龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

毎日新聞がいわき市の現状の検証記事を掲載。

2013年05月28日 21時19分02秒 | 大震災の中で
毎日新聞が、いわき市民と、双葉郡からの避難者との共生の難しさについて検証記事を載せています。
いろいろコメントしたいことはあるけれど、検証記事として評価すべきと感じました。
まずは読まないとね。形にしなければ先に進まない。

中にいるとかえって見えないこともある。

検証・大震災:福島・いわき市の現状 共生遮る誤解の連鎖
毎日新聞2013年5月24日 東京朝刊
http://mainichi.jp/feature/20110311/news/20130524ddm010040016000c.html

たしかに簡単には解決できない問題もある。
いわき市民と双葉郡雛者、というカテゴリーだけをつきつめていけば、共生は難しいのかもしれない。

できることは、もっと具体的な顔の見える範囲で何かあるはずじゃないのか。
そう思う。



住民の安全より避難拡大を防いだ?!「分かっていたよ」と思う自分に腹が立つ。

2013年05月25日 17時06分01秒 | 大震災の中で
日頃のさぼり癖がたたり、連休明けから結構忙しくすごしてしまった。
その間、原稿の〆切を二つ延ばし、テスト作成と採点の業務をくぐり、「エチカ福島」の打ち合わせ(酒飲みのことですが)もこなし、温泉旅行まで入れてようやく今日に至る。

連休中の楽しかったことが遠い昔の思い出みたいです……。

少しずついろいろ溜まったことを書いていきたい。

何と言っても腹が立ったのはこの記事だ。

「福島の帰還基準、避難者増を恐れて強化せず 民主政権時」
朝日新聞デジタル 5月25日 7時9分配信
 【関根慎一】福島第一原発の事故で避難した住民が自宅に戻ることができる放射線量「年20ミリシーベルト以下」の帰還基準について、政府が住民の安全をより重視して「年5ミリシーベルト以下」に強化する案を検討したものの、避難者が増えることを懸念して見送っていたことが、朝日新聞が入手した閣僚会合の議事概要や出席者の証言で明らかになった。

詳細は下を参照されたし。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130525-00000011-asahi-soci

「そうだろうよ、知ってたよ」
と思う。
「全然意外じゃないよ」
とも思う。
そして、何よりもまず、あのみんなが大変な思いをしている時に、政治家とは、こういうことを考えるものなのだ、とも改めて実感する。
だから、原発事故を踏まえた政治なんぞ、あやつらにできないのだ、とも分かる。

そして、何でも「分かっている」のに、「分かっている」だけで何もできない自分に腹が立つ。

避難民がたくさんでない程度に基準を定める、というのは、単なるミスではない。
あの時私たちが感じた怖れや絶望を、数に還元し、お金に還元して見捨てたことだ。
これは全く橋下徹が今回発言した戦時中の兵士の性処理を、「どの国でもあったことだ」というレベルで発言してしまう発想と同様だろう。
レトリックとして、あれはどこの国にもあった歴史的な事実の問題だ、というスタンスを橋下徹はなおも崩していない。
それは現政権の誰かがいった「フルスペックの人権」というレトリックと同様の「薄さ」を孕む。

私は、生きている限りこの、記事に書かれた決定に関わる者共を許さない。
今まで議論しなかったことも許さない。

原発事故が発想として「有事」扱いだった、ということだろう。

この国では、出来事の規模が大きくなると、
「なかったことにしよう」
というセーフティがかかる。

為政者とは、その程度の者共なのだ。
だったら、私たちは彼らをもっと徹底的に縛らねばならない。
油断ならないね。

これは安易に決めて良い基準の話ではない。

何度も繰り返しになるけれど、普段なら、3ヶ月で1mシーベルトの線量が限界だって法律があるわけだからね。
これでは、国は費用と混乱を理由に基準を「お手盛り」したと捉えられても仕方が無いだろう。










「エチカ福島」第2回セミナーのお知らせ

2013年05月25日 14時57分10秒 | 大震災の中で
「エチカ福島」第2回セミナーのお知らせ
下記の日程?内容で、セミナーを開催します。
前回は國分功一郎先生をお招きして、大震災以後の福島をどう考え、どう生きるか、について考えました。
今回はエチカのアドバイザーでもある丹治嘉彦先生においでいただき、アートで地域の人がつながるってどういうことだろう、について話をしてみましょう、ということです。

