龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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続々・『スピノザの自然主義プログラム』(木島泰三)を読む

2022年01月19日 08時00分00秒 | 相聞歌

ここまで(第6章の前半まで)は面白い、で済んでいたが、いよいよ話が佳境に入ると、なかなか難しいところにさしかかる。

第6章後半部分、P

P153

つまり現実的本質とは<しかじかの行為をなしつつある自己に固執するコナトゥス>であり、<行為のコナトゥス>としての側面と、<自己の有への固執のコナトゥス>としての側面を共に備えている。

あたりになると、これはもう、コナトゥスってなんだったっけ?と見直さなければならなくなる。

コナトゥスとはラテン語のconutusで、「努力(する)」という意味だが、ここで木島さんは

「全ての個物の核心に位置する傾向、または力を指すための術語」

と説明している。これが、意志も目的も持たないというのだ。

スピノザ解釈としてはその通りなのだろうが、意志も目的も持たない「力」とはいったいなんだろう?ということになる。まあ、神=自然の摂理の表現、なんでしょうけど。

この本の副題「自由意志も目的論もない力の形而上学」という主題に関わる記述がここから展開されていく。

一般的な人間の行為に目的があることはスピノザも当然認めているわけだが、それは人間主体の自由意志とかを認めたり、予め可能性として目的を設定したりはしない、そういう種類のものではない「力」をここで考えて行くということなのらしい。

スピノザを論じる人はみーんなそういうことを言うし、そうなんだろうなあ、とは思うけれど、このままここで突き放されては哲学ヲタクのトリヴィアルな学問の場所に放置されてしまいそうだ。

木島ースピノザが言うところの意志も目的も持たず、自己に固執する力と自己の核心に存在する傾向性から、人間の営みをどう捉え直していくのか。

話はギリギリついていけるかどうか、というところにさしかかってきた。

 

第7,8,9章は明日以降の楽しみになる。

 


妻の一周忌の話し。

2020年05月24日 11時12分16秒 | 相聞歌
今日お墓参りをしてきた。

父の死が東日本大震災と原発事故に重なって、家族だけの見送りになったのと同じように、妻の一周忌は新型コロナウィルスの非常時態宣言のため、母と息子(上)と3人3代で墓参りを済ませてきた。

首都圏にいる息子(下)は呼ばなかった。

若い時分は、法事なんて何の意味があるのか分からなかった。
今は少しその意味が分かるような気がする。私にとっては、可能性の扉を一つ一つ閉じていく営みなのだ。
だからこれはあくまでも現在形の仕事だ。

過去に止まってはいられない、と思っていたのは30代までのこと。
40代になると、いままでやってきたことの「報い」というか、「結果」が出はじめる。

50代になると、何はともあれいままで考えてきたことややってきたことの大きな全体像が見えてくる。

一方、平凡な人生を歩む私たちにとっては、今までと同じだけ時間をかけて何かをすることは、もはや許されていない、と自覚させられる年代でもある。

父は、震災の存在すら理解せず、ただ「家に帰りたいよ」と呟きながら亡くなった。

妻は「令和」の年号が発表された後、「知らなくてもいいことを知ったね」と笑いながら死を受け入れた。

お墓にお参りしたり、法事を執り行うのは、その人と共に生きてきた人生の可能性の扉を一つ一つ静かに閉じていく行為なのだ、と今は思う。

1人の人間が亡くなったからといって、「遅るる者たち」の心の中からその人の存在が消去されるはずはない。

また一方、どんな身近な家族であろうと、乳幼児でもなければ24時間を共に生活はしないだろう。

私たちは幾分かは常に、「記憶の中のその人」といつも一緒に生きているのだ。

だから、その人は死んでもいなくならない。私たちが次に会ううまでは「記憶されたその人」と付き合っているように、それと同じように私たちは死者とも付き合っている。

もちろん、死んだことは分かっている。だが、ちょうど連休中に読んだガルシア・マルケスの『百年の孤独』に登場する死者の亡霊のように、私たちは彼らを見、彼らと対話しながら生きていくのだ。
そしていつか、死者たちは二度目の死を迎える。それは亡霊となった彼らが、私たちと共に生きる可能性が閉じられた時だ。

