菅総理は一刻も早く辞めるべきだ、というのが政財官学マスコミの一致した意見らしい。
日本人がそれだけ一致して辞めさせようとしているというのは不思議な話だ。
ことによると、同じく日本人があれだけ一致して推進してきた「原発依存」と同じ程度には信憑性のある意見なのだろうか、とまぜっかえしの一つもいってみたくなるぐらいあまりにみんなが菅首相に辞めろと言っている。
よほどひどいのかあ、とぼんやり私は思うばかりである。
「原発依存からの脱却」
を声高に叫ぶのは、パルチザン政治家としての自己保身策に過ぎないのだという。
なるほど。
でもじゃあ、原発依存を続けようという人は、自己保身じゃないのかしらん。
自民党もおかしかったけれど、民主党も自分の所の親分をくさして下ろすという昔ながらのやり方しかできない。
どうなんだろう。
私は正直、福島の原発事故を踏まえた「原発依存脱却のためのプログラム」を、誰も(総理でさえ)きちんと国民に提示していないことに大きな驚きを抱く。
ピーク時電力なんて不足したっていいじゃねえか、と思う。
本当に手当が必要なのは緊急を要する医療だけじゃないかな。
首都圏の工場が立ちゆかない?
バカ言っちゃいけない。
福島県の農業は「壊滅的打撃」を現に受け続けています。
貧乏になったって、自分ちの庭の菜っ葉が食べられる方がいいと思う。
経済的な豊かさをほしいままにしたところで、いつになったら地元の牛肉や牛乳を口にできるかわからないような世界には魅力を感じない。
岸壁で釣った魚を口にできない福島を、日本中、いや世界中に輸出してしまう前に、止めておいたほうがいいことってのはあるものだ。
今、いったん貧乏になったっていいじゃないか。
原発を止めたことでただちに餓死者が出るわけでもないだろう。
日本に底力があるのなら、新しいステージは逆に見えてくると思うよ。
これは自分ではかなり「当たり前」でかつ「素朴」な意見だと思う。素朴すぎてそのまま実現するには差し支えがあるのかもしれない。でも、たとえば新潟が、たとえば佐賀県が「福島」になったら、日本は本当に洒落にならない。
聞けば、全電源喪失の想定は、ずっと昔に一度検討されていて、そのまま放置されていたんだとか。
そんなことをやってきた「原子力村」の検査をいまさら信用しろっていうのは、少なくても福島から見ていると無理筋です。
昨日も書いたけれど、うまくいっている小さな範囲だけを守ろうとする姿勢が、この国の組織には蔓延していて、今なおそれを止めることができないでいる。
菅首相はきっと人間の組織を動かしていく力なんてないのかもしれない。
ただの市民運動家上がりのスケールの小さい自己保身に汲々とする政治家、なのかもしれない。
でも、そんなことはそんなに意外なことでもないだろう。鳩山前首相がお坊ちゃまんなことも、剛腕小沢がお金はあっても言葉がないということも、みーんな日本人は分かっているんだと思う。
薄々分かっていて、箱庭みたいなところですったもんだしているうちは、大きな事態の進行から目をそらしていられるから、限られた視界の中の「どろどろ」をしたり顔で批判していればいい、と思って生きていける。
箱庭のレベルを超えると、日本の政治はほとんど機能不全に陥りつづけているのではなかったか。
北朝鮮問題でも竹島問題でも沖縄問題でも原発事故問題でも。
日本の政治家が、箱庭レベルのこと以外を解決したという話をあんまり思い出せない。
政治家を待望するのはどうかと思う。
私は、自分自身が世界と向き合う方法を考えたい。
そう思うようになった。
誰かや何かを待望したり、瞳をそらすことによって問題を回避できたかのような錯覚を生きたりするのではなく、自分でこの世界とどこかで触っていたいと思う。
私にとっては、その接点へ到達するのが「哲学」という方法であるような気がしている。
私達は、自分たちで制御できる技術の範囲を超えて世界を汚してしまった。このうまくいっていないサイクルから降りる勇気を持つためには、利害の調整とか経済的な計算だけでは決定的に足りない。
世界と向き合う方法が必要だ。
世界と向き合う方法は、まだ世界に残されているのじゃないかと思う。その程度には世界はまだまだ豊かな可能性を宿しているのだと信じている。
その向き合ったはずの「世界」もまた「おまえの匙加減」じゃないか、っていう無限遡及に到らない方法を、ね。
だからこそ、スピノザの言葉に改めて耳を澄ましている。
日本人がそれだけ一致して辞めさせようとしているというのは不思議な話だ。
ことによると、同じく日本人があれだけ一致して推進してきた「原発依存」と同じ程度には信憑性のある意見なのだろうか、とまぜっかえしの一つもいってみたくなるぐらいあまりにみんなが菅首相に辞めろと言っている。
よほどひどいのかあ、とぼんやり私は思うばかりである。
「原発依存からの脱却」
を声高に叫ぶのは、パルチザン政治家としての自己保身策に過ぎないのだという。
なるほど。
でもじゃあ、原発依存を続けようという人は、自己保身じゃないのかしらん。
自民党もおかしかったけれど、民主党も自分の所の親分をくさして下ろすという昔ながらのやり方しかできない。
どうなんだろう。
私は正直、福島の原発事故を踏まえた「原発依存脱却のためのプログラム」を、誰も(総理でさえ)きちんと国民に提示していないことに大きな驚きを抱く。
ピーク時電力なんて不足したっていいじゃねえか、と思う。
本当に手当が必要なのは緊急を要する医療だけじゃないかな。
首都圏の工場が立ちゆかない?