第一回目が縦軸を立てるために自分の足元に穴を掘ったのだとすれば、第二回目は横軸のひろがりについて、人がつながるためには、をアートでかんがえてみるってこと、でもあるかな。

「エチカ福島」の「エチカ」は、その場所に共に生きるものたちが互いに持ち得るともがら(輩)のことわり(道理)という意味も込めています。
緩く、微かな響き合いこそが、大切。そんなつもりでエチカの活動は続けていきたいと思います。

日時:6月22日(土)13:00~16:00
場所:福島県立美術館講堂
内容:「アートでつながるって何だろう」
問題提起者:丹治嘉彦(新潟大学教授)、深瀬幸一(橘高校教諭)
資料代:500円(美術館常設展チケット付き)

もしよろしかったら一度覗いて見てください。



「日経サイエンス」2013年6月号は天才特集

2013年05月03日 11時24分56秒 | 身体
日経サイエンス2013年6月号の特集は

「天才脳の秘密 ー 天才と変人 解き放たれた知性/サヴァンに学ぶ独走のヒント」

科学雑誌といいながら、この「人間中心主義的」テーマの堂々した感じはちょっと笑えるんですがね。
まあ、人間精神は科学ならずともヒトにとって永遠の課題だから、そこに科学が参入したっておかしいことはない。
むしろやれることは徹底的にやってもらいたいよね。

というわけで、「天才脳」。
(ただし論文内で、典型症例として比較されているのは統合失調症とか抑うつ、アルコール依存症が中心です。それを多動にまで結びつけたいのは、ブログ子・foxydogの妄想です<笑>。でも、関係あると思うよ。全ての「変人」は、なりそこねた天才だ、みたいは話なんですけどね。

こういう特集を大まじめでやるところが「日経サイエンス」。むろんアメリカ本家の「SCIENTIFIC AMERICAN」自体の編集方針なのかもしれないけれど。

(ちょっと寄り道)、コラムの中に
「ウジ虫を傷口に当てて治療する療法が、抗生物質耐性菌対応のため見直されている」
的な記事があったりして、この日経サイエンス、本当におもしろいのです。

「科学の前提があれば全てが赦される」

って感じのオーラ全開で、かなり「悪くない」ですよ。
あとは雑誌1400円を高いと見るか安いと見るか。
大まじめに不思議なことどもを研究している研究の「生態学」の報告としてみても、その価値有り、と私は思うのですが、いかがでしょう。


閑話休題、「天才脳」の話です。
詳細はむろん自前で読んでいただくとして特集の中身をざっくりまとめると、

特集論文の最初は「天才と変人」について

1、創造性に富む人物はしばしば奇妙なふるまいをする。その逆もまたしかり。
2,創造性と奇抜さのどちらの原因も、遺伝子の変異によって「認知的脱抑制」と呼ばれる状態が強まることと関係(しているらしい)。


3,非常に知性的な人々は、フィルターに遮られずに入ってきた大量の情報にも圧倒されることがないため、情報が意識にあがってきた際に、並外れたアイディアや知覚が生まれるのだと考えられる。

(「認知的脱抑制」とは、通常は脳が無関係な情報をフィルターにかけて遮断しているが、それができない状態のこと。)

つまり、無意識から意識への「環流」がダダ漏れになっているという点では、統合出張型パーソナリティと創造性に富む人とは共通するって話です。

「天才と○○は紙一重」

ということわざ(こちらは差別的ニュアンスが入っているかもしれません)を大まじめに研究してるんですね。

統合失調型のパーソナリティの顕在化それ自体は、創造性を高めることを示唆してはいないが、奇抜さの根底にある認知的メカニズムが、創造的な思考を高めるとも考えられる。

だって。まあ、当たり前か。

つまり、「認知的脱抑制」、よけいな情報を無視できない状態は、神秘主義的傾向で発現したり、バランスを失うと「電波が命令している」ということにも通じる。統合失調型のパーソナリティの人も、統合失調症患者の人も「潜在抑制機能の低下」が見られる。無意識から意識への刺激の量が増えちゃうってことでしょう。

