龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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第10回エチカ福島〈 「風化」に抗う声をつむぎだす〉を開催します。

2017年12月11日 22時48分50秒 | 観光
第10回エチカ福島

【開催日時】2018年3月10(土) 
13:30~17:00

【会 場】コラッセ福島 
(福島駅西口徒歩3分)    
   http://www.corasse.com/

【テーマ】
「風化」に抗う声をつむぎだす
  ―〈3.11〉の七年を問う―


【趣 旨】

 東日本大震災・東電原発事故から7年が過ぎようとしていますが、この間、「風化」という言葉を何度も耳にしてきました。とりわけ、震災・原発事故をめぐる個々の経験や記憶を置き去りにしながら進められる「復興」という言葉に「風化」を感じる人は少なくありません。

 避難指示解除や住宅支援打ち切りとともに進められる「復興」は、「避難者」にとってその存在の抹消に等しい言葉に響くでしょう。他方、避難せずに居住地に留まる選択したものや避難先から帰還したものにとって、それぞれの選択で生じた苦しさや葛藤に折り合いがつかないあいだに進められる「復興」は、やはり抑圧的な言葉として響きます。

 その意味で「復興」は、原発事故によって精神やアイデンティティを壊されたものにとって暴力的でさえあるのです。そして、いま必要なことは、猛スピードで進められる「復興」という大きな物語によって「風化」にさらされる小さな声を、それぞれの視点から丁寧に紡ぎ出し、共有されていくことではないでしょうか。

 第10回となるエチカ福島では、原発事故によって富岡町からの強制避難を経験しながら、今年3月の同町の避難指示解除によって「避難者」という存在が抹消されることに抗う市村高志さんと、歴史社会学者として「3.11」の様々な問題について研究・発言されている山内明美さんをお招きし、避難・帰還・残留という様々な観点から「風化」に抗う声を共有できる可能性を探っていきたいと思います。(文:渡部 純)

【講師】
市村高志さん
(NPO法人とみおか子ども未来ネットワーク)

 3.11の震災と原発事故により福島県富岡町から東京都に避難している。現在は「NPO法人とみおか子ども未来ネットワーク」の理事長。震災時は富岡町立富岡第二小学校PTA会長をしていた。共著に山下祐介・市村高志・佐藤彰彦 『人間なき復興──原発避難と国民の「不理解」をめぐって』(明石書店),論考に「私たちに何があったのか」(青土社『現代思想』2013年3月号)など。

【講師】
山内明美さん
(大正大学特命准教授・歴史社会学)

 日本近代の稲作言説とナショナリズムの関係性について、とりわけ東北地方をフィールドに研究しながら、日本の近代化と地方の在り様について旧植民地地域も包含しながら研究している。著書に、『子ども東北学』(イーストプレス)『「東北」再生』(イーストプレス)『「辺境」からはじまる―東京/東北論』(明石書店)など。

『概念と個別性』朝倉友海、読了。

2017年12月01日 14時01分43秒 | メディア日記
朝倉友海という人のスピノザ論『概念と個別性』を読み終えた。
もちろん哲学書は一度読んだからといってそうやすやすと理解できるものではないから、分かるのはこれからだ。

10年前、まずスピノザの本文に魅せられつつ意味不明のまま震災を迎え、何をどうかんがえていいもやら分からないままウロウロしつつもスピノザのテキストはいつも掌の中にあって繰り返し眺めて来た。
ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』を読み、上野修の『デカルト、ホッブズ、スピノザ』を読み、江川隆男さんの本や講座に接しつつ、震災後はなんといっても國分功一郎氏のコトバの傍らでぼんやり考えるともなく考え続けてきたそのことのひと区切りが、この『概念と個別性』でついたような気がしている。

第一章の 「観念と概念」が一番難しい。観念(これ、頭の中で考えている思考)と観念内対象(頭の中で考えられている観念における対象物、つまり事物)と形相(実際のモノ)の関係、とか言われてもそう簡単には腑に落ちないよね。

でも、対象もまた観念内の対象だというところ、つまり
観念(観念→対象)であり、
観念(観念→観念)であり、
かつこれは無限遡行しないってあたりのところはぼんやり手応えがあった。

物事を観念の外部には置かないってことなんだろうね。
もちろん観念自体も観念の対象になるから、観念の観念もまた観念になる。
ただし
「観念の観念の観念の……」 
と無限遡行はしない。

また、観念の外部に事物を置かない。

つまりここにある十全な観念によって表現されたこの世界=自然が唯一の実体ってことになるわけね。

だからそこには外部がない。

それはすなわち、唯一絶対の神様をわれわれの外部(超越存在)に措定してそこから存在の代わりに表象が流出してくる 「のではない」ってことね。

これからいよいよドゥルーズの『スピノザと表現の問題』
を再チャレンジせねば。

このあたり、なんだかだんだんワクワクしてきた。

デカルトの観念説は中途半端だ、と批判したスピノザはそれをさらに徹底的に考えたのだ、っていう國分さんのお話とも平行する。

もしこの本だけ読んだら何のこっちゃ、だったから、分からないなりに勉強は大事だってことでもある。

しかし、たぶんここは自分の感覚とは大分離れているのでそのうちまた分からなくなると思う。

ただ頭の中でスパークした個所、
画期的におもしろかったのは

「表現的なる観念こそが真なる観念であり、そうした観念が持つ表現性が、われわれの知性を構成している」朝倉P40

というところだ。

これはドゥルーズを読んでいて、また江川隆男氏のドゥルーズ=スピノザ論に接していても感じていたことたちにコトバを与えたもらった感がある。

『エチカ』に出てくる 「属性」というものを理解する鍵にもなりそうだし、これから
ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』を読む大きな助けにもなりそうだ。

実体があって、それが絶対的な規範や神様としてその下に属性(物質や精神)とか様態(具体的な個物=存在)が生じるのではないんだよね、スピノザ的には。

何となく『エチカ』を最初から読んでると神の存在証明とかやられちゃうから困っちゃう(おもしろいけど)わけだけれど、それを面白がって先に読み進めると、ある瞬間からその意味が変わってくる……そのあたりの機微はもう少ししないと説明できないんですが(笑)


第二章 「『身体の観念』とは何か」もワクワクだった。

「精神は身体の観念である」スピノザ

という有名な、そしてなんだかよく分からない決めぜりふを、丁寧に説明してくれている。

つまり、
「理性も観念もいいけど、身体とその精神の関係はどうなってるの?」
というスピノザを読んでいるとどうにもしっくりこない疑問点があって、思惟(精神的な思考)と延長(物質的なもの)の関係は 「平行」だなんて言われても困るわけです。実際スピノザは心身二元論についてデカルトのことを意味不明だと批判してるわけだし。

第二章はそれについても、事物と観念の不可分性を 「表現」というキーで読み解いてくれている。
 
まあ、
「観念と観念内対象との関係だから、所詮は脳内のお手盛り妄想じゃないか」
的な、主知主義に対する批判は想像できなくもない。

それについては別途。

でも、ようやくそういう不可知論的な、つまりは 「私的」なところから解放されそうな予感がある。
スピノザを読み続けてきてよかった、つくづくと思う。

(この項続く)