龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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読むべし!『ヒルビリー・エレジー』J.D.エヴァンス

2017年06月17日 07時55分52秒 | 大震災の中で
うちの図書館に入ったばかりの本を、カバーかけする前に週末だけちょっと借りたのだが、読み始めたら止められなくなった。
腰巻き惹句には
「トランプ支持者の実態 アメリカ分断の深層」
とある。

てっきり白人のブルーカラー労働者たちが抱える課題を分析した社会学化政治学周辺の本かと思って手に取ったのだが、そうではなかった。
読者としての私がここに見いだしたのは、第二時世界大戦後、アパラチア山脈に沿って南から移住してきた工場労働者たちの姿ばかりではなく(もちろんそれが書いてあるのたが)、私たちが今ここ(日本=福島)で向き合っている、自分自身のが抱える 「困難」の手触りだった。

もちろんそんなはずはない。

ここに書かれているのは、第二次世界大戦後のアメリカ中部の白人ブルーカラー労働者の家族の歴史であって、私自身の歴史とは全く別のものだ。

また私はアメリカ国民じゃないし、仮にそうだとして、何度選挙があってもトランプ支持者にはなれそうもない(サンダース支持者にはなれそうだが)。

でも。
ここには今まで私が長年高校教師をやっていながら観て見ぬ振りをしていた、そして実は現実に存在し続けていた課題が、海の向こうの国のリアルの描写の中に描かれているのを目の当たりにしている。

そう感じる。

人はそう簡単には変われないのだ。いや、個人はそれなりに境遇をチョイスすることもできる。友達を選ぶことだって不可能ではないのかもしない。
しかし、自分たちが生まれ育った文化や習慣、人と人との接し方、愛情の表し方、怒り方、悲しみに対する態度など、たんなる 「雇用」や収入に収まらない 「繋がり」の網の目が、この本には示されている。しかも圧倒的に読みやすい視点と文体で。
フォークナーを読め、ドストエフスキーを読め、そういう時代もあったのかもしれない。
だが、今どれほどの高校生にそれを勧められるだろうか。

この本は、本を読み慣れた高校生なら間違いなく読める。
そして、自分たちの前にもある 「課題」を取り戻すことが出来るかもしれない。

階級とか格差とか、階層とか、そういう話でもあるのだけれど、それだけではない。気質や文化とかいうふわふわした話でもない。
何だろう、人はある種の多重な環境世界の中で自己を形成しかつ微細な選択を繰り返して生きているのだというあの 「生の感触」を、まるで本格的な小説を読んでいるかのようなリアルな手触りで示してくれている。

とにかく読んでみてくださいな。そして感想プリーズ。

『ルミッキ』が上半期に読んだ本ベストかと思っていたが、『中動態の世界』がきたし、この本『ヒルビリー・エレジー』もすごい。

時代=政治はなんだか見通しがきかなくて暗いが、テキストを読む希望と快楽は間違いなく手の中にある。



ヒルビリー・エレジー

https://www.amazon.co.jp/ヒルビリー・エレジー-アメリカの繁栄から取り残された白人たち-J-D-ヴァンス/product-reviews/4334039790

続・観るべし 「まつろわぬ民」風煉ダンス(主演:白崎映美)

2017年06月11日 21時08分16秒 | 大震災の中で
もちろん響き合いを感じる作品は無数にある。

第一に挙げねばならないのは石川淳の大作『狂風記』だ。
まつろわぬものたちが集い、ゴミの山にてヒコとヒメが出会い、「陰陽めでたく一に合して」、世界をエナジーに満ちた混沌へと叩き込むSFとも神話ともファンタジーとも寓意ともつかぬパワフル小説。これをすぐに思い浮かべた。

ただし、後期石川淳の作品はどうしても猥雑さの中にもある種の希薄さを孕む。
「1000年前とはすなわち1000年後のことよ」
という手品の身振りは、震災後のの福島にはちょっと響きにくい恨みがある。

次に思いついたのは、ベタだが野田マップの『アテルイ』だ。確かに大きな枠組みはそういうことでもある。東北の民は、歴史的に大きく捉えるなら中央政府の意向に翻弄され続けてきたことに間違いはない。

