龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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相聞歌2019年(歌のない10 月の話)

2019年07月11日 13時43分00秒 | 相聞歌
10/10深夜の救急車による入院から以降、妻は歌を詠まなくなる。

再開するのは2月になってからだ。

その間、癌と薬による苦しさの中で、今後の治療をどんな形で進めていくか、自分の限られた生命をどう 「使って」いくか、に焦点が当てられていく。

この4か月は、胸水と抗ガン剤のの副作用で苦しんでいた時期ではあるのだが、同時に、教師を終えたあとの自分の(限られた)命をどう無駄なく運用していくかに意を用いた時期でもあった。

それが一つには遺言ノートの作成と実行(遺品の整理と生前の形見分けを含む)になり、もう一つは元気なうちに友人や知人にもう一度会い、あるいは家族と改めても一度じっくり(最後の)話をする時間に充てられいった。

同時に、今後の治療をどうするかという話を二人で繰り返し相談していった。

①、10月中旬はまず呼吸が苦しくなった状態からの回復が先決だった。救急病棟から翌日には婦人科病棟に戻れるか、という話だったがそれが少し遅れた。

②、数日して婦人科病棟に戻ったところ、水を抜くかどうかが課題になる。 「ただ水を抜いてもまた溜まる」
というのはよく聞く話で、医師にもそう説明される。
そこで治療との兼ね合いになるわけだが、この時期から、

a胸水の苦しさ(水を抜くかどうか)

b治療の苦しさ(副作用の度合い)、

cそしてマクロ的にはどこまで治療を続けるか(ガン治療と緩和ケアとの関係)

これらを併せてどういう方向で治療法=ケアを進めていくか、が難しい課題になっていった。

③、主治医の提案は、肺(胸膜)への転移が可能性として考えられる。そして、胸水を抜いたら抗がん剤を直接その部分に投与して短期間で抜く、という治療法がある、というものだった。

④、その(③の)提案をゆっくり考えている余裕は正直なかった。
ただこのまま胸水が溜まり続けると、それを抜くためにそのたびに入退院を繰り返さねばならず、その間トイレにも自由に行けないため、生活の質は著しく低下する。
そのため、③の治療を受け入れたのたが、これが本人に取っては最高度に苦しい治療で、終了した後 「二度と、絶対にやらない」
と何度も何度も繰り返していた。

⑤、④の治療の後、このような苦しい治療なら今後抗ガン剤治療はとても続けられない、という本人の意思を受け本人も申し出たが、私もその旨主治医に相談する。

⑥、主治医の応答は次のようなものであった。
抗ガン剤治療は体に悪いものを入れるのだから、苦しいのはある意味当然で避けられない。
肺に直接抗ガン剤を入れる治療は二回やる(やれる?)のだが、別のレシピがいくつも候補としてある。
知識のある人はクオリティオブライフということをよく言う。
もちろん、最終的に肺が繊維化して呼吸が恒常的に苦しくなり、手当のできない状態になったなら終末緩和ケアも検討が必要だ。しかし、いまは体力も十分でかつまだいくつもの方法がある段階だ。
どの治療をするかを相談していこう。
何回かの説明をまとめて書いているので先生から見たら不足の面があるかもしれないが、おおむね以上のような内容として私たちは受け止めた。
今、8カ月ほど経ってこうして整理してみると、主治医の説明趣旨は明快で、キュア(治療)の側から見ればなるほどと納得のいくお話ではある。

しかし一方、妻の側からすれば自分の人生最大の仕事だった 「中学教師」を終えた先に、それほど苦しんでまで手にするものがあるのか、という価値判断になる。

なかなか双方の接点が見出しにくい状態で11月を迎えることになる。








相聞歌2019年(10/11~10/15)

2019年07月04日 17時19分36秒 | 相聞歌
10/11(木)

緊急入院の夜に


208
間に合うか間に合わないか救急車酸素のマスクに救いを探す(ま)


209
救急車に同乗しつつ妻を看る死ぬなら我の中身も持ってゆけ(ま)


210
今妻の命がここで消えたなら身体の中身を持って行かれそうだ(ま)


211
深夜来る救急棟の待合室命の糸を結ぶ場所なり(ま)


212
ひとまずは集中治療室に入り命の糸がそこでつながる(ま)


213
明け方に病院から呼ぶタクシーの運転手さんに慰められる(ま)


214
クオリティオブライフとは言うけれどどう選ぶのか命の道筋(ま)


215
病状が収まればすぐに帰りたいと言い出す妻を予想してみる(ま)


216
救急車初めて乗ってみたけれど案外悪い乗り心地なり(ま)


