龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

新宮一成『ラカンの精神分析』(講談社現代新書)を読む。

2022年01月24日 07時00分00秒 | メディア日記
昔買ったことがあるはずなんだけれど、本棚を無くしてだいぶになるのでもはや探しようもないので、ふと読みたくなって図書館から借りてきた。
題名通りラカンの入門書である。
フロイトの「子どもたち」による精神分析という業界における政治とラカンの関係、メラニー・ジェイムズクラインとの関わりなど、伝記的な部分もあるが、大文字の他者とか対象a、無意識は言語として構造化されているとか、おなじみの?説明が分かりやすく書かれていて、復習するのに好適である。
全く最初に読むのは少し敷居がたかいかなあ。まあでも、面倒くさいラカンの早わかりとしては間違いなく頼りになる。

トリヴィアルな学問的差違にこだわらず、禅、統合失調症の症例、ヴィトゲンシュタイン、デカルトのような既知のものと対比しながらラカンの概念を説明してくれるので、とてもありがたい。

この本を読みながら、スピノザのことを考えている。ラカンには、(21世紀には失われた)、20世紀におけるパラノイア的な自己の根源・根拠を求めようとする狂おしいまでの傾向性があった。
しかし、21世紀は明らかに自閉系の時代であり、自閉系の課題はむしろ、構造化されることなくたった一人で世界の中にあることだ。それは孤独ではない。

おそらく、今を生きる人々の「孤独」について語る言葉は、20世紀的なノスタルジーに回帰していくのかもしれない、とすら思う。
もちろん、ラカンの語るコトバは、私たちが言語=思考を続ける限り重要でありつづけることは間違いない。

スピノザは、世界=自然=神とみる。そこに外部はない。

ラカンはたどり着けない根源を求め、言語によって他者の欲望を内面化するシステムを提示してくれる。

たどり着けない外部=他者からの→自己像、という形で、本当には触れることが出来ないものを析出することにより自己を何とか作りだす。

それに対してスピノザは、端的に「自由」は無知からくる、と言い放ってしまう。世界は必然だ、と言い切る。


もちろんスピノザは17世紀の哲学者だから、無意識概念もなければ言語についての哲学的分析とも無縁だった。だから、当然ラカンをそこに直接重ねて考えるわけにはいかない。

しかし、
デカルトの
cogito ergo sum
(私は考える 故に私は存在する)

と、それに対するスピノザの書き換え(補足注釈?)

ego sum cogitans
(私は考えつつ存在している)

の関係は、私と私の関係が異なった捉え方をされている、という印象を持っている。

その隙間に、ラカンの影を見ることはあながちムチャでもないだろう。

スピノザの言っていることが「非人間的」な無茶振りなのか、それともラカンのパラノイア的な自己への思考からの解放なのか、あるいは……

そんなことを考えてみるのも楽しい。

いずれにしても「自己」とか「自由」とか「意志」とかを手放しで自分の手にすることはもうないのだろう。

それでよい。それがよい。

年寄りになるとスピノザ好きが増えるんだよねえ、と知り合いのアレントを専門とする哲学者が言っていた。
なんだか悟りとか救いとかに近い話になりそうでイヤだけど(笑)

このあたり、もう少しはっきりしないままうろうろしてみたいと思っている。

とりあえず、チャレンジしてみる価値はありそうな一冊です。







読むべし『テヘランてロリータを読む』アーザル・ナフィーシー(河出文庫)

2022年01月23日 07時00分00秒 | メディア日記

河出のサイトはこちら。


イスラーム革命後のイランの首都テヘランで、密かに続けられた読書会。
そこで読まれたのははナボコフの『ロリータ』、フェッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』、オースティンの『高慢と偏見』ヘンリー・ジェイムズの『デイジー・ミラー』……。
作者が大学を辞めてからテヘランを去る二年間の間の読書会の様子が書かれた回顧録である。
だから、小説ではない。
しかし、解説の西加奈子も書いているが、
この本は小説のコトバを具体的な生活の中で読むことのリアリティの濃密さがこれでもか、というくらい詰め込まれている。
筆致は穏やかだが、それだけにこの本は私たちに、様々なレベルで様々な意味で「読むこと」の意味を問い直すよう迫ってくる。