だが風煉ダンスの「まつろわぬ民」は、そういう 「権力の物語」のみに収斂しはしない。

むしろそこからはみ出す その後の 「鬼たち」すなわち「私たち」に焦点が当てられている。

三つ目に想起されるのは 「レ・ミゼラブル」だ。
バリケードを権力側の兵隊がそれを押しつぶそうとするのに対して、魂の炎を燃やす鬼たち(即ち私たち)の群舞はあたかも 「レ・ミゼラブル」の一シーンの如くでもある。


だが、それもまた一部を切り取った印象に過ぎない、ともいえる。

「まつろわぬ民」のコトバというものは、定まったカタチをもたず、流動しつづけるのだし、だからこそ、今なお抑圧され続けている心の奥底に火を灯すことができる。

叫びが言葉に変わる時、いつだってそのコトバは 「身体」を離れては意味をなさない。

身体を離れた ことば=「約束」は、私たちをいつの間にか闇に引き込んでしまいかねないのだから。
芝居を観なければ分からない所以である。
歌あり踊りありの2時間半、充実してました。
繰り返しになりますが、山形の公演、ぜひ!


観るべし、「まつろわぬ民」風煉ダンス(主演:白崎映美)

2017年06月11日 20時01分10秒 | 大震災の中で
いわき市アリオスでの二回公演を終えた風煉ダンスの 「まつろわぬ民2017」だが、6/16(金)の山形公演がのこっている。

東北の人は、迷わず観るべし。

古代東北のまつろわぬ民についての芝居やドラマ、小説は繰り返し作られてきた。

この作品もその一連の流れの中にある、とは言える。

たが東日本大震災から6年を経た今、いわきでそして東北でこの芝居を観ることに必然を感じる。

数年スパンで消費してしまえる「物語」ではない。

話はちょっと横道にずれるが、いわきには かつて「ラッシュカンパニー」という演劇集団があった(今もある、といいたいところだが、残念なことにここ最近公演がない)。

私は、風煉ダンスを観ながら、彼ら(ラッシュ)のやっていた芝居のことを思い出していた。

まつろわぬものたちの心の炎を描く、という意味では間違いなく響き合うものがあったからだ。

神話的・伝説的な 「古層」を通奏低音のように響かせながら、それを現代の主人公たちと響き合わせつつ、そのいずれとも違ったリアルを現出させていく舞台の多重性は、瞬間的な表情や身振りの変化一つで1000年の時をまたぎ越してみせてくれる身体=言語の総合表現芸術ならではの魅力となって、観るものの心に火を灯していく。

神話的古層を参照するのは、もちろん一義的には主人公たちだ。だが、現実に苦痛や欠落、抑圧や敗北を抱えているのは主人公たちだけではないだろう。

まつろわぬものたちはいつだって、必ず権力や権力者によってその存在を抑圧され、忘却を強いられ、そのことによって外側からの支配を内面化して生き延びるよりほかに手立てがないところに立たされる。

そしてしかし同時に、まつろわぬものたちは必ず 「記憶」を持つ。幸せなモノ、抑圧を意識できないものは持たないような 「記憶」を。

たとえ表向きは抑圧され、馴致させられたとしても、心の奥底の基層・古層に、外側からはめられた枠にはおさまらない残余を抱えて無意識を生きざるを得ない。

なんのために、誰に向かって抗うのか、改めてみずからの手でそれをつかみ取り直さなければ分からないような所まで追い詰められ、その 「ゴミ捨て場」のような場所から、まつろわぬものたちの戦いは改めて始められなければならないのである。

だからこそ、神話や伝説に依拠するのでもあろう。

その まつろわぬものたちの内在的「契機」を孕むという点で、ラッシュカンパニー(常打ちの小屋は文化センターだったが)と風煉ダンスは通底している。

私はそれゆえに、いわきでひさしぶりに演劇と再会した、と感じた。

演劇は単なる消費=商品としての「物語」ではない。

例えば石原哲也(いわき高校演劇のレジェンド)が、そして例えば勝田博之(ラッシュカンパニーとメリーベルの座付き脚本家兼演出家兼主演)がいわきに蒔いた演劇の火種は、今日に限って言えば観客の胸の中に小さいながら灯りつづけていたといっていいのではないか。