それは必ずしもこの世の中から亡くなった日、ではない。
一方、思い出さなくなったときが終わり、でもないだろう。一生記憶の中には思い出として残っている。
今考えているのは、それとは少しべつの話しだ。

こうして、何度かの墓参りをし、法事を済ませ、仏壇や神棚などに手を合わせていく中で、そのの人との新たな出会いの可能性の扉を一つ一つ閉じていく。
そういうことだ。

その「可能性の扉」を閉じる終わり方は、繰り返し終わっていくリアルタイムな仕事の結果、訪れるのかもしれない。

可能性、とは何だろう、ということも考えるようになった。

人生に無限の時間が与えられてはいないのだから、私たちは有限の生を生きる。そこでは可能性は開かれているものの、限りもまた、ある。
有限の生と有限の生が互いに出会い、影響しあって生きることの中に、「より良き生」がありえるのだともし考えるとすれば、それは「可能」を生きる、ということなのかもしれない、とも思う。

私にとっては共に生きる可能性が無くなることが、悲しさの一番なのかもしれない。 

これから一緒に旅行に誘おうと思っても誘えない。

美味しいものを分かち合おうとしても分かちあえない。

1人で過ごしてても、いつか一緒に語らいたい、と思うこともかなわない。

それは、愛着とはおそらく少しちがうのではないか、と思う。

人との別れが悲しいのは、愛着ゆえ、だけだとはどうしても思えない。

愛着や依存という情緒はもちろんあるし、大切でもある。
だが、それが一番掛け替えのない感情だとも思えないのだ。大事な人やもの、ことを失えばそれは寂しいし、悲しい。

だが、本当に自分に問い直してみるとき、人との出会いが終わりを迎えるとき、「愛着」が一番だというのは端的にどこか足りないような気がしている。

とはいえ、それを声高に主張すると、まるで愛情の欠如の現れでもあるような気もして、言葉にするのもためらわれる。

愛着や依存、思い出にすること、とは少し違う形で、「可能性の扉」を少しずつ閉じていく営み。

その辺りの事情を、妻の一周忌の雨の夜、自分なりにゆっくりと考えている。


【10の質問・人生編】回答日2019/11/16(土)

2019年11月16日 08時12分24秒 | 相聞歌
goo blogからの10の質問に答えます。

【10の質問・人生編】


1.今までで一番嬉しかったこと
「自分が(仕事で、家族から、恋人に)必要とされたとき」

2.一番大変だったこと
「家族の死」

3.あなたにとっての「幸せ」とは
「何も考えずにいられる時」

4.生まれ変わるとしたら何になりたい?
「風」

5.座右の銘は?
「よりよく生きる」(スピノザ)
「浅く触れ続ける」(ロラン・バルト)

6.今までで一番教訓になったできごとは?
「東日本大震災」

7.一番大切にしていること・ものは?
こと→「人との出会い」
もの→岩波文庫スピノザ『エチカ』(上・下)

8.感謝の気持ちを一番伝えたい人は?
「自分を支えてくれた家族」

9.10年前の自分に言いたいこと
「日暮れて途遠し。残された時間は意外に短いよ。モードを切り替えて、やりたいことを始めよう。」

10.1年後の自分にひとこと
「元気?」

お疲れさまでした。
読んでくれてありがとうございます。


『図書館島』ソフィア・サマターを読むべし。

2019年09月30日 14時43分28秒 | 相聞歌
カテゴリーが相聞歌なのは、この作品がある意味で「鎮魂」と「書くこと」とが、重ねられた物語でもある、という理由による。

個人的に、今の私が読むのにもっともふさわしい物語、だった。

主人公は、辺境の島に生まれ、大きな商人の家の息子として育つ。その島の人々は父親も含めて文字を知らなかったが、帝国の町から父親が連れてきた家庭教師によって、少年は島で唯一人文字を知り、書物を読み、物語と詩を愛するようになる。