今ここでこの本を読むこと、あの小説を開くこと、そういうことを内省的に深く深く考えていくことを自然と始める自分がいる。

来週この本の読書会をする予定だ。
幾重にも折り重ねられた「読むこと」と「生きること」のエネルギーが、本の中から溢れてくるのを感じる。

ぜひともお勧めしたい一冊。



直ちに読むべし、上間陽子『海をあげる』筑摩書房

2022年01月22日 07時00分00秒 | 大震災の中で


『海をあげる』上間陽子

を読んだ。著者についてはこちらを参照されたい。


彼女の厳しく優しく切なく苦しく、そして力に満ちたコトバを全身で感じる。そういう受け取り方以外にないエッセイだ。
今ここにいる自分のコトバの根っ子を問われていると感じる。
それはこのエッセイのコトバが、自らその汲み上げられてくる根っ子の場所に対して、瞳を一瞬も逸らしていないからだ。その場所から湧いて出る、あるいは絞り出される静かなコトバたちに、わたし(わたしたち)は向き合うよりほかにない。

ああでも、「ほかにない」、というと強制された感じになってしまうなあ。

そうではないのです。

この本が書かれたことに感謝せずにはいられない。と同時に、上間陽子の仕事から目が離せない、とも感じる。わたしが、私自身のコトバの根っ子のことを突き詰めて考えなければならないのだ、というところに立たされる。

強制や受動ではなく、私の中からこのエッセイのコトバに、呼応しなければ、というコトバが出てこようとするのだ。
だが、それは容易なことではない。厳しい、とは、そういう意味だ。
上間陽子のコトバは厳しく優しく静かでなにかに満ちている。
それは単なる力、ではない。

次はこの人の
『裸足で逃げる』を読まねばなるまい。



映画に飽きたのでスピノザに戻る。

2022年01月21日 07時00分00秒 | メディア日記
木島泰三『スピノザの自然主義プログラム』
を読んだ。
十全に理解したとはとてもいえないが、考えていたらふとこ地ラの本をを読み返してみようという気になった。
朝倉友海『概念と個別性 スピノザ哲学研究』



 
である。詳細は上記のURLに本人のまとめが書いてあるのでそれを参照されたい。
 
木島泰三の『スピノザの自然主義プログラム』が、どちらかといえば
「機械論的自然観」あるいは「唯現実論」を(自然の側から)突き詰めていくのに対して、朝倉友海の『概念と個別性』は、理性の働きの側からスピノザの「個別性」に向き合おうとしている。
 
平たく言えば、デカルト的な精神と物質の二元的な捉え方を脱構築しようとしたスピノザの哲学を、物質というか延長というか、個別的な様態(現れ)の側からアプローチして乗り越えるか、精神というか思惟と言うか、概念の側からアプローチして乗り越えるか、の違い、という印象を(素人としては)うける。
 
そういう意味では叙述の方向性、議論の前提とする立場はほとんど正反対といってもいい感じがする。
 
しかしどちらにも共通しているのは、スピノザの哲学のふつうに考えると過激すぎるというか、荒唐無稽にも聞こえてしまう理解困難さとどう立ち向かうか、という厳しい姿勢だ。
いずれも哲学の研究をしているひとなのだから、「厳しい姿勢」などというのも失礼なのだが、
スピノザを早わかりしようととしてつまづくのが、まずもって実体と様態の間にある「属性」というカテゴリーであり、その属性のうちで人間が知っているのは「思惟」と「延長」のふたつだけだ、という話に進んでいくと、とたんに霧がかかったように面倒くさくなる。
 
