龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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福島から発信するということ(19)

2011年07月20日 23時43分55秒 | 大震災の中で
想像力の必要性と困難さについて。

昔、サリン事件の被害者に対するインタビュー集を村上春樹が出版したとき、猛烈に怒りを覚えた記憶がある。
村上春樹は、自他共に認める「小説家」だった。今は文化人なのかどうか分からないけれど、とにかくその当時までは私にとって(そしてたぶん村上春樹自身にとっても、世界中の沢山の読者にとっても)村上春樹という名前は、小説に冠されるか、小説家が小説以外のエッセイとかを書くときに冠される名前であった。

小説家の名前であった、ということは、ただの符丁だった、ということではない。
現実を超え出た虚構を作り出す、想像力によることばの使い手、ということだった。

だから、ノンフィクションのルポを書いて、あまつさえその後書きで、「こんなことはあってはならない」、的な常識的判断をお金を払った読者に読ませる、というのは理解の他の出来事だったのだ。
村上春樹の名前の付いた言説に私が求めていたのは、サリン事件を断罪することではなく、想像力によって「世界」を立ち上げ、向こう側の何もないホリゾントに、それでも「世界」の感触を確かなものとしてなぞっていくことばの身振りそれ自体だった。

小説家村上春樹が、社会的事件に「責任」を負うなんて、ちゃんちゃらおかしい、とそのとき確かに思ったのだ。


別に現実に対する発言を期待したりしないし、そんな説教をを君に言われる筋合いはない。
無論小説家が何を喋ろうと一市民としては無論1000%自由なわけだけれど、お金を払って読む気はしないね……そう考えた。

その時の違和感は今でも消えてはいない。

しかし、自分が3/11以降の「人為の裂け目」としてのこの大災害を自分で見聞きし、体験していく中で、「想像力」に対する自分の受け止め方が、すこしずつ変化していくのを感じてもいる。

ちょっと回り道の説明になるけれど、たとえば、私の周りでは政府の対応が後手後手で無策だとか、全ての発表が嘘ばかりで信用できない、という言葉が溢れている。
私にはその「憤り」の対象が「政府」とか「枝野」とか「菅首相」とかになり得る、ということが、正直あまりピンとこない。

実体験絶対主義、的な立場に立とうとしているのでは決してない。
私は、想像力の話がしたいのだ。
つまり、普通の「中央」に政治家にはとうてい「想像力」が追いついていかない事態なんだろうなあ、と正直思う。そして、想像力が追いついていかない人は、こういう「平時」の仕組みの役割を精一杯演じている限り、絶対「現実」を先取りすることなんてできるはずがない、としか思えないのである。

さらに全然とんちんかんな話になっていく、とヒトは思うかも知れないが、だから、石原慎太郎はほとんどボケボケにしか私には思えないのに、また都知事に再選されたのではないかしら。橋下大阪府知事も、なんだかんだいって人気があるのも、「想像力」の問題なのではないか、と感じるのだ。

都知事も府知事も、ある種の限定された政治的な「想像力」、状況定義力=権力に関する「過剰流動性」を踏まえた「動物的なカン」とでもいうべき能力を備えているのではないか、ということなのだ。

闇の悲しみの匂いをかぎ分ける鼻、といってもいい。
それは大して「高級な」能力じゃないかもしれない。
でも、電気を福島から供給されている現実の闇に感応した発言はできる。
大阪府知事も、原発が必要なら大阪で稼働すればいい、と発言できる。
その程度のことさえ言えない政府の人々は、割り付けられた「役割」の中で「仕事」をするしかない、政治的「想像力」が欠如しているのだろう。

そんな想像力は、普通持たないものだ。「平時」にそんなものを持っているのはむしろやばい。
ともすれば都知事や府知事が「ポピュリズム」と揶揄され、菅首相が「脱原発」を口にするたび「大衆迎合」と呼ばれるのも、その政治的「想像力」としての嗅覚は、使い方を間違えるとやばい、とヒトは同時に感じてもいるからなのではないか。

