龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

なでしこJAPANの快挙

2011年07月19日 23時29分54秒 | 社会
日本中がその快挙に沸き立った。
ワールド杯優勝という偉大な達成の価値のすばらしさは、いまさら私がここで書くまでもありません。

それでも書いておきたいのでちょっとだけ。

朝の3時半に目覚め、午前6時過ぎまでTV観戦で応援したのだが、後半アメリカに先制されたときは、正直これまでか、と思った。だって、アメリカはスピードもあるし、シュートは連発するし、体格もいいし、技術もあるし、これを発揮すればアメリカは順当勝ち、という感じは間違いなく漂っていたと思う。正直、前半よく日本が0-0で切り抜けたものだ、と感じていたし。

20回以上対戦して一度も勝ったことがない、とも聞いていたし。

でも、素人のそういう「当たり前の予想」=「不安」を見事に超えたプレーを見せてくれたんですよね。
そのすごさがどこから来るのか、これからゆっくりじっくり考えていきたい。

釜本が活躍してオリンピックで世界3位になったときは、こんなにサッカーで世界を制することが大変だとは知らなかった。あれから数十年。
恵まれない環境の日本女子サッカー代表が、その壁を破って世界一を手にしたことの意味は、果てしなく大きいと思う。

なでしこジャパンはなぜ勝てたのか?
それは「必然」には違いないのだけれど、でもその「必然」は大きな驚きを伴うものであったことも事実。

延長戦で二度目に宮間選手のコーナーから澤選手がゴールを決めた時は、もうこりゃただことではない、というか、日本女子のサッカーは本当に「強い」のだ、とようやくそこで理解しました。
結果が出なければ強さが分からないというのは、素人そのものです。

PKのときのアメリカの選手の緊張ぶりを観て、日本の粘りが常勝の「強者」を追い詰めているのだ、と知り、もう本当にただただびびびびっくりでした。

男子代表だったら、1点取られたら、もうどうすることもできずに負ける感じだったのじゃないかなあ。
今まで見ていて、そう思う。
もちろん、それは世界との力の差、男子世界サッカーの層の厚さみたいなこともあるのだろう。歴史の長さも違うのだと思う。

でもさ、アメリカは圧倒的に強かったわけじゃないですか。それを二度も追いつくって。
追いつくって、先制するより強いよねえ。先制すると有利になって「強気の展開」が可能になることは確か。
でも、サッカーで強いってかんじは、取られたあとに逆に強さが出る感じが本当に強いチームって印象がある。

日本女子代表は、そういうとてつもない「強さ」を世界に示し得たのですね。
日本だとか、女子だとかいう「限定品」じゃなくて、世界的快挙。
いろいろ大変な2011年だけれど、同じ時代に生まれたことに感謝します。






西田敏行の宝くじのCM

2011年07月19日 22時53分29秒 | インポート
西田敏行っていう俳優は、不思議なヒトだなあ、と最近思うようになった。
福島出身なんだけれど、以前はあまり積極的に応援する気持ちになれなかった。
存在感はあるんだけれど、その存在感が上手いのか下手なのか分からない種類のオーバーアクション(アク)になっていて、「好き」というにはいささかうるさい感じがしていた(まあ、勝手な感想です)。
同じ福島出身の「無アクセント地帯」の福島弁を前面に出した役者さんでも、佐藤B作はその存在感が「芸風」に昇華されてる感があって、安心してその「わざとらしさ」を濃い味として楽しめるんだなあ。

ところが。

今回の宝くじCMの「わざとらしさ」は、いい感じなのだ。
「強引だったですか」
っていうコピーを、だめ押しで二回、わざとらしい笑いで糊塗しながら敢えてこの自粛ムードっぽい3/11以後に、福島出身の(関係ないけど<笑>)役者が、「一攫千金」の宣伝をする西田敏行の姿に、プロを感じました。

よく知らないくせに言うのもひどい話だが、西田敏行っていうヒトは、もともと芸歴も長いし舞台もやるし、「芸」は十二分にあるんだよね、きっと。
でも、大衆路線としては小洒落た雰囲気は決して出してこなかった。端々に、そのど真ん中の芸風ではないところで見せる「西田敏行」はちょっとかなりかっこよかったりもするおじさんだったりもするのにね。

ようやく惚れることができるようになったかな。

福島から発信するということ(18)

2011年07月19日 21時08分30秒 | 大震災の中で
水素爆発から4ヶ月。(17)でも書いたが、精神的に疲労が表に出てきたのだと思う。

「どこまで耐えていけるだろう」
と書いたが、逆に言えば、
「いったいどこに行けば、この不安から逃れられるというのだろう?」

といってみることもできる。
日本国内、原子力発電関連の施設がある場所は、どこであっても、福島の事故のような被災がいつ起こらないとも限らないのだ。
まあ、そうそう立て続けには起こらないだろう、という根拠無き期待だけが、福島以外を、福島とは違う場所であるかのように感じさせている、だけのことではないのか?