突然亡くなった父に代わって商人として帝国の港町に旅することになった主人公ジェヴイックは、書物の中で憧れていた町ベインに到着すると夢見心地でその町を堪能するのだが……。

そこから、文字をおもんじる「石」の教団と、天使の声を重んじるアヴァレイ教団との間の国を分断する争いに巻き込まれる主人公は、書物を愛すると当時に「天使」の声をも聴く存在として、困難な旅をしていくことになる。

素敵なファンタジーです。
あと100ページを読み切るのがもったいないなあ。
個人的にも、心に沁みるお話です。
よろしかったら秋の夜長のお供にぜひ。
作者はかなりの言語=詩=物語フェチ、という印象。
学者の書くファンタジーらしい、といったら偏見が過ぎるかな。

もう一度、面白いです。


熊野古道(16)

2019年09月29日 18時55分33秒 | 相聞歌
参道の階段を上る途中の右側に宝物殿のようなものがあったので立ち寄ると、そこの管理人の方がおもしろいことを話してくれた。その方は民間出身(もともと神職ではない)で、サンチャゴにも行ったことがあるのだという。
宝物の説明をたくさん聴いたのだが、その話が印象に残ったのだ。
世界遺産に指定されるという動きの中で、「サンチャゴの如くに」という形での運動というか、働きかけが世界遺産選定に際してあったのではないかなあ、と想像できる。
別にきちんと調べたわけではない。しかし、そういう感じはあるのかもしれないなあ。
実際、高野山から熊野までの三泊ほどかかる小辺路と呼ばれる熊野古道は、ヨーロッパから来て歩く人が多いのだそうだ。

熊野本宮大社は驚くほど熊野大社しかない、という印象。全く観光地の気配がしない。時間がないとここまではなかなか来れないということだろうか。



もともと熊野本宮大社は熊野川の中州にあったものが、明治期に洪水で流されてしまい、今の場所(川の西側の高台)に移築されたのだそうだ。

写真は元々あった中州のところ(大斎原-おおゆのはら-)に立っている鳥居。でかい。こんなの、見たことがない。

こちらはそれを山の中腹の中辺路から見たもの。

熊野古道(15)熊野大社へ!

2019年09月29日 14時06分36秒 | 相聞歌
那智大社参拝後、ちょっと新宮に寄って和歌山ラーメンを食す。店名は「速水」。あっさりした細麺のラーメン、食べやすかったです。スープは豚骨の醤油かな。何とか商店で修行中と書いてありました。調べたら井出商店という、らーめん屋さんの流れを汲むとか。
わかんないけど、おいしかった(^_^)


さて、腹ごしらえをしていよいよ熊野大社へ。
車で20km以上山の中に。ただ、高度を上げていく感じはせず、川沿いに遡行していくという印象。歩いたら大変なのでしょうが。

当時は、大阪の方から紀伊半島をぐるりと回っていく紀伊路(大辺路)が熊野詣での道としては主流だったと理解していたけれど、伊勢路と紀伊路どちらも使われていたんですね。
いずれにしても都から遠くて、しかも宗教的・文化的に重要な拠点であることが大切だったんでしょうね(お伊勢さんが盛り上がるのはもう少し後ですよね)。

それから、全国の熊野神社の数にはびっくり。福島の多いこと!全国一じゃん!?


熊野古道(14)那智の滝

2019年09月18日 20時35分15秒 | 相聞歌
那智の滝はやはり迫力がある。
修験者を惹きつける力がある、というのが実感できる。
本地垂迹とか反本地垂迹などよくわからないけど、江戸的にいってしまうと「見立てとやつし」
みたいなものだろうか(違うか……)。とにかく、神道と仏教と修験道とが微妙に重層化しつつ、平安・鎌倉~江戸・明治に連なる様々な宗教的重層性の見本市のようなものかと。




下まではようやくたどりついたけれど、その奥にある参拝の場所まではいかずに手前でゼイゼイしてへこたれていました。同行者はもちろん滝のしぶきを浴びて拝んできたそうな。
御利益に差がでそうです……。