その状態は、外への拡散よりも内部で生み出される刺激に焦点を合わせることに通じる。
創造的な人が自分の内的世界に集中する傾向と、同じ傾向が統合失調型パーソナリティにもあるって話に展開しています。

その上で、その「認知的脱抑制」を起動する遺伝子があるよって話になる。

「視床の皮質下領域に存在するドーパミン2受容体密度の低さ」
によって視床でのドーパミン結合の現象が、認知的フィルターの機能低下を生んでいる、んですと。

それがneuregulin1という遺伝子の変異によって起こり……
(neuregulin1という遺伝子は、ハンガリーのセンメルヴェイス大学の精神科医Szabolcs Keriが発見2009年)

さて、上のことはまあいいとして、結局結論は、無意識からデータがたくさん来たとして、それをどう捌くか、が問題になりますよね。
その結論は、結構当たり前(凡庸)でした。

「重要なのは知性」

だということです。そこかよ!ですねえ。

別の論文では、

天才は潜在的にはネガティヴな特性を精神病患者と共有しているが、この特性が「ポジディヴな特性」と結びつくことによって精神病ではなく創造性が生み出される。

結局天才とは社会的定義であり、特定分野の知識収得なしにはありえない。

・限られた専門知識で短期間の業績を上げるには遺伝的要因が助けになる。
・全ての創造的天才は、ある共通のプロセスをたどっている鹿瀬意がある。「徹底的な試行錯誤だ」

というところが論じられています。

一つ目の論文では「認知的脱抑制」がキーワードで、知性の高さによってそれを想像に結びつける、という話。

二つ目の論文では、
「天才は、ある問題の解決法を広範囲に(ほとんど持う目的に)探し回り、袋小路を探り尽くし、繰り返し後戻りをした末に、ようやく理想的な答えにたどり着く」
という秩序だったメカニズムの存在を予想している。

その場合に必要となるのは「速度」であり、何が「理想か」ということを導出する、経験が無意識に抑圧=蓄積した全体像を踏まえた「直観」であるだろう(foxydogが考えるに)。

天才と精神病の関連でいえば、

非常に創造的な作家は
・「ミネソタ多面人格検査」の精神病理学関連検査で高スコアの傾向。

創造的芸術家と影響力の大きい心理学者が
・「アイゼンク性格検査」において高スコア傾向。
これは「自己中心的」「冷淡」「攻撃的」「厳格」の性質あり

極めて著名な科学者たちは
「キャッテル16因子性格検査」で
「引きこもる」「厳粛」「内面に没頭」「几帳面」「批判的」に高スコア。

総じて、最高の業績を上げる者達はあまりノーマルな集団ではない。


それを前提としつつ

「セレンディピティ」(偶然に素晴らしい発見をする才能」にたどり着くためには、ということで、こんな指摘をしている。

それは「盲目性」である、ってのがとりあえずの結論でした。

「自分が何をしているかがわかっていたなら、それを研究とは呼ばないだろう」(アインシュタイン<科学者>)

の言葉のあと、ピカソの絵画『ゲルニカ』のデッサンの経緯に触れ

「才人は、他の誰も当てられない的を射る。天才は、他の誰にも見えない的を射る」(ショウペンハウエル<哲学者>)

という引用で論文は終わっています。

以下、感想です。おもしろい。

(foxydog的には「動物性」と言い変えてもいいように思う。人間中心主義的な有用性を無視する能力、といってもいい)

言い換えれば無駄骨と後戻り。

一般に無駄を嫌って「役に立つ」ことを選ぼうとする人は、現状適応的な思考をしてしまう傾向があり、むしろ根底からクリエイティブなことはしない場合が多いような気がする。
改良型のすっきりしたものは作れるけどね。

それに対して、ものごとをゼロベースから(正確にな印象を言うと一からというよりむしろ現状否定のマイナスから)物事を作り上げる場合、この「動物性」というか「盲目性」というのは、圧倒的に重要だ、という印象を持つ。