福島の事故以降、その「人為」のリミットとしての原子力発電所の事故という「裂け目」を目の当たりにして、
「底の抜けた現実」を生きるより他に、私達現代人の生が生きていく場所はないのだ、と感じずにはいられないのだ。

今朝、福島市に住む知人からメールをもらった。

「自分なりに整理してみると
“メルトダウンしたのは原発だけではない。3.11以後、様々な形やシステムも溶融している。福島はその中心とも言える。”
ということだろうか。“様々な形やシステム”というのは、中央集権的な国家の形や市場や経済のシステム、情報の有りようなどと捉えればよいだろう。」

とあった。
国が無策だ、と言うのはたやすい。
だが、私達の抱えている既存のシステム自体が、「もう無理」なのかもしれないと正直思う。

本当に、メルトダウンしているのは福島第一原発の炉心だけではない。
永田町だけが、被災地のリアリティを見失っている、のでもないだろう。

私達は、結構大きな危機に見舞われているのかもしれない。
「危機だ、危機だ」と触れて回れば済むような事態ではなく、慌てて目を覚ませばなんとかなるレベルのことではなく、根本から自分の力で考え直し根源的なところで「行動」を掘り起こさなければならないような種類の事態。

その危機感を共有している、ということは、福島から発信しておきたいことの一つだ。

「初期衝動を大切にしよう」ってのも、もう一つの合い言葉になるかもしれないですね。
だって、「公式な見解」や「公式の基準」は、後出しじゃんけんとしてしか機能しないんだものね。

政府に居る人や政治家だけが愚か者の大集団で、それを批判するメディアや庶民だけが英知を持っている
かのような意見に与することは正直できない。

自分で考えて、自分の「衝動」をきちんと形にしていくことが、今の福島ほどに求められている場所はないんじゃないだろうか。
そういう意味では、危機の「突端」にいることを実感する。

いうまでもないけれど、それは「被災者実感」の特権化や押し売りとは全然別のところで。

想像力をフル稼働して、「福島的な事象が起こっている区域」と、今はそれが起こっていないかに見える「平穏な場所」をなんとかしてつなげていきたいのだ。

友人はまた、こんな風にも書いていた。

「車で1,2時間も福島を離れると3.11以前の世界に戻ってきたかのような心持ちになる。子どもたちは外で遊んでいるし、少なくとも気にせず深呼吸できる。心がリラックスしてくる。
でも、それは錯覚に過ぎないと、福島から来た僕たちは気づいている。世界が変わったということ僕たちは知っている。いつもの年のように、桜が咲いて暑くなって季節が進んでいっても、これまでとは時間の進み方が明らかに違っていることを僕たちは体で感じている。
元の世界へはもう戻れない。」

元の世界にはもう戻れない……それもまた、「福島」から発信すべき確かな実感の一つだ。



福島から発信するということ(17)

2011年07月19日 20時29分40秒 | 大震災の中で
この2週間、風邪を引いてグラグラしていた。

理由は分かっている。土日になると「週末避難」を繰り返していたからだ。

4月末からほぼ3ヶ月近く、週末は自分の家から「避難」していた。
線量が高いといわれ、地元の港は復旧せず、しても水揚げはできない、地元の野菜は大丈夫なのか、それに加えて牛肉の全面出荷停止、職場も5月からの仮住まい、8月には再度引っ越しを控えている……こんな中で精神的に疲弊しないはずはない。

自分でそんなに大変だと意識しているわけではないのだ。
でも、気がつくと気持ちと身体が重くなっている。
だからこそ、ここにじっとしていられない。ま、そこは性格もあるんだけれど(苦笑)。

とにかく、毎週末は「避難」を続けていた。

講演を聴き、シンポジウムに顔を出し、対談やセミナーをハシゴし、友人知人を酒飲みをして喋る。温泉に泊まり、買い物をする。
隙間が空くのを怖れるようにずっと出歩いていたら、7月になってガソリンが切れたようにへこたれてしまったようだ。

福島県民が背負うべきものの大きさは、これから次第に全容が明らかになってくるのだろう。

水田も作り続けなければ2年でその機能が失われてしまうのだという。
今夜のニュースで牛を飼っている農家が「出荷停止になっても、毎日世話をして飼料を与え続けて行かなければならない」と言っていたのが耳に残った。

生き物と付き合うということは、そういうことだ。
出荷停止、ということになれば、基本全量買い上げをして貰わなければなるまい。
それにしても、今後新たにその飼育のサイクルを続けていけるのかどうか、農家の危惧と苦悩は深い。

そしてその苦しみのいくぶんかを(大げさだと思われるかもしれないが)「福島県」に住む我々は共有している、と感じる。

いったいいつまでこれが続くのだろう。
いつになったら、何の支障も心配もなく、海の魚を採って食べ、庭で採ったばかりの野菜を安心して料理に使い、地元産品を以前のように誇りを持って他県の知人に送ることができるようになるのだろう。

1年後?2年後?3年後?それともセシウム137の半減期30年を待たねばならないのだろうか?

3月から7月の初めまで、私はここで踏みとどまっていこうと考えていた。
しかし、ここにきて、子ども達はやはり福島県外に生活の拠点を持った方がいいのではないか、と正直思い始めている。
全ての生活の中で線量を意識し続け、除染を考え続け、地元の産品に怯え続けなければならないという負荷に、自分は今後耐えていけるのだろうか。
年も年だし、気にするのもバカバカしい、とうそぶいてはいても、それを続けていけるのだろうか。

気にしなければそれですむ、ということでもないしね……。
それに、体力が落ちたために、少々気弱になっただけ、なのかもしれない。

だが、揺れ動く心は、いつになったらその震えを止めることができるのか、簡単に答えは出ない。
幼い子を持つ親たちのことを、改めて思う。
目に見えない放射能と闘うということは、心がしだいに疲弊していくその「ジリ貧」とも闘っていかねばならないのだ。

結構、しんどいものだね。