217
雨の朝詩人の言葉を思い出す「どんなに愛しても足りなかった」と(ま)


218
最後まで「より良く生きる」それだけを実現させて欲しいと祈る(ま)


219
神様を信じるわけではないけれどこれが祈るということだろう(ま)


220
もう少しゆっくり歩けと言いたいが闇に跳ぶ君止める術(すべ)なし(ま)


221
我が魂(たま)は君の呼ぶ声に応えんとす残されるのは抜け殻の我か(ま)



10/12(金)

222
魂がふと身体から流れ出そうだ必死に胸の辺りを押さえる(ま)



10/13(土)

223
妻のいない茶の間でコーヒーミルを挽くその音だけが静かに流れる(ま)



10/14(日)

224
母の荷をゴミ処理場に捨て切って夫婦で入る隠居所の秋(ま)



10月15日(月)

225
電話では元気な声を届けたい言葉を選び嘘はつかずに(ま)


10/11になったばかりの真夜中、妻の呼吸が苦しくなり救急車を呼んだ。
救急車は父の入院の時も何度かお世話になっているが、この時の妻の苦しむ様子はかなり深刻で、私自身パニックに陥っていた。
この直前に詠んだ歌が206,207だったから、やっと二人の生活ができるという静かな喜びを感じた直後だっただけに、ショックも大きかったのだと思う。


206
二人して生活道具を買いに行く足りなければまた明日来れば良い(ま))

207
残るのは食器類ねとうなずいて新居に響く声柔らかし(ま)


小名浜という場所から救急車が来てくれるのに約15分強。本人と私が乗り込んで状況確認をするのに約5分。病院は救急の体制が整っているので受け入れは問題なく、家から病院までサイレンを鳴らして約20分強。ざっと45分弱の間、生きた心地がしなかった。

だが、本当のショックはその後やってくる。
強制吸排機能のついた酸素マスクを着けられてストレッチャーに乗せられて本人が出てきたとき、救急救命の看護師さんに 「連れてきて正解でしたよ」と言われて、ホッとすると同時に恐怖も改めて感じた。
その後、いつもの担当医ではなく当直の医師に、以前からの資料をまとめてみせてもらい、現況と合わせて説明を受けた。

横隔膜転移だけではなく、肺にも転々と転移と見られるものがあ。残念ながら予後は悪いと考えられ、これから呼吸苦は増していくだろう……ご主人大丈夫ですか……
といわれてうなずいたものの、何がどう大丈夫なものか。

身体の中の中身が胸から腹、腰にかけて前半分がごっそりと持って行かれたような感覚に襲われた。

「半身」というのはこういうことか。魂(たましい)は身体の中でこれぐらいの質量をもっているのか、と余計なことをその瞬間思った気がする。それを何度も稚拙な表現で繰り返しているのが10/11の歌だ。

死は今やってくるわけではない。
しかし、この時のショックは、妻の死を先取りして感覚した、、というに近い。
この日から私は、妻との生活を、明確に限られた時間を生きるものとして覚悟することになった。

頭で分かっていることを、初めて身体的なショックで妻の死を身近に感じた日だった。

相聞歌2019年(10/1~10/10)

2019年07月02日 12時01分04秒 | 相聞歌
10/1(月)

199
苦痛の原因を説明されても医者と患者のすれちがいの日々(た)


200
「もう後は全部捨ててもいいからね」男前なり言って去る母(ま)


201
今日からは仕事にいかなくてもいい寄る辺なき日々始まる自由(ま)



10/2(火)

202
癌も抗癌剤も体にとってはただの迷惑パレスチナ難民の悲哀を思う(た)



10/3(水)

203
抗がん剤積もりて衰弱ピークなり悲惨それが生き延びる道か(た)


204
工事中の駐車場にも慣れてきたが新病棟には通いたくない(ま)



10/8(月)

205
四十年重ねてきたから分かること一緒にいられることの幸せ(ま)



10/9(火)

206
二人して生活道具を買いに行く足りなければまた明日来れば良い(ま))



10/10(水)

207
残るのは食器類ねとうなずいて新居に響く声柔らかし(ま)

10/1に母が施設に入居し、10/3に妻との同居が始まったときの歌。
10/3~10/10の夕方までの一週間、生活の道具や装飾とその配置などを一つ一つ全部二人で考えていくのは、まるで新婚生活のようだった。
自分の退職と母の施設入居、妻の引っ越しと3つの仕事が終わり、私自身としては少しホッとしたところだったかもしれない。

他方、妻の身体は病気と治療の両方から攻められてどんどん厳しくなっていく。