因みに八咫烏(ヤタガラス)の由来のが、熊野にはたくさんこんな形で。


熊野古道への道(13)

2019年09月17日 05時00分21秒 | 相聞歌
☆8/21いよいよ那智大社へ。

朝食を取った後、バスで駐車場までおくってもらい、すぐに那智大社へ。熊野三社の二つ目、そしていよいよ今日は目的の熊野古道である。
勝浦から山を登っていくとほどなく中腹に参道入り口が見えてくる。大社のすぐ脇まで登った所に参詣者用の駐車場があるのだが、同行者にキツくダメ出しされ、下のバスプール脇の駐車場(その日は解放されていて無料だった)にクルマを置いてそこから歩いて登ることに。 

友人は急な坂と狭い道がひどく苦手らしい。
「あんな道は登るものじゃありません!」
の一点張りである。
まあ、目的は熊野三社巡りだから歩くのは正しいわけだが、友人の「ビビる」様子が興味深く、つい「クルマで登ろうよ」と言い募ったがところ、かなり本気で怒りだしそうなので、途中で止めておいた。

登り始めてみると、昨日の神倉神社の石段から比べれば楽勝である。ほどなく那智大社に到着した。
夫須美神(ふすみのかみ)を祀るという。
これがどんな神様か、由来はよくわからない。一説にはイザナギとも言われるらしい。もしそう考えた場合、昨日お参りした新宮にある熊野速玉大社の速玉大神がイザナギ、ということになって一対とされるのだろうが、神様がいったい「誰か」というのは千年近くの、歴史を無視したお話、というべきなのかもしれない。

そしていよいよ熊野古道。
これは那智から熊野に向かう道(中辺路)か。
しかし、ここにクルマを置いたままであるため、しばらく登って降りて来るよりほかになかった。


ここでは雰囲気を味わうにとどめ、隣のお寺へ。

那智大社の社殿に隣接して青岸渡寺というお寺がある。 


もともと那智大社のあるこの場所は修験者の修行の場所だったらしく、お寺と共にいろいろ歴史はありつつ栄えてきたものか。

廃仏毀釈で熊野大社と速玉大社はお寺がなくなったのに、ここ那智大社では残ったというのも不思議な話。
元々(というか歴史がありすぎ私にはて切り分けられない)、神仏習合の風習もあり、修験道の流れもあり、熊野の三社は様々な宗教的聖地の意味を持ち続けできたものらしい。
特に那智大社には那智の滝もあり、霊性のあるスポットとして早くから重視されてきたという話には納得がいく。

青岸渡寺の三重塔から那智の滝を望む。



熊野古道への道(12)

2019年09月17日 04時39分17秒 | 相聞歌
新宮の神倉神社の御燈祭りは、松明をもって石段を駆け下るのだそうだが、暗いところであの不整不揃いな石段を下りてくるのは命懸けだと思う。そのめいめいが持つ明かりの様子は「下り竜」とも言われるとか。

そんな話を地元のおじいさんにうかがってから、那智勝浦町へ。
この日は勝浦のホテルに宿泊。
生マグロ食べ放題のバイキングスタイル。さすが我が友人のチョイスで、楽しくいただいた。それにしてもアイスクリームの(デザート)食べ放題は(食べ過ぎ)危険だと思う。この年になってもついつい危険水域までとうたつしてしまいそうで……。美味しいのが罪深い(笑)。


マグロも鰻も美味しかったのだが、個人的には生シラスをご飯に載せて食べるのが一番おいしかった。シラスは三回ぐらいお代わりをして堪能。

温泉は波打ち際にある岩場の露天風呂で、とても迫力があったが、たどり着くまで部屋から5分以上かかる。お年寄りにはちょっと大変かも……(ホテル浦島)。ただしこのホテルは何棟もあり宿泊場所によってお風呂からの距離もかなり違う(しお値段も違う)。大きくて有名なホテルっぽい(友人にとってもらったのでなにも調べていないが)ので、よく確認してから部屋を予約するのが吉、かな。