実体というのは神様であり自然の摂理であり、アンチ超越神であり、これは分かりやすい。
様態というのも、私たち個別の人間とか物質とかだから、これも分かる。
 
問題はその神様と物質(や人間)の間にあってそれを繋いでいる「属性」という概念だ。
 
どう考えてもデカルト哲学の変奏のようなものであって、無理矢理感が拭えないと見る人もいるだろう。私も以前は漠然とそんな風に感じていた。
 
でも、このあたりに意外と人は惹きつけられてしまうのですね。
 
過激とも見えるスピノザの世界像、すなわち
 
世界はたった一つの実体であり様態(全ての個物)はその実体(神様=自然の摂理)の表現なのだ!
 
という外部を徹底的に排除した世界像は、一部の読者の熱狂的な支持を受け続けている。
 
まあ、その図式はわかりやすいと言えば分かりやすい。
 
だが、間に入っている二つの「属性」としての思惟と延長、つまり平たく言うと精神と物質というその二つを、二元論ではなく平行論として理解するっていうのがなにやら面倒くさいし、わざわざそんなことをするのはデカルトの亡霊につきあってるからなの?と突っ込んですませたくなる。
 
ところが、この二つの本を並べて読むうちに、スピノザを読む人たちみんなが、なんだか困っているツボ、のようなものがだん団見えてくるようにも思う。
 
つまり、
 
「精神は身体の観念である」
 
というスピノザの、この思惟と延長が相乗りしてるような、個別的な身体=普遍的な精神の二重性のあたりを、どう捉えていくか、あたりがむずかしいのかなあ、と。
 
 
未だに少しも腑に落ちてはいないのだが、「腑に落ちなさ」のありかがすこし見えてきたような、そんな気持ちになる。
 
もう、よく知っているヒトにとってはこの迷路に立つような感じは不要なのだろうし、また、興味のないヒトにとっては300年以上前の哲学者の話など意味もないのだろう。
 
しかし、足を痛めて家の中に入るしかないヒマな自分にとっては、スピノザの「属性」という意味の分からないカテゴリーをなぜ設定したのか、興味が尽きないのだ。
 
もう少しスピノザの本をひっくり返して読み直そうかな。

終・『スピノザの自然主義プログラム』(木島泰三)を読む

2022年01月20日 07時00分00秒 | メディア日記

コナトゥスの説明の辺りから難しくなってしまって、木島泰三氏の敷いた道筋をまだ十分に理解できてはいない。

実際、私は今まで「コナトゥス」を「より良く生きる努力」といった風に理解していた。<志向性を持った力>が内在しているってイメージといっていいだろうか。この本の主張するスピノザは、その「コナトゥス」にともすれば忍び込んでくる「目的論的」な因果関係の先取りを徹底的に潰していく。

つまり、著者の言うコナトゥスはあくまで自己に固執する努力と、行為へと向かう力であって、何か「より良き」目的を持っていたりしないのだ。

え、じゃあ人間の「生きる志向性はどこへいっちゃうんだよ」とちょっと思ってしまうが、冷静に考えてくならば、この著者の主張は、かなり説得力があるようにも思えてくる。

目的を持ち、そこに向かって働きかける力、というイメージは、結果から原因を導き出す倒錯を招く、という指摘はなーんとなく分かる。

自由意志の否定と必然の肯定が、運命論を招き寄せるというのも、分かるような気もする。つまり、自由意志の否定が、不思議なことに、何か一つの結果を必然的にもたらしてしまうというニヒリスティックな運命論を招いてしまう危険に対して、スピノザの姿勢は十分に対抗できるのではないか、ということでもある。

