・フランスの就任講義だった『言語表現の秩序』は、私の理解の範囲内でさえ(つまりは短かったってこと)衝撃だった。

いわゆる「真理への欲望」のはなしですね。

いってみれば「真理厨」だった私の頭の中のヒダヒダがひっくり返された瞬間だった。


蓮實重彦の文芸批評経由で、フーコーもデリダも読んでいたが、高校の倫理の授業では哲学といえば実存主義までだったから、基本、フーコーもーデリダもいくら読んだって意味が分からない。
もちろん、フロイトもマルクスも全く読めない。

当時流行していたポスト構造主義的なラインナップの中で唯一分からなくても読めたのがラカンであり、現象学ではメルロ・ポンティだった。
あとは昔からお気に入りだったヴィトゲンシュタインですかね。

今となってみると、
「立てられた問いと対象との距離感」
が短ければ、かたられようとする答えは分からなくても何とか付いていけるけれど、対象が何で、それに対する問いがどうなされているのかが両方とも分からないと、とにかく読めない、ということだったのだろうと思う。

無論、早分かりの解説本は読んでいたが、まだ時代も後期近代を生き始めたばかりだったから、自分の生きている今を十分には相対化できておらず、早分かりが早とちりを招く危険が大きかった。

(早分かりって、いちばん大きなフレームだから、正確性を問わなければ案外大切だと思う。これも今にして思えば、だけれど。ただ、渦中にいると早分かりがちっともわかりやすくなかったりしてね)

大学を出てもなお「真理厨」だった私にとっては、

例えばメルロポンティの「間主観性」とか、
あるいはラカンの謎めいた「主体」の虚構性=構成性の指摘だとか、
またヴィトゲンシュタインのように前期と後期で全く異なった世界像を提示して「意味」の零度みたいな場所を指し示しあるいはその世界像の輪郭をなぞり示そうとすることばの身振りとか

を(彼らがはたして私の中の稚拙な問いを問うているのかどうかは問題ではなく)、自分の「問い」を問うためのフィルターとして、彼らのテキストの指し示す「意味」を「使用」していたのだろう。

ただ、そのときうっすらと半ば無意識に感じていることがあったとすれば、頼まれもしないのに彼らが彼ら固有の問いを問うその欲望が、「真理への欲望」に還元しきらないものだとするならば、彼らのテキストはどこからどこへ向かっているのだろうか、という問いでもあったかもしれない。



政府、再除染しないという非公式の指示

2013年06月16日 09時55分59秒 | 大震災の中で


政府、再除染認めない方針に 自治体に非公式伝達

これも全く意外ではない。

しかし、今の国の施策レベルではどうにもならない現実を生きているということを、私たちはこの除染問題だけではなく、キチンと折り込んで生きていく必要があります。
除染を繰り返し徹底的にやる覚悟なんてないんだよね、行政は。
それはまず持って「予算を湯水のように使う」ことはできないという発想なのだろう。

でも、除染はお祓いじゃない。

線量が下がるまでやる。
そうでなければ住めない。
それは、あまりにも自明なことなのに、単なる事業=予算の執行として扱われてしまう。

チョット血が沸騰しそうな怒りが湧いてくる。
つまり、政治において科学的言説は、統計的な数字と予算の数字に還元されて輪郭を画定されていくのだね。

日本人はそんな覚悟もないのに除染とか言ってるんだ。
政府が決めた基準まで下がらないのに予算を執行しない、というのは、矛盾だよね。
まあ「非公式」だから、言い逃れはいくらでもできるのだろう。

小出しに後からズルズルしているうちに、民は諦めていく。

簡単にはコントロールできないほどの膨大な予算を必要とする事故=洞穴のような「深い闇」。

それとどう向き合い、どう付き合っていくのか。
長いスパンで覚悟と指針を問われているのは、行政だけではない。
まずもって私たち自身だ。

それでも私たちはこの「環境」に「適応」していくのだろうか。



ETV特集「基地を笑え~人気舞台でみる沖縄のホンネ」を観た

2013年06月16日 01時11分10秒 | 大震災の中で


ETV特集「基地を笑え~人気舞台でみる沖縄のホンネ」を観た。
5年前の番組だそうだけれど、軽い衝撃波を感じました。
小波津正光
という芸人さんに密着してその取材や舞台を撮ったものです。
そのお笑いはチョット苦く、チョット緩く、チョット切なくて、かなり楽しい。

さっき観た映画とはまったく関係ないのだけれど、私の中では響き合った。

自分が今向き合っていることと無縁ではない、という感じがある。
一つ一つの印象をどう繋げるか、時間が必要だけれど、小さい断片をつないでいかねばならない。
それをじっくりやらねば。
そう思った。


上野千鶴子・宮台真司・大澤真幸と読んできて思うこと

2013年06月14日 00時32分40秒 | 大震災の中で
社会学について学んだこともないし、学問的に関心があったわけでもない。
ただ、折に触れて社会の出来事を分析し、その底流に流れる「無意識」のフレームを提示してくれるのが、たとえば上野千鶴子であり、宮台真司であり、大澤真幸だったことは間違いない。