さて翌日はいよいよ那智大社へ。ようやく熊野古道を歩き出します。

熊野古道への道(11 )

2019年09月14日 17時23分38秒 | 相聞歌
いよいよ熊野三社農地の一つ、熊野速玉大社に参詣する。


駐車場はそれほど大きくない。

境内で売っている小さな柑橘類を求め他のだが、それがすこぶる美味であった。
一昨年の夏だったか萩を訪れたときに、松下村塾の前で売っていた細長い不思議な柑橘も旨かった。それは後で調べると弓削瓢柑という名前だった。
今年の春の季節)を待って取り寄せ、妻と一緒に食し、またジャムにして食べた。

この速玉大社の小さな蜜柑は亡妻と一緒に食べることができなかったけれど、土地の味は記憶に残る。取り寄せるようなものでもなかろうが。

さくっとお参りして宿に行こうか、と思ったところ、同行者が是非とも行きたい神社があるという。速玉大社の裏の山にある神倉神社。石段が550余り。気が進まなくてかなり、ぐずぐず行ったのだが、友人のネツイニマケテ石段を登り始めた。
しかし、石段というものは作り方によって登りやすさの難易度に大きく差がでる。
ここの石段はメチャクチャ急で、、本当に死ぬかと思った。

織田信長が作ったといわれる安土城の石段も登るのが大変が、アレは元々普通に人が歩いて登るものでもなさそうだ。歩幅が広く、段差も高い。
対してこちらの石段は、階段の幅が狭く、傾斜が急だ。チョットシタ修行である。写真を撮る余裕もなく、ゼイゼイしながらそれでも、500段余りを登り切った。最初の100段ちょっとがかなり急なので、年輩の方やお子さんは注意が必要。

登り切ってみれば新宮の町と海を一望できる景観の良さ。汗を流すだけの価値はある。


降りてきたところで、地元の人からここにはいわゆる火祭り、「御燈祭り」というものがあると聴いた。
調べてみるとかなり有名なものとか。
https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=%23&ved=2ahUKEwiTreSVpdHkAhVCw4sBHf0pAhQQwqsBMAB6BAgKEAQ&usg=AOvVaw0VTJzWxrN8ZFOD4xbU2nov

熊野古道への道(10)

2019年09月14日 17時15分56秒 | 相聞歌
ようやく速玉神社、なのだが、その前にある佐藤春夫記念館(旧宅を移築した上で記念館として公開)に寄る。




大岡昇平の両親や有吉佐和子は、和歌山の出身だという。ジャンルは異なるが、紀伊にはぎゅっと核の揺るがない書き手がいる、という印象。
佐藤春夫の『たそがれの人間』と『蝗の大旅行』を改めて読んでみたくなった。

熊野古道への道(9)

2019年09月14日 17時05分44秒 | 相聞歌
新宮は熊野速玉大社がある。いよいよ熊野古道を歩く、というか神社は街中近くだからからくるまですぐいける。
その前に、中上が8mmで撮影した!小説群の舞台にもなっている露出の跡を訪ねてみた。人権教育センターに車をおいていいよ、と図書館の方に教えていただき、その辺りを散策する。


この看板は、路地の後に建てられた市営住宅の片隅に立っている。
中上の生家とかかれているところはその、市営住宅の一角か?
近くに比較的昔の家が残っている線路沿いの家並みがあったので写真に。


いずれにしても再開発されて久しいのだろう。8mmの中の映像を重ねて想像するよりほかになかった。

相聞歌2019年最後の短歌

2019年09月09日 00時58分09秒 | 相聞歌
2月10日(日)
鳥舟に乗れるは裸の生命のみ十二単の如き諸事を脱ぎ置く(た)

その諸事の中に私も入るのか駄々っ子のごと問うてみたき夜(ま)

緩和ケアと言えども苦痛はあるものを日の降り注ぐ丘に憩いたし(た)

「面倒な身を捨て高く飛びたい」と言った19の貴女(きみ)を覚えている(ま)