必然と偶然の関係についての言葉の使い方も、もう少し自分で練習・訓練しないとまだ整理できない。

それでも、「あれかし」と祈ることが、目的から逆に現実を規定しようとすることではない、ということは分かるつもりだ。

今ある現実こそが唯一の現実だというこの著作におけるスピノザ像においては、「可能」の意味も当然変わってくる。

スピノザを読むにはOSを変えないといけない、という意味が、よく分かる。

もう少し整理しつつ、考えてみる必要があるけれど、

「全ては神の本姓の必然性により今あるごとく決定されている」

というスピノザの思想は、悲観的運命論とは全く別の「自由」と「力」に手が届くのではないか、という予感を持つ。

十分に頭が働かないのでそれをまだクリアに書けないのがもどかしいけれど。

目的を徹底的に排除した必然は、ある種の偶然とも呼べるのか。

哲学は、概念を捉え直しながら構築していくものだから、その辺りがついていけないんだろうと思う。
けれど、興味深い。

 

 

 


続々・『スピノザの自然主義プログラム』(木島泰三)を読む

2022年01月19日 08時00分00秒 | 相聞歌

ここまで(第6章の前半まで)は面白い、で済んでいたが、いよいよ話が佳境に入ると、なかなか難しいところにさしかかる。

第6章後半部分、P

P153

つまり現実的本質とは<しかじかの行為をなしつつある自己に固執するコナトゥス>であり、<行為のコナトゥス>としての側面と、<自己の有への固執のコナトゥス>としての側面を共に備えている。

あたりになると、これはもう、コナトゥスってなんだったっけ?と見直さなければならなくなる。

コナトゥスとはラテン語のconutusで、「努力(する)」という意味だが、ここで木島さんは

「全ての個物の核心に位置する傾向、または力を指すための術語」

と説明している。これが、意志も目的も持たないというのだ。

スピノザ解釈としてはその通りなのだろうが、意志も目的も持たない「力」とはいったいなんだろう?ということになる。まあ、神=自然の摂理の表現、なんでしょうけど。

この本の副題「自由意志も目的論もない力の形而上学」という主題に関わる記述がここから展開されていく。

一般的な人間の行為に目的があることはスピノザも当然認めているわけだが、それは人間主体の自由意志とかを認めたり、予め可能性として目的を設定したりはしない、そういう種類のものではない「力」をここで考えて行くということなのらしい。

スピノザを論じる人はみーんなそういうことを言うし、そうなんだろうなあ、とは思うけれど、このままここで突き放されては哲学ヲタクのトリヴィアルな学問の場所に放置されてしまいそうだ。

木島ースピノザが言うところの意志も目的も持たず、自己に固執する力と自己の核心に存在する傾向性から、人間の営みをどう捉え直していくのか。

話はギリギリついていけるかどうか、というところにさしかかってきた。

 

第7,8,9章は明日以降の楽しみになる。

 


ガイ・リッチーの映画『コードネームU.N.C.L.E』は楽しかった。

2022年01月19日 07時00分00秒 | メディア日記

ガイ・リッチーの映画『コードネームU.N.C.L.E』を見た。

『ジェントルメン』ほど期待して見ていなかったせいか、楽しい時間を過ごせた。
1960年代なのだろうか、ベルリンの壁が存在し、東西対立があり、原爆製造の秘密を巡ってスパイ組織が暗躍するというノスタルジックな世界を、当時の街とかクルマとかファッションとかを丁寧に(たぶん)再現して見せてくれる感じもいい。
TV番組としての「ナポレオンソロ」は子どもの頃地元のTV局では放映しておらず、親戚の家に泊まったときぐらいしか見られなかったからリアルタイムでは知らないのだが、当時のスパイ物(007の映画も流行っていた時代ですね)、たとえばイアン・フレミングの小説なら読んでいたはずだ。