試行錯誤を怖れ厭う体質は、根本的な創造をなしえない。
まあ、身近にいつも「根本的な創造」を目指す人がいたら、それはそれは迷惑千万に違いないんだけどね(苦笑)。

結局のところ、無意識の抑制が弱かったり、盲目的に試行錯誤を繰り返したり、それ自体としては散漫だったり病的と呼ばれかねない行為が、にもかかわらず真に創造的行為、として天才呼ばわりされる理由は、それがシステムとして自立していて、しかも「人間」に向かってどこかで開かれている必要があるのでしょう。

ただ盲目的だったり、ただ認知的抑制が弱いだけだと、自分も困るだけだし、周りも困る、つまり「病気」
ってことになっちまう。

結局天才の問題って、この「制御」の問題にたどり着くよね。
制御できればいいってもんじゃない。
開かれてることが必要で、しかもシステムとして全体性が作動してることが必要で、しかも抑圧されてる無意識にも、有用・有意味な世界を営んでいる人間にも開かれてるいなければならない。
たぶん、その要素の多くは、当人の知ったことではない。

勝手に天才って呼ばれても困る所以だろう。


さて、でも、多動児の話をここに重ねると、ちょっとおもしろそうだと思いませんか?


スピノザの講座メモに索引をつけた。それだけで

2013年05月01日 21時55分18秒 | 大震災の中で
ほったらかしておいたスピノザ入門講座のメモ(P130ぐらい)に、ブックマークのある目次をつけてPDF化してみた。

それだけで、閲覧性が抜群に上がり、自分でもう一度頭の中が整理しやすくなってきた。
思考って、そういうことが大事なんだ、とこの年になってようやく分かってきた。

もし、それがもう少し早く分かってかつ実践ができていたら、人生違った展開になっていただろうにねえ。

でも、ここから自分なりのスピノザ早わかり覚え書きは作れそうな気もしてくる。

「内在性の哲学」とはいっても、単にス「ここにある」世界が全てだ、ということを法則として絶対視するスタティックな理解ではなく、國分先生のスピノザはむしろ、ドゥルーズの理解を踏まえた「実践の哲学」という読みである。

「直観」の方にウェイトをかけた読みですね。

神の存在証明も、そこに至るまでの短いかもしれないけれどいきなりトップギアで神まで突っ走る、そのパフォーマンスがどうしても必要なのであって、「私は神から始める」といっていながら、最初から神に行くわけじゃない。

カタパルトは一応用意されている。

第五部の「直観」モードに入ったときの「速度」に國分先生もドゥルーズも注目していて、だからこそ、「幾何学的様式」によるスタティックな神=自然=世界という印象とは全く異なるスピノザ哲学の相貌を、そこに見ることになるわけだ。

なあんてことも、ちょっと忘れていたけれど、整理すると思い出す。
本当におもしろい「スピノザ入門」の一年間でした。
一つの山を登ると、別の高い峰が見えてきて、今上っている山だけが高いわけじゃないってことも分かってくる。
哲学って、とくにそういうことがありそうです。
おもしろい。

でも、いつのまに文学から哲学にスライドしたんだろう?
あたかも通帳のように、文学もまた、どこかのズボンのポケットに入ったままのような気も(大震災以後)しないでもない。

でも今は、哲学と向き合う時期なのだというおもいがつよい。
不思議なものです。






人をネタにしていたら……

2013年05月01日 21時41分23秒 | 身体
人の「所業」をネタにしていたら、案の定報いが来ました。

今日の午後、自分の部署の通帳(印鑑は管理職決済)でお金を下ろし、支払いを済ませたあと時間があったので、別の部屋で油を売りながら、机の上がてんこ盛りになっている同僚をひとしきりからかい、さて自分の席に戻ってみると、ない。

通帳がない。通帳がない!ないっっ!

まあ、印鑑は管理職決済だから口座のお金自体は大丈夫です。でも、この前同僚が通帳紛失をしたところ、再発行に1000円以上かかるとかいってがっかりしていたのを思い出し、「うひょっ」ってなりました。

金庫から出して、お金を渡して、油を売って、自分の郵便トレイを覗いて、各部署に届いた資料を配って……。
分からない。

ああ……orz

となって、椅子にへたりこんだら、おしりのポケットになにやら存在感。

ありました。
ズボンのポケットに私のおしりの形通りにひんまがって(笑)。

まあとにかく、関心=シニフィアンが見事なほど次々に転移していくんですよねえ。