森蔭に社の多く鎮まりてみちのくの神のまなざし光る(た)

「もう飽きた」入院四日で言う妻に病室の窓から早春(はる)の陽光(ひ)がさす(ま)

死してなおあなたを守ると誓う我たぶん愛とはそういうものだ(た)

半年を共に闘病したことはそれも二人の財産だろう(ま)

「ぞうきんは?」夫(つま)の電話に病院のベッドから心は駆け出しており(た)

大概はできると言いつつその実は道具の在処(ありか)を妻に尋ねつ(ま)


2月11日(月)
行きたきは梅の香ただよう山の道風とたわむる身体がほしい(た)

弘前の城の桜を眺めていたあの日の温かさをふと思い出す(ま)

病重くその日その日を生きるなり夫(つま)のぬくもりカンサーギフト(た)

寄り添える身のあるうちは泣きはせぬそのあとのことはそのあとのこと(ま)

苦しみを子等には決して見せぬよう背を背けたる心の痛し(た)

なにくれと厳しき母を気遣う息子よ君は優しき大人になった(ま)

3/5(火)
抗癌剤止めますと主治医に言い切って生の残り火かきあつめる夕べ(た)

頸城(くびき)から身を振りほどき何処へと帰らんとするか妻のたましひ(ま)


3/6(水)
一秒でも早くと退院を訴える私看護師は戸惑い医師は声をかけず(た)

病院を逃げ去るように出た後で「ちょっと海まで寄り道」という妻(ま)


3/7(木)
ひたすらにただひたすらにほっとして病ともども昔に帰る (た)

ぞうきんの置き場所もゴミの分別も我に教えて逝かんとするか(ま)


3/8(金)
わずか三か月(みつき)亡くした娘に地蔵尊をたむけて桜のつぼみふくらむ(た)

病妻を乗せて押しゆく車椅子亡き娘子(むすめご)の墓参ぞ悲しき(ま)


3/9(土)
夫(つま)植えし花々眺め日が暮れる生命伸びゆく音響くごと(た)

やらないと決めていたはず庭いじりそれでもやれば意外に楽し(ま)

3/10(日)
医療器具並んだ部屋でのみ生きられる生命の灯(ともしび)細くゆらめく(た)

治療から緩和ケアへと変更すほっとする思いと震える心と(ま)

「今日からは治療を止めて緩和だけ」清々しいほどの妻の笑顔よ(ま)


3/11(月)
一つ一つ心残りを片づけて飛び立つ羽根を大きく伸ばす(た)

アッピア街道石はめるがごとく遺品渡す次世代よもっと幸せになれ(た)

人生の課題を次々片づけて君は何処(いずこ)へ飛ぼうとするのか(ま)

3/12(火)
眠れぬとあせるほどに目は冴えて遠き春雷を言い訳にする(た)

一人一人必ずくぐる門とはいえどなぜに今かと答えなき真夜中(た)

どこまでも張りつめた思い持て余し忘れたくてがむしゃらに働く(た)



辞世   平成三十一年三月三日作

初蝶の風を味わう桜枝夢を渡りて青空高し


なんだかこの時期のことはあまりよく覚えていないし、日記やメールにも残していない。ただ妻を向き合うことが全てだった、といえば聞こえはいいが、慌てふためいてオロオロしてばかりいたのかもしれなかった。

3月6日に病院を退院して、3月9日に在宅緩和ケアの専門医にお世話になる。
それからの3ヶ月弱は本当に貴重で大切な時間にもなり、とても重要な体験をする期間にもなるのだが、その時期二人は短歌を書かなくなる。
もはや私たちの言葉はそこでは役割を終えていた、ということだろうか。

まだ最後の三ヶ月には整理がつかず、書き残した日記を一度も開いていない。
ともあれ、癌再発以後に彼女が残した短歌はこれが全てだ。

ここまで読んできていただいてありがとうございました。

在宅緩和終末ケアに入ってからの彼女については、機会があったら項を改めて。


相聞歌2019年(歌のない12月,1月,2月のお話)