そんなこんなを含めて、堪能できる一作だった。

個人的には『スナッチ』の印象があまりに強すぎるのだが、それと比較しさえしなければ楽しめる娯楽作品かと思う。

21世紀になって、みんなが楽しめるスパイ娯楽映画を作れるその腕は確かなんじゃないかな。
当然のようにエンディングでイスタンブールの事件に続く感じを匂わせているところなんかも昔風で素敵。
「続編がほしい」とファンが言いたくなる気持ちも分かる。
それも含めての、模倣というかリスペクトというか、パロディというか、遊んでる感じなんだろう。
英米合作映画、とwikiにはあるけれど、やっぱりイギリステイストは感じますね。そういう意味でも楽しい。

お暇で、スパイ映画に対する郷愁をお持ちの向きにはお勧めできる作品ですね。


ガイ・リッチー監督の『ジェントルメン』を観た。

2022年01月19日 07時00分00秒 | メディア日記
私にとってのガイ・リッチーは、かの初期名作の一つ『スナッチ』なんだなあ、としみじみ。

いや、面白くなくはないと思う。

イギリス(ロンドン)の麻薬地下組織のボスが引退を仄めかしたことで生じる次期裏社会権力の闘争、なんだけど、どこに転ぶか分からない感じが今ひとつで。

つまり、反転はあっても動きが今ひとつなんだよね。上手に描写するより、速度がほしい。
ま、旧来ファンのないものねだり、でしょうね。
他のガイ・リッチー作品、

『コードネームU.N.C.L.E』

ぐらいは観ておくかな。

ここまででU-NEXTの無料期間の試用は終了。退会しました。
とはいっても『ジェントルメン』はその中でも有料(399円?)だったんですけどね。


続・『スピノザの自然主義プログラム』(木島泰三)を読む

2022年01月18日 16時09分26秒 | メディア日記

今、『スピノザの自然主義プログラム』
第6章まで読み進めてきて、「おおっ!」となっている。
「水平的因果と垂直的因果」
という枠組みに興味を惹かれると書いたが、次に、

本文P113~P114 スピノザのエチカ第3部の定理6と7あたりの説明で。

「事物が行為しようとする努力」

「事物が自己保存に固執する努力」

を同一のものとし、合わせてそれを

「現実的本質」

と呼び、それは「事物一般の『本質への注視』」における「本質」(いわゆる形相のようなものか?)とは区別されるべきと指摘している、というところに痺れた(笑)。

ここでいう「現実的本質」がコナトゥス(努力)であるということは、個別的本質はある種の「力」であるという了解に私たちを連れて行ってくれる可能性がある、ということでもある。

 

それは神様がある種の「本質」を持っていて、そのなにか「えらいもの」が個別的な存在に流出していき、何か神様の設計図か目的を持って粘土細工のように作っている、というそういう種類の「本質」を個別の事物が持たされているということではなく、あくまでも力のせめぎ合いというか固執が「現実的本質」だというのだから。

スピノザの合理主義の面倒なところは、一見<プラトン的な上から降ってくる「本質」で私たちが意思を奪われているみたいな話>でありながら、実はそれを根底からひっくり返していて、そこがハイパー合理主義というか、普通に考えているとたどり着けない思考のリミットを強要してくる点にあるといつも思うのだが、木島氏のこの本は、その辺りの複雑な事情をわかりやすく丁寧にステップを踏んで論証していってくれる。

木島泰三の描くスピノザがどこまで受け入れ可能なのか分からないが、かなり魅力的な提案であることは間違いない。

まだ読み進めていないが、この流れで行くと、思惟と延長という属性の難解さまで、たどり着いてくれそうな気が、する。
素人にとっても、いわゆる心身平行論のわかりやすい説明が期待できそうだ。

 