バカ言っちゃいけない。
福島県の農業は「壊滅的打撃」を現に受け続けています。
貧乏になったって、自分ちの庭の菜っ葉が食べられる方がいいと思う。
経済的な豊かさをほしいままにしたところで、いつになったら地元の牛肉や牛乳を口にできるかわからないような世界には魅力を感じない。
岸壁で釣った魚を口にできない福島を、日本中、いや世界中に輸出してしまう前に、止めておいたほうがいいことってのはあるものだ。
今、いったん貧乏になったっていいじゃないか。
原発を止めたことでただちに餓死者が出るわけでもないだろう。
日本に底力があるのなら、新しいステージは逆に見えてくると思うよ。
これは自分ではかなり「当たり前」でかつ「素朴」な意見だと思う。素朴すぎてそのまま実現するには差し支えがあるのかもしれない。でも、たとえば新潟が、たとえば佐賀県が「福島」になったら、日本は本当に洒落にならない。
聞けば、全電源喪失の想定は、ずっと昔に一度検討されていて、そのまま放置されていたんだとか。
そんなことをやってきた「原子力村」の検査をいまさら信用しろっていうのは、少なくても福島から見ていると無理筋です。
昨日も書いたけれど、うまくいっている小さな範囲だけを守ろうとする姿勢が、この国の組織には蔓延していて、今なおそれを止めることができないでいる。
菅首相はきっと人間の組織を動かしていく力なんてないのかもしれない。
ただの市民運動家上がりのスケールの小さい自己保身に汲々とする政治家、なのかもしれない。
でも、そんなことはそんなに意外なことでもないだろう。鳩山前首相がお坊ちゃまんなことも、剛腕小沢がお金はあっても言葉がないということも、みーんな日本人は分かっているんだと思う。
薄々分かっていて、箱庭みたいなところですったもんだしているうちは、大きな事態の進行から目をそらしていられるから、限られた視界の中の「どろどろ」をしたり顔で批判していればいい、と思って生きていける。
箱庭のレベルを超えると、日本の政治はほとんど機能不全に陥りつづけているのではなかったか。
北朝鮮問題でも竹島問題でも沖縄問題でも原発事故問題でも。
日本の政治家が、箱庭レベルのこと以外を解決したという話をあんまり思い出せない。
政治家を待望するのはどうかと思う。
私は、自分自身が世界と向き合う方法を考えたい。
そう思うようになった。
誰かや何かを待望したり、瞳をそらすことによって問題を回避できたかのような錯覚を生きたりするのではなく、自分でこの世界とどこかで触っていたいと思う。
私にとっては、その接点へ到達するのが「哲学」という方法であるような気がしている。
私達は、自分たちで制御できる技術の範囲を超えて世界を汚してしまった。このうまくいっていないサイクルから降りる勇気を持つためには、利害の調整とか経済的な計算だけでは決定的に足りない。
世界と向き合う方法が必要だ。
世界と向き合う方法は、まだ世界に残されているのじゃないかと思う。その程度には世界はまだまだ豊かな可能性を宿しているのだと信じている。
その向き合ったはずの「世界」もまた「おまえの匙加減」じゃないか、っていう無限遡及に到らない方法を、ね。
だからこそ、スピノザの言葉に改めて耳を澄ましている。