2019年09月08日 21時27分52秒 | 相聞歌
2018年の12月と2019年の1月は、病院の領収書も手元になく、どんな様子で生活していたの記録に残っていない。

スマホに断片的に残ったカレンダーやメールなどから、記憶を辿ってみる。

12月は3,4,5日が入院予定、とGoogleカレンダーにはある。
おそらくこれは、再発がん対応のカルボプラチン+アバスチンという抗がん剤を予定していたのだと思う。

10月下旬にシスプラチンという抗がん剤を胸膜の患部に直接投与したのだが、その治療が本人にとっては最高度の苦痛で、それが理由で妻は断固セカンドオピニオンをとる!と決意した経緯があった。
11月のセカンドオピニオン、サードオピニオンを受けて、緩和ケアに至るまでどれだけ治療で病気と付き合っていくのか、ということを考え始めたのがこの時期だったかもしれない。
だがもちろん、治療は続けていこうという考えを持っていたし、本人ももうすぐ病院の中に緩和病棟が新しくできるから、そこで苦痛をコントロールしてもらいながら治療を並行してやっていく可能性があるのではないか、と期待していた面があったはずだ。

だが、実際に緩和病棟の話が聞こえてくると、そこはむしろ終末緩和が主であって、治療は病棟で、緩和は緩和で、という私たちから言わせてもらえば旧態依然のシステムとしてしか動けないのではないか、という疑念が大きくなってくる。

医師、看護師らスタッフの方の話を聞き、苦痛をきちんと緩和しながら治療をするという患者の側に立った医療のスタイルが見えてこないことに彼女は気づき始めたのがこの12月だったかもしれない。

緩和と治療は矛盾するものでもなければ、対立するものではない、と言葉でいえば、どの医師もその通りだ、と言ってくれるだろう。
だが、個々の具体的な苦痛と治療を、トータルでケアしようとするスタイルは、どこにも見えない、というのが実感だった。


この後、メールを辿っていくと、①では夫や周囲との関係の話がリアルに出てくるが、
②では、治療を続けるのか、終末緩和ケアに移行するのか、を決断しようとしている心の動きが見えてくる。③では明らかに緩和ケアで苦痛を和らげていこうという意志が明らかになる。


①12/19---------------------------------------------------------------------

「隣で見ている方が辛いでしょう私はみんなの良さを引き出しロイター板のつもりだっだのに役にたってないね」(た)

「今は、一所懸命に妻の世話をするオレの良さを引き出してるからそれでいいんじゃないかな(笑)
おれは人生史上最高に幸せかもしらんよ、ある面では。」(ま)

「自分の命の使い所なのでしょう。(私の)苦しみの対価が(あなたの)かけねなしの真心なのもわかります。
ですが、このやりもらい関係がわたしにはピンときていなかっのでしょうね」(た)



1/30~2/4(入院)

②2019年2月1日-----------------------------------------------------------------
何が正解なのかはやった者だけに見えるのでしょう動物の定めですね本音を言えばそろそろ方向性を決めたいのですこの治療が判断材料になるでしょう



2月9日~2月16日(入院)

③2月9日(土) 23:47--------------------------------------------------------------
これまで私を支えてくれた神仏やあなたに心から感謝申し上げます最期の目標は酷使した器の恩に報いることですあさひだいでいっしょに過ごせつて本当に幸せだった最高のお姑さんにめぐり合ったこと清少納言にじまんしたいです


そして次は最後の短歌になります。


相聞歌2019年(見つかった10月3日~11月6日までのメモ)

2019年09月08日 20時51分45秒 | 相聞歌
残った紙類を整理してきたら、10月と11月の短歌とメモが出てきた。

10/3(水)
朝日台に転居。(この日から夫婦二人と息子3人の生活が始まる)