『スピノザの自然主義的プログラム』を読む

2022年01月18日 07時00分00秒 | 大震災の中で


課題になっているわけでもなく、頼まれもしないのにスピノザに関わる本を買い続けかつ読み続けるのは悪い趣味かもしれないし、あるいは軽い依存なのかもしれないとも思う。

実際、もし木島泰三氏の本を読むなら
『自由意志の向こう側』

の方が一般書としてはおすすめだ。

しかし、この本は興味深い。
まだ半分しか読み終えていないが、因果について、
「水平的因果」
「垂直的因果」
に分けて説明する枠組みが特に関心を惹く。

水平的因果とは平たく言うと私たちが出来事について原因と結果の因果関係を理解する枠組みだ。いわゆる普通の因果関係とみてとりあえずはよいだろう。

それにたいして垂直的因果とは、内在的原因、本性的原因があって、その結果として生まれる「自動詞的な」現れのことを指す。

前者に比べて後者はなんだか歯切れが悪そうだが、それはおそらく私の理解の限界で、端的に言うと、「神様」は外部に原因を持たず(これは神様以上に偉いものがないから自明)その神様由来のもの、というのがひとつの範例になるのだろうか。
まあしかし、神様を
設定しなくても、内在的原因は設定しうるし、それは必要な視点でもある。
これ以上は面倒な議論になるからざっくりと理解したところをメモするにとどめるけれど、水平的因果だけでは世界の因果を記述するには不十分だっていう流れなんだろう。

ここに重要なポイントがある。
ここからはこの本から触発された思いつきになる。
つまり垂直的因果、内在的因果を考慮にいれる方が、水平的因果、出来事の因果関係だけで世界を見つめるよりも、よりよく私たちの「自由」を生き延びさせることができるのではないか、という提案がここにある。

意志を設定する方が自由を確保できるじゃないか、という反論は当然あり得る。

しかし、一方に出来事の因果関係を認め、他方で自由意志を設定するだけでは、私たちは十分には自由になれないのではないか。

むしろ(何か命令をして人を束縛しかつ支えるような人格神は論外だが)今問題になっているのは、水平的な因果の大きな波に飲まれて、本当には自由を確保できていない「自由意志」の小舟に乗せられた私たちの困難、なのではないか?

今更、神様(あるいは大きな教理や信仰)に依拠して何かを決定することはもちろんできない。
しかし単なる運命論に組するのもいかがなものかと思われる。

とはいえまた、むやみに自己決定とか自由意志とか言われても、挨拶に困るのが実情では?

この不自由な世界において、なおも自由を構想しうるとしたらいったいどんな形で、なのか。

そういうヒントをもらえるなら、という思いでスピノザを読み続けている。

そんなやり方は偏っている、のかもしない。

一見ありもしない「本質」(神様とか本来性)を自分の中に発見しようとするムダな努力、とも見える。

だが、神様や本来性からの疎外を主題とするのではなく、また外在的な要因に自己を馴致させていくのでもなく、自分の中の傾向性をいつも感じながら、外に吹く烈風や大波に対しつつ、この船(のような私)を航行させていく術がどこかにないのか、と考え続けていきたい。

そういうことを考えるためにはとても愉しい論文だった。
内容の理解はさておき。

繰り返しになるが、一般書としては

木島泰三『自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史』講談社選書メチエ
がオススメ。
その前提となるスピノザについての論文がこちら、ということですね。

私はここ(スピノザの周辺をうろうろすること)からいつも「エチカ(倫理)」ということの意味を考える。

明晰判明な水平的因果の範囲内では「倫理」など語り得る余地はそもそもないのではないか、という気持ちを持ちつつ、そでもなお私たちが語り得るコトバの中には、水平的因果に止まらない「力」なり「傾き」があると言う確信は揺らがない。

それは表現の問題なのか。
表現とは果たして主体を前提とするのか?
そんなことも考えさせられる。




映画『来る』を観る。

2022年01月17日 08時00分00秒 | メディア日記
黒木華の映画『来る』を観た。

カテゴリーとしてはホラー映画なのだろうが、怖さは半分人間の側にある。そして残りの半分は、その化け物を招来して鎮める話になる。

妻夫木聡の糞なダンナっぷりもなかなかいいが、やっぱり黒木華はホラー映画に相応しい。

ただし、それは話の前半にすぎない。

後半は松たか子の怪演を中心に話が離陸していく。

主演が岡田准一ってのもよく分からない。この話に主人公とかあるんだろうか?という疑問も涌いてくる。

お話の枠組みこそが主人公か?