文学畑の人はいささか面倒くさいか、あっけにとられるほど単純かで、どちらも据わりが悪かったということもある。
思想とかいうものには元々縁がなかったし。

で、上野千鶴子には「戦闘」を、宮台真司には「啓蒙」を、大澤真幸には「狂気」を、芸風として教わったような気が(勝手に)している。

いずれも読んでいるとき、いささか「イライラ」させられたりもしたが、概ね(上野的にいえば)「真理ではなく信憑を」語る彼らの「手品」のような言説に惚れ惚れしながらその手さばきの見事さを見入っていたような気がする。

たとえば大澤真幸。
3.11以後たまたまセミナーの後、直接質問する機会があった。
テーマは天皇だった。
私が
「天皇夫妻が避難所にくる映像を見てると、菅首相や東電社長と違って、どうしてもぐっとくるんですよね。」

と感想を述べると

「そうですかね。私はそうは思わないんだな。それじゃあ日本の天皇に過ぎない。やっぱり免震棟に行かないとね。今事故の現場に寄り添ったら、世界の天皇になると私は思いますけどね」

「でも、周りが止めるんじゃないですかね。天皇ですから、まさか行かせられないでしょう」
「そうかな。そんなことはないと思いますよ。行けばいいのになあ、免震棟」

さすが大澤先生、と私はそのとき思った。

その後、大澤真幸は「偽ソフィーの選択」というキャッチフレーズをしばらくの間原発事故について示していたけれど、この「天皇論」に比べると「偽ソフィーの選択」は説明的で、普通だった。

今回、「現代社会論」ということで久しぶりに大澤先生の話を聞いたけれど、独特のドライブ感があって、面白かった。

「病気を治療するのではなく、病気とつきあう」「べてるの家」
と、
パウロの「コリント人への第一の手紙」7章・13章とを並べて

反知性主義じゃなくて、知性をくぐり抜けた「無力」=「無」としての「愛」

の論理展開自体は、大枠『ナショナリズムの由来』から変化していないが、次々に新しい材料を繰り出してきて極限的「狂気」の近傍に立ち、その「無力」な場所から「生」の倫理をつかみ出す手さばきはやはり見事なものだ。

唯一の実体「神」を「証明」してしまうスピノザの方向とは一見全く違っているけれど、「自分で意志することについての価値の切り下げ」をいい、あくまで人間から「自然権」を切り離さず、しかも理性を最大の価値としないハイパー「合理主義」のスピノザの世界像と、「無」を接点として通底する面があるようにも感じた。

納得の講座でした。
今年出版された『生権力の思想』(ちくま新書)は、規律訓練型権力分析(フーコー)から環境管理型権力(東浩紀)へ、という方向性で、さまざまな「社会の事件」を配置しつつポストフーコーの権力論を展開している。

そういえば、フーコーの晩年についてはいろいろ議論があって、萱野稔人と大澤真幸のフーコー講座でもそこが話題になっていた。

大澤先生は基本的に

「フーコーの晩年のパレーシア論はやっぱり後退だよね。前半の権力分析がうまくいったけれど、それがうまくいきすぎて先が袋小路になってしまった。そこを離れて思考しようとしたのだろうけれど、ポスト3.11においては、フーコーの権力分析の範囲を超えている」

というスタンス。
萱野稔人は、フーコー研究者という立場もあるのか
「今、ちょっとそこはまだ」
と立場を明確にしなかったですが(大澤さんに気をつかった?)。

ここは、私にとっても、フーコーのテキストを直接ゆっくり読んで考えるべき宿題。

ともあれ、規律訓練型権力→環境管理型権力っていう大きなフレームは異論のないところ。

『ナショナリズムの由来』が目いっぱい大きな「権力論」(大澤用語でいえば「第三の審級」の不可視化)だったとして、

この前の「べてるの家」=「コリント人への第一の手紙」の講座は、ミクロのレベルでの権力論。

新刊の『生権力の思想』は、その中間の「社会学」的なフィールドワークおいて次々に「弾」(宮崎勤の祖父=幼女像、齋藤孝の身体論、ラカンの「女」、『ショアー』『ロフト・ストーリー』、オウムにおける身体性、舞踏の女性化などなど)を繰り出していく楽しい本になっている。

たどりつくところはフーコーの「パレーシア」論を超えてって感じの場所。それが先日のここにもアップした講座の内容とも重なるのだろう。

大澤真幸的「狂気」のドライブを、もう少し考えていきたい。








「見えない人間」ということ

2013年06月13日 23時31分27秒 | 大震災の中で

「見えない人間」をキーワードにして、原子力発電所の事故収束のために働く人を追っている写真家の文章。
福島に住む人も、福島で起こっていることに関心がある人も、いや、関心を持たずにいる人にも読んで欲しいと感じました。


「誰が第一原発を収束させるのかー見えない人間(1)」
http://m.huffpost.com/jp/entry/3424558