10/4(木)タオル、妙子洋服の分類。

10/5(金)整理タンス(カインズホーム)片付け。息子の服の分類

10/6(土)姉来る。息子の服の分類

10/7(日)地区の運動会、息子が代わりに仕事をしてくれる。

10/8(月)息子部屋片付け。食品類を棚に整理していれる。

10/9(火)小名浜山新で貴重品入れの棚、清掃用品購入。実家から冬物。

10/10(水)台所たなの整理。廃プラの回収。冬物分類。

☆この日の夜、呼吸が苦しくなって入院となる。

10/11(木)
0:32咳き込み痰が出る。呼吸ができず救急車に乗る。ICUへ。
人工呼吸器がここにしかないので、そのままICUに留め置かれる。
ひっきりなしに医師が来る。主治医が外来にかかりきりで顔を見せないことに看護師たちは不満げ。
強制的に酸素を入れ続けられるので苦しい。

10/12(金)
ほぼ一睡もできず、呼吸器の中から温風が吹き出し水滴が垂れてくる。
これも治療なのだそうだが、ともかく一刻も早くやめてほしい。
何度も頼んで主治医が来ているか聞いてもらった。
11時に病棟へ。見知った顔ばかりで安心する。重症者個室に入る。

10/13~16
動くたびに息が切れ、咳がでる。夜横になれず、睡眠は2hくらい。


10/17(水)
一日を雲の形を視てすごす病身という牢に押し込められた魂

このまんま眠れるならば今日の日が命日でも良いと願った深夜

10/18(木)
人を診る看護師の真心有り難し苦しみに寄り添う心希望を灯す

10/19(金)
身には嵐心には闇あ「安静」と現状と対局の言葉なり
×安静にする
○やがて安静になる

10/20(土)
今はまだ体力のどん底にいるらしいビルに差す日の移ろい眺めをり

10/21(日)
生から死へ黄泉比良坂駆け下りる軽さ死から生へ這い上る重さ

10/22(月)
医者との懇談。癌性胸膜炎。水を抜き細胞を調べるそうだが、なぜ検査の前に病名が決定しているのだろう。

10/23(火)
朝、右肺にドレーンを入れ、肺の水を吸い出す。1000CC
抜ける。

10/24(水)
朝の30分で500CC抜けたが、午後には液がたまらず、側溝の底をさらうように血や組織の塊がチューブの中をたくさん浮遊するようになった、3時間ほど「たん」を吐いた。最終的には1000CC抜ける。

10/25(木)
580CC。前日2時間ぐらいしか寝ていないので、ぼーとしている。花粉症のためか右の鼻からのみ鼻水が垂れ、いちいち酸素を外すのが煩わしい。胸が痛いが、水に濡れていた肺が乾いて元の大きさに広がろうとする痛みだそうで、痛み止めをもらう。

10/26(金)
450CC。前夜は催眠剤のおかげでよく眠れたので、体に力がある。漫画「女王の花」を10巻読んだ。

10/27(土)
540CC
「ちはやふる」4巻キャラクターの作り方が上手!
さようなら尾花手をふる土手の道風に背押され家路を急ぐ

予定表をぎっしり仕事書き込んで頬杖をつく朝の職員室

もどかしく戸を引き開けて添削の子らは駆け来る風となって

閉め忘れた窓の向こうに赤々と夕日が照らす円陣の背番号

10/28(日)

470CC。

抗がん剤入れたその日に店に立つ生きがいがいかす88歳

二十分演じる練習二ヶ月間呼びもせぬのに集まる生徒

10/29(月)
420CC。

由里ちゃんと話す。互いが会いたいと感じているのが痛いほど分かる。

心は帰り足たし身は帰れるわけもなしといい騒ぐ夜半の病室

携帯の友の声よみがえる青春老いと病いと見えぬこそよけれ

10/30(火)
500CC肺(胸膜)に抗がん剤を入れる。

11/4
辛すぎた体の記憶に子守歌ゆっくり沈め忘却の淵へ

11/5
一回までおそるおそると歩を運ぶ小さな自由をかみしめながら

11/6
60年置き去りにしてきた体に合わせ休み休みの人生を歩む


この日に私ががん研有明に行ってセカンドオピニオンを聞いてきている。
ここから、(歌のない11月)に繋がる。