キャストも観ていないのに、黒木華と松たか子が共演している不思議。

前半のホラー展開……からの中盤の人間模様のダレ場……そして後半の霊能者集合による化け物との対決。

実に不思議な感触の映画だった。
ホラーというよりはSF。

子どもを巡るホラーの短編連作と言う形を取りながら、贅沢に役者たちを配置して、惜しげもなく展開していくパワーが主役か。
結局化け物の正体は分からないままだ。

あるいはこの作品を映像化した蛮勇をたたえるべきか?

怪演といえば、柴田理恵、げえっす。

お暇なら、そして何でも観てやろうのヒトならオススメの一作。
まとまりのよいウェルメイドな作品をお望みの方は絶対観ないでください(笑)








未見のヒトは必ず観るべし『その女、ジルバ』

2022年01月16日 08時00分00秒 | メディア日記
去年ビデオ録画していて、評判も良かったのに、第1回だけ撮り逃しをしてしまったため、そのまま未見で一年過ぎてしまっていたのだが、今回U-NEXTで配信があったので(無料期間ぎりぎりで)昨晩イッキ見をした。

いやー、泣いた。
ケビン・コスナーの
『フィールド・オブ・ドリームズ』
がかつて男の子だった中年の男の夢物語だとするなら、『その女、ジルバ』は、いつの時代でも、その時代の女であるよりほかにない女が見る中年の女の(クドい)見る夢のリアルがてんこ盛りに詰まっている。

まあ、とにかく観るべし。
自分の生きる時代の波に翻弄されつつ、その波の中で生きるリアルをこれほどテレビドラマのエンタテインメントで描ききるとは。
女性必見、福島県民必見、描かれていないけれど、福島県の浜通りの人々が受けてきた棄民の歴史にも(ちょっとだけ)触れつつ、声高な復興など無縁な、生きてコトバを取り戻す小さなプロセスが積み重ねられている。

原作の漫画を友人から勧められて読み、号泣した記憶がかすかにのこっている。
今回もイッキ見するうち何度か泣いた。

びっくりしたのは、
映画『ジョゼと虎と魚たち』で原作:田辺聖子/監督:犬童一心/脚本:渡辺あや/主演:池脇千鶴(2003年のほう)
で観て以来の池脇千鶴がお目当てだったのに、実際に観てみると同僚役の江口のり子やママ役の草笛光子、それに品川徹などの脇役を観ている愉しいことといったらなかった。

40歳を迎えた独身女性の葛藤と再生というテレビドラマの軸はぶらさずに、こんな職場ある、というリアリティだけでなく、こんなオールドバーがあったらいいのに、と思わせる作品の力、役者の力は秀逸だ。

江口のり子も追っかけてみたくなった。
もちろん、池脇千鶴の「おばさん」役は驚異的。それあってこそ、全てが成立しているのだろう。
若いイケメンの俳優や可愛い女優が完全に徹底的に脇役なのも爽快だ。
唐突に、
『デブラウィンガーを探して』(ドキュメンタリー)
を思い出した。

20年経って、日本のドラマにはこんな作品が生まれましたよ、と言ってみたくなる、そんな素敵な作品を、一年間もほったらかしにしていたことを懺悔。

そういう意味では出会いをもたらしてくれるサブスク、恐るべしだ。

ちょっとでもアンテナに引っかかったら、ぜひ。損はさせません(払い戻しはしないけれど)。

『スパイダーマン』1・2・3を観た。

2022年01月15日 08時00分00秒 | メディア日記
サム・ライミ版のスパイダーマン3部作(昔の奴です)をイッキ見した。
今更観る必要が?
と言われてしまうかもしれないが、これはこれで面白かった。

