龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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昨日の福島県5区衆議院選挙立候補予定者の公開討論会(感想)

2012年11月28日 20時53分46秒 | 大震災の中で
昨日、福島県衆議院議員選挙第5区の立候補予定者5人が一堂に会しての公開討論会を行った。
場所はいわき市平のワシントンホテル。


公約は言わない。聴衆の質問は一切なし。
公開討論と言いながら、立候補予定者の議論もなし。
ただ、一人3分の持ち時間で、いくつかのテーマで順番にしゃべっていくだけである。
ま、そうじゃないと収拾がつかないだろうことは予想できる。
ぬるい集会になるんじゃないかと心配しつつのこのこ出かけていったが、意外に面白かった。

まあ概ね選挙公報に載るような話なのだろうけれど、次々に5人がテーマ毎喋っていくと、しだいにそのカラーが出てくる。
18時~20時30分まで、ずっと1分とか3分、せいぜい5分刻みで意見を並べていくのだが、みんな同じようなことを言っている面もあるし、そうでないことも見える。

まず中間貯蔵施設の受け入れについての質問では、

○が
吉田泉(民主)
坂本剛二(自民)
吉野正芳(自民)

吉田英策(共産)は○でも×でもない。
除染が進まない現実と住民の理解の必要性とを挙げていた。

それに対して
宇佐見登(維新)は×。

維新は無人島の可能性を提案した。
アイディアとしては面白い。
しかし移設方法と、その周辺地域の問題。海洋資源との兼ね合いもある。
速度を重視する、という維新の割には、現状では現実性が乏しいと感じた。

次に脱原発は

共産党のみ×。

自民2,民主、維新はいきなり原発を止める、ということは言わなかった。
いずれも原発依存からの脱却と、新エネルギーの開発を福島で、という論調。

この二つからいくと、福島県浜通りの立候補者の多数派は、日本全国の原発をすぐに止めるのではなく、福島県の浜通りに中間貯蔵施設をつくることを容認する、という結論が出てくる。

やれやれ。

これが「現実的選択」ということか。

私は全国の原子力発電所を可能な限り早く廃炉にすべきだと考えている。
廃炉にする工程の明確化が一番大切だ、と主張したい。

なぜ?

昨夜の討論会で立候補予定者が共通認識として語っていたが、
現在もなお福島県民のうち16万人が、自宅以外のところに住んでいるという。

津波で亡くなった方もいるが、原発事故による避難がなければなくならずにすんだはずの方も少なくはあるまい。

この事態は、日本国中どこでも起こりえる。
そして、自然災害とは違って、原子力発電所はある種「人為の極致」であり、しかもそれゆえに人が制御しきれないリスクを背負っている。

16万人の避難が続く社会的事象としての「事故」の責任と、環境汚染の「責任」を考えたら、再稼働はすべきではない。

日本人は、この「責任」を軽んじている。「責任」を直視する精神の「瞳」の強さを持たない。

そしてさらに、津波と原子力発電所の事故の二つがもたらした「人為の裂け目」から覗く「自然」のあられもない「暴力」を、きちんと見つめる瞳の強靱さも持たない。

ここに集った5人の政治家の方たちにも、この二つの瞳の強靱さを、残念ながら感じることはできなかった。
政治家は、「自然」を見る人ではない、ということなのだろう。

それならば、その「瞳の強靱さ」を求める者が、この事象に瞳をこらし続けるより外にあるまい。
そう決意して、帰って来た。

福島で起こったこと、そして今起こり続けていることに、瞳を凝らしつつ考えること。
そしてそれを生きている限り、続けて行くこと。
そろそろ、福島について考え、語り、訴える仕事の「持続」を、開始するべき時期がきたようだ。

準備が整ったら、始めます。



SoftBank、なかなかやるね!

2012年11月22日 23時05分05秒 | iPhone&iPad2
これは言っておきたい。
私の住むいわき市では、SoftBankが結構LTEカバーエリア拡大を努力しているようだ。

10月中、という地図を信じてSoftBank版iPhone5を購入したら、同僚のau版は職場がLTE圏内になったのに、SoftBankはなかなかカバーにならず、ちょっとがっかりしてました。

でも、一ヶ月と遅れずに自宅がLTE圏内に。
やるな、SoftBank。
あとは職場が3G→LTEになるのを待つばかり。
もう3Gには戻れません……。

今、ハイデッガーの技術論を読んでるんだけど、このインフラが進歩すると、それが「当たり前」になっていくっていうこの際限なき昂進を、どう考えたらいいのか、が難しい。

ちょっと前までは、漠然と、プロテスタンティズム→資本主義→科学主義→進歩主義というマックス・ウェーバー的図式で考えていたのだけれど、大震災でインフラ壊滅、というのを経験し、すくなくても人間中心主義的社会資本=無意識の前提感覚は、崩壊した。

(人間中心主義っていうのは、むしろ疎外をもたらす原因の一つでもあったりするからややこしい)

まずもって、進歩はむしろ人間の軛ってことなんだけど、で、軛ごと流されて初めてそこから距離を取ることができた「便利さからの追放」=「解放」されたってことなんですがね。
ただ、神様の存在がそこで関わってくるから、さらに面倒くさい。

人間を人間として成立せしめている、そこに人間を立たせ、動かす「力」。
プロテスタンティズムにおいては内面の信仰だったのかもしれないけれど、ハイデッガーではなんだかよく分からない、そのものを前に立たせて、人間を計算可能な世界像の中で主体に仕立て上げていく力みたいなもの、を想定しているようだ。
ハイデッガーは、直接神様とかに依拠しないから、話がよく見えなくなっちゃう。
でも、そのモヤモヤした辺りが技術論のキモだっていうのはむしろ面白い。

まあ、とにかくそれでもなお、3G→LTEっていう「便利さ」の進歩は乗っかってしまうのですよね。

なんだか、ざっくりした進歩礼賛や進歩懐疑っていう感じでは解析できないと思う。

ただ、ハイデッガーの技術論を読んでいると、もうそういう数値化された「進歩主義」みたいなものは人間の主体以前の、存在の「業」みたいなものであるかのような気がしてきてしまうんだよね。

宿命論みたいな感じすらしてくる。

その辺りをきちんと切り分けていかねば、原発事故論は自分の中で立てられないし、その事故による被害を踏まえたエチカ(住み処の倫理)が成立しない、と思う。少なくても、自分はそこを考えて行かねばならない。

まあ、でも、LTE速いって喜んでるんだけどさっ(苦笑)。

でも、技術は透明性を確保した社会の前提になったときが「完成」みたいなところってあるよね。
違いななくなって、初めて定着みたいな。

そこを外して、ちょっと前までのアーミッシュの方々みたいに開拓時代のごとく馬車で、とか、無理だよね。柱も家も自分たちで建てるとか。

あ、今日はLTE開通祝賀であって、便利=罪悪みたいな辛気くさい話ではなかった(^^;) 。




と、LTE「開通」を喜んではみたものの

2012年11月22日 22時47分29秒 | iPhone&iPad2

自宅ではWi-Fiを使うだろうし、よく考えればあんまり関係ないのですね、これが。

むしろ職場とか、普段よく遊ぶ場所、物書きをする喫茶店やアウトレットのフードコート(笑)がLTE圏内でなければ実質的な意味はないのかもしれない。

モバイルだからさ、結局自分の移動している最中の行動範囲がカバーされて初めて意味を持つのでした。

でも、気のせいか、東京のホテルとかで利用したLTEより実質ダウンロード速度が速いように思う。
やっぱり田舎は空いているからか。



LTE こそがスマホの性能だ。

2012年11月22日 22時23分05秒 | インポート

我が家が今日、LTE圏内に入った。

速い。
圧倒的に速い。

繋がったら、下りの瞬間速度はWi-Fiより出てるんじゃないか、という感じだ。

手元のソフトで計測したら、下りは各4回の平均で

3Gが.4Mbits/sec
LTE が8.2Mbits/sec.
Wi-Fiが10.4Mbits/sec.

体感ほどではなかった。

だが、最初の繋がりの時の立ち上がり速度が違う。
最大速度はLTEは最初が速い。
LTEの最大速度は17.2Mbits/sec.

これは、体感的な速さと一致している。

まだ使っている近所の人が少ない、ということもあるかな(^-^)

そして改めて感じたのは、このiPhone5は、LTE接続があって初めてふさわしい性能を発揮できるのだ、ということ。

この接続速度あってのスマホですね。
こうなると贅沢なものでテザリングを試せないのが残念。

12/15が楽しみです。



いよいよ始まった國分功一郎の『エチカ』論講義

2012年11月19日 23時09分07秒 | 評論
國分功一郎「スピノザ入門」第8回のメモをメディア日記にアップしました。

「スピノザ入門」第8回(その1)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980401
「スピノザ入門」第8回(その2)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?PHPSESSID=48eaada7fc98c8e51711074a6665bdc2

いよいよ話は佳境に入って来ました。

あの『エチカ』の冒頭部の説明です。
スピノザの遺稿が出版されてから数百年の間に、いったい何人の人がこの冒頭を読み始めて挫折したことか!

いわゆる「幾何学的秩序によって論証された」って部分です。
この説明も丁寧にしていただいたのですが(だからといって十分理解できたわけじゃござんせんけれど)、それだけではなく、この冒頭部の説明による神へのアプローチだけではなく、もう一つ別のアプローチが『エチカ』の中にはある、という國分センセの説(ドゥルーズを参照しつつ)が展開されていきます。

興味深いです。自分で読んでるような気になるぐらい、面白いです(笑)。

つまり、理性的認識で神=自然=実体に迫ろうとしても、接近はできるが、それは結果から原因をたどる道だから、誰もが認識できるわけではない。むしろその理性的認識(スピノザのいう第2種認識)は、接近はできるが、直接的にたどりつくことは難しい、とスピノザ自身も考えている。

そこで登場するのがスピノザのいう第3種認識、つまり「直観知」です。

スピノザは、『エチカ』冒頭部からの幾何学的秩序による論証、即ち第2種認識的に神に接近するけれども、それは万人が理解できる道ではないことを知っていて、第五部以降、直観知のレベル、つまり第3種認識のアプローチも同時に提示していた、っていうのが國分功一郎のスピノザ読解仮説です。

私の説明じゃあ、むしろ謎が増すばかり、でしょうね。
詳しくは、来年以降に出版される『スピノザの方法』の次の著作を待たれよ、っていうことになります。

でも、『知性改善論』を、完成しなかった『エチカ』の序ととらえ、その困難(失敗)をきちんと踏まえた上で『エチカ』を読む、という線、加えてデカルトを脱構築する形で徹底し、完成を見た、という線、さらに、もう一本の線として(これは今回のお話には出てきてはいません。あくまでfoxydogの想像です)は、経験論的な線、それらが重ねられつつ、『エチカ』は編まれているのではないか、っていう感じは、そこはかとなくではありますが、納得力がじわじわと出てきつつあります。

私にとっての國分功一郎という読み手の魅力は、なんといっても、精緻なテキスト読解の小さな現場のスタイルが、決して自己目的化せず、私たちにも通じるロジックを纏いながら、しかも大きな世界の秩序と(遠く離れているのに、見事に)照応していく点にあります。

こどものころ、疑問に思った(永井均的にいえば「子どもの哲学」的)疑問に

「私の見ている緑と貴方の見ている緑は同じなのか」
「宇宙の果ての向こうはどうなっているのか」
「全てのものに意味はあるのか(誤謬は果たして可能か)」

という三本柱がありました。
スピノザは、この子どもの哲学的疑問に、見事に答えてくれます。

でも。

異様というかあられもないというか、大人げないというか、スピノザにはどこか遠いところにいて全く理解しがたいところと、無邪気なところと無慈悲なところと、奇妙に現実なところと、不思議に戦闘的なところがあるように、文章を読んでいると感じます。
遠すぎて何をいっているのかさっぱり分からないのに、次の瞬間ものすごくありえないぐらい近かったりする。
私(たち)の遠近法が通じないテキスト、といえばいいでしょうか。

そのテキストを、身近なところで導きつつ読んでくれる師は、本当に貴重です。
出会えたことに感謝。

この幸福を、ぜひ分かち合いたいです。
よろしかったら、
『スピノザの方法』國分功一郎 みすず書房
いかがでしょうか。
私にとっては、こちらの本の方が、『暇と退屈の倫理学』よりも腑に落ちました。分かったって話じゃありません。「直観」として、腑に落ちた、っていうことです(笑)。




スピノザの直観知について

2012年11月18日 13時39分01秒 | 大震災の中で
國分功一郎『スピノザ入門』第7回のメモ(その3)をメディア日記に書きました。

http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980400



一ヶ月前の講座メモの残りを先ほどメディア日記にアップしました。
先月の講義は

1.想像力、2.理性、3.直観

の三つについて。

なかんずく「直観」の重要さについての話でした。

迷信や権威を招き寄せる想像力。
箇条書きに出来る理性的な分析。
その二つを排除せずに、ちゃんとその存在を踏まえた上で、なお「個物の認識」として直観知を提示するスピノザ。

國分センセによってドゥルーズ、ベルグソンを参照しつつ語られていくスピノザ像は、ワクワクするほど魅力的です。

ドゥルーズもベルグソンも、かつて読んだことがなかったわけではありません。「持続」とか、「差異と反復」とか、ざっくり聞いたことはあるような気がする程度には。
そのピースが、スピノザというキャンバスにおいて、次々に音を立ててパチンパチンとはまっていくのです。

國分センセの「語り口」は、単純にスピノザ的というよりは、デカルト的説得から始まっている。と当初感じていました。ライプニッツからスピノザへ、という興味の移行とともに、読みとしてはでかるとからスピノザへ、という方向性があった。
もちろんドゥルーズに拠りつつということはあるのでしょうが。

でも、ここに来て、『エチカ』の冒頭部分に説明がたどり着こうとすると、様相が少し変わって来るのを感じます。

多層的な語り口の露出というか、『エチカ』のそれを指摘すると同時に、講座自身の語りもまた変わっていく。
そんな印象を抱きました。

その話は直接には今月の講座を復習しながら考えねばならないのですが。

とりあえず先月の積み残しを解消しました。よろしければ。



これから「スピノザ入門」講座の8回目。

2012年11月17日 13時14分00秒 | 大震災の中で
結構な回数になってきました。

『エチカ』の読解です。

今までは『スピノザの方法』のおさらいみたいな面もありましたが、いよいよ話は佳境に入るってことですね。

楽しみです(^-^)/

何がこんなに楽しみなんだろう、と道々考えていたのですが、ただ知的な興味ってわけじゃあなさそうです。

ま、当たり前ですね。

よりによってなぜスピノザじゃなきゃならないのか。

半分は自分の資質にも関わるかも知れないし、また別の半面では環境のしからしむるところ、でもあるかもしれない。

「思惟と延長が驚くべきことに一致する」
とかいう平行論の触りを聞いただけでゾクゾクとしてくるのはやっぱりおかしいですかね(笑)

この「驚くべきことに」あたりに神様を感じてしまいます。

知的に「感応する」動物の力、といってもいい。

想像力だけじゃ直感は働かないってことですね。

当然ながら、人格神はいないんだけどね。でも、別に読んでいる「美」と「倫理」の関わりとも無縁ではなさそうな匂いもします。

でも、受講している人はどうも「まとも」で「勉強家」が多いらしく、少々ツボが違うみたいです。

今いる「人間」の、その立っている場所が揺らぎ、動く、その現場をみたいのですがね。

哲学に限らず「知的なライブ感覚」って、そういうことだと思うんだけどなあ(^-^)

それが、単純に外側を参照するのではなく、内的な衝動を伴って「知の自動運動」が始まるのだとしたら、その現場をみたいじゃないですか、ねえ?

単に外側を参照しておいて「分かったような話」をされるとムカツク。
まるで頭の悪い中高生の怒り、ですが(苦笑)
でも、彼らは頭は悪いが身体感覚はまともでしょう。私もまた、愚かさでは同じようなものです。ただし、若者のような反射神経はもう持ち合わせていない。その代わりにあるのは、経験と習慣、そしてそれにとどまらない多動的好奇心。
そう、多動性は意外にこういう時に頼りになるんです。

「動物性」の比喩の使い所の問題、でもありますか。

というわけで、行ってきま~す。



職場の座席がなくなる夢を見た。

2012年11月17日 06時39分39秒 | 大震災の中で
起きるにはまだちょっと早いし、ひさしぶりに鮮明な夢の記憶がのこったから、忘れないうちに書いておく。



仕事から戻ると、職場の座席がなくなっていた。

確かに三月には部署替えがあって、もうすぐその部屋から出ることになってはいる。

しかし、まだその期限までには間があるはずなのに、もう次のスタッフが部屋に入っていて、机の配置換えまで済んでしまっていた。

あまつさえ折り合いの悪かった元同僚が、上司としてそこに主任として来ており、同僚たちはその上司のいいなりである。

信頼していた人も一緒になって私の荷物を廊下に持ち出す作業をしていて、ガラクタのように廊下の隅に積み重ねられた荷物に埋もれた自分の机にもはや私はたどり着くことさえ出来ない。

憤懣やるかたない私は、棚に上げられた資料を次々に廊下へぶちまけていく。

今まで窓際だと内心軽く見ていた同僚の一人は、部屋の中にまだ席があるらしく、気の毒そうな様子で暴れている私の後から散乱した書類を黙って拾い集めて棚に戻していく。

どうしてこんなヤツに同情されなければならないのか、と思うと、自己憐憫で泣きそうになる。

自分はまだ現役だと思っていたのに、片付けられたら机と同じなのか、ともふと思う。

席を奪われてみると、もはや以前から役立たずのお荷物になっていたのかも知れない。それに気づかずにいたのだとすれば、おめでたい限りではないか。

それにしてももうすぐはじまるスピーチの原稿だけは探さねばならないのに、片づけられてしまった荷物の中から、原稿を見つけ出すことはもはや絶望的である。

トイレに行ってでも練習しなければ、と思うが、そこにも人がいて思うに任せない。

廊下の反対の端から、階下に降りていく。

するとそこは、かつて私が勤務していて、その時は新しかった山あいの建物だ。

あのときも私は、二階の部屋の机の片づけを(あの時は自分で)し終えると、同僚に惜しまれながら仕事を辞し、さらに山奥にある収容所に向かってひとりでクルマを走らせていったのではなかったか。

今はまだ階下の部屋に辛うじて壁際に椅子だけはあるようだ。

向こう側の明るい窓際では、私より年上が、若いモノをなじっている。

「『○△』っていうあの席に座ってる××大出身の若いのは超絶技巧的にダメだな、ありゃ。あんなのは見たこともないぜ」
得意げに若者をなじる老人の向こう側、窓の外には荒涼とした雪景色が広がっている。

かつてここを出て行ったときは、確かに夏だったような気がする。

あれから何年経ったのだろう。

本当は、退職前の老人にになじられているのは私の息子だ。

いや、それは実はそのまま32年前の自分かもしれない。

外は次第に吹雪になりそうだ。

私はスピーチの台本が見つからないまま、今は職場ではそこだけになってしまった壁際の居場所である古ぼけたギシギシ鳴る椅子に座って固まっている。




『プラスチックの木でなにが悪いのか』西村清和を読んでいる。

2012年11月16日 23時07分38秒 | 大震災の中で
環境美学入門という副題が付いたこの本を、しばらく手元に置いてぽつぽつと読んでいる。

自然と人工、という二項対立は、環境について考えはじめると、その基盤のフレームとしては「もたない」、と筆者は言う。
そこはまず納得。

そうなると結局、きちんとした「自然」の「定義」なしに議論を進めることが難しくなってくる。

まず、近代美学は芸術の鑑賞を中心の前提として「美」を考えてきたから、そのやり方で自然を鑑賞すると、

1,絵画のように風景を見る
2,個物を作品のように見る。
3,形や色といったものの美的側面を見る。

の3パターンが代表的。
でも、もちろん、自然の美を感じるのは、そういう芸術鑑賞のフレームだけでは不足。

エコエコした時代の要請もあって、「環境美学」というジャンルが立ち上がる所以でもある。

でも、すぐにこいつはカント的アンチノミーを露呈するっていうんですね。

(カント的、とか言われるとよく分からないけれど、)読めた限りでいえば、上記のように芸術の対象として切り取るだけじゃ満足できない。

自然は額縁に切り取られた絵画ではない。当然です。

とすると、カットケーキじゃなくて、自然をホールで味わいたい、ってことになる。

つまりは環境全体の連関の中で自然の美を享受するわけですね。

でも、そうなると、人間もまた動物種として自然の内部にあるわけで、食べたホールケーキの中に人間が入って来ちゃうことになる。

かといって、人間中心主義を断固排除していくと、「自然と人間」という自然とそれを鑑賞する人間という二項対立それ自体が存立不可能になって、もはや人間の意図も享受も排除された人間無き「自然」というほとんど空虚な観念にたどり着いてしまう……。

なぜそういう困難を招来するかといえば、それは、そもそも人間と自然、人工と自然を二項対立させるフレームから出発してるからだ。

そういう指摘かと。

さて、不毛な自然と人工の二項対立という抽象的観念を捨てて見れば、私たちはいつも「自然と人為の混合物」を見て自然を鑑賞している。

そしてまた「モノ自体」に触れることはできないわけだから、その人為と自然の混合物を、私たちは人間である私たちが設定した世界内部の現象としてとして受け止めていることになる。

つまり、人間の文化的・文明的「世界」のフレームから一歩も外には出られない。
かといって、自然それ自体は技術によって精巧につくられていれば(見分けがつかなければ)いいってものでもない。

その辺が題名になってきているのでしょう。
ある種の態度というか、美的フレームの存在(それは決して個人の恣意=匙加減ではない)が参照されねばならない、ということでしょうか。
それはでも、いわゆる技法や伝統の知識の習得と参照とは似ているけれど違う。

ことはある意味小学生のケンカに似てきたりしてね。
「カレー味の○○○と○○○味のカレー」
の究極の二項対立は、実は見せかけの対立であって、その前提に美的なフレームがあるぜって話でもある。
そのあたり、美学といいながら、倫理の匂いがそこはかとなくしてきます(笑)。

っていうか、私は「美」とかは昔からよくかわかんない。
だって「美」とかって、どう考えてもさじ加減しだいってかんじがしてしまう。
でも、理解できそうな「倫理」の方からアプローチできるなら、環境美学とも付き合えるかもしれない、という感じ?

ようやく「美」が親しいものになってくれるんでしょかね?

まだ途中ですが、メチャメチャ興味深い。
人為と自然の一筋縄ではいかない関係を解きほぐしてくれる「良き師匠」の予感がします。

勁草書房『プラスチックの木でなにが悪いのか 環境美学入門』西村清和

言うまでもありませんが、プラスチックの木は美学として「悪い」し、筆者はさらに倫理的にもまずい、と言っています。
この美学と倫理を同時に論じるスタンスも面白い。

内容まだきちんとこなしてないですが、お薦め本ですねぇ。



「ふくしま土壌クラブ」のこと

2012年11月16日 05時59分50秒 | 大震災の中で
フェイスブックの書き込みを引用するその仕方が分からないので、改めて書きます。

福島の果樹栽培をしている方々の、発信です。

ふくしま土壌クラブ
http://www.dojyouclub.jp/
ぜひともご覧くださいませ。

飛散した放射性物質が無主物かどうかは、今後の訴訟なり歴史の審判なりを待たねばなりませんし、その責任の追及は粘り強くしていかねばなりません(注)。

が、しかしそれとは別の次元で私たちは与えられてしまった「試練」と向きあう必然を抱えてもいます。

この場所でいきる限りは。

その条件の中で精一杯生ききる努力が、例えばこのサイトに。

ぜひ参照を。

注:責任論についてはこちらを参照のこと。

高橋哲哉の福島高校における講演記録
「原発事故の責任をどう考えるか」
http://ryuuunoo.jugem.jp/?search=%B9%E2%B6%B6%C5%AF%BA%C8



「成人ADHDに初めての薬」

2012年11月13日 00時11分36秒 | 大震災の中で
11/9(金)の福島民友新聞に
「成人期ad HDに初の薬」
という記事が載っていた。大人まで続く不注意や多動に対する薬物療法は今までなかった。 18歳以上に薬が承認されていなかったのだ。
今回、成人期の初の薬としてストラテラが承認された。
専門家は、 「厳しい状況にある成人期ADHD患者と家族に治療の選択肢を増やす一筋の光」と話している。

片付けられない人、情緒が不安定、学業・業務成績の不振、人間関係の構築が難しい、適応障害、日常活動困難等の症状があげられるそうだ。

小児期からの不注意、多動性、衝動性の確認が診断には必要ともある。

間違いなく、かつての私のことだ。

でも、50歳過ぎまで多動でやってきたし、私個人としてはもはや治療する必然性は薄い。
それに、子どものころから治療対象とカテゴライズされるのは不本意だった。


記事にも、

日本は薬の抵抗感も強い。治療には、職場や家族との連携、生活相談などが欠かせない

とある。

先週、特別支援課程の推薦入試小論文と面接を指導していた。そこで、障がいは個性では無い、なぜならその能力を伸ばすべきものではないからだ、というオープンキャンパスの授業を受けたと言う生徒の話を聞いた。

うーん、難しい。
障がいは個性では無い、というのには納得だ。

だが、ここまでこうして生きてきててしまったと言う現実を踏まえると、多動だって、結果としては個性っちゃ個性とも言えない事も無い。

なだ・いなだだったか、北杜夫だったか、北山修だったか、お医者さんの作家だったように思うが、病気というのは、誰か他者に迷惑をかけるかどうかが判断基準だ、という文章を読んだ記憶がある(精神的な病の場合)。

そう考えると、私の多動性はとんでもなく迷惑を周囲に与えてきた。

とはいえ、もうそれももうすぐ終わりだ。今となっては、

忘れ物もせず、集中力があり、片付けのできる私。
投薬によって、あっけなくそれが実現できるとしたら、私の人生は、何だったのだろうということになる(笑) 。

同じ生徒が、オープンキャンパスで、「マサオはマサオ(名前がちがってるかも)」という講義も受けたそうだ。
その人間はその人間であると言うこと自体で尊重されなければならない、ということだろう。

ちなみに、私が子どもの頃はADHDと言う呼び名はなかった。

微細脳損傷症候群とか呼ばれていたような気がする。
昔の話だから、正確な名前は覚えていないけれど。

もちろん脳の損傷など微細なのだから結局分からないという話のオチがついたのだが、でも、そういう設定をすることによって、しつけのせいだとか、心理的抑圧の結果だ、なんていう根拠のない昔の心理学的言いがかりのフレームから解放するという役割は果たしたらしい。

そんな話を聴いても、結局治療法もなく、ただカテゴリー変更をされてもなあ、って感じでしたが、個人的には。
その後、物理的に脳が壊れてるって話はいつのまにか流行らなくなり、だんだん話は機能障害みたいなことになって、ADHD(発達障害)やLD(学習障害)にその地位を譲っていく。

正直、カテゴライズされるオブジェクトの立場でいうと、だからなんだよ、という感じがずーっとありました。
まぁ、学問の発展というのは素晴らしいのだろうけれど、別に治療されたくは無い、と言うこともある。

一方、病院に行って、問診を受けてみようかとも思わないではない。治るならね。
もしかすると、適応しているんだからいいじゃないですか、なんて言われてしまうのかもしれない。
この程度なら、薬を飲んでも飲まなくてもいい、ということかな。


社会に適応できず苦しんでいる状態を、
「本人の努力不足」
と言われるのは不本意だし、辛い。
それは、痛いほどよくわかる。
だから、必要な人は必要な支援を受けられるべきだ。

私も、社会に出たての頃は、思い出すのも困難なほどメチャメチャだった。
よくあの頃の同僚の方々は「放置」しておいてくれたものだ。
いくら感謝しても感謝しきれない。呆れてものが言えなかっただろうと思う。


でも、それでも、どこまでコントロールが必要なのか?と言う問いは、簡単には答えが出ないような気もする。


まあしかし、若い方には治療をお勧めしたい。
治療によって、生活のクオリティーがぐっと向上する可能性が出てきたのだから。

ただし、カテゴリだけをいじっ、結局病気だと名指されるだけならほっておいて欲しい。
治療だって、フレームの中に人を放り込むことが優先ならやめておけと思う。

高齢者の延命治療もそうだ。
放置されて命を奪われるのは残酷だが、ただ生き長らえるだけのためのシステムも無残だ。

人が神様から与えられた生きる力を発揮できる基盤があればそれでいい。
自分にとっては、それ以上でもそれ以下でもないような気がいまはしている。




マイクを使っての入力。

2012年11月12日 22時44分15秒 | iPhone&iPad2
ドラゴンスピーチというソフトを購入した。
それで今入力をしている。
もちろんiPhone 5でも音声入力が可能だ。
だが、速度制度ともにこの専用ソフトの方が格段に上だ。
(制度→精度は違ったけどね。)
この辺のところはどうやって選ぶのかはまだわかりません。
多分後で変換し直するのかなー。

でも 、これはなかなか良い。
大量に入力する場合、本当に楽だ。
まぁ、静かなところでないとなかなか正確な入力は望めないのかもしれないけれど。
書斎があるとか仕事場のブースがあるとか、そういうことが必要かな。

どうなんだろう。音声入力を駆使している人は多いのかな。
少なくても、肩がこらないというのは大きい。キーボードを叩けば、もしかすると短時間ならこれよりも早く入力できるかもしれない。
だが喋っているだけなら数時間は続けて入力できる。
キーボードではそれは無理だ。
削除したり訂正をしたりするのには、マウスとキーボードがあった方がいいことは確かだ。
道具っていうのは要するに使い方次第ってことなのだろう。
しゃべって入力するというのは、それにふさわしく文体が変わるということでもあるのだろう。
いや、文体というよりはむしろ「話体」なのだろうけれど。



1989年の原発事故のとき

2012年11月12日 00時59分10秒 | 大震災の中で
今日、久しぶりに部屋の整理をしていたら、1989年4月のノートが出てきた。

1989年4月3日に、私はどこかで原子力発電所事故について、専門家の講義を受けていたらしい。
今から20年以上前のことで、残念ながらどこでどなたの講義を受けたのか、全く覚えがない。

だが、それを見ると、本当に大切なことが書いてあった。

1989年のはじめに起こった東京電力福島第二原発3号機の再循環ポンプが、パイプにぶら下がっている状態で、固定されていないそのポンプの水中軸受けリングが破損し、羽根車に傷がついた、というような事故だったらしい。

以下の年表によればLEVEL-2。
http://www.ifinance.ne.jp/bousai/disaster/nuclear_world.html

読み返していて重要だと感じたのは、

「多重(深層)防御」
 1、壊れないようにつくる(品質管理)
 2、故障時事故が拡大しないようにする(付加安全装置)
 3、2に対する安全装置を用意する(その多重化)



「自然の方向で安全側に動く技術が必要」

それに

GPUの技師長キントナーの「真の原因は、『まさか事故はおきない』、と思っていた、それが事故をひきおこしたのだ」

ということば。

それから、

「原子炉年」=一気が一年完全作動したのを1年とする。

という概念が興味深かった。

苛酷な事故は、1000炉年ごとに起こっている。
現在(当時)世界26カ国で420基。
4800炉年になっている。
日本は298原子炉年。
苛酷事故=まさかおきないと思っていた事故。
苛酷事故を考慮にいれた考え方に変える必要がある。
アメリカ、ロシアで事故は起こっている。神様が公平なら、次はフランスか日本だ、とも。

講演者はそう言っていました。

ふぅ……。25年前に、ちゃんとそういう話を聴いていたのですね。
全然役に立っていない。
この方がどなただったかも覚えていないし、記録にも残していませんでした。

本当に申し訳ない。

また、このメモには

1000万署名では原発は止まらないだろう。5000万人署名ぐらいは必要だ。
(国民投票レベル、ということか)

ともありました。Sigh……。

少なくても、私の個人史的に、全然意外な事故じゃなかった、ということです。
20年以上前に、きちんと説明は受けていたのだから。

そう、東京電力福島第一原子力発電所の事故映像を初めてテレビで見たとき、決してあり得ないことが起きた、とは思っていなかった自分の気持ちを、はっきりと覚えています。
ビックリはしたけれど、少しも意外だったり予想外だったりはしませんでした。おそらく、福島に住んでいる多くの人がそうだったんじゃないかな。
私たちは、どこかで薄々は感じていたのですよね。
でも、目の前にその「裂け目」が示されるまで、そのまま過ごしてきたのでした。

















iPhone5の使い勝手

2012年11月04日 00時22分08秒 | 大震災の中で
ようやくiPhone5が届いた。
根性なしだが、iPadの縛りなどなどがあってソフトバンクを継続。
しかし、今まではたとえ繋がりが悪くても「しょうがないなあ」で済んでいたが、これからは、「auだったら繋がってるんじゃないか」って考えるようになる(苦笑)

いささか苦しいところだ。

改善された1点目
→本体&LTEの速さ。

自分の生活圏がLTEカバーされればもう文句は無い。
まだ自宅は3Gなのだが、それは無線Wi-Fi接続だから問題なし。

職場や街場が速くLTE圏内になることを祈るばかりだ。計画ではもうなっていてもいいぐらいなんですがね、ソフトバンクのサイトの地図でいうと(^_^;)
それと、本体の動作が4に比べてメチャメチャ速い。これは凄いです。

改善された2点目
→軽さ。

これはiPhone4から使っている人なら分かる。とても軽くなりました。この手にフィットする感じは、5インチアンドロイドより使いやすいと思う。
見やすさをいうなら、iPad持ち歩きなのでそっちを使えばいい。
スマホでオールインワンは、電子書籍まで考えるともはやあり得ないでしょう。
7インチの電子書籍リーダーには、老眼の身の上としてはあまり気持ちが動かない。9~10インチのものくろで軽くて長持ちのものがあれば即買いなんだが。5インチ~7インチは、私にとっては中途半端だ。若い人(老眼ではない人)は違うかもしれないけれど。

そして、単行本の自炊が700さつぐらいになってくると、5インチ~7インチじゃあやっぱり。小さいということもある。

一方、iPadは重いんだよね、どうしても。これでは持ったままでは本を読み続けられない。
iPhone5じゃあ問題外(出先でちょっと軽く眺める程度ならいいが)。

改善された3点目。
→音声入力

例えばこの文も、音声入力でメールを書いている。圧倒的に簡単だ。そして解析もかなりのレベルに達している。
ほとんど訂正を必要としない。
Siliそれ自体はちょっとなぁというところはあるけれども。

まぁ、なんだかんだ言って新しいガジェットは心がウキウキする。
USB端子の形状が変わったのは実際困った話なのだが、ついつい新しい周辺機器をまた買える、とちょっと楽しくなってしまったりするのだ(^_^;)
強度は使い込んで見ないとなんともいえません。

あと、ちょっと心配なのは電池の保ちが少し悪くなったような気がすることだ。
ただ、新機種だからついつい作動時間が多くなっているということは十分考えられるので、一概には言えないかも。

小さいことでは、Bluetoothのオンオフスイッチの階層が上がって、設定画面を開くとすぐに選べるようになったのが◯
しょっちゅう使う項目の階層が深いのはよろしくありませんから。