さて、村上春樹に戻る。
小説家は、ある種の不条理をことばで生きるものだ、とカフカ以降相場が決まった。
結末のある物語によっては招来しえない「世界」をそこに立ち上げるものをこそ、私達は「小説」と呼ぶようになったわけだ。
その典型的な「向こう側」の世界を立ち上げる書き手の一人であったはずの村上春樹が、「現実」にコミットする発言をしはじめたのにはびっくりしない方がびっくりだろう。

同僚と今日そのことについて話をしたが、果たして村上春樹の「帰還」が、うまくいっているのかどうか、は分からない。今でも『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』以上の作品(どんな価値判断で上下を決めるのか、もまた読者の匙加減に過ぎないと言えばそうなのだけれど)、向こう側に立つ不条理を生きる作品以上のものが、村上春樹の名前を持つ小説は持ち得ているのかどうか、疑問なのかもしれない。

でも、セシウム137という目に見えず、匂いも手触りもない物質が、究極の「人為」の裂け目から日本中、いや世界中に飛散して、その存在が自分たちでは決定的に「分からない」にもかかわらず、その存在を意識しつづけて生きなければならない福島の住民としては、一方でホール・ボディ・カウンターで内部被曝を測り、外部被曝量を線量計で計測しつづけ、除染を続けるという「科学的」「知的」な行為を粘り強くすると同時に、その目に見えない現実こそが現実なのだ、と私達の「現実」を決定的に組み替えていかなければならない、という「現実」に直面している。

これは、決定的に「想像力」の問題ではないだろうか。

人為の究極としての原子力発電。それが数百年単位とも1000年単位とも言われる大災害で引き裂かれた。
これは、私達の世界の枠組みを1000年単位で組み替える作業を私達に強いている。
それは、無論「科学的アプローチ」も必要だ。だって「究極の人為」のリミットにおいて起きた惨事なのだから。
だが、それは「自然」の営みの一部の顕れでもある。
私達は「人為の究極」が「裂け目」を見せることにおいて、圧倒的な自然の「顔」を、その「人為の裂け目」において初めて感得しえるのではないか。

とすれば、やはりこれは、福島で生きていくということは、「想像力」をもって現場に立ち続けることでなければならない。

周辺部をハイエナのような嗅覚で「定義」するような種類の政治的「想像力」では、決定的に足りないのだ。
では、誰のどんな想像力が求められているのか?

私はようやく、あの『アンダーグランド』で転向した村上春樹的の「現実的」意味を考えるところにたどり着いたのだと感じる。あのやり方はどうかと思うけどね。だって、別に彼がやらなければならない「必然性」は、読者の私には感じられなかった。共有できなかった。
しかし、それは村上春樹の「問題」でもあったかもしれないけれど、所詮「サリン事件」を他人事としてしか考えていなかった、私自身の「想像力」の「問題」でもあったのではないか?
3.11以後、自分が目の当たりにしたことを福島から発信しようとして初めて、「科学的基準」だけではどうすることもできない権力=状況定義力の問題に直面したのではないか。

その既存の状況定義力=権力が機能不全に陥ったとき、私達は改めて、「想像力」について徹底的に思考しかつ実践しなければならないことに気づかされつつあるのではないか?

そんな風に考えている。
『夏の花』や『黒い雨』の、むしろ小さな具体的なことを見つめることから始められた瞳の強靱さが紡ぎ出す「想像力」の必要性。

それはしかし同時に、「想像力」=「世界構築力」≒「状況定義力」=権力について、政治と科学と文学と哲学が一点に収斂するような場所で考えをめぐらしていかねばならない、と問いかけてくるかのようでもある。

「想像力」や「権力」についての「感触」は、あまりにもたやすく「社会的なシステム」の問題にすり替えられていってしまうからだ。日本では、そのすり替えこそが政治と呼ばれているかのようだ。

「初期衝動」というキーワードについて語る資格は私にはまだないけれど、現場に立ち続けるということは、その「初期衝動」を繰り返し確かめなおす「原風景」を手放さない、ということでもあるのだろうと思う。
この項も、また、続けて考えて行かねば。