まず感動したのは第一作目のウィレム・デフォー。あの『イングリッシュペィシェント』で知ったウィレム・デフォーが、
こんな(失礼!)グリーンゴブリンを熱演(怪演)しているとは!改めて惚れ惚れしてしまった。

アメコミ映画だから、そこを突っ込むなら観なければいいわけで、でもちょっと失笑しながらシリーズを自宅のソファで観るのも正当的な享受法だろうと思うし(^_^)

第一作の逆さまkissも懐かしかった。

『マトリックス』と一緒で、どうしても第一作が良い、と思いたくなるが、こちらの場合は『マトリックス』のような面倒な設定もないから、自己評価の低い主人公二人のグダグダ恋愛も今となっては懐かしく愛しく観られる。

よほどのことがなければ敢えて見直す必要はないと思うけど、何かの拍子に一作目をもう一度観てみようかと思った人を止める理由は、ない(笑)

U-NEXTの配信でドラマ『スイッチ』を観た。

2022年01月14日 08時00分00秒 | メディア日記
U-NEXTで配信されている、単発のスペシャルドラマ『スイッチ』を観た。


松たか子と阿部サダヲのコンビは抜群に面白い、とこれを観て思った。
共演映画『夢売る二人』も観なくちゃ!
と思わせる出来。
もちろん脚本も監督もあずかって力があるのだろうが、松たか子のファンとして悔しいほどに、相棒の阿部サダヲがピッタリくる。

松たか子は舞台を何度か観たことがあるだけで、テレビのドラマは、木村拓哉との『HERO』、それに藤田まことと『役者魂!』の2本しかみていない(いずれも大分昔のものだ)。

舞台の松たか子は存在感があって、第一声が心地よい。声を聴いていたいという女優さんはそんなに多くない。特に舞台では。

そしてテンポ、そしてセリフの切れ味、そして表情。もうステキです。

映画も観る、とひとりで約束して見終えました。

お話の内容は、

を参照のこと。
映画を観てから、また書きます。

映画 『特捜部Q Pからのメッセージ』を観た。

2022年01月13日 08時00分00秒 | メディア日記

デンマークの推理作家エーズラ・オールスンという人の特捜部Qシリーズの映画化作品。
北欧ミステリによくある、少年少女の誘拐・殺人・虐待の事件。
犯罪者とその犯罪は気分が悪くなるほど糞&闇だが、カールという心の傷を負った直情型の主人公と、シリア系難民を出自とする冷静で包容力のあるアサドの相棒関係は見どころが多い。
今回は少年・少女誘拐に、信仰に関わる対立や奇行・偏見・抑圧・狂信もからんで、切ない展開の中にも考えさせるものがある。
刑事物の定番、なのだろうが、北欧のミステリ&映画のストーリー展開における刑事の追い詰め方は、日本の刑事物の追い詰め方とは違っていて、向こうのものは主人公が精神的に病んでいたりアル中だったりすることが多い。アメリカ風のタフでハードボイルドな主人公(アル中を含む)ともまた違ったウェットさ、内面の暗部を感じさせる。

日本のそれも、刑事のトラウマは設定されていることは多いが、この主人公のように同僚から手の震えを指摘されてへこむ、みたいなことはあまりない。日本では、「症状」というより「激情・感情」の問題として描かれる傾向がありそうだ。

素材は一緒でも、描かれる傾向性が違う。それが作品の味わいの違いにもなっている気がする。

犯人が殺人を犯すディテールも、被害を受けた者たちがさらに厳しい目にあう感じは、日本のテレビドラマではたぶんあまり見ない感じだ。映画ということもあるのかもしれないが、大人の見世物、という感じがする。

時間があったら観るのは悪くないけれど、おすすめしたいものでは必ずしも、ない。

映像で観るよりは暇な休日の昼間、文庫本で別世界を楽しむのに適した一冊。

週末の夜に部屋を暗くして一人で観るのはどうかな。