これから、ここから、その火種を作品にして、100年後まで闘っていく魂の出現を待ちたい。

そんな元気をこの舞台はいわきに与えてくれたと私は思う。

山形在住の方にこの思いがどれだけ届くのか分からないけれど、お知り合いがいたら是非、山形の公演を観てみてけろ!と伝えてください。


Y!mobileのデータ無料増量のやり方が、わかりにくい

2017年06月10日 14時55分47秒 | ガジェット
Y!mobileは無料データ増量の使い勝手がとても悪い。

まず、データ量の上限が来ると自動的に低速になる。
これはどこも同じだ(IIJもFREETELLも)。

ちがうのは、そこから先。
無料データ分を持っている人は、基本低速になってから高速に戻す手続きをサイト上ですることになる。つまり、一旦低速になってから手続きの必要があるわけだ。

まあ、これもいいとしよう。

問題は次から。

Y!mobile側のキャンペーンによって無料データが付与されている場合、その量を500Mごとに一回と自分でカウントして、低速化をしない回数の数字をサイトで入力しなければならないのだ。それを自分で入力しておくと、低速化を防ぐことができる。良かったよかった……いや、待てよ。

無料なら、そっちで自動的に判断して、無料高速データ分を使い切ったら自答的に低速にすればいいじゃん!?

さらに問題なのは、サイト内にがちゃのようなものがあり、何日かに一回回してポイントをもらったり、別の特典などによって無料データが別途付与されるサービスがあるのだが、この無料付与は、必ず一旦低速になってからそれを解除する手続きをしなければならないのだ。

つまり、無料データの種類によって手続きが異なるのである。
(2017年06月10日現在)

こんなシステム、あり得ない。ダンジョンの宝探しか、とふと思った。

もともと高速データ分を繰り越しできないY!mobileは、データ通信を中心に格安スマホを使うユーザーにとって、これは煩雑なだけでメリットがない。

IIJのちゃんとしたシステムの感触が改めてシミジミと納得できる。

まあ、キャンペーンが効いていて安いうちは我慢してつかうけどね(笑)

ポイントを貯めて無料データをもらおうとするより、効率的なデータ使用を心がけるのが健全、というものだよね。勉強させられました(^_^;)

おそらく、SoftBankのポイントシステムに無理やりY!mobileを乗せているせいか、とも思う。

そうでなければ 「イヤミ」なだけだろう。

高速通信データもちゃんとした商品だし、スマホも立派な製品だ。そういうことを改めてちゃんと考えて使いたい、と極めて個人的に考えさせられたY!mobileの無料データ利用者方法の錯綜ぶり、でした。

格安SIMの速度差の意味とは?

2017年06月02日 18時29分40秒 | ガジェット
今会津若松に来ている。
IIJmioの通信速度は
下り1.33Mbps/上り9.3Mbps

Y!mobileの速度は
下り51.69Mbps上り17.75Mbps

(いずれも6/1(金)18時台の計測)

実に、下りは40倍以上の差がある。

びっくり仰天というかなんというか。

しかし、さらにおどろくべきことに、その遅いIIJmioでもYouTubeは途切れないのだ。
たとえば白井貴子(6/4日曜日いわきでライブ)が普通に観られたりするのである。スピードもいいけれど、20Gバイトとか30Gバイトを使う(つまりは光回線などを持たない)人以外は、必ずしも切実とは限らないんじゃないかな。

実際、たかだか月当たり3Gバイトとか5Gバイトしか割り当てられていないと、映画のストリーミングを見放題、なんてことが出来るはずもない。

確かに速度は遅いより速い方がいい、といいし、自分の回線が他の人の回線より速いと、なんとなく得をした気分にもなる。

だが、その差の意味は用途による。

むしろY!mobileはSoftBankのエリアの弱点を実は抱えたままだったりもする。

繰り返しになるが、速度はあまり気にしない方がいい。最近はLINE(日経トレンディ6月調べ)が速